ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

モーリタニアン 黒塗りの記録 / THE MAURITANIAN

2022-10-29 12:30:00 | 映画


何の予備知識もなく観たせいか、最近見たものの中ではなかなかと面白く、興味深く観ることが出来た映画であった。

ざっと幾つかレビューを見てみたが、まあ予期していたことでもあったが、この映画の主題がリーガル・マインドであることがどうもあまり理解されていないように思われたので、少しこの点について書いてみたい。

冒頭、よく使われているような「事実に基づいた」という表現ではなく「true story」とあえて謳っているが、勿論、この映画は「事実に基づいた」フィクションである。フィクションではあるが、逆にそれだからこそ”真実”を良く描き得たという意味において、非常に良く出来たシナリオだと思う。リーガル・マインドとの関わり方、その姿勢の濃淡を描き、対比することでそれぞれの登場人物像をエッジをもって描き出していく演出は、観ていて非常に好ましく感じられた。例えばこのストーリーであれば、裁判をあつかった映画ではよくあるように、もっと裁判シーンを多用し、勝訴判決の瞬間をクライマックスに持ってくる等のいわゆる「お涙頂戴」的な劇的な展開の演出が出来たはずであるが、あえてそういった手法を避けた淡々とした演出は、リーガル・マインドという主題を描くためにこそ採用されたものであろう。

では、ここでいうリーガル・マインドとは何か。

前にも書いたことがあるが、日本ではこのリーガル・マインドというものに対する理解が一般に捻じれているので、再度山本七平の文章を引こう。

<裁判は決して”真実”を明らかにするものではない。・・・人々の法意識がそのようなものであると、近代裁判が機能し得なくなり、その系として、基本的人権を守るための歯止めが消滅してしまう。・・・川島武宜教授は、近代裁判の本質を科学的理念型として表現して次の様に言った。・・・裁判を行う前に事実があるのではない。裁判の結果として事実が決定されるのである、と。>

<原告(またはその代理人)の主張も、被告(同上)の主張も、仮説にすぎない。裁判官は、これを所定の方法(手続)によって検証(判断)する。その結果、ある主張をしりぞけ、他の主張はしりぞけない。故に、『裁判に勝った』からとて、当該人の主張がしりぞけられなかったというだけのことで、”真実”が発見されたという意味ではない。ましてや、『正義が勝った』などという意味ではない。・・・近代デモクラシー諸国における裁判にとって重要なのは、手続き(裁判のやり方)であって結論(判決)ではない。>


そして、この映画では、このリーガル・マインドを体現しているのはナンシーであるが、「被疑者は弁護を受ける権利がある。」「問題は何を証明できるかよ。」「無実かどうかは関係ない。拘束の不当性を証明するだけ。」「私が依頼人の権利を守るのは、あなたや自分を守るためよ。」といった一連の発言を見れば、法的な「手続き」を問題にしている彼女の姿勢ががよくわかるであろう。

そしてこのナンシーの姿勢を際出させるために、助手のテリーが(実際はどうであったのは解らないが)前のめりの人物として設定されているのは明らかであろう。それは、テリーに「なぜ無実だと言ってやらないんですか。」と詰め寄られたナンシーが答えないシーンや、自白調書を読んで、後悔したテリーをナンシーが担当から外すシーンによって、二人の言動の対比によって、リーガル・マインドとはどういうものであるかを描いているという事である。

また、相手側の起訴担当のカウチ中佐も、軍属である個人的な思い入れよりも、リーガル・マインドを尊重し、結局担当から降りることとなる。敵側であった彼が「私を納得させろ。」とナンシーに32番の資料を読むようアドバイスするのも印象的なシーンであった。

結局のところ、登場人物は、こうした様々なエピソードによって、リーガル・マインドという主題を描くために、絶妙に配置されているという構成になっている訳だ。なかなか良く出来たシナリオである。


そして、中で特に私の目に付いたのは、文書の取り扱いについての制度設計である。

国を相手取った裁判には日本では聞きなれない「秘匿アクセス権」が必要とされ、独立した第三者機関の「秘匿特権チーム」を一々介して文書が届けられるシステムになっている。グアンタナモ刑務所での面会時のメモでさえも、一旦は回収され、厳密に封印された上で、改めて「秘匿特権チーム」を介して受け取るという形になっている。そこでは内容によって「機密」「保護」等の文書のランク付けが行われ、重要度によって持ち出し禁止、ファックス送付は可能等の文書の厳密な取り扱い規定が課せられることが描かれているのは、私には非常に印象的であった。

こういった文書の保全に対する、我々日本人から見れば偏執的とも言いうる厳格なまでの取り扱いは、その背後にある思想、彼我のリーガル・マインドというものの違いを示していて興味深い。

またそれは、「特殊作戦」の最重要機密文書MFR(記録のためのメモ)の保全にも表れていて、調書の基になったメモ等の文書までもが総て厳重に保管されているのは私には少しく以外であった。しかし考えてみれば、これは「特殊作戦」を実行した人間の権利保護と言う意味合いもあろう。つまり、実行された「特殊作戦」による「拷問」が、命令によるものかそうでないかによって「軍法違反」が問われる可能性があるからである。

それはそれとして、こうした事実の背後にある考え方は、米国国立公文書館という公的機関の存在に象徴的に表れているが、このような文書の厳重厳密な保管といったものは、我々の文化には無いものと言わなければならない。

例えば少し前にも

基幹統計の公文書、480件で管理不備 同意なく廃棄など

などのニュースがあったが、こういった日本の文書に対する取り扱いの杜撰さ、そしてそれと裏腹にある罰則規定の緩さとは好対照と言えよう。「統計二流国家」と揶揄される所以であるが、前にも述べたように、やはり日本は「法治国家もどき」(山本七平)であると言わなければならないだろう。つまり、「建前」は日本は「法治国家」の体裁を取っているが、「本音」の行動様式においては「納得治国家」という「もどき」に他ならないという事である。

「悪魔の証明」と日本におけるリーガル・マインド(1) 同(2)

この意味で、この映画を見終わってすぐに私の心に浮かんだのは、現在マスコミで騒がしい日本の「統一教会問題」である。「解散命令」、そして「質問権」が議題に上って来ているが、次の山本七平の文章は、こういった政府の対応の性格を誠に的確に言い表わした文章だと私には思われるが、どう思われるだろうか。

<山本七平は「『派閥』の研究」(文春文庫、1985年初出)において、「日本は法治国家ではなく納得治国家で、違法であっても罰しなくとも国民が納得する場合は大目に見て何もしないが、罰しないと国民が納得しない場合は罰する為の法律探しが始まり別件逮捕同然のことをしてでも処罰する」と述べ、「無罪の推定など日本では空念仏同然で罰するという前提の上に法探しが始まる」としている。>

「シン・コロナ:破1.00」―現実(ニッポン) 対 虚構(COVID-19)

2022-10-21 12:00:00 | 空気に水を差す
ファイザー社取締役「伝染を止めるかどうかのテストはしていませんでした」欧州議会・新型コロナ公聴会 2022/10/11


2022.10.19【米国】欧州議会でのファイザー証言が世界のSNSでトレンド入り【及川幸久−BREAKING−】



*日本でもいろいろな動きが出てきているが、残念ではあるが、恐らくこういった「外圧」が高まってこないと例によって日本の「空気」はなかなか変わらないように思われる。だが、事態は明らかに次のフェーズへ移ったようだ。



「ワクチンが原因で亡くなったと国に必ず認めてもらいたい…」新型コロナワクチン接種後に亡くなった人の遺族12人が遺族会結成 集団訴訟へ(2022/10/20)


「ワクチン後遺症」で国会議員が動く!超党派議員連盟はこれからどうしていく?【大石が深掘り解説】


【超党派議員連盟総会】ワクチン大議論会 2022.10.18【ノーカットフル版】【ミュート無し】


接種後長引く症状、調査へ コロナワクチン実態把握

「ワクチン副反応の相談がある」35% 「ワクチン接種後に亡くなった人がいる」という報告も 新型コロナで兵庫県保険医協会の開業医らにアンケート




*前にも引いたが、私には今回のグローバル・パンデミック騒動は、この記事にあるアメリカの1976年の史上最大のワクチン事業と同様の経過を辿っているいるように思われる。それはつまり、近い将来日本の薬害の歴史に、また新たに一項目が追加されることになるのは確実であるという事である。


史上最大のワクチン事業 ~その挫折と教訓~1976年、米で新型インフル流行の恐怖

<1976年、米国で新型インフルエンザ流行に備え、全国民2億人以上の予防接種をめざす史上最大のワクチン事業が実施された。しかし、副作用事例の頻発などで事業は中止され、結局流行も起きなかった。公衆衛生の歴史に大きな教訓を残したこの出来事は、専門家の意見と政策決断のあり方などで重い課題を突きつけており、現在の新型コロナウイルス政策に通じるものがある。

76年1月、ニュージャージー州の陸軍訓練施設で多くの兵士が呼吸器系の疾患を訴えていた。そして2月、18歳の新兵が死亡した。米疾病対策センター(CDC)が調査したところ、兵士から新型の豚インフルエンザウイルスが検出された。

このウイルスは1918年に全世界で未曽有の被害を出した"スペイン・インフルエンザ"と抗原性が類似していた。当時の人々は親世代の話から約60年前の悪夢が潜在意識にあり、CDC当局者は慄然とした。ウイルスの変異により、一定周期でパンデミックが発生するとされる「抗原循環説」では、数年以内にそれが起きると警告されていた時期でもあった。

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しかし、公衆衛生当局では「100万人が死亡する可能性がある」「流行はジェット機並みにやってくる」「3カ月以内に国民全員にワクチン接種をしなければならない」といった前のめりの意見が主流になっていく。

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最大の問題はワクチンの副作用だった。10万人に1人の確率でも、2億人に接種すれば2000人が副作用による疾患を発症する。訴訟を恐れたワクチン製造会社、保険会社の圧力により、8月に賠償責任は政府が負う法案が急ぎ成立した。
新型インフルエンザワクチン接種事業は1976年10月1日から始まったが、同月11日に最初の事件が起きる。ペンシルベニア州ピッツバーグで高齢者3人が接種後まもなく死亡した。

ただ、想定はされていたことだった。ワクチン接種期間に起きた発症、死亡事案は、医学的に因果関係がなくても関連があるように受け取られる。接種数が大規模になるほど、そのような「紛れ込み事案」は増える。CDC内では「偶然同時発生説」が主張され、副作用ではないとされた。

国民の不安を払拭するため、フォード大統領は同月14日に家族とともに接種を受け、その姿がテレビで放映された。だが、ワクチン事業に決定的な逆風が11月12日に発生する。ミネソタ州で接種した人のなかでギラン・バレー症候群の発症者が出たのだ。他の州でも報告が相次ぎ、12月中旬までに50例以上となった。

同症候群は末梢(まっしょう)神経の障害により四肢や顔、呼吸器官にまひなどが起こる。10万人に1~2人が発症する非常にまれな疾患だ。ワクチンとの因果関係については議論があったが、公衆衛生当局は12月16日に接種事業の一時中断を勧告。大統領が了承した。それでも2カ月半で史上最多の4000万人以上が接種を受けていた。

その後も接種事業は再開されず、翌77年3月に正式に中止された。調査では接種者の同症候群発症率は非接種者の11倍であり、因果関係はあるとみなされる。最終的には約530人の同症候群発症が報告された。

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