ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

「悪魔の証明」と日本におけるリーガル・マインド(1)

2018-04-05 12:00:00 | やまとごころ、からごころ
 最近の国内政治に関する報道の中でキー・ワードとして聞きなれない2つの言葉が出て来たのが、私にはとても興味深い。その内の「忖度」の方の意味については「忖度」するまでもないと思うので(笑)、「悪魔の証明」について少し書いてみたい。

 最初にこの言葉を目にした時には、「悪魔の証明」?はて?聞いたことがあるような気もするが、どういう意味だったか知らんと思って早速検索してみた。

wiki悪魔の証明

 これを見ると、安倍首相が直接的に言わんとしたことは「消極的事実の証明(ないことの証明、Evidence of absence)」という意味であると思われる。元々は所有権の帰属を証明する困難性の比喩であったというのは面白い。つまり所有権が”ある事の証明”を指していた訳だ。だが、そういった歴史的経緯は経緯として、検索してヒットした他の文章も幾つか読んでみたが、殆どが法律家や法律関係者の文章で、言いたいことは判るが、どうも今一つ腑に落ちて来ない、ピンと来ない説明ばかりである、そう思うのは私だけであろうか。

例えば比較的判り易いものでも、こういった文章である。

安倍首相が主張する「悪魔の証明」…なぜ「ないこと」を証明するのが難しいのか

 そうやって色々と調べながら考えを巡らしている内に、おお、そうか!とはたと思い当った。ハリソン・フォードの顔が浮かんで来たからである。



 つまり、私が思うにこの問題の核心にあるのは、刑事法におけるいわゆる「推定無罪」の原則である。この「推定無罪」という言葉を使って説明した方が、「悪魔の証明」を使うよりももっと判り易く、もっとスッキリとした説明になるのではないかと思うのである。

wiki推定無罪

 具体的にはこの問題の論点は、上のwikiの説明の定義にある<狭義では刑事裁判における立証責任の所在を示す原則であり、「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決が下される(=被告人は自らの無実を証明する責任を負担しない)」ということを意味する(刑事訴訟法336条など)>という点にあるのは、安倍首相の発言からも明らかであるが、あまり馴染みのない「悪魔の証明」という言葉を使ったがために、今一つ反論という意味では弁論上のプレゼンテーション効果に欠けた恨みがあるように思うのである。気楽な傍観者の意見ではあるが、「被疑者に立証責任を求めるのは、近代刑事訴訟の大原則に反する」とでも言えばよかったのではないか。


 ここで以前から不信に思っているので、特筆大書きして付言して置きたいのは、日本における「無罪」という法律用語は果して妥当なのかという疑問である。私はこれは「誤訳」ではないかと疑ってさえいる。この言葉に確定するに至ったのはそれなりの立法制度史上の経緯があっての事と思われるが、日本では裁判においては「有罪」か「無罪」かを判定することになっているが、英米法ではそうではない。ご存知の方も多いと思うが、英米では

guilty or not guilty

と表現し、裁判とは「guilty 有罪」か「not guilty有罪でない」かを判定することになっている。仏独などの他の欧米諸国においてはどうなのか寡聞にして知らないが、先の日本版wiki推定無罪には制度化の歴史の項にフランス人権宣言(1789年)第9条が出て来るので、恐らく同様の表現を取っているものと思われる。この点について、ご存知の方があればコメントして頂けるとありがたい。

 ここで、では「無罪」と「有罪でない」とでは、どう違うのか?と思われた方も或は多いのではないかと思うが、これはグレー・ゾーンというものを考えに入れると判り易いだろう。「有罪でない」の中には、このグレー・ゾーンも含まれるのであって、グレー・ゾーンが裁判制度自体の中に想定されているという事である。「not guilty有罪でない」=「presumed innocent推定無罪」ということであって、ここで注意してもらいたいのは、「推定無罪」の「無罪」には「innocent」という言葉が使われているという事である。日本語では「not guilty」も「innocent」も同じ「無罪」になってしまうのだが、英語ではこの二つの言葉は明確に使い分けられている。従って、裁判ではguilty or not guiltyと言うのであって、guilty or innocentとは絶対に言わない。ともあれ、このようにグレー・ゾーンの存在を認めているという事は、神ならぬ身の人間の叡智の限界性、或は誤謬性が裁判制度の前提として想定されていると言い換えても良い。これは西洋の長い歴史上の教訓から、不当な冤罪に対する防止措置として、このような考え方を採用するに至ったと思われるが、これに対し日本の「有罪」か「無罪」かという二者択一の場合、グレー・ゾーンは存在し得ない事になるのであって、どうもこの「無罪」という言葉は、述べてきたように「推定無罪」という近代刑事訴訟の大原則とは相容れないのではないかと思うのである。この意味では、たった一つの法律用語と言えども、その影響は計り知れないものがあるとも思うのである。

 というのも、こうした考え方と対極にある考え方もまた日本の「世間」には存在するからであって、「火のない所に煙は立たない」というのがそれである。さらにこれに「世間を騒がせた責任」といった理屈が加わって、一部のマスコミや野党が言わば手が付けられない状態になっているのは、先刻ご承知の通りである。この意味では、ああいった一部の野党やマスコミの意見にも、その真意はどうあれそれなりの存在理由はあると言えるのである。

 結局のところ、この政治問題が紛糾している理由の一つには「西洋近代社会」と「日本の世間」のよって立つ、相容れない根本的な考え方の違いが存在する、そのように私は考えるのだがどう思われるであろうか。

 というようなことで意図したところとは言え、何やら大きな問題になってしまったが、結論としては、私としてはやはりwikiにある山本七平氏の鋭利な分析に引き取ってもらうのが一番であろうと考える。この山本七平氏の分析に従えば「無罪」という法律用語は単なるうっかりした「誤訳」というよりも、むしろこの「納得治国家」が要請したという意味で意識的な「誤訳」と考えた方が妥当なのかも知れない。「推定無罪」という考え方を空念仏化するために。



<山本七平は「『派閥』の研究」(文春文庫、1985年初出)において、「日本は法治国家ではなく納得治国家で、違法であっても罰しなくとも国民が納得する場合は大目に見て何もしないが、罰しないと国民が納得しない場合は罰する為の法律探しが始まり別件逮捕同然のことをしてでも処罰する」と述べ、「無罪の推定など日本では空念仏同然で罰するという前提の上に法探しが始まる」としている。>




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