ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

「グラン・トリノ」2

2014-11-02 00:00:00 | 映画

 最初にこの「グラン・トリノ」という映画を観終って感じたのは、ストーリーとしては単純至極、非常に判り易い話であるにも関わらず、そのストーリーでもって何を言いたいのかが一向に判らないということであった。製作者イーストウッドの意図をどうにも私は計りかねた。にも関わらず、前に述べた様な奇妙なずしりとした手ごたえがあって、私の直感はこの作品が逸すべからざる作品であると告げていた。言わば、本能がこの映画は傑作であると主張しているのに対して、頭ではそれがてんで理解出来ないという、何とも苛立たしい自己分裂的ジレンマの渦中にあった訳である。そして、そのジレンマが嵩じてこうしてこの文章を書かざるを得なくなったことは前に書いた通りである。

 俳優引退作品として作られたと言われているこの作品で、一体全体イーストウッドは何をしたかったのであろうか。何を言いたかったのであろうか。

 
 映画文法に則った暗喩や読み筋などは、勿論幾つか見い出せるのであるが、私にはそれらがどうしても統一した像を結ばず、その矛盾した不整合性が不快な不協和音を奏でているように思われた。この映画に「人種問題」「家族」「生と死」「父と子」「男の矜持或は美学」「自己犠牲による贖罪と魂の救済」などの色々なテーマを読み込むことは容易であるが、それらは干物のように干からびた古色蒼然としたステレオ・タイプなものであって、ここには何ら新しいものはないように思われた。これでは全く持ってハリウッド・スター、イーストウッドの名声に寄り掛かっただけの詰まらない駄作ではないのか、という疑念が観ていて何度も私の頭をよぎった。観終って、幾つかの評を読んでみたが、絶賛されるような感動的ヒューマン・ドラマとはまるで思えなかった。そのように素直に享受出来ないのは、主人公に輪を掛けて私が偏屈な頑固ジジイであるためだろうか。そんな事を思った。その理由の最たるものは、西部劇でもないのにこれ見よがしに描かれるセルフ・パロディとも言うべき主人公の大時代的マッチョぶりである。これが大きな違和感を生み、私には、この主人公にまったく感情移入できないのであった。主人公コワルスキーは屈託を持った人間として描かれているが、その原因が朝鮮戦争従軍時に自ら進んで行った虐殺行為であることが次第に明かされる。自らの内にある”悪”を自覚した人間という設定なのだが、この人物設定は一応内面に一歩踏み込んではいるものの、それが人物造形に複雑な陰影を与えているのかというと、否と言わざるを得ない。その行動は相も変わらずの単細胞マッチョぶりで、常に銃を持ち歩き、唾を吐き、啖呵を切る様や左胸の懐に手を入れる仕草など、これでは明らかにダーティー・ハリーや用心棒のジョーのキャラクターの単なる旧態以前たる”反復”でしかないと言わざるを得ない。自らの行動が招いたギャングの報復に「俺は何て馬鹿なんだ!何でこんなことになるのに気付かなかったんだ!」と臍を噛む様にも、私は同情するよりむしろその単細胞ぶりに呆れ返るばかりであった。

 ところで、ここで一般に言われている「孤独に生きる人種差別主義者の偏屈老人」といったコワルスキー像に異を唱えて置こうか。コワルスキーは「孤独に生き」ている訳ではないし、ましてや「人種差別主義者」なんかではないし、「偏屈」でもない。これはその行動から明らかであって、彼の発言に惑わされてはならない。

 まずコワルスキーは身内とは疎遠であるにしても、バーテンダーを含むバーでの飲み友達の存在や床屋や建築現場主任との関係などが示すように、一定の交友関係を持っていることは明らかであろう。妻の葬儀後にも多くの列席者が家に来ていた事実も、コワルスキーの発言とは裏腹にそういった交友関係の(限定的ではあるにしても一定の)広さを示していると言わなければならないだろう。

 また地下室でのユアとの会話から、コワルスキーは流しや乾燥機を直したりカルテを書き直させたりといった雑用の言わば万事屋で生計を立てているという事が判る。年金だけで暮らしている訳ではないので、この事実も近隣での一定の関係性を示唆する訳である。コワルスキーがスズメバチ撤去以来を受けるシーンが出て来るが、このシーンから言えるのは彼は近所の異人種の人間と全く接触を断っている訳ではなく、例えば芝生や家のメインテナンスをしないなどの気に入らないことがあると、それが「人種差別」的発言という形でもって表に出て来るだけなのである。手慣れた感じでコワルスキーがメモ書きを取り出すしぐさは、これが彼のたつきであることを示していると言えよう。

 同様に、発言に惑わせられ無ければ、述べたようにコワルスキーが「人種差別主義者」でもないし「偏屈」でもないことが判るだろう。そもそもゴリゴリの「人種差別主義者」だったら、絶対に異人種の家の中になんか入らないし、増してや相手の伝統的民族料理なんかを食べはしないだろう。会話も注意して聞いてみると判るが、言葉使いとは裏腹にまず相手の言う事を良く聴いていることが判る。コワルスキーは会話自体を頭ごなしに拒絶するといった態度を取ることは絶対に無いのであって、急にスーやタオと親しくなる展開に違和感があるといった感想も多く見られるようだが、元々コワルスキーはそういう人間なのであって「人種差別主義者」ではないと見るべきである。親しい床屋のオヤジや建築現場監督などの会話でも同様に「人種差別」的であって、私が思うにこれは非WASP系移民の間でのそういった一種の交友プロトコルの型が、部外者の目には「人種差別主義」的と映るのに過ぎないのである。


 そして、この映画の不協和音は「グラン・トリノ」という題名にも顕れていると思われた。このグラン・トリノという車が象徴するものは古き良きアメリカ、その全盛期の栄光であるというような一見穿った解釈がなされているようだが、そうだろうか。私はこのグラン・トリノという名前をこの映画で初めて知ったのだが、何分アメ車の知識なぞ殆ど持ち合わせていないので、そう言われても私にはどうもピンとこない。私にそういうイメージとして直ぐに思い浮ぶのは、キャデラックであるが、それは例えばエルビス・プレスリーが所有していた有名なピンクのキャデラックとか、大地に突き刺さったキャデラックが並ぶ、アメリカでは有名な「キャデラック・ランチ」といった(パフォーマンスオブジェ?)芸術作品などが思い浮ぶからである。フォードの車というのも何だかなあという様な気がする。別にキャデラックでなければならないと言うつもりはないが、もっと他に相応しい車があるような気がするのは私だけであろうか。

 そして、このグラン・トリノは主人公コワルスキーの遺言によれば1972年製だということになっている。ネットで調べてみると、この車は排ガス規制法として有名なマスキー法以降のモデルであるようだ。であるから、むしろフォード・トリノというモデルの歴史における最強マシンは、それ以前の1970-71年に生産されたトリノGTやトリノ・コブラというモデルであって、現在もビンテージとして人気が高いのもこれらのモデルであるということのようである。従って、グラン・トリノという車は、トリノ史上に燦然と輝く代表的なモデルとは言い難く、ある種微妙な立ち位置にある車のようである。そう言えば、映画の中でも、就職させるべくタオを連れていった先の建設現場の責任者とのやり取りとりとの中で、”貸し”への礼としてグラン・トリノのキーをよこせと言われたのに対し、「何で、みんな俺の車を欲しがるんだ?」とコワルスキーも言っているではないか。そして、それに続けて「それが問題なんだ。」と言うのも会話として何やら変、というか妙に浮いていて不自然である。私にはこのセリフは何か重要な事を暗示しているように思われて仕方がないのであるが、それが何であるのかは判らない。一体、「グラン・トリノ」が象徴するものは何なのであろうか。だが、そもそも、こういった象徴的な意味合いを何やかやと詮索する事自体、大した意味がないことかも知れない。

とまあ、そういったような事を考えているうち、ふと思い立ってWiKiで「グラン・トリノ」の項目を読んでいたら、注に「イーストウッドが『ダーティハリー3』(1976年)で新米の女性刑事を連れ回して乗っている。」とあるのに出くわした。であれば、「グラン・トリノ」が象徴するものは、やはり「ダーティ・ハリー」ということなるのか。ではその「ダーティ・ハリー」が象徴するものは一体何なのか?ハリーが乗っている車の中から、なぜあえてこの車を選んだのか?この「グラン・トリノ」のストーリー設定にふさわしいからなのか?と自問自答するのであるが、どうもこれらの問いに整合するような納得できるだけの答えが見つからない。先のセリフに当てはめれば「何で、みんな俺のダーティ・ハリーを欲しがるんだ?」とイーストウッドは言いたいのであろうか。


 とまあいった具合で不協和音は増しこそすれ止むことはなかったのである。その一方で、だが、ここには何かがある、そう直観は告げているから何とも始末に困る体たらくであった。



 そういうような次第で、最初に観た録画は吹き替えということもあって、言い回しや微妙なニュアンスなどの点で違和感が多々あったということあり、DVDを借りてきて原語でもう一度観直すことにした。突然の用事などで中断することがないように時間を多めに確保し、改めて居住いを正し、一切の先入観を廃し虚心坦懐に作品に対峙して観ることにした。こんなに集中して真剣に映画を観たのは何時以来だろうか。そして、話の終盤、タオとスーがグラン・トリノに乗って現場に駆け付けたシーンで、コワルスキーの死を知ってショックを受け愕然とする二人のショットから、画面は次第にタオの上半身へ、その胸に着けられたシルバー・スターへとアップしていく映像を見た瞬間、「なるほど、そういうことか!」と判然として悟るところがあった。この瞬間不協和音は一斉に止み、この映画でイ―ストウッドが何をしているのか、彼が何を言いたいのか、彼がどういう言い方をしているのかが判った。ようやくにしてわが本能に頭が追いついたのである。

 そして、それは私のなんちゃってイ―ストウッド観を根底から覆すものでもあった。そこに浮び上がってきたものは、ハリウッドの大スターにして巨匠監督という名声の只中にあって、自らのはまり役のイメージに抗う一人の映画人の姿であった。私は自らの不明を恥じた。



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