ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

PIG/ピッグ

2023-04-14 17:00:00 | 映画


個人的には、観ていて近来になく充実した時間をすごすことが出来たという意味で、最高度に評価する作品である。傑作と言っても良いだろう。マイケル・サルノスキ監督は、これが長編映画デビューということだが、「ショーシャンクの空に」によるフランク・ダラボン監督の登場を思わせるものがある。処女作でこれほどの完成度の作品を作ってしまうと、ダラボン監督の二の舞にならなければ良いが、などと余計な心配をしたくなるほどである。

一言でいうと”行間”を読ませる作品で、どれだけ想像力を使ってこの”行間”を埋めることが出来るかどうかで評価が分かれる作品であろう。レビューをいくつか見てみたが、私と同じような感想が見当たらなかったので、取り上げる気になった次第である。

観だしてすぐに気づいたのは、音や音楽、映像に細心の注意が使われていることで、その後も観ていて、マイケル・サルノスキ監督の高度なセンスとテクニックに感心することしきりであった。例えば、ベルディやモーツアルトのレクイエムのさりげない使い方や、全般的に物語は淡々と進むが、豚が盗まれるシーンで、ロブが倒れるのとシンクロして画面も90度回転するところや、アミールを呼び出すシーンでは、電話をかける動作などは省いて、一転、やってきたアミールがクラクションを鳴らしてロブに知らせるシーンへと飛ぶところなど、緩急の使い分けも小気味いい。豚の死を告げられたロブが慟哭するシーンでは、あえて無音にすることでロブの悲しみを想像させ、観ているものの情感に訴える手口も実に効果的である。映像も、要所要所で出てくるシンメトリーな構図が、なかなかと美しい。





そして、肝心の主題ーこの映画は一体何を表現しているのかという点については、主人公のロブが視線を上げ、何かを見上げるシーンが都合四回出てくるが、これらのシーンをどのように解するかが、この作品理解の胆だと私には思われる。つまり、この四つのそれぞれのシーンが、指し示すベクトルの交差するところに、この作品の主題というものが存在しているのではないかという風に私は理解したのであるが、さて、どう思われるであろうか。

一つ目は、アミールの部屋での二人の会話シーンの中に出てくる。アミールが家族の事を話し出し、専制的な父親についてクズ野郎だと述べたのに対し、「そんなことは、気にするな」と言ったのに続けて、ロブはこんな話をするのだが、彼は一体何を言おうとしているのだろうか。

<人間がはじめてこの地に到着したのは、約一万年前だ。海面は今よりも約120メートル低かった。200年ごとに地震が起きる。海沿いでな。地震が起きたら、その衝撃波で、街の大半が平地になるだろう。橋という橋が崩れ落ちる。ウィラメット川にな。逃げ場がない。たとえ助かっても、揺れをしのいだ者はじっと待つ。5分後に、見上げると、波が見える。30メートル級だ。すると人間もなにもかも、海の底にもっていかれる。再びな。・・・フレンチトーストには 硬いパンを使え。>




二つ目は、ロブが昔住んでいた家に行き、そこにいた子供と会話を交わすシーンの中である。背後からの映像で、気を付けていないと見過ごしてしまうが、昔あった柿の木を探して、ロブが見上げる動作をするのが頭の動きから判る。ここのセリフも意味深である。

<柿は、オレンジ色の果物だ。形はトマトに似てる。しっかり熟してないとマズくて食べられない。でも、じっくり待つと、タンニンってやつが抜けて、おいしくなる。>




三つめは、ロブがアミールの父親の家に向かうシーンである。まるでロブがやってくるのを見越していたようにアミールの父親が、ベランダにいるのをロブが見上げるシーンである。ここでのセリフはない。



そして、四つ目は言うまでもなくエンディング・シーンである。妻の誕生日プレゼントのカセット・テープー彼女が演奏するスプリングスティーンの「アイム・オン・ファイヤー」を聞きながら、ロブが視線を上に挙げたところで、突然映像が切れて終わる。このエンディングは、一体何を意味しているのであろうか。また、この「アイム・オン・ファイヤー」という曲は、以下の歌詞が示すように、誕生日に女性から贈る曲としては、いささか意外な選曲ではないだろうか。

≪そこのカワイイ子、パパは家かい?君を一人残して出掛けていった?悪い欲望に駆られちまう。体中が熱く燃えてる。そいつは、よくしてくれる?俺以上のことを、君にしてやれるのか?俺ならもっと高い所へ。体中が熱く燃えてる。切れ味の悪い尖ったナイフが、俺の頭蓋骨に6インチ刺さる気分。夜中にシーツがぐっしょり濡れ、貨物列車が頭の中を走り抜ける。君だけが俺の欲望を冷ます。俺は激しく燃えてる。体中が熱く燃えてる。体中が熱く燃えてる。≫






最後に、字幕のクレジットには渡邊貴子とあるが、これは素晴らしい達意の字幕であることも申し添えておこう。

モーリタニアン 黒塗りの記録 / THE MAURITANIAN

2022-10-29 12:30:00 | 映画


何の予備知識もなく観たせいか、最近見たものの中ではなかなかと面白く、興味深く観ることが出来た映画であった。

ざっと幾つかレビューを見てみたが、まあ予期していたことでもあったが、この映画の主題がリーガル・マインドであることがどうもあまり理解されていないように思われたので、少しこの点について書いてみたい。

冒頭、よく使われているような「事実に基づいた」という表現ではなく「true story」とあえて謳っているが、勿論、この映画は「事実に基づいた」フィクションである。フィクションではあるが、逆にそれだからこそ”真実”を良く描き得たという意味において、非常に良く出来たシナリオだと思う。リーガル・マインドとの関わり方、その姿勢の濃淡を描き、対比することでそれぞれの登場人物像をエッジをもって描き出していく演出は、観ていて非常に好ましく感じられた。例えばこのストーリーであれば、裁判をあつかった映画ではよくあるように、もっと裁判シーンを多用し、勝訴判決の瞬間をクライマックスに持ってくる等のいわゆる「お涙頂戴」的な劇的な展開の演出が出来たはずであるが、あえてそういった手法を避けた淡々とした演出は、リーガル・マインドという主題を描くためにこそ採用されたものであろう。

では、ここでいうリーガル・マインドとは何か。

前にも書いたことがあるが、日本ではこのリーガル・マインドというものに対する理解が一般に捻じれているので、再度山本七平の文章を引こう。

<裁判は決して”真実”を明らかにするものではない。・・・人々の法意識がそのようなものであると、近代裁判が機能し得なくなり、その系として、基本的人権を守るための歯止めが消滅してしまう。・・・川島武宜教授は、近代裁判の本質を科学的理念型として表現して次の様に言った。・・・裁判を行う前に事実があるのではない。裁判の結果として事実が決定されるのである、と。>

<原告(またはその代理人)の主張も、被告(同上)の主張も、仮説にすぎない。裁判官は、これを所定の方法(手続)によって検証(判断)する。その結果、ある主張をしりぞけ、他の主張はしりぞけない。故に、『裁判に勝った』からとて、当該人の主張がしりぞけられなかったというだけのことで、”真実”が発見されたという意味ではない。ましてや、『正義が勝った』などという意味ではない。・・・近代デモクラシー諸国における裁判にとって重要なのは、手続き(裁判のやり方)であって結論(判決)ではない。>


そして、この映画では、このリーガル・マインドを体現しているのはナンシーであるが、「被疑者は弁護を受ける権利がある。」「問題は何を証明できるかよ。」「無実かどうかは関係ない。拘束の不当性を証明するだけ。」「私が依頼人の権利を守るのは、あなたや自分を守るためよ。」といった一連の発言を見れば、法的な「手続き」を問題にしている彼女の姿勢ががよくわかるであろう。

そしてこのナンシーの姿勢を際出させるために、助手のテリーが(実際はどうであったのは解らないが)前のめりの人物として設定されているのは明らかであろう。それは、テリーに「なぜ無実だと言ってやらないんですか。」と詰め寄られたナンシーが答えないシーンや、自白調書を読んで、後悔したテリーをナンシーが担当から外すシーンによって、二人の言動の対比によって、リーガル・マインドとはどういうものであるかを描いているという事である。

また、相手側の起訴担当のカウチ中佐も、軍属である個人的な思い入れよりも、リーガル・マインドを尊重し、結局担当から降りることとなる。敵側であった彼が「私を納得させろ。」とナンシーに32番の資料を読むようアドバイスするのも印象的なシーンであった。

結局のところ、登場人物は、こうした様々なエピソードによって、リーガル・マインドという主題を描くために、絶妙に配置されているという構成になっている訳だ。なかなか良く出来たシナリオである。


そして、中で特に私の目に付いたのは、文書の取り扱いについての制度設計である。

国を相手取った裁判には日本では聞きなれない「秘匿アクセス権」が必要とされ、独立した第三者機関の「秘匿特権チーム」を一々介して文書が届けられるシステムになっている。グアンタナモ刑務所での面会時のメモでさえも、一旦は回収され、厳密に封印された上で、改めて「秘匿特権チーム」を介して受け取るという形になっている。そこでは内容によって「機密」「保護」等の文書のランク付けが行われ、重要度によって持ち出し禁止、ファックス送付は可能等の文書の厳密な取り扱い規定が課せられることが描かれているのは、私には非常に印象的であった。

こういった文書の保全に対する、我々日本人から見れば偏執的とも言いうる厳格なまでの取り扱いは、その背後にある思想、彼我のリーガル・マインドというものの違いを示していて興味深い。

またそれは、「特殊作戦」の最重要機密文書MFR(記録のためのメモ)の保全にも表れていて、調書の基になったメモ等の文書までもが総て厳重に保管されているのは私には少しく以外であった。しかし考えてみれば、これは「特殊作戦」を実行した人間の権利保護と言う意味合いもあろう。つまり、実行された「特殊作戦」による「拷問」が、命令によるものかそうでないかによって「軍法違反」が問われる可能性があるからである。

それはそれとして、こうした事実の背後にある考え方は、米国国立公文書館という公的機関の存在に象徴的に表れているが、このような文書の厳重厳密な保管といったものは、我々の文化には無いものと言わなければならない。

例えば少し前にも

基幹統計の公文書、480件で管理不備 同意なく廃棄など

などのニュースがあったが、こういった日本の文書に対する取り扱いの杜撰さ、そしてそれと裏腹にある罰則規定の緩さとは好対照と言えよう。「統計二流国家」と揶揄される所以であるが、前にも述べたように、やはり日本は「法治国家もどき」(山本七平)であると言わなければならないだろう。つまり、「建前」は日本は「法治国家」の体裁を取っているが、「本音」の行動様式においては「納得治国家」という「もどき」に他ならないという事である。

「悪魔の証明」と日本におけるリーガル・マインド(1) 同(2)

この意味で、この映画を見終わってすぐに私の心に浮かんだのは、現在マスコミで騒がしい日本の「統一教会問題」である。「解散命令」、そして「質問権」が議題に上って来ているが、次の山本七平の文章は、こういった政府の対応の性格を誠に的確に言い表わした文章だと私には思われるが、どう思われるだろうか。

<山本七平は「『派閥』の研究」(文春文庫、1985年初出)において、「日本は法治国家ではなく納得治国家で、違法であっても罰しなくとも国民が納得する場合は大目に見て何もしないが、罰しないと国民が納得しない場合は罰する為の法律探しが始まり別件逮捕同然のことをしてでも処罰する」と述べ、「無罪の推定など日本では空念仏同然で罰するという前提の上に法探しが始まる」としている。>

「女神の見えざる手/Miss Sloane」

2021-02-19 00:00:00 | 映画
*2021.2.19追記 
 
新コロナ騒動にせよ、森喜朗会長辞任劇にせよ、アメリカの大統領選挙騒動にせよ、SNS等の通信技術革新によって、洪水とも言いべき情報の氾濫の最中にあっては、”事実”というものが、如何に不確かなものであるのかということを、改めて目の前に突き付けられているように感じる今日この頃である、そう思うのは私だけであろうか。

なお、森氏の件の発言については、あるいは元の発言自体を確認をしていない方がいるかも知れないので、リンクを貼っておくので、これが果たして巷間言われているような女性蔑視発言に当たるのかどうか、この機に今一度考えてみていただきたい。

「森氏 3日の発言「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」

そして、アメリカの大統領選挙であるが、いろいろな意見があろうが、これは信じる信じないといったことではなく、これも結局不正があったのかどうかという”事実”に帰着すると至極単純に私は考えている。

この件に関しては私自身は相当に疑わしいと思っているが、今現在の時点においては、勿論確実なことは言えはしない。

この選挙不正については「証拠もなしに」と散々言われてきたが、前に述べたように、弾劾裁判が反トランプ側の”切り札”であったと思われる現在、いよいよこれからトランプ側が”切り札”を出してくると考えるのは、むしろ戦術上至極もっともな考え方のように思われる。

以下のトランプ側の選挙不正に関する裁判の一覧では、26がactiveになっていて、これから争われることになる。恐らくこれらの裁判においてトランプ側の”切り札”が出てくることになるのではないか。勿論、立証責任は訴えを起こしたトランプ側にあるので、疑わしいというというだけでは、推定無罪=敗訴になる可能性が高いことは言うまでもない。

2020 US Presidential Election Related Lawsuits

そして、”切り札”となるのは、具体的なドミニオン機器の解析による不正行為の証明であろうが、以下のMike Lindellのビデオが参考になろう。英語がわからない方も、一つ目のビデオAbsolute Proof Trailerの13:07~と19:46~辺りを見れば、それがどういったレベルのものであろうか大体想像がつくであろう。おそらくもっと詳細なものが裁判で提出され、その証拠能力が争われることになると思われる。

Absolute Proof

さらに注目すべきことは、トランプは辞める直前の1月18日に「法執行官、裁判官、検察官及びその家族を保護する大統領令」を出していることである。つまり、今後行われるであろう裁判を審議する裁判官への脅迫や脅しを排除する手を、事前に打っていたということになる訳である。

Executive Order 13977—Protecting Law Enforcement Officers, Judges, Prosecutors, and Their Families

といったようなことで、次の大統領選挙にトランプが出るのではないかといった早まった観測もあるようだが、いやいや2020年のアメリカ大統領選挙自体が、未だ決着がついていないのではないかと考える次第。


*2021.1.15「オバマゲート」諜報書類 機密解除

FISA Abuse Investigation


*2021.1.14追記 

この映画はは2016年に制作されたものであるが、アメリカの大統領選挙結果決着前夜の現在においては、いよいよその作品としての光芒、面白さを増して来ているように思われる。未見の方は、ぜひ見ることをお勧めする次第である。



Lobbying is about foresight, about anticipating your oponents' movesand devising countermeasures.
The winner plots one step ahead of the opposition and plays the trump cardjust after they play theirs.
It's about making sure you surprise them and they don't surprise you.

ロビー活動は予見すること、敵の動きを予測し、対策をを考えること。
勝者は敵の一歩先を読んで計画し、敵が切り札を使った後で自分の札を出す。
そして、不意を突かれたのが、どちら側であったのかが白日の下になる。


勿論、ことは熾烈な政治権力闘争であるから、最終的に勝敗がどちらの側に転ぶのかは神のみぞ知る、事後的にしか判らない事はいうまでもないが、色々な読み筋を考えると、この主人公の言葉通りのシナリオに沿って事は進んでいるように、私には思われてならない。

果たして、この後”激震”が起こるのかどうか、まだまだ目が離せない状況にあると個人的には考えている訳である。








いやあ、久しぶりにすこぶる面白い映画を見た。


「天才的な戦略を駆使して政治を影で動かすロビイストの知られざる実態に迫った社会派サスペンス」とのことであるが、これ以上書くとネタバレになるので、見ていない方は、これくらいでの事前知識だけで見る事をお勧めする。2016年制作。

以下、なるべくネタバレにならないように感想を記すが、それでも最低限作品の幾つかの特徴には触れざるを得ないので、以下の文章は鑑賞前には読まない方が良いだろうと改めて釘を刺して置く次第である。





中で、主人公がJohn Grisham を読んでいるがシーンが出て来るのに気付いた人も居られるだろう。John Grisham と言えば、私には第一作「法律事務所/The Firm」の印象が目覚ましい。尤も、最近の作品は読んでいないので何とも言えないが、見終ってみて、コン・ゲームとしてのストーリーの建付けは、グリシャムのこの傑作処女小説を思わせるものがあると思うのは、私だけではないだろう。



これは一例だが、かようにJohn Grisham という名前をさり気無く観客に示し、主人公の性格と同時にこの映画自体の性格をも暗に示唆しているのが良い例で、スピーディーかつ全く無駄なシーンやセリフが一切ない緻密なストーリー展開に危く振り落とさるところだった。危ない、危ない。

色々な伏線を確めるために、すぐさまもう一回見直して、さらにもう一回見直す羽目になったが、それ程脚本が素晴らしいとも言える。勿論、編集も素晴らしいことは言うまでもない。脚本はジョナサン・ペレラ。この名前は憶えて置こう。

色々な見方が出来ようが、主人公スローンと法務担当のポスナーのバディー・フィルムとしても見ることができる。会話の中でソクラテスの名前が数回出てくるが、聴聞会を裁判に見立てれば、さしずめポスナーはプラトンの役回りであろうか、そういったらちょっと穿ち過ぎな解釈かな。つまり、この映画は「ソクラテスの弁明」ならぬ「スローンの弁明」である、と。


まず見終って強い印象を受けたのは、主人公の際立った人物設定、彼女の行動が「理念」に基いているという点である。あるいは「大義」と言い換えてもいい。

この点でも主人公はソクラテスを思わせるが、大体こういった設定の場合、よくあるのは動機の精神的原因説明として、例えば主人公の過去に身内だとか知り合いだとかに銃乱射事件の犠牲者がいて、そのシーンがフラッシュバックされて示されるといった技法が使われる事が多いが、主人公はそういった動機から行動しているのではないことが一連の会話によって再三念を押すようにして一応は描かれてはいるが、そのことがが本心であった事が判るのが最後の最期になってからであるような描き方をしているのは素晴らしい。またこの主人公の人物設定を際立させるために、まさしくそういった人物としてエズメという脇役が対照的に設定されていることは明らかであろう。このエズメとの対比に置いて、この主人公の人物設定が一層際立つことになる訳で、聴聞会が終わって、場内で主人公とエズメが遠目に見つめ合う印象的なシーンが出て来るが、思わせぶりな目くばせだとか軽くうなずいてみせるといったベタな演出を取っていないのも非常に好ましい。エズメが目をそらして去っていくのであるが、これでこそ交差した二人の人生、それぞれの生き方の違いが際立つというものである。


そして、最終的に見終わって私が考えたのは、彼我の文化的な違いである。

こういった「理念」や「大儀」、「思想」を体現した人物というのは、「空気」で動いている日本社会においては現実から遊離した絵空事でしかないし、この映画で描かれているようなインテリジェンス活動の伝統を持たない日本では、これもまた非現実的な絵空事でしかないが(日本ではそれらは普通「陰謀論」としてカテゴライズされ一蹴されてしまうのが落ちであって、そのことはスノーデン問題に関する無関心でも明らかであるし、そもそも日本には”ロビイスト”という言葉自体が存在しない。ましてや存在をや)、「戦術」や「戦略」に基づく「共同謀議」がせめぎ合っている彼の地においては、この映画はもっと現実的な意味合いを持った映画として受け取られているのではないか、そう私には思われたということである。2018.11.14





「モリーズゲーム」

2019-06-28 08:26:19 | 映画


最近観た中では、久しぶりに非常に楽しんで観た映画である。と言ってもレビューを書く気になったのは、自分と同じような感想が見当たらなかったからで、別に主演のジェシカ・チャステインに入れ込んでいる訳ではない。尤も、名優の要件としては、演技力だけではなく、当然の如くシナリオの読解力や、その上でオファーを受けるかどうか、作品の選択眼などの重要性はいうまでもないので、その意味では、彼女の出演作品は要注意という事になるのかも知れない。

<痛快サクセスストーリーを楽しむもよし、セレブの知られざる素顔を見るもよし、ポーカーの駆け引きや裏社会のスリルを味わうもよし。驚愕の実話!>といったキャッチコピーがあったが、結論を先に言うと、私の見るところ、この映画の魅力を成すストーリーの核心部分にある主題はそんなところにはない。

ではそれは何かというと、モリーの「トラウマ」である。

ざっと見た限りでは、意外にも、この点について書かれたレビューは見当たらなかったのだけれど、多分どこかに指摘している人がいるはずだとも思う。というのは、後で述べるように、この映画では、はっきりとそれが分かるように描かれているからだ。考えてみると、これは比較文化論的な意味では興味深い問題だが、アメリカでは有名人など精神科医のセラピーは常態化しているので、こういったセラピーの社会的な認知度という点では日本とは相当に隔たりがある。そういう意味では、この映画はこの点に関する知識が余りない人には、判りにくい映画なのかもしれないとも思う。

従って、以下、ざっと「トラウマ」について述べることにする。

日本では良く若い子が「トラウマになりそう!」などと言うが、そもそも自分で自覚している時点でそれは「トラウマ」とは言わない。自分自身では無自覚であるにも関わらず、それに囚われ支配されている精神的状態の原因を「トラウマ」というのであって、ここには「抑圧(Verdrängung)」という自我防衛機構が存在する。つまり自己防衛のために自我を脅かす願望や衝動、それらを伴った記憶を意識から締め出して意識下に追いやる機構が人間には存在する訳である。この意識下に追いやられた記憶を「抑圧された記憶」と言い、この「抑圧された記憶」は、様々な迂回路を通って繰り返し意識に出てこようとし、その本人を動かそうとする。そのため、ヒステリーなどの様々な症状が発症する訳である。

フロイトは、こういった無意識に封印した内容を、回想し言語化して表出することで、症状が消失する(除反応、独: Abreaktion)という治療法にたどりついた。この治療法は「お話し療法」と呼ばれ、今日の精神医学におけるいわゆるナラティブセラピーの原型となっている。

このセラピーにおいては、患者と医師が「お話する」ことでトラウマ記憶を言語化し、その記憶の中の体験や感情に肯定的な意味を与えていく(自分のせいではなく無理もないことであった等)ことを通じて、トラウマ記憶を通常の記憶の一部として処理することが出来るようになり、その結果、トラウマによる様々な症状がなくなっていくという経緯を辿る。簡単に言えば、抑圧していた無意識の記憶を言語化することで、症状が改善するということである。


以上が安直なフロイト療法の説明であるが、この映画には「フロイト」というキーワードが登場するのに改めて気付いた人もいるだろう。それは食事中にモリーと父親がフロイトを巡って口論する場面であるが、これが伏線になっている訳である。


ということで、以上を踏まえて言わずもがなの解説をすれば、突然やって来た父親とモリーとの間でスケートリンク脇で交わされる会話は、父親によるかってモリー自身が否定した当のフロイト理論によるナラティブセラピーそのものである。それは「抑圧された記憶」=「父親の不倫相手の記憶」の言語化によるモリーのトラウマの除反応(Abreaktion))の過程であって、このセラピーと父娘の和解が重なっているために、このシーンが劇的な効果を持つこととなるのである。観ていて、なぜ主人公がアンダーグランドポーカーの世界にのめり込んでいくのか私には不審だったのだが、このシーンでああ、そういうことだったのか!と、大げさでなく大いなるカタルシスと共に感銘を受けた訳である。



さらに、この後弁護士のジャフィーが娘の懇願によって弁護を引き受けた事が明かされ、対照的な二組の父娘関係が対比される点や、アーサー・ミラーの「るつぼ」を引き合いに出した高潔な主人公の描き方などなど、数え上げたらきりがないので、その辺りは他のレビューを参考にしていただくとして、脚本が実に素晴らしい!「ソーシャル・ネットワーク」や「マネーボール」には左程感心しなかったけれど、いや、アーロン・ソーキン監督、素直に参りました!!と言う他はない映画でありました。








「グラン・トリノ」3

2014-11-09 00:00:00 | 映画

 この映画を二度目に観た時、私がタオの胸のシルバー・スターのズーム・アップ・シーンから読み取ったものは、この勲章の二面性・両義性ではない。表向きは勇猛果敢な英雄行為の象徴であると共に、実際には卑劣な残虐行為を象徴してもいるという、この勲章の持つ二面性・両義性は、誰でもこの映画を一度観ただけで理解出来るように作られている。私が読み取ったのは、この二面性・両義性というものの非単独性或は作品横断性とでも言うべきものである。つまり、この意味でこのシルバー・スターはこの映画全体を象徴している事に気付いたということである。尤も、これこそがこのシーンに込められた監督の真意であるとまで私は断言するつもりはないが、要するに、こういった二面性・両義性は、この勲章だけではなく、実はこの「グラン・トリノ」という作品全体の構造であり、そのようにこの映画が意図的作為的に作られていることに、私は二度目にして気付いたということである。私はどうしても主人公に感情移入出来ないと言ったが、実はそれこそが製作者イーストウッドの意図したところであったということである。何やらややこしいことをややこしく述べているので判り難いかも知れないが、これは、視点を変える事でもう一つの顔が浮かび上がって来る、あの”騙し絵”に例えれば、或は判り易いのかもしれない。「グラン・トリノ」は”騙し絵”ならぬ”騙し映画”である、と。





 これはつまりどういうことかと言えば、主人公コワルスキーはこの映画の多くの絶賛評にあるような頑固一徹な誇り高い男でもあるが、少しく視点をずらせば私が最初に書いたような実に鼻持ちならない頑迷固陋で家父長的な男でもあって、この映画は主人公を、そのようなどちらとも取れる二面性・両義性において、あえて意図的に描き出しているという事である。一方で前者と見る見方からも、後者と見る見方からもはみ出す余剰部分があるのはそのためだと思われる。余り彼の映画を見ていない私が言うのも何だが、犬の様に唸り声をあげ、はたまた目に涙を浮べるイーストウッドは、この映画以外ではちょっと目にすることが出来ないのではないか。それはちょうどあの”騙し絵”が、全体として見ると絵として何だが微妙に変なところがあるのと同じである。そして、このように浮び上がってくる二つの”顔”の内、どちらにイーストウッドの本音が託されているのかと言えば、後で見る様に否定的な”顔”の方であるのはまず間違いない。つまり、結局のところ、監督イーストウッドは、主人公コワルスキーを褒め称えていると見せかけて、実は糾弾し批判しているのであって、この映画は一種の反語語法でもって語られているということである。しかも、意識的な方法論として首尾一貫して。

 このことから、この映画は”騙し”に引っかからないためには、どうしてもある種の深読みを要求する、いささか難解な作品であると言わなければならない。この”騙し絵”的反語語法に気付かずに、この映画にカッコいいイーストウッドや感動的なヒューマン・ドラマだけを見る事は、誤読もここに極まれり!とまでは言うつもりはないが、その本質を掴みそこなった一面的な見方であるということは言っておかなければならないだろう。勿論、当初の私の様に一方的に拒絶し断罪する事も同様の誹りを免れないのであって、どちらも言わば、お釈迦様イーストウッドの手のひらの上で踊っている孫悟空に他ならないからである。

ということは、では、私の本能はイーストウッドの手のひらの存在を直覚していたということになるのであろうか。うーむ。




 さて、こういった読み筋からこの映画の総てのシーンについて一々詳細な訓詁をすることも出来ようが、ものぐさにはちと荷が重いので一例だけに留めることにする。それは裏庭でのBBQのシーンである。


 肉を焼いているコワルスキーに、スーが「本当に楽しそうね。こんなに楽しそうなあなた見たことないわ」と言う。ちっとも楽しそうに見えないイーストウッドは兎も角、なぜ彼が「楽しそう」かと言えば、この後で手の怪我をスーが見つけることからも判るように、前日にギャングの一人を散々痛めつけ半殺しの目に遭わせた上に、銃を突きつけて手を出すなと警告して置いたからである。ここに、これでもうタオには手を出さないだろうという安心感からくるコワルスキーの喜びという一つの”顔”を見る事も出来ようが、視点を変えれば暴力を振るった事が嬉しくて嬉しくて堪らないコワルスキーの残虐な性向というもう一つの”顔”が浮かび上がってくる。これまでになく主人公が喜んでいるのは、この映画で初めて描かれた主人公の暴力行為シーンの後であるのは象徴的である。それを仄めかすために、「本当に楽しんでるのね。こんなに楽しそうなあなた見たことないわ」という一節がセリフに挿入されているのは明らかであろう。さらにもう一つこの後に注目しなければならないセリフが出て来る。この後話題はユアとのデートへと移り、タオにお前が誘わないなら俺がデートに誘うと言うコワルスキーに、スーがダメ出しをして「腹黒い白人だから」と言う。それをオウム返しにコワルスキーが自ら「ああ、腹黒い白人だ」と言うところも何だか妙に引っかかるセリフである。この”white devil(白い悪魔) 腹黒い白人”とは西部劇ににおける悪役インディアンの白人に対する常套的決まり文句であるが、ここに近年の修正西部劇の流れに則ったイーストウッドの西部劇批判を見る事も出来るだろう。私は、引退する前に、監督イーストウッドはどうしても西部劇スター・イーストウッドに一度は自ら「(俺は)腹黒い白人だ」と言わせて置きたかったのではないかと想像を逞しくするのであるが、

元のスクリプト

を見ると、このコワルスキーのセリフはないようである。或は撮影時のアドリブかも知れない。それは兎も角、そう考えるのは先の暗示の後にこの”white devil 腹黒い白人”という言葉が出て来るからで、先の暴力を振るう事が嬉しくて嬉しくて堪らない白人像と通底しているからである。要はこのように、連携した仄めかしの連続によって、浮び上がってくるもう一つの否定的な”顔”のエッジを際立たせているということである。

 

 というような次第で、興味のある方には、このような二面性や両義性、ダブル・ミーニングによる色々な暗喩やほのめかしを探りながら、この映画を今一度観直すことをお勧めする。

 結局のところ、私が一言でもってこの「グラン・トリノ」という映画を言い表すとすれば、これはその引退に及んでかっては数々のマッチョ・キャラを演ずることでもって大スターに登り詰めたその当の張本人が、自らそのはまり役であるヒーロー像を否定し、その欺瞞性を白日の下に引きずり出して告発・断罪し葬り去り、その事でもってそのマッチョなアメリカン・ヒーローに拍手喝采を贈ったアメリカ人を批判・糾弾している作品なのであるとでも言おうか。

 イーストウッドは「何で、みんな俺のダーティ・ハリーを欲しがるんだ」「それが問題なんだ」と言っている訳である。



 なおこのセリフは元の原語では、「Yeah,everybody seems to want that car.You don't know the half of it.」となっていて、その発想の文脈がいささか異なる。「みんなをこの車を欲しがるようだが、その半面しか知らない」とでも訳せようか。後になってみると、私のこの映画に対する解釈の一番のヒントとなったのものは、この「You don't know the half of it.その半面しか知らない」という言葉だったのかも知れない。原語で観なかったら例のシルバー・スターのアップ・シーンで、この映画の語り口の構造に気付くことは無かったのかも知れないとも思うのである。ともあれ、この吹き替えの翻訳もなかなか素晴らしいと私には思われるのであるが、どう思われるであろうか。録画のクレディットには翻訳久保善昭とあった。



 この作品の商業上の成功や好評、さらには俳優イーストウッド引退作という話題性にも関わらずアカデミー賞に推薦されなかった事は多くの人も言うように私も訝しいが、或はこの作品の方法論が災いしたのかも知れない。なぜ彼が、このようなトリッキーとも言うべき、ある意味で誤解を免れえない方法論を取ったのかと言えば、一般に多くのこういった反語的表現が強いられたものであることから考えれば、やはり後で述べるような”遅れて来た西部劇スター”という彼の立ち位置が強いたものと考える他ないようだ。従って、この方法論は彼の映画スターとして名声が強いたという意味では必然的な、俳優人生において引退作でしか使え得ない一回限りの捨て身の方法論であったとも言えようか。



 さて、最後に「グラン・トリノ」が何を象徴しているかについて述べ、このエントリーを終える事にしたい。

 なぜこのグラン・トリノという車をイーストウッドが選んだのか、その根本的な理由はどうも今一つ私には判らないのであるが、先のセリフの意味するところから言っても自ら歌うエンドロールで流れる歌の歌詞は見過ごせない。

<「do you belong in your skin; just wondering お前は自身の見た目にふさわしい男なのか。どうなんだろうな。」>

<「realign all the stars above my head warning signs travel far 全ての星をもう一度並べ替えてやろう、俺の頭上で警告サインを発しながら進む星たちを。」>

<「engines humm and better dreams grow エンジンは唸り、苦い夢が膨らむ。」>

これらの歌詞から言っても、やはりこの車は映画スターとしての彼自身を投影している事にまず間違いはないだろう。従って、先のフォード・トリノの歴史に置けるこの車の微妙な立ち位置は、そのまま映画スターとしての彼の立ち位置の微妙さを示していると考えられる。つまり、彼は西部劇が時代に合わなくなる変節点、そのジャスト・タイミングに登場して来た、言うなれば”遅れて来た西部劇スター”なのであって、この意味では、さしずめトリノGTやトリノ・コブラはゲイリー・クーパーやジョン・ウェインに擬える事が出来るだろう。彼の出世作になった西部劇は、マカロニ・ウエスタンという、しかも、それは極東の島国におけるチャンバラ映画のリメイクという二重の意味での模造品であったこともこの立ち位置の微妙さを示している。逆に言えば、こういった正統的な西部劇スターではないという自分の立ち位置を彼は良く自覚しており、むしろ意図的にそれらの正統性に抗らって来たとも考えることが出来るだろう。また、「グラン・トリノ」の「トリノ」の名前の由来は詳らかにしないが、「トリノ」と言えば私にはイタリアの「トリノ」がすぐに浮かぶ。この意味からもマカロニ・ウエスタンの代名詞である彼には相応しいともいうことも出来よう。


 私は最初に観たとき、この「グラン・トリノ」はてっきりGTだと勘違いしていたが、調べてみると「グラン・トリノ」にはGTは存在しないようである。であるから実際は間違いなのであるが、ツー・ドアであること、クーペであること、また「グラン・トリノ」という名前自体もGTを連想させることから、この車はGTであった方が相応しいように私には思われる。つまり、以下述べる事は私の手前勝手な度が過ぎた読み込みである事を承知の上で読んで頂きたいが、GTとは、そもそもグランド・ツーリングに由来する名称であるが、それはWiKiのグランド・ツアーにあるように、元はイギリス貴族の子息が大人になるための必須の通過儀礼、即ち社会的な見聞や知識を広めるための一種の修養体験ツアーとしての「大旅行」であった。日本の修学旅行という慣行もひょっとすると、このグランド・ツアーに由来するのかも知れない。ともあれ、元々はGT(グランド・ツアラー或はグラン・ツーリスモ)というのは、この「大旅行」に用いられた長距離旅行用の馬車を差して云うのであって、その呼称がのちに自動車に転用された訳である。先のツー・ドアとかクーペというのも、この馬車の特徴であった訳である。従って、「グラン・トリノ」が走り去っていくこの映画のエンディングの象徴するものは、グランド・ツアーと取ると私には非常に納得が行く、というか好ましい。つまり、それが象徴するものは、アメリカという国は、未だ社会的な見聞や知識を広めるためのグランド・ツーリング途上であるということ、言い換えればアメリカという国は、未だ大人になり切れていない未成熟な国なのではないか、ということである。



「グラン・トリノ」2

2014-11-02 00:00:00 | 映画

 最初にこの「グラン・トリノ」という映画を観終って感じたのは、ストーリーとしては単純至極、非常に判り易い話であるにも関わらず、そのストーリーでもって何を言いたいのかが一向に判らないということであった。製作者イーストウッドの意図をどうにも私は計りかねた。にも関わらず、前に述べた様な奇妙なずしりとした手ごたえがあって、私の直感はこの作品が逸すべからざる作品であると告げていた。言わば、本能がこの映画は傑作であると主張しているのに対して、頭ではそれがてんで理解出来ないという、何とも苛立たしい自己分裂的ジレンマの渦中にあった訳である。そして、そのジレンマが嵩じてこうしてこの文章を書かざるを得なくなったことは前に書いた通りである。

 俳優引退作品として作られたと言われているこの作品で、一体全体イーストウッドは何をしたかったのであろうか。何を言いたかったのであろうか。

 
 映画文法に則った暗喩や読み筋などは、勿論幾つか見い出せるのであるが、私にはそれらがどうしても統一した像を結ばず、その矛盾した不整合性が不快な不協和音を奏でているように思われた。この映画に「人種問題」「家族」「生と死」「父と子」「男の矜持或は美学」「自己犠牲による贖罪と魂の救済」などの色々なテーマを読み込むことは容易であるが、それらは干物のように干からびた古色蒼然としたステレオ・タイプなものであって、ここには何ら新しいものはないように思われた。これでは全く持ってハリウッド・スター、イーストウッドの名声に寄り掛かっただけの詰まらない駄作ではないのか、という疑念が観ていて何度も私の頭をよぎった。観終って、幾つかの評を読んでみたが、絶賛されるような感動的ヒューマン・ドラマとはまるで思えなかった。そのように素直に享受出来ないのは、主人公に輪を掛けて私が偏屈な頑固ジジイであるためだろうか。そんな事を思った。その理由の最たるものは、西部劇でもないのにこれ見よがしに描かれるセルフ・パロディとも言うべき主人公の大時代的マッチョぶりである。これが大きな違和感を生み、私には、この主人公にまったく感情移入できないのであった。主人公コワルスキーは屈託を持った人間として描かれているが、その原因が朝鮮戦争従軍時に自ら進んで行った虐殺行為であることが次第に明かされる。自らの内にある”悪”を自覚した人間という設定なのだが、この人物設定は一応内面に一歩踏み込んではいるものの、それが人物造形に複雑な陰影を与えているのかというと、否と言わざるを得ない。その行動は相も変わらずの単細胞マッチョぶりで、常に銃を持ち歩き、唾を吐き、啖呵を切る様や左胸の懐に手を入れる仕草など、これでは明らかにダーティー・ハリーや用心棒のジョーのキャラクターの単なる旧態以前たる”反復”でしかないと言わざるを得ない。自らの行動が招いたギャングの報復に「俺は何て馬鹿なんだ!何でこんなことになるのに気付かなかったんだ!」と臍を噛む様にも、私は同情するよりむしろその単細胞ぶりに呆れ返るばかりであった。

 ところで、ここで一般に言われている「孤独に生きる人種差別主義者の偏屈老人」といったコワルスキー像に異を唱えて置こうか。コワルスキーは「孤独に生き」ている訳ではないし、ましてや「人種差別主義者」なんかではないし、「偏屈」でもない。これはその行動から明らかであって、彼の発言に惑わされてはならない。

 まずコワルスキーは身内とは疎遠であるにしても、バーテンダーを含むバーでの飲み友達の存在や床屋や建築現場主任との関係などが示すように、一定の交友関係を持っていることは明らかであろう。妻の葬儀後にも多くの列席者が家に来ていた事実も、コワルスキーの発言とは裏腹にそういった交友関係の(限定的ではあるにしても一定の)広さを示していると言わなければならないだろう。

 また地下室でのユアとの会話から、コワルスキーは流しや乾燥機を直したりカルテを書き直させたりといった雑用の言わば万事屋で生計を立てているという事が判る。年金だけで暮らしている訳ではないので、この事実も近隣での一定の関係性を示唆する訳である。コワルスキーがスズメバチ撤去以来を受けるシーンが出て来るが、このシーンから言えるのは彼は近所の異人種の人間と全く接触を断っている訳ではなく、例えば芝生や家のメインテナンスをしないなどの気に入らないことがあると、それが「人種差別」的発言という形でもって表に出て来るだけなのである。手慣れた感じでコワルスキーがメモ書きを取り出すしぐさは、これが彼のたつきであることを示していると言えよう。

 同様に、発言に惑わせられ無ければ、述べたようにコワルスキーが「人種差別主義者」でもないし「偏屈」でもないことが判るだろう。そもそもゴリゴリの「人種差別主義者」だったら、絶対に異人種の家の中になんか入らないし、増してや相手の伝統的民族料理なんかを食べはしないだろう。会話も注意して聞いてみると判るが、言葉使いとは裏腹にまず相手の言う事を良く聴いていることが判る。コワルスキーは会話自体を頭ごなしに拒絶するといった態度を取ることは絶対に無いのであって、急にスーやタオと親しくなる展開に違和感があるといった感想も多く見られるようだが、元々コワルスキーはそういう人間なのであって「人種差別主義者」ではないと見るべきである。親しい床屋のオヤジや建築現場監督などの会話でも同様に「人種差別」的であって、私が思うにこれは非WASP系移民の間でのそういった一種の交友プロトコルの型が、部外者の目には「人種差別主義」的と映るのに過ぎないのである。


 そして、この映画の不協和音は「グラン・トリノ」という題名にも顕れていると思われた。このグラン・トリノという車が象徴するものは古き良きアメリカ、その全盛期の栄光であるというような一見穿った解釈がなされているようだが、そうだろうか。私はこのグラン・トリノという名前をこの映画で初めて知ったのだが、何分アメ車の知識なぞ殆ど持ち合わせていないので、そう言われても私にはどうもピンとこない。私にそういうイメージとして直ぐに思い浮ぶのは、キャデラックであるが、それは例えばエルビス・プレスリーが所有していた有名なピンクのキャデラックとか、大地に突き刺さったキャデラックが並ぶ、アメリカでは有名な「キャデラック・ランチ」といった(パフォーマンスオブジェ?)芸術作品などが思い浮ぶからである。フォードの車というのも何だかなあという様な気がする。別にキャデラックでなければならないと言うつもりはないが、もっと他に相応しい車があるような気がするのは私だけであろうか。

 そして、このグラン・トリノは主人公コワルスキーの遺言によれば1972年製だということになっている。ネットで調べてみると、この車は排ガス規制法として有名なマスキー法以降のモデルであるようだ。であるから、むしろフォード・トリノというモデルの歴史における最強マシンは、それ以前の1970-71年に生産されたトリノGTやトリノ・コブラというモデルであって、現在もビンテージとして人気が高いのもこれらのモデルであるということのようである。従って、グラン・トリノという車は、トリノ史上に燦然と輝く代表的なモデルとは言い難く、ある種微妙な立ち位置にある車のようである。そう言えば、映画の中でも、就職させるべくタオを連れていった先の建設現場の責任者とのやり取りとりとの中で、”貸し”への礼としてグラン・トリノのキーをよこせと言われたのに対し、「何で、みんな俺の車を欲しがるんだ?」とコワルスキーも言っているではないか。そして、それに続けて「それが問題なんだ。」と言うのも会話として何やら変、というか妙に浮いていて不自然である。私にはこのセリフは何か重要な事を暗示しているように思われて仕方がないのであるが、それが何であるのかは判らない。一体、「グラン・トリノ」が象徴するものは何なのであろうか。だが、そもそも、こういった象徴的な意味合いを何やかやと詮索する事自体、大した意味がないことかも知れない。

とまあ、そういったような事を考えているうち、ふと思い立ってWiKiで「グラン・トリノ」の項目を読んでいたら、注に「イーストウッドが『ダーティハリー3』(1976年)で新米の女性刑事を連れ回して乗っている。」とあるのに出くわした。であれば、「グラン・トリノ」が象徴するものは、やはり「ダーティ・ハリー」ということなるのか。ではその「ダーティ・ハリー」が象徴するものは一体何なのか?ハリーが乗っている車の中から、なぜあえてこの車を選んだのか?この「グラン・トリノ」のストーリー設定にふさわしいからなのか?と自問自答するのであるが、どうもこれらの問いに整合するような納得できるだけの答えが見つからない。先のセリフに当てはめれば「何で、みんな俺のダーティ・ハリーを欲しがるんだ?」とイーストウッドは言いたいのであろうか。


 とまあいった具合で不協和音は増しこそすれ止むことはなかったのである。その一方で、だが、ここには何かがある、そう直観は告げているから何とも始末に困る体たらくであった。



 そういうような次第で、最初に観た録画は吹き替えということもあって、言い回しや微妙なニュアンスなどの点で違和感が多々あったということあり、DVDを借りてきて原語でもう一度観直すことにした。突然の用事などで中断することがないように時間を多めに確保し、改めて居住いを正し、一切の先入観を廃し虚心坦懐に作品に対峙して観ることにした。こんなに集中して真剣に映画を観たのは何時以来だろうか。そして、話の終盤、タオとスーがグラン・トリノに乗って現場に駆け付けたシーンで、コワルスキーの死を知ってショックを受け愕然とする二人のショットから、画面は次第にタオの上半身へ、その胸に着けられたシルバー・スターへとアップしていく映像を見た瞬間、「なるほど、そういうことか!」と判然として悟るところがあった。この瞬間不協和音は一斉に止み、この映画でイ―ストウッドが何をしているのか、彼が何を言いたいのか、彼がどういう言い方をしているのかが判った。ようやくにしてわが本能に頭が追いついたのである。

 そして、それは私のなんちゃってイ―ストウッド観を根底から覆すものでもあった。そこに浮び上がってきたものは、ハリウッドの大スターにして巨匠監督という名声の只中にあって、自らのはまり役のイメージに抗う一人の映画人の姿であった。私は自らの不明を恥じた。



「グラン・トリノ」1

2014-10-26 00:00:00 | 映画
 
 これとは別の文章を書こうと思っていたのだが、今一つ考えがまとまらないというか、気分が乗れないというか、そうやってパソコンの前で考えあぐねている内に、ふとその理由に思い当った。どうやら、少し前に観たこの映画のせいだ、と。





 これは録画をチェックしていて何となく観始めたのだが、私は特段の映画マニアでもないし、イーストウッドはさほど評価していなかったこともあって、危うく途中で観るのを辞めてしまうところであった。ところが、意に反して観終ってみると、奇妙なずしりとした後味が残る映画であった。その重さは何やらもやもやとはっきりとした形を取っておらず、心の隅に蟠って妙に引っかかっていて、それがボディブローのようにじわじわと効いてきたのに今になって改めて気づいたということである。どうやら私には、この未消化の感銘の性質を明確にするためには、改めて文章にしてみるという作業が必要という事らしい。やれやれ。

 
 高い世評に反して私がこれまでクリント・イーストウッドを評価してこなかったのは、その鮮明なタカ派的マッチョ・イメージによるところが大きい。彼のこのイメージは彼の出世作である「荒野の用心棒」から、さらには著名な「ダーティ・ハリー」シリーズによって決定的となった事は言うまでもないだろうが、その水戸黄門的ステレオ・タイプなマッチョ・キャラを私はさほど評価しないからである(むしろその点こそが良いのだという人が多いのかも知れないが)。ま、一言で言えば、人物造形の底が浅いということであって、これは、「荒野の用心棒」シリーズの「名無し」の人物造形と、その基となったオリジナルの世界のクロサワの「用心棒」・「椿三十郎」における「三十郎」のそれを比べてみれば一目瞭然であろう。後者のそれが複雑な陰影を持った奥行きのあるものであるのに対し、前者のそれは実に薄っぺらで類型的な人物造形でしかない、といささか辛辣なものの言い方をすれば、まあそういったことである。


  


 そしてその違いがどこから来るのかと言えば、その内面にある”悪”を自覚しているのかどうかというところにあるのではないかと私には思われる。それが最も象徴的に表れているシーンは、『椿三十郎』で半兵衛を切った三十郎が「俺は機嫌が悪いんだ。こいつは俺にそっくりだ」と吐いて捨てるシーンであるが、黒澤明が産み出した、この豪快にして繊細、鷹揚にして緻密という実に魅力的なキャラクターは、その後の日本映画だけでなく文学やアニメなどに非常に大きな影響を与えたように思う。例えば宮崎駿監督の「紅の豚」の主人公なぞは、宮崎流に換骨奪胎した三十郎と言って良いだろう。


  


 ここで、このようにいささか強引に「紅の豚」を持ち出したのは、実は「グラン・トリノ」を観る少し前に、文春文庫で「ジブリの教科書7 紅の豚」が出たのを興味深く読み、大いに啓発されたにも関わらず、作品解釈の重要な一点について疑義を待ったという事による。少し脱線するが、この場を借りてついでにこの本の内容にいちゃもんを付けて置きたいと思うのである。後になって考えてみると、この本を読んでから「グラン・トリノ」を観た事は、単なる偶然とは思えないような気もする。このことによって、共に同じ作品に強く影響を受けた異なる映像作品系列における人物造形を対比して見る事が出来、結果としてこの「グラン・トリノ」という作品の意図がより明確に理解出来たように思うからだ。

ということで、まず、この「ジブリの教科書7 紅の豚」から二つの文章を引く。



「菅野 私も木村さんと同じように、やっぱり豚のまま訪ねてほしいなと思ったんです。宮崎さんに一度「ポルコはあのあとジーナのところを訪ねると思う?」と訊かれたことがあって、私は訪ねてほしいと思ったから「行くと思います」と答えたんですけど、宮崎さんは「そうかな」って。違うっていう答えをもらったようなものだから・・・・。」(「女性スタッフ七人座談会 今だから話したい『紅の豚』のこと」)


「あれから二十年以上の歳月が過ぎた。「ジーナさんの賭けがどうなったかは、私たちだけの秘密」というフィオの最後の言葉の通り、ジーナとマルコの恋がどうなったか、いまだにわからない。だが、その一方で確実に解っていることもある。」(「『紅の豚』とその時代―「変身譚」の系譜」青沼陽一郎」)



そうだろうか。

或はすでに気付いている人も居られると思うが、実は、宮崎監督はこっそりと答えを映画の中に書き込んでいるのである。最後の「ジーナさんの賭けがどうなったかは、私たちだけの秘密」というフィオのナレ―ションの少し前に出て来る、このシーンの背景にポルコの愛機が書き込まれている事に注目されたい。ということはジーナは賭けに勝ったのであって、だから、フィオの言うように益々美しくなっていくのである、そう言ったら余りに穿ち過ぎた深読みであろうか。


  


 この画像を用意するのに手間取ったので、今回はここまでとする。