150人の語り、聞き手。一番、感銘、語りも自然、言葉もしっかり、
今、40代後半と思う。男性。読んで泣いてしまう。
「一番根底にあるのは、普通に社会の中で、
普通に働けるよ、っていう姿を見せたいっていうのはありますね」
八王子、高尾町出身。兄、父母4人家族。幼児の時離婚で、兄は父、
私は母に引き取られ、二人暮らし、
母の精神疾患で児相から児童養護施設に小学2年くらいに入り高校3年まですごした。
おじさんが、そのうち迎えに来るといっていたが、来ない。18歳までいた。
母と二人暮らしから50人の生活。戸惑った。数人部屋、怖い時期もあった。
当時は毎日、荒れていて特に中学生がひどかった。それをみて考えた。
小学校でここに入り、知的レベルも低い、勉強もしない時もあった。
運動は苦手だったがマラソン大会出場、やればできる事がわかる。達成感があった。
施設でのいやがらせはいつもある。
高校は都立だけしか受けられない。1本で勝負しかない。
先輩を見ていて高校は行かないとダメと思った。先が不安。
当時は高校中退し、その後不明になる先輩もいた。
サラリーマンになりたいと思い、レベル低い都立か商業高校しかないと考えた。。
商業科が易しいので将来を考え受験。
施設暮らしをしられたくないので、遠めを受け練馬へ3年通学。一人が多かった。
18で施設を出ないといけないから将来をよく考えた。
それまで兄とは少し連絡をとるくらい。父が突然、訪ねてきてあったことはある。
母には、まだ小さいので施設の人から合わない方がと言われていた。
17になり、久しぶりにあうため精神病院へ行くと、相当おかしくなっていて、
会話がなりたたなかった。ショックで帰る車で号泣した。
卒業後、生活するために寮があり、サッカーが好きなので部がある、
中小の印刷会社へ入った。当時は商業高校でも10社くらい選べた。
初めの社で、法人営業担当、できない事が多く悩んだが、ガムシャラに仕事をした。
父が亡くなり、もう誰も頼れない危機感、
本気で仕事をしないといけないと15年、そこで働いた。
施設ではお小遣い高校で5千円、働き収入が増え
金銭感覚に麻痺がでて、使いすぎもあった。
施設の先生からはたまに手紙が来て、励みになっている。
ボランティアも初め、キャリアコンサルタント、国家資格もとった。
施設で育つ子供に何かできることはないか?
仕事について3つの団体と連携し活動をしている。
仕事の合間なので、多くはできないが、今後もしていきたい。
施設で育つと福祉系へ行く人が多いが、何でもできるという事を見せたいと思う。
妻とは27歳で知り合い、3人子供、上は男、下の娘は癒しになっている。
長男は大学選びの時期になった。
現在は2つ目の会社に縁が在籍。前の社は同族で出世は無理、誘われて転職した。
施設で育った17歳と家庭では違う。
施設の子供たちにも一所懸命生きている事を知ってほしいと思う。
商業高校では基本5教科、そこからスタートする。
もしできなければ自分の勉強不足と思い、3年通学。
ずっと東京在住というリソースがあった。東京のおかげかと思う。
環境、人間関係、お金の事などすべて。
嫌な事があっても、よい方向へどうもっていくかを考えるて生きることが大事。
~語り、考えもとてもしっかりしていて、施設育ちという私のイメージを壊した、
偏見か~母が精神疾患、小学生で兄と離れ、母とも、施設へ。つらかったと思う。
いきなり50人の生活。40代後半だろう。今から40年前は精神病薬も
まだ多くはなく、合う薬がなければ、長い入院もあった。
日本の精神病院の実態、遅れは先進国ではベスト1と思う。
母に会いに行き、号泣した、これができたから、大きなトラウマにならず
進めたと感じた。父の死。父ともいい関係ではなかっただろう。
妻と仕事系で出会い、結婚、3人子供、家族ができ良かったと心から感じた。
50代になっても、施設の子供たちへ経験を話し
進路を導く役目、ボランティアを続けてほしい。ご家族で、お元気で!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます