ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

「モリーズゲーム」

2019-06-28 08:26:19 | 映画


最近観た中では、久しぶりに非常に楽しんで観た映画である。と言ってもレビューを書く気になったのは、自分と同じような感想が見当たらなかったからで、別に主演のジェシカ・チャステインに入れ込んでいる訳ではない。尤も、名優の要件としては、演技力だけではなく、当然の如くシナリオの読解力や、その上でオファーを受けるかどうか、作品の選択眼などの重要性はいうまでもないので、その意味では、彼女の出演作品は要注意という事になるのかも知れない。

<痛快サクセスストーリーを楽しむもよし、セレブの知られざる素顔を見るもよし、ポーカーの駆け引きや裏社会のスリルを味わうもよし。驚愕の実話!>といったキャッチコピーがあったが、結論を先に言うと、私の見るところ、この映画の魅力を成すストーリーの核心部分にある主題はそんなところにはない。

ではそれは何かというと、モリーの「トラウマ」である。

ざっと見た限りでは、意外にも、この点について書かれたレビューは見当たらなかったのだけれど、多分どこかに指摘している人がいるはずだとも思う。というのは、後で述べるように、この映画では、はっきりとそれが分かるように描かれているからだ。考えてみると、これは比較文化論的な意味では興味深い問題だが、アメリカでは有名人など精神科医のセラピーは常態化しているので、こういったセラピーの社会的な認知度という点では日本とは相当に隔たりがある。そういう意味では、この映画はこの点に関する知識が余りない人には、判りにくい映画なのかもしれないとも思う。

従って、以下、ざっと「トラウマ」について述べることにする。

日本では良く若い子が「トラウマになりそう!」などと言うが、そもそも自分で自覚している時点でそれは「トラウマ」とは言わない。自分自身では無自覚であるにも関わらず、それに囚われ支配されている精神的状態の原因を「トラウマ」というのであって、ここには「抑圧(Verdrängung)」という自我防衛機構が存在する。つまり自己防衛のために自我を脅かす願望や衝動、それらを伴った記憶を意識から締め出して意識下に追いやる機構が人間には存在する訳である。この意識下に追いやられた記憶を「抑圧された記憶」と言い、この「抑圧された記憶」は、様々な迂回路を通って繰り返し意識に出てこようとし、その本人を動かそうとする。そのため、ヒステリーなどの様々な症状が発症する訳である。

フロイトは、こういった無意識に封印した内容を、回想し言語化して表出することで、症状が消失する(除反応、独: Abreaktion)という治療法にたどりついた。この治療法は「お話し療法」と呼ばれ、今日の精神医学におけるいわゆるナラティブセラピーの原型となっている。

このセラピーにおいては、患者と医師が「お話する」ことでトラウマ記憶を言語化し、その記憶の中の体験や感情に肯定的な意味を与えていく(自分のせいではなく無理もないことであった等)ことを通じて、トラウマ記憶を通常の記憶の一部として処理することが出来るようになり、その結果、トラウマによる様々な症状がなくなっていくという経緯を辿る。簡単に言えば、抑圧していた無意識の記憶を言語化することで、症状が改善するということである。


以上が安直なフロイト療法の説明であるが、この映画には「フロイト」というキーワードが登場するのに改めて気付いた人もいるだろう。それは食事中にモリーと父親がフロイトを巡って口論する場面であるが、これが伏線になっている訳である。


ということで、以上を踏まえて言わずもがなの解説をすれば、突然やって来た父親とモリーとの間でスケートリンク脇で交わされる会話は、父親によるかってモリー自身が否定した当のフロイト理論によるナラティブセラピーそのものである。それは「抑圧された記憶」=「父親の不倫相手の記憶」の言語化によるモリーのトラウマの除反応(Abreaktion))の過程であって、このセラピーと父娘の和解が重なっているために、このシーンが劇的な効果を持つこととなるのである。観ていて、なぜ主人公がアンダーグランドポーカーの世界にのめり込んでいくのか私には不審だったのだが、このシーンでああ、そういうことだったのか!と、大げさでなく大いなるカタルシスと共に感銘を受けた訳である。



さらに、この後弁護士のジャフィーが娘の懇願によって弁護を引き受けた事が明かされ、対照的な二組の父娘関係が対比される点や、アーサー・ミラーの「るつぼ」を引き合いに出した高潔な主人公の描き方などなど、数え上げたらきりがないので、その辺りは他のレビューを参考にしていただくとして、脚本が実に素晴らしい!「ソーシャル・ネットワーク」や「マネーボール」には左程感心しなかったけれど、いや、アーロン・ソーキン監督、素直に参りました!!と言う他はない映画でありました。









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