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銀の人魚の海

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東京の生活史 150人中 一番感銘を受けた男性

2022-02-25 | 本、雑誌

150人の語り、聞き手。一番、感銘、語りも自然、言葉もしっかり、

今、40代後半と思う。男性。読んで泣いてしまう。

「一番根底にあるのは、普通に社会の中で、

普通に働けるよ、っていう姿を見せたいっていうのはありますね」

八王子、高尾町出身。兄、父母4人家族。幼児の時離婚で、兄は父、

私は母に引き取られ、二人暮らし、

母の精神疾患で児相から児童養護施設に小学2年くらいに入り高校3年まですごした。

おじさんが、そのうち迎えに来るといっていたが、来ない。18歳までいた。

母と二人暮らしから50人の生活。戸惑った。数人部屋、怖い時期もあった。

当時は毎日、荒れていて特に中学生がひどかった。それをみて考えた。

小学校でここに入り、知的レベルも低い、勉強もしない時もあった。

運動は苦手だったがマラソン大会出場、やればできる事がわかる。達成感があった。

施設でのいやがらせはいつもある。

高校は都立だけしか受けられない。1本で勝負しかない。

先輩を見ていて高校は行かないとダメと思った。先が不安。

当時は高校中退し、その後不明になる先輩もいた。

サラリーマンになりたいと思い、レベル低い都立か商業高校しかないと考えた。。

商業科が易しいので将来を考え受験。

施設暮らしをしられたくないので、遠めを受け練馬へ3年通学。一人が多かった。

18で施設を出ないといけないから将来をよく考えた。

それまで兄とは少し連絡をとるくらい。父が突然、訪ねてきてあったことはある。

母には、まだ小さいので施設の人から合わない方がと言われていた。

17になり、久しぶりにあうため精神病院へ行くと、相当おかしくなっていて、

会話がなりたたなかった。ショックで帰る車で号泣した。

卒業後、生活するために寮があり、サッカーが好きなので部がある、

中小の印刷会社へ入った。当時は商業高校でも10社くらい選べた。

初めの社で、法人営業担当、できない事が多く悩んだが、ガムシャラに仕事をした。

父が亡くなり、もう誰も頼れない危機感、

本気で仕事をしないといけないと15年、そこで働いた。

施設ではお小遣い高校で5千円、働き収入が増え

金銭感覚に麻痺がでて、使いすぎもあった。

施設の先生からはたまに手紙が来て、励みになっている。

ボランティアも初め、キャリアコンサルタント、国家資格もとった。

施設で育つ子供に何かできることはないか?

仕事について3つの団体と連携し活動をしている。

仕事の合間なので、多くはできないが、今後もしていきたい。

施設で育つと福祉系へ行く人が多いが、何でもできるという事を見せたいと思う。

妻とは27歳で知り合い、3人子供、上は男、下の娘は癒しになっている。

長男は大学選びの時期になった。

現在は2つ目の会社に縁が在籍。前の社は同族で出世は無理、誘われて転職した。

施設で育った17歳と家庭では違う。

施設の子供たちにも一所懸命生きている事を知ってほしいと思う。

商業高校では基本5教科、そこからスタートする。

もしできなければ自分の勉強不足と思い、3年通学。

ずっと東京在住というリソースがあった。東京のおかげかと思う。

環境、人間関係、お金の事などすべて。

嫌な事があっても、よい方向へどうもっていくかを考えるて生きることが大事。

~語り、考えもとてもしっかりしていて、施設育ちという私のイメージを壊した、

偏見か~母が精神疾患、小学生で兄と離れ、母とも、施設へ。つらかったと思う。

いきなり50人の生活。40代後半だろう。今から40年前は精神病薬も

まだ多くはなく、合う薬がなければ、長い入院もあった。

日本の精神病院の実態、遅れは先進国ではベスト1と思う。

母に会いに行き、号泣した、これができたから、大きなトラウマにならず

進めたと感じた。父の死。父ともいい関係ではなかっただろう。

妻と仕事系で出会い、結婚、3人子供、家族ができ良かったと心から感じた。

50代になっても、施設の子供たちへ経験を話し

進路を導く役目、ボランティアを続けてほしい。ご家族で、お元気で!



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