ものぐさ屁理屈研究室

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私はそれを知ってはいない。

「悪魔の証明」と日本におけるリーガル・マインド(2)

2018-05-20 09:00:00 | やまとごころ、からごころ
この山本七平の「日本は法治国家ではなく納得治国家」というのはなかなかと核心を突いた面白い表現で、新聞やテレビなどのいわゆるオールドメディアや一部の野党にとっては、「悪魔の証明」にしろ「推定無罪」にしろ、こういった「西洋の理屈」では、まず彼等を「納得」させることは相当に難しいのではないかと思われる。そもそもそのよって立つ考え方が原理的に違うのだから。

現実をそのままに眺めれば、現在の日本においては、この「法治国家」と「納得治国家」、先に述べた言い方で言えば「西洋近代社会」と「日本の世間」の相反する2つの考え方が混在し鬩ぎあっているのであって、このゴルギアスの結び目を解くには、西洋と日本の比較文化論或は比較制度論的視点というものが要請される必要があると言えるだろう。

この点において、誰が書かれたのか知らないが、割と不正確で問題が多いwikiの文章のなかにあっても、この推定無罪に関する文章は素晴らしいだけでなく、それに加えて山本七平を持ち出して来るというのは、誠に当を得た記述だと思うのである。それは刊行から三十年以上も経っているにも関わらず、山本の分析は今なお抜群の洞察を含んでいると私には思われるからで、この本は残念ながら絶版になっていることでもあるし、主にリーガル・マインドに的を絞って、中味を少し紹介したいと思うのである。




<西欧では「事実の世界」と「法と権利の世界」を区別しても、この二つは共通の伝統的文化的基盤の上にある。だが日本はそうではない。この点を果して西欧的に割り切ってしまえるかという問題である。>

<二つの点とは、まず第一に、その基本たる「千年単位の伝統」が日本にないことである。次に西洋において「事実の世界」と「法と権利の世界」を別個に構成したとて、それは同一の社会的基盤を基としているのであって、根底ではつながっており、それを「別個に構成する技術」を彼らが創始したということに過ぎない。その「法と権利の世界」を翻訳によって日本に輸入することは出来るが、それは必ずしも「事実の世界」と社会的基盤が同じでないということである。>


山本はこの「法と権利の世界」を「宗教法的世界」とも言っているが、我々日本人にはいささか解りにくいので、この点についてここで註釈して置くと、そもそも<憲法という概念は聖書・キリスト教伝統から発生した>訳であって「法と権利の世界」は「宗教」がベースになっている。より正確に言えば「国教」national religionがベースになっている。一例を挙げれば、西洋の裁判では証言宣誓はバイブル、すなわち神に対して行われるといった塩梅である。しかるに、この「国教」という概念自体が日本人にはなく、日本の伝統の中にそれに該当するものがないので、山本も書いているように、明治時代には神道を国教化しようと政府が膨大なエネルギーを投入したにも関わらず、結局は失敗に終わることとなった。その社会的基盤たる伝統が無かったためであって、これも一例を挙げれば「国教」という概念は当然に宗教混淆を否定する排他性を本質的に持つのであるが、現在でも我々日本人は、初詣、七五三、結婚式、葬式など神仏キリスト教儀式のごちゃ混ぜに何ら疑念を抱かないといった塩梅である。またあまり知られていないが、明治四年までの一千年の間天皇家には仏壇があって、歴代天皇の位牌があり、法事も仏式であった。その菩提寺は京都の泉涌寺であった訳だが、このような宗教混淆(シンクレティズム)の伝統を持つ日本には、そもそも「国教」national religionなどという発想自体が存在しえない訳である。

少し脱線するが、この点で興味深いのは、新渡戸稲造の『武士道』である、この本の前書きには、この著作を書くに至った着想として、日本にはなぜ宗教教育というものがないのかという外国人の友人や妻(外国人)の疑問に対して、それに当たるものが武士道だと思い当ったことからこの著作をものしたと書かれているが、これなぞは新渡戸の勇み足であろう。それがこの『武士道』の内容の混乱、牽強付会によく表れているように私には思われる。それは兎も角、日本の伝統の中にそれに該当するものがないので、明治期にあったこうした「国教」に対する要求や指向性は結局のところ失われてしまうことになった訳である。


<裁判は決して”真実”を明らかにするものではない。・・・人々の法意識がそのようなものであると、近代裁判が機能し得なくなり、その系として、基本的人権を守るための歯止めが消滅してしまう。・・・川島武宜教授は、近代裁判の本質を科学的理念型として表現して次の様に言った。・・・裁判を行う前に事実があるのではない。裁判の結果として事実が決定されるのである、と。>

<原告(またはその代理人)の主張も、被告(同上)の主張も、仮説にすぎない。裁判官は、これを所定の方法(手続)によって検証(判断)する。その結果、ある主張をしりぞけ、他の主張はしりぞけない。故に、『裁判に勝った』からとて、当該人の主張がしりぞけられなかったというだけのことで、”真実”が発見されたという意味ではない。ましてや、『正義が勝った』などという意味ではない。・・・近代デモクラシー諸国における裁判にとって重要なのは、手続き(裁判のやり方)であって結論(判決)ではない。>


この「『裁判に勝った』からとて、当該人の主張がしりぞけられなかったというだけのことで、・・・『正義が勝った』などという意味ではない」はともかくとして、「重要なのは、手続き(裁判のやり方)であって結論(判決)ではない」、「裁判は決して”真実”を明らかにするものではない」といった説明には、多くの日本人にはいささか首を捻るのではないだろうか。

ここで、では”真実”は一体どうなるんだ!うやむやでいいのか!という声が聞こえてきそうだが、近代デモクラシー西洋諸国においては、それは”神のみぞ知る”という事で、宗教の領域なのである。前回の言い方で言えば「guilty or not guilty」が裁判の分担領域で、「guilty or innocent」は宗教の分担領域ということになるとでも言えば判りやすいだろうか。従って死刑判決後に、神父なり牧師が死刑囚の牢屋にやって来るのはその為である。


山本は、こういった彼我のリーガル・マインドの”捩れ”の所以を、このように一般論化して述べている。


<外来の強烈な普遍主義的思想を受け入れると、それは一見そのまま受け入れたように見えながら、実は、その国もしくは民族の文化的蓄積の中から、その普遍主義的思想と似たものを掘り起こして共鳴する、そしてその共鳴を外来思想として受け取る。・・・矢野教授はこれらの現象を一種の「もどき」現象とされる。簡単に言えば民主主義は「民主主義もどき」になり、法治主義は「法治主義もどき」になる。>

<自己に文化的蓄積がないものは、当然のことだが掘り起こし共鳴現象は起きない。>


この「法治主義もどき」を山本は「納得治主義」と言った訳であるが、この意味でそもそも日本に輸入された外来思想は総て「もどき」になってしまうということである。古くは「仏教もどき」や「儒教もどき」、「キリスト教もどき」に始まり、「共産主義もどき」や「保守主義もどき」に「リベラルもどき」、つい最近でも「ポストモダン思想もどき」や「リバタリアンもどき」なんてのがあったが、日本思想史においてはこれらの外来の「様々なる意匠」が跳梁跋扈し現在に至っているのはご存知の通りである。

そして山本は、明治8年から10年ごろの地方の政治結社、民間の俗謡、不問に付された汚職事件を概観し次の様に述べているが、現在の野党の性格を考える上でとても興味深い。こういった日本的伝統のエトスの上に現在の国会も運営されている訳である。


<当時の人々にとって、憲政を実施して民選議院を設立するということは、「立法府」を樹立するということより、政府の不正や秕政を糾弾する場をつくるということであったことがわかる。それは立法権よりむしろ監察権か審問権とでもいうべきもので、国民が法律をつくるといった意識が鮮明にあったとは見えない。この伝統は今も強く残り、法案は殆ど政府から提出され、議員立法はむしろ例外的である。>


繰返して言えば、「法治主義」における「推定無罪」という考え方は、我々日本人の文化的蓄積の中にはないもので、これに共鳴するものがないので、日本人にはこれほど理解し難いものはないとも言い得るのである。この点はマスコミや一部の野党だけではなく、司法関係者や法曹も例外ではないのであって、多くの判例を引くまでもなく、今回のいわゆるモリカケ問題や財務事務次官のセクハラ問題報道においては、地上波テレビのコメンテーターとして多くの弁護士などの司法関係者が発言しているが、「マスコミ判決」とも言うべきその発言内容を見ても、「推定無罪」という考え方に立って発言している人物は圧倒的に少数派であって、ロッキード裁判の時と全く変わっていないのは呆れるばかりである。どれだけ自覚的であるのかは別として、マスコミもまた野党と同様に、先の「政府の不正や秕政を糾弾する」という日本的伝統のエトスに基いて行動しているのは言うまでもないだろう。


また、こういった「法治主義もどきの納得治国家」におけるマスコミの役割についても、山本は述べていて、この三十年以上も前の指摘は、若干の留保がつくものの新聞や地上波テレビなどのオールドメディアについては現在も殆どそのまま当て嵌まるのは、それだけ本質を付いているということであろう。一言で言えば、マスコミもまた「ジャーナリズムもどき」であって、山本は「新聞全体主義国」とまで述べているが、言い得て妙であると思うのは私だけであろうか。


<刑事裁判は無罪の想定からはじまる」のでなく「人々が納得するか否か」の想定からはじまる訳である。では人々が納得するかしないかは何によって決まるか。それはマスコミ、特に新聞によって決まる。>

<日本のマスコミの付和雷同性は世界に冠たるところ。>

<ロッキード事件の一審の判決というのは、全く今までのワン・パターン。冤罪事件と言わず、日本のあらゆる刑事事件で、今までの裁判官たちが繰返しやってきたことと同じ。それを一言で言うと自白裁判。事実認定の最大の拠り所は自白だったということ。つまり検察官の検面調書で全体が覆われてしまって、裁判所の判断が表れていない。>

<デモクラシー諸国における世論は、常に複数でなければならない。大賛成から大反対まで、様々なヴァリエーションがあり、どの小数意見も尊重されなければならない。それゆえ『世論はこうだ』という表現はあり得ないのである。この民主主義国家にはありえないことが日本にはあり得る。いわば新聞全体主義国では、「世論はこうだ」から「その通りにしないと納得治国家は治まらない」が、”民主主義の名の下に”条件付け権力となり、司法権をも「角栄有罪」とまず条件づけてしまう。>

<そしてこの「世論」は「単数」であるから、ちょうど「新聞辞令」という言葉があるように「新聞求刑」「新聞判決」がまずあって、それに裁判官が従うことによって「納得治国家」が存立するという形になっても不思議ではない。或る意味でマスコミは全国民への「根回し」をやっているようなものだが、そこには何の職務権限もないから、結果に対して責任を追及されることはない。>

<というのは「マスコミ的根回し」の「納得治」の前に、われわれ民衆は実に無抵抗な存在だからである。>


現在、放送法改正や電波オークションが規制改革上の議題に上っているが、この点ではインターネットによる通信技術革新は、将来、日本における「報道革命」を齎すことになったと言われるかも知れない。これによる報道情報の多様性によって日本「新聞全体主義国」が崩壊することになった、というように。丁度、グラスノスチ(情報公開)によって、ソ連邦が崩壊したように。




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