ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

意味がなければ、シャウトはない (2)

2018-02-26 00:00:01 | Bruce Springsteen
 この点を明確にするためには、ブルース・スプリングスティーン& E・ストリートバンドによって1981年8月20日ロサンゼルスで行なわれた、ベトナム戦争帰還兵のためのチャリティー・コンサートについて触れない訳にはいかない。これは伝説的な The River ツアーの一環として行われた非常に感動的なコンサートであるが、御覧のように三時間を超えていて、このツアーでは時には五時間を超えるコンサートもあったというから驚きである。それは兎も角、このコンサートの貴重な音源が残されているのは、誠に行幸と言うしかない。この音源の音はあまり良くはないが、現在もネット上に陸続とアップされ続けているリバー・ツアーの音源の中では可もなく不可もなくといったレベルであるが、演奏自体はそれらの中でも屈指の出来なので、音の悪さを補って余りある録音であると言えよう。演奏の緩急、静と動の対比が実に素晴らしい。映像が残されていないのが誠に悔やまれる。




Bruce Springsteen - Full Concert, Memorial Sports Arena, Los Angeles, CA, 1981-08-20 (Audio)




 私がこのコンサートに注目するのは、ブルースの音楽が変わっていく転換点を象徴するという意味で非常に重要なコンサートだからである。端的に言えばこれ以降ブルースは積極的に社会にコミットして行くようになり、その結果として、彼の作品はこれまでにはなかった広がりを持ち、社会的インパクトを持つようになって行く。その端緒となった”Vietnam Veterans ベトナム退役軍人という社会問題”において、彼が何を感じ、どのように考え、その結果どういった行動を取るに至ったのかという過程は、ブルース・スプリングスティーンという一人のロッカーの人間性を、これ以上に無い程明確且つ鮮明に語っていると私には思われる。そしてこの社会的コミットメントが作品として結実し、最初に成功を収めたのが「ボーン・イン・ザ・USA」であったことを考えれば、このコンサートの開催に至る経緯とその意義を知って置くことは、この「ボーン・イン・ザ・USA」という作品を理解する上で、引いてはブルース・スプリングスティーンというアメリカのロック・アイコンを理解する上で、必要欠くべからざるマスト・アクトであると言わなければならない、そう考える次第である。

 ということで、以下、絶賛本特有の些か気になる点やおかしな翻訳文も見られるので若干手を入れてあるが、デイブ・マーシュの「グロリー・デイズ」から長い引用をする。なお私が強調したい部分は太字にしてあることを申し添えて置く。



「俺は十八の時、政治的な意見なんかろくに持っていなかった。俺の友達だってみんな同じだよ。徴兵制はごく日常茶飯事だった。誰だって行きたくないよ。他の奴が行ったっきり、返ってこないんだから。当たり前だろ。最初のバンド、ザ・キャスティールズの最初のドラマーが志願して、軍服姿でやってきて、『さあ、俺はベトナムに行くぜ』って言ってた。笑ったり、冗談を飛ばしたりしてね。だけど、それっきりだった。行って、戦死しちまった。・・・俺たちが十七、八の頃はベトナムがどこにあるかも知らなかった。ただ、行って死にたくないなっていうことだけははっきりしてた。・・・・

 スプリングスティーンは、1966年のバイク事故で脳震盪をおこし、またその時足をひどくケガしたために、後方任務のみの4Fと認定された。しかし、そうはいうものの、徴兵はそうやすやすと逃れられるものではなかった。スプリングスティーンは書類にめちゃめちゃを書き、テストを受けず、徴兵を逃れるため最大の努力を払った。しかし、それでもすれすれだった。このことを彼は決して忘れなかった。・・・・

 1981年になっても、スプリングスティーンの戦争に対する基本的な姿勢は変わってはいなかったし、徴兵を忌避することができなかった者に対する心づかいも持っていなかった。・・・・

 ブルースは反戦運動に参加した下半身不随のロン・コ―ヴィックの回想録『七月四日に生まれて』( Born on the Fourth of July )を読み、コ―ヴィックの個人的な物語と同時に、すべてのベトナム復員兵の身にふりかかった悲劇に深く感動した。主に徴集兵である復員兵は、(公民)倫理の授業で習うような理想のために戦っているのだと信じつつ、戦闘の任務に志願していたのだ。しかし、いざジャングルに着いてみると、彼らはいつの間にか銃撃戦に巻き込まれ、結果としてサイゴンとワシントンにある腐敗した政権を維持しただけだった。帰国してはみたものの国中で蔑まされた彼らは、復員援護法(GI・ビル)にはありつけなかった。朝鮮戦争や第二次大戦の年輩の復員軍人に対処するために作られた復員軍人庁は、若くて、黒人やラテン系の場合が多い、ほとんど決まって労働者階級であり、そしてもっともながら憤っている、こういう復員軍人にあまりかかずらわっていたくなかったのだ。しかも、政府の扱いがおざなりだったとしたら、世間一般の方はただ無関心なだけだった。アメリカ国民は復員兵の事情をちっとも知りたがっていなかった。・・・・

 一方、まず第一には社会の最下層出身者の復員軍人たちはありとあらゆる憂き目をみていた。精神的消耗、麻薬中毒、そして兵隊の子供に奇型を生む枯葉剤、いわゆるエージェント・オレンジの影響などなどだ。高等教育を受けられるほど裕福なアメリカ人は兵役を逃れていた。すなわち、八十年代の初期の二ケタの失業率のあおりを食って、貧しい、いや貧しい教育しか受けていなかったベトナムの復員兵は、一番見捨てられた市民だった。
 復員軍人への想い絶ちがたく、彼らに関する本を読み、友人でドラマーのパート・ヘインズの思い出がいまだにふつふつとよみがえっていたブルースは彼らの力になろうと決心した。彼はベトナム復員軍人の団体を探し、どんな援助が可能なのか訊いてもらうよう、ジョン・ランドーに頼んだ。
・・・・
ランドーはVVA(べトナム・ベテランズ・オブ・アメリカ)の会長ボブ・モーラーと接触した。・・・
・・・・
 1981年の時点で、モーラーとVVAはにっちもさっちも行かなくなり、立ち往生していた。政府はベトナム復員軍人に対して国際貿易収支の時と同じく”善意の無策”政策をとり続け、彼らの特殊な問題を認めようとはしなかった。・・・
・・・・・
 ベトナムの復員兵にとっては町の唯一の娯楽の場所だったから、VVAの支部は急増したが、モーラーは本部を機能させるに十分な資金も、常時会報を発行するに十分な資金を集めることができなかった。
 ロックはモーラーが一番頼むに値しないと考える部門だった。反戦運動とともに歩んだロックの歴史は復員軍人に対する敵意を匂わせていた。しかし、ランドーが電話し、メドウランズの公演を見に来て、その後でブルースに会ったらどうだと誘いをかけた時、モーラーはいそいそと出かけて行った。・・・
・・・・
二人はすぐにうまが合って、政治という枠組を越えた友情で結ばれたのである。二人は四十五分もしゃべり続けた。ランドーはこう言っている―
「話し始めて五分ぐらいたった時に、ブルースは彼と何かを一緒にやろうと決心したと思う」
・・・・
何度か話し合いをした後で、ブルースは九月二十日にロサンゼルスで慈善公演として最終のショーをやり、全収益はVVAと南カリフォルニアのいくつかの復員軍人援助施設に寄付することに同意した。
 一方、モーラーは歌手のパット・ベネターやカントリー・ロック歌手のチャーリー・ダニエルズからも同じような協力を確保していた。ブルースのショーは完売間違いなしだったし、他のショーもそれに近かった。全部を合わせると、二十五万ドル近くが集まった。モーラーはそれ以来、繰り返しこう言っている―
「ブルースがいなかったら、またあの晩がなかったら、私たちは成功していなかったでしょう。看板をおろすことになってたでしょう」
 現在、VVAは毎年、数百万ドルの予算で動き、議会の承認も得ている。それは復員軍人のための唯一の公認された、効果をあげている全国的な組織である。モーラーは、また、アメリカとベトナムの間の外交関係を再建しようとしている主要人物の一人ともなっている。
・・・・・
 ロサンゼルスに到着したブルースとランドーの同僚バーバラ・カーは、地元の退役軍人のセンターで一日中過ごし、数十人の男女と面会したが、彼らの多くはまだ戦争の傷跡から癒えていなかった。車椅子の世話になっている人たちはまだいい方だった。病院の車輪付タンカに寝たきりの退役軍人や、体は何ともなくとも精神がずたずたにやられている男たちもいた。そういう人たち全員がショーを見に来ることになっていた―希望者があまりに多かったため、最終的にはロサンゼルスで行われるショー全部でチケットを手配しなければならなかったくらいだ。
 ロサンゼルス・スポーツ・アリーナの公演では、ツアー・マネージャーのジョージ・トラヴィスはステージの横に体の不自由な人のために一種の特設ステージをこしらえた。慈善公演の夜、何十人という下半身麻痺、四肢麻痺の退役軍人が特設ステージに案内され、名誉ある観客となった。この特設ステージは、その晩も次の晩も、このコンサートが何のために行われているのかを、一目観ただけで明確に示していた。」


 以上、このコンサートに至るまでの経緯の抜き書きであるが、勿論の事このコンサートの様子もこの本では書かれているが、幸いなことにコンサート音源自体がこうして聴けるようになったので、重要と思われるオープニングでのブルースとモーラーのスピーチと、ベトナム復員軍人の為にリスト・アップされたと思われる二つの曲、CCRの「Who'll Stop The Rain」(00:05:34~)と映画「イージー・ライダー」のテーマ曲「Ballad Of Easy rider」(02:33:35~)について述べられた部分を次に引いて置く。二つの曲の記述のそれぞれの後には、退役軍人達がどのような思いをこれらの歌に託していたのかを考える上で、参考になると思われるので拙訳を付けて置いた。以上を頭に入れて置いた上で、この音源を聞いて頂ければ、必ずやこの感動的なコンサートの意義をより深く理解することが出来るものと信ずる次第である。



「みんな、少しの間聞いてくれ。今晩俺たちがここに来たのは、ベトナム戦争で戦った男や女のためなんだ。きのう俺は幸運にも何人かの人たちと会った。でも変だったよ。俺は大勢の人たちの前に出て行くのは馴れっこのはずなのに、緊張して、どういうふうに声をかけたらいいのかちょっとどぎまぎしてしまったからなんだ・・・
 まるで、暗い夜道を歩いていて、暗い路地裏で誰かがケガしてたり殴られてるのが目の端に見えても、自分には関係のないことだし、ただ家に帰りたいからといって通りすぎていくみたいなもんだ・・・
 つまり、ベトナムはこの国じゅうをその暗い路地裏にしちまったんだ。もしも、その暗い路地裏を歩いて、そこに倒れている男や女の目をじっと見ることができたら、俺たちはそそくさと家に帰ることなんか決してできやしない・・・だから今がその唯一のチャンスなんだ。」
「みんな!そこにいる十八か十九のみんな・・・一度あったことはまたあるかもしれないんだ」
「だから」「言いたいのは、現場へ行って見てこなくちゃだめだってことだ。今日はここにそのやさしい一部分がある。今日ここに来られなかったけど、毎日毎日その苦しさを背負って生きている人たちが大勢いるんだ。あるいはアメリカに帰ってきたのに、死んでしまって、今日ここに来られなかった人達も大勢いる。だから君たちにはほんの数分間注目して、俺の友達の話を聞いてほしいんだ。ボブ・モーラーっていうベトナムの復員軍人だ。」



「今晩ここに来られてとても興奮しています。」「ベトナム復員軍人にとっては最高の晩です。あなたがたはベトナム復員軍人のことはあるいは聞き及んでいるかもしれませんが、それが一体どういうことなのか本当にわかっておられないでしょう。ごくごく簡単なことです。ベトナムの悲劇にまつわる大きな論争があり、大きな苦しみがあったのです。ですから、多くの人はそれを忘れようとし、それは起らなかったのだというふりをしようとしてきました。ベトナムで命を失った五万五千人のアメリカ人の家族にとってはそれでは困ります。その戦争で負傷した三十万人にとってはそれでは困るのです・・・・
 しかし、今日はベトナムを取り巻いていてきた沈黙に終止符を打つ第一歩なのです。」
「今日のこのコンサートは、全国で長年にわたり一生懸命頑張ってきたすべての人たち―たとえば、ロサンゼルスの”シャッド・メシャッズ”の人たち、”退役軍人の権利センター”などの退役軍人センターのチーム・リーダーのみなさん、そしてベトナム復員軍人全員を一つに集結させる始まりなのです。そして、このことによって、きっとプログラムが立法化され、ベトナム戦争が二度とあってはいけないという教訓になると信じております」
「最後にわたしは言わねばなりません。我々が努力してきた何年もの間、業務が立ち行かなくなり、政治的リーダーたちが我々を支援してくれなくなった時、また我々の世代の中にもあった戦争に対する意見の対立を思い出す時、我々を一つに集結させ団結させたのが結局、我々の世代のシンボルであるロックン・ロールだったというのはいささか皮肉です。しかもそのロックン・ロールが、みんなの必要としていた傷を癒すプロセスを与えてくれたのです。
「話はこのへんにして、いよいよ行こうじゃないか、さあ、ロックン・ロールの時間だ!」



「すばやく、Eストリート。バンドが位置につき、ブルースがマイクの方につかつかと歩いて行った。そして彼らはすばやくカウントをとると、ジョン・フォガティーの<Who'll Stop The Rain>を打ち鳴らした。この曲はおそらくウッド・ストックについて書かれたものだが、ベトナム復員軍人の間では国歌として使われていた。」

Long as I remember
The rain been comin' down.
Clouds of myst'ry pourin'
Confusion on the ground.
Good men through the ages,
Tryin' to find the sun;
And I wonder, Still I wonder,
Who'll stop the rain.

覚えている限り ずっと雨が降り続いている
不思議な雲から土砂降りが
地上は大混乱だ。
老いも若きも善良な人々は
太陽を探してる
僕はずっと考えている、そして今も考えている
誰がこの雨を止めるのだろうかと

I went down Virginia,
Seekin' shelter from the storm.
Caught up in the fable,
I watched the tower grow.
Five year plans and new deals,
Wrapped in golden chains.
And I wonder, Still I wonder
Who'll stop the rain.

バージニアに下りていった
嵐からの隠れ家を探して
御伽噺の世界に取り込まれ
高層ビルが林立し
5カ年計画とニュー・ディール政策で
金の鎖がキラキラ輝いている
僕はずっと考えている、そして今も考えている
誰がこの雨を止めるのだろうかと

Heard the singers playin',
How we cheered for more.
The crowd had rushed together,
Tryin' to keep warm.
Still the rain kept pourin',
Fallin' on my ears.
And I wonder, Still
I wonder Who'll stop the rain.

多くの歌手が歌うのを聞いた
何度アンコールを送ったことだろう
人々は身を寄せ合い
暖を取ろうとした
まだまだ土砂降りは続いている
僕の耳にも降りかかる
僕はずっと、ずっと考え続けてる
一体だれがこの雨を止められるのかと。




「バンドが最初のアンコールでステージに出て来た時、彼は別の音楽が流れる中でまたしゃべった。その曲はバーズの< Ballad Of Easy rider >だった。この曲もまた反体制的な目的で書かれた歌だったが、自分たち自身の歌を持たない退役軍人に好まれていた。ロジャー・マッギンとボブ・ディランのわかりやすい歌詞はほとんど何も言っていなかった。しかし、この歌はそこで知るべきすべてを物語っていたのだ。」

Ballad Of Easy rider

The river flows
It flows to the sea
Wherever that river goes
That's where I want to be

河は流れ
海へと辿り着く
河がどこへ流れて行こうと
そこが僕の行きたい場所なんだ

Flow river flow
Let your waters wash down
Take me from this road
To some other town

滔々と流れる河よ
その勢いで洗い流してくれ
俺をこの道からどこか他の町へ連れて行ってくれ

All he wanted
Was to be free
And that's the way
It turned out to be

彼がひたすら求めたものは自由になることだった
そうさ それが道しるべ
彼が求めたのものは

Flow river flow
Let your waters wash down
Take me from this road
To some other town

滔々と流れる河よ
その勢いで洗い流してくれ
俺をこの道からどこか他の町へと連れ去ってくれ

Flow river flow
Past the shaded tree
Go river, go
Go to the sea
Flow to the sea

滔々と流れる河よ
木々の陰を縫って
勢い良く流れてゆけ
海に向かって進むんだ
海に向かって流れて行け

The river flows
It flows to the sea
Wherever that river goes
That's where I want to be

河は流れ
海へと辿り着く
河がどこへ流れて行こうと
そこが僕の行きたい場所なんだ

Flow river flow
Let your waters wash down
Take me from this road
To some other town

滔々と流れる河よ
その勢いで洗い流してくれ
俺をこの道からどこか他の町へ連れて行ってくれ



 ここで「グロリー・デイズ」からの引用で強調して置いた部分の言わずもがなの要約をすれば、フォーク・ロック音楽が与かって大きな力があった反ベトナム戦争運動は、アメリカ社会に大きな禍根を残したと言わなければならない。誤解の無いように念を押して置くが、私が言っているのは、ベトナム戦争の禍根ではなく、ベトナム反戦運動の禍根である。この運動の「love & peace 愛と平和」というスローガンがその光であったとするなら、その陰はベトナム退役軍人 Vietnam Veterans であったと言うことが出来る。帰国したアメリカで、精神的肉体的に傷ついていた彼らを待っていたものは、国の為に戦った英雄としての賞賛ではなく、非難や嘲笑や彼らをまるでゴミ屑のように扱う冷遇であった。「アメリカ国民は復員兵の事情をちっとも知りたがっていなかった。」そして、モーラーの「いささか皮肉です」という言葉が示す様に、フォーク・ロックはその風潮に加担さえしていたと言っても過言ではない。むしろ「反戦運動とともに歩んだロックの歴史は復員軍人に対する敵意を匂わせていた」訳である。そういう社会状況の只中において「ボーン・イン・ザ・USA」は発表されたのである。この点を踏まえて見れば、以下、再度歌詞を挙げるが、この歌がどういう歌であるのかは、私には誤解の余地はないと思われるが、どう思われるであろうか。

 それにしても、この曲をボブ・モーラーはどんな思いで聴いていたのであろうか。Vietnam Veterans は、どんな思いで聴いていたのであろうか。



「Born In The U.S.A.」

Bruce Springsteen - Born in the U.S.A.


Born down in a dead man's town 
The first kick I took was when I hit the ground 
You end up like a dog that's been beat too much
Till you spend half your life just covering up 

Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.

死んだも同然の生気のない町に生まれ
物心付いたときから蹴飛ばされてきた。
殴られ慣れた犬みたいに、一生を終えるしかない
身を守ることに、ただ汲々としながら。

俺はアメリカに生まれた
俺はアメリカに生まれた。

Got in a little hometown jam so they put a rifle in my hand 
Sent me off to a foreign land to go and kill the yellow man

Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.

俺は町で小さな問題を起こした。
彼らは俺の手にライフルを握らせ
外国へ送り込んだ
黄色人種を殺すために。

俺はアメリカに生まれた
俺はアメリカに生まれた。

Come back home to the refinery 
Hiring man said "Son if it was up to me" 
Went down to see my V.A. man 
He said "Son, don't you understand now"

故郷に戻り、精油所を訪ねて行った。
採用担当は言った、「私の一存では何とも」
退役軍人管理局へ行くと
係りの男は言った、「まだ分からんのかね」

I had a brother at Khe Sahn
Fighting off the Viet Cong
They're still there, he's all gone

He had a woman he loved in Saigon
I got a picture of him in her arms now

俺の達仲間はケ・サンでヴェトコンと闘った
彼らはまだ生きているが、あいつは死んだ
あいつの惚れた女がサイゴンにいた
彼女に抱かれたあいつの写真を今も持っている

Down in the shadow of the penitentiary 
Out by the gas fires of the refinery 
I'm ten years burning down the road 
Nowhere to run ain't got nowhere to go 

Born in the U.S.A., I'm a long gone daddy in the U.S.A. 
Born in the U.S.A., I'm a cool rocking daddy in the U.S.A.

刑務所の建物の影で
精油所の燃え盛るガスの炎の近く
俺は10年間、煮えくり返る思いで生きてきた
どんづまりだ、もうどこにも行くところはない

俺はアメリカで生まれた
俺はアメリカでは存在しないも同然の人間だ
俺はアメリカで生まれた
俺はアメリカでは誰も近寄りたがらない厄介者のロック親父だ※


※ a cool rocking daddy はイケてるロック親父といった直訳も見かけるが、文脈から言って否定的な意味も含めて訳すべきであろう。coolには無愛想なという用法があり、rocking にはrocking the boat(事を荒立てる)やa cat in the room full of rocking chairs(ロッキングチェアでいっぱいの部屋に入れられた猫が、非常に神経質になっているということから、いても立ってもいられない、慌てふためいているという比喩)のニュアンスがあるように思う。要は「様々な負の感情を喚起させる」といった意味に私は解釈した。つまり、最終的にここのところは前にある
「Come back home to the refinery 
Hiring man said "Son if it was up to me" 
Went down to see my V.A. man 
He said "Son, don't you understand now"」
という歌詞のパラフレーズだと私は解釈した訳である。そして、近くは直前の「I'm a long gone daddy」と、さらに遠くは出だしの
「Born down in a dead man's town
The first kick I took was when I hit the ground 
You end up like a dog that's been beat too much
Till you spend half your life just covering up 」
とも内容的に呼応している筈である。そうはいっても上手く日本語にはならないので、ここはブルース本人に降りてきてもらって憑依して貰い、思い切り意訳することにした次第である(笑)。またここには、ブルースの暗黙の意図として、こんなになってしまったロック大好き人間のこの俺を、一体現在のロックはどう思うのか?といった問いかけがあるのではないかと言ったら、深読みに過ぎると言われるであろうか。



 確か、このアルバムの売れ行きの勢いを買ってであろう、「成りきりボーン・イン・ザ・USA」なるカラオケCDが日本では発売されたが、スプリングスティーンがベトナム退役軍人に成りきって歌っていることは明らかであろう。この曲で、ブルースはベトナム退役軍人の窮状を、その煮えくり返る思いをこぶしを振り上げて歌っているのである。そのようにベトナム退役軍人に成りきるため、以前は痩せていたヤサ男が、体を鍛え体重を増強し筋肉隆々のマッチョマンに変身しさえした。後にそれを聞き及んだブラッドリー・クーパーが「アメリカン・スナイパー」のため、同じく体を鍛え体重を十八キロも増強して役に臨んだのは記憶に新しい所である、というのは勿論冗談だが、本当の所はブルース本人に聞いてみないと判らないにしても、当たらずとも遠からずではないかと私は思っている。ともあれ、これを単なる反体制ロックや反戦ロック、或は村上春樹氏の言うようにワーキング・クラスの声を代弁したロックと見るのは、いささか筋違いであろう。むしろ、それらは旧態依然たるステレオ・タイプな「love & peace 愛と平和」のフォーク・ロックの考え方や見方の延長線上でこの曲を捉えることであって、返って逆にこの歌で逆説的アイロニカルに歌われている「アメリカ」の中に内包されてしまうことになろう。これはどういうことかというと、この批判糾弾されている「アメリカ」の中には、むしろワーキング・クラスでさえもが、その全部ではないにしても、含まれることになるのだと言ったら判っていただけるであろうか。勿論、同様に反体制反戦思想のフォーク或はロック周辺のミュージシャンやファンも、その全部ではないにしてもこの中に含まれることは言うまでもない。つまり、これも「いささか皮肉」であるが、それらはこの曲に対するアメリカ賛歌という誤解を言い募りながらも、その視線の向いているベクトルが異なるために、言い換えればその視線の先に在るものが異なるために、自身この曲が批判糾弾している対象の一部となってしまっているのである。

 ともあれこのアルバムは売れに売れ、アメリカ国内で1200万枚、全世界で2000万枚の売り上げを記録し、社会現象にまでなった。単なる音楽ブームに止まらず、社会的なインパクトを齎したと言って良いが、結局のところ、この異様なとも言い得るブームは、述べて来たように二段構えに階層化されている誤解と共にあったのであって、逆に言えば、そういった重層的な誤解があればこそ、あれほどのブームになりえたとも言うことが出来るのかも知れない。

 考えてみると、もうかれこれ三十年以上も経つというのも感慨深いが、今回改めて「ボーン・イン・ザ・USA」をググって、この曲について書かれた文章を幾つも読んでみたが、私にはこの曲に対する旧態依然の理解は依然として何も変わっていないように思われた。それでも中には素晴らしい文章もあって、一定の留保は附くものの大いなる共感をもって読んだ文章をここで挙げておこうか。


Masterpieces Born In The USA / Bruce Springsteen


「拳を振り上げてサビを歌う姿を見た、当時中学生だった私は、これはアメリカ賛歌に違いないと思った。「Born in the USA」と歌うことで、彼はアメリカ人であることを誇りにしているのだと思って見ていた。それだけに、歌詞を読んだときのショックは大きかった。こんな曲が大ヒットし、アルバムが爆発的に売れるって、どういうことなんだろう。しかもこの曲調は、どうにも今までのスプリングスティーンの作風とは違う。彼の書く曲、メロディは、全体がひとつの物語であるかのような流れを持っていた。しかしこの歯切れの悪い曲構成は何だろう。このスプリングスティーンの作品には場違いな、変に華やかなキーボードは、曲の流れを断ち切るような変に力強いドラムスは何だろう。そして、この歌い方。自分の感じたこと、思ったことを聴き手に語りかけるその口調は、ときに感情が盛り上がって叫んだり吠えたりするようになることはあった。しかしこの怒鳴るような、吐き捨てるような歌い方。
すべてが、今までのスプリングスティーンとは違う。

 この歌詞を見ていると、ある映画を思い出す。ヴェトナム戦争絡みの映画はたくさんあるが、その中でもとくに「The First Blood / ランボー」の印象と重なる。そういえば、「ランボー」も、シルヴェスター・スタローン主演の他の作品とはまったく違う独特の空気を持っている。マシンガンをばりばりぶっ放すヴァイオレンス・アクションという作りではあるが、どこにも行き場のないヴェトナム退役軍人を演じたスタローンは、他の作品では決して見せることのない重みを感じさせた。
華やかな音色で飾られた「Born In The USA」と、暴力アクションエンターテイメントとして作られた「ランボー」。どちらも「売れ線」ではあるが、その底には非常に重いテーマが流れているという点でも共通している。」 


 ブラボー!いや、素晴らしい!だが、残念なことに、やはりこの方もこのアルバムの主題を微妙に捕まえそこなっているようだ。シングル・カットの選曲の意図もそうだし、何よりも楽曲の理解が「Cover Me」にしたって、「Darlington County」にしたって、いや「Dancing In The Dark」「Working On The Highway」「Downbound Train」「I'm On Fire」「No Surrender」「Bobby Jean」「Glory Days」「My Hometown」総ての曲が、直接間接に「ヴェトナム退役軍人」という視点から語られていると言う理解はここには一切見られない。


「「Cover Me」は今までのスプリングスティーンにはなかったタイプのメロディラインで、ちょっとこれを第2弾シングルってのはないんじゃないの?という感は否めない。

ハードな世の中だ
そしてますますハードになっている
厳しい世の中だ
そしてますます厳しくなっている
守ってくれ
カモン、ベイビー、守ってほしい
俺を優しく守ってくれる人を捜しているんだ...

こんな感じの激しい調子のラヴソングなのだが、どうだい、この陳腐さは。そこいらの高校生にも書けそうな詞を、なぜ彼がわざわざ作品として世に出したのかがわからない。」



 日本版Wikiのボーン・イン・ザ・U.S.A.を見ると「その歌詞は、アメリカ人のベトナム戦争の影響を扱ったものだったが」と説明としては隔靴掻痒、判ったようでいて判らない書き方をしているが、「ライブでの演奏とその後のバージョン」という項目があって、ブルース本人の誤解に対する試みとして、幾つかのバージョンによる試行錯誤の過程が綴られていて興味深い。ここではそれらの内の三つの異なったバージョンを挙げるが、私はニつ目の感動的な熱唱が最もこの曲に相応しいように思うが、どう思われるであろうか。最後に挙げた2005年の映像は、「エフェクターによって音が増幅されボーカルは歪められ、その演奏は不可解ではあるが耳には鋭く残った」とこれまた良く判らないコメントが付されているが、この曲の誤解に対するブルースの怒りが、殆どこの曲を破壊或は解体してしまう寸前のぎりぎりの処で辛くも成立している、危くも凄まじいパフォーマンスであると思うのは私だけであろうか。ブルースは、ゴリラの様にドンドンと足を踏み鳴らし、その振動で水差しがテーブルから落ち、粉々に砕け散っているのが見て取れる。


Springsteen - Born in the USA [Acoustic]


Vietnam Veterans remembered Born In The USA


Bruce Springsteen - Born In The USA (2005) (bullet mic)



 発売から二十年も経った2005年においても、こういった新たなバージョンが更新され続けるという異常な事態の理由は、Wikiにあるように1995年から1997年の「ゴースト・オブ・トム・ジョード」ツアーでのブルース自身の発言が端的に示していると思われる。自分は曲が誤解されていることにいまだに納得しておらず、作曲者として「これを最後にしたい」と。

 これはどういう事かというと、この歌をアメリカ賛歌と見る方の判り易い誤解が雲散霧消した後も、もう一つの誤解の方は執拗に付き纏って離れないまま、二十年という歳月を閲し、現在もなおそれが存続いているという事実を示していると私には思われる。ブルースの苛立ちの根底にあるのものは、ベトナム退役軍人の実情が、いやベトナムだけではなくさらにそれにアフガニスタンやイラクの退役軍人が加わり、事態は依然として変わってはいないという認識であろう。いや、むしろ一層悪化していると言うべきであろうか。


 さて、ブルースの転機となった社会的なコミットメント、その批評性について的を絞って述べて来たので、いささか堅苦しく深刻な記述に傾き過ぎた嫌いがないでもないが、この点はこれ以降の彼を理解する上での分水嶺となるクリティカル・ポイントでもあるので仕方がないとも言える。先の1981年のベトナム戦争帰還兵のためのチャリティー・コンサート全編を通して聴いて頂いた方や旧知のボス・ファンには承知のことだが、ブルースの音楽はこういった楽曲に尽きる訳ではないのは勿論の事である。現在では、幸いにも彼の全盛期のライブ・パフォーマンスの映像が幾つか見られるようになったので、最後に紹介することでもってこの文章を終わりにしたいと思う。ケレン味たっぷりのロックン・ロール・ショーを堪能あれ!

Bruce Springsteen - Thunder Road


Cadillac Ranch (The River Tour, Tempe 1980)


Ramrod (The River Tour, Tempe 1980)

You Can Look (But You Better Not Touch) (The River Tour, Tempe 1980)


I Wanna Marry You (The River Tour, Tempe 1980)


Jungleland (The River Tour, Tempe 1980)


The River (The River Tour, Tempe 1980)






意味がなければ、シャウトはない (1)

2018-02-26 00:00:00 | Bruce Springsteen


 今、丁度この本を読み終わったところである。この本を手にした理由は、マイ・フェイバリッツ・ミュージシャンの一人という事もあるが、本になるのに7年もの歳月をかけたという事実に興味を惹かれたからでもある。かなり売れているようで、全米全英共にトップ・ベストセラーになったとか。なかなかと読ませる文章で、生い立ちやキャリアのスタートからその時々に彼がどの様な事を考えて来たのか、興味深い事実と共にロック・スターらしからぬ(?)ウィットに富んだ文体で明晰に描かれている。単なる功成り遂げた著名人の自伝に留まらない魅力を持った本であると言っても贔屓の引き倒しにはならないであろう。ACKNOWLEDGEMENTSにあるMary.Macというのがアシスト・ライターのことなのかパソコンの愛称なのか不明だが、7年掛かったというから、総て彼自身の手になるという謳い文句を文字通りにとって差支えなさそうだ。ブルースは文才にも恵まれているようだ。

 だが、この本独自の魅力は魅力として、クリエイターの本として見た場合、彼もまた「しゃべれないけど、歌えるよ」というミュージシャンの一人であるという感想を私は持った。結局のところ、楽曲から伺われる彼のイメージの方がより明確でもっとエッジが立っていると思われた訳である。FOREWORDには「ever elusive,never completely believable "us"」ともあるが、この本には、そこからはみ出すような、それとはまた違ったブルースの一面が、特に描かれているようには思われなかったというのが私の率直な感想である。これは突き詰めて考えるとなかなかと難しい問題であるが、最終的にこの本もまた彼の楽曲=作品の注釈の域を出るものではないという感想を持ったと言い換えても良い。例えば、後で述べるように「ボーン・イン・ザ・USA」という曲が、どの様な経験や経緯から彼がこういう曲を作ったのかは伝記からは判るにしても、それがどのようにして現在、結果として我々の目の前にあるような作品になったのかという事までは判らない。そこには創造という一種の精神の飛躍があるからだ。当たり前と言えば当たり前だが、この精神活動における創造の秘密は伝記事実を幾ら積み上げても決して判らない。それはただ結果として、即ち出来上がった作品として我々は享受するしかないのであって、この意味では「作者というものはただ作品の結果としてのみ存在する」という私の倒錯した考えを、今回の読書は今さらながらに確認する恰好となった訳だが、この際改めて「作品から伺われるブルース・スプリングスティーン」という「作者」についての考えを文章にして明確にして置きたいと思ったのも事実である。それがこの文章を書くに至った理由であると言えば言えようか。

 まず私の基本的なスプリングスティーン観を述べたものとして、いささか気恥ずかしいが若書きの文章をここで引用したいと思う。これはBorn to Run 30th Anniversary Edition が発売された時に書いたものである。



※   ※   ※





Born to Run 30th Anniversary Edition


今回も番外編で、思わず
うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっー!
と叫んでしまう、ファンにとっては何ともうれしい意外な贈り物であります。しかし、こういった何十周年記念アイテムが出ると、ホイホイと買ってしまうのは、確実に懐メロ世代になりつつある兆候かも・・・・うーん(笑)。

以下は、一ファンのいささか興奮気味の感想です。妄言多謝!

 ブルース・スプリングスティーンと言っても、最近では「知っている人は知っている。知らない人は覚えてね。(C)伸介」程度の知名度しかないだろうが、今回取り上げたアイテムは未発表映像DVDが二つ付いていて、むしろそちらの方が売りになっている。その一つはBorn To Run Tour のロンドン、ハマースミス・オデオンでの映像ということだが、こんなとんでもないものが残っていようとは!

 スプリングスティーンがメジャーになったのは、ライブ・パフォーマーとしては全盛期を過ぎてからなので、映像化されたライブ映像やビデオ・クリップも昔からのファンには今ひとつという感は拭えなかったのだが、その渇を癒す感涙もののライブ映像であります。この映像の再現には相当苦労したようだが、75年と言う年を考えると素晴らしいクオリティーのスプリングスティーンのライブが体験できる。暗闇の中からお馴染みの印象的なピアノのイントロが聞こえ、ピアノ、ブルース・ハーモニカ、グロッケンシュピールと言うのか知らん、鉄琴のアレンジだけのThunder Roadが始まると、後はもうスプリングスティーンとE・ストリートバンドの圧倒的なパフォーマンスから眼を離すことが出来ない。「売り出し中」のミュージシャンのエネルギッシュなライブが丸々二時間、後に伝説となった彼のライブ・パフォーマンスの片鱗を窺うことが出来る。驚くのは、すでに自作曲からデトロイト・メドレーやOuater To Threeへというお馴染みの構成が見られることで、彼のライブは、当初から一般に思われているよりも遥かに緻密に計算されショウアップされたものだった事がわかる。何とピアノの弾き語りまで披露しているのには、あっと驚いてしまった。

いやあ、それにしても凄いライブ映像だった!


Bruce Springsteen Thunder Road

 

かってこんな文章を書いたことがある。 

「僕がはじめてスプリングスティーンに、出くわしたのは、スプリングの頃だった。確か***スティーンになったばかりだった。その時、僕は、通りをあてもなくぶらぶらとクルージングしていた、と書いてもよい。突然、向うからやって来たピンクのキャディラックに激突され、降りてきた見知らぬ革ジャンの男が、いきなり僕をフェンダー・テレキャスターで叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。或る深夜、ラジオから偶然聞こえて来たHungry Heartに、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。しかも、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない理解力なぞ殆ど問題ではないくらい敏感に出来ていた。歌は見事に炸裂し、僕は、数年の間、スプリングスティーンという事件の渦中にあった。」

Got a wife and kids in Baltimore Jack
I went out for a ride, and I never went back
Like a river that don't know where it's flowing
I took a wrong turn and I just kept going

ボルチモアに女房と子供がいた。
ふらりと車で出かけ、二度と戻らなかった。
何処へ流れていくとも知れぬ川のように
曲がる方角を間違がえても、そのまま進み続けた。

Everybody's got a hungry heart
Everybody's got a hungry heart
Lay down your money and you play your part
Everybody's got a hungry heart

誰もが満たされぬ飢えた心を持っている
誰もが満たされぬ飢えた心を持っている
賭金を張り、自分の役を演じても
誰もが満たされぬ飢えた心を持っている

Bruce Springsteen - Hungry Heart



 安物のラジオからこの曲が聞こえて来た時、大した英語の語学力の無い青年にも、その歌詞の意味が全くの違和感なく日本語と同じように頭の中に入り込んで来た。雷に打たれたような衝撃が全身を走り、自然と涙が溢れた。それは感動と言うよりは、何かしら、高速で回転する巨大な質量に体の一部が触れ、吹き飛ばされてしまった一種の接触事故とでも言った方が当たっているのかもしれない。この事故で負った重度の傷害に対する集中治療カルテは、彼のレコードを総て買い込み、連日諳んじるほどに聞き込み、ギターを習い曲を覚え、それでも飽き足らずブートレッグを買い漁り、また聞き込んではひたすら曲をコピーする、というものだった。今となっては懐かしい気持ちが先立って、その時には何を考え何を感じていたのか良く思い出せないのは青春の常だろうが、はっきりと言えるのは日々の生活の中で自分の感じ思い描いていたぎりぎりの人間と言うものが彼の作品には描かれていたという事だ。当時の自分にとって彼の作品は、脳天気なビートルズの曲よりも遥かにリアルだったし、高踏的なディランの曲よりも遥かに切実だった。ストーンズなんかは、不良を売りものにした体のいい商品としか思えなかった。青春の偏執とは恐ろしいものである。

 彼の作る曲には、アメリカの風景が鮮やかに切り取られていて、その中に紛れも無い自分と同種の人間が描かれていると思った。確かセブン・イレブンを初めて知ったのも彼の曲でだったと思う。ざらりとしたリアリティーを与えているこういった風俗描写を背景に、彼の作品に描かれているものは、日本のロック・ミュージックによくあるような、ロックンロールのリズムに乗って疾走し、それによって得られるある種の仮構された共有意識や精神的高潔さといった類のものではなく、それらとは全く成り立ちを異にしているもっと現実の生活に根ざした切迫した意識や精神の有り様だ。そこに描かれているのは、国家や社会、家族や友人、仕事といったあらゆるものから孤立し、ある意味でどこにも行くことができない人間だけが持つ、真実や希望という言葉には簡単に置き換えることが出来ない、ある本源的な精神の持つ希求性だと言ってもいい。彼ほど、それらを際立った輪郭を持つ陰画の内に筋金入りのリリシズムでもって歌い上げた者はいない。恐らく今後もいないだろう。

「Racing In The Street」

I got a sixty-nine Chevy with a 396
Fuelie heads and a Hurst on the floor
She's waiting tonight down in the parking lot
Outside the Seven-Eleven store
Me and my partner Sonny built her straight out of scratch
And he rides with me from town to town
We only run for the money got no strings attached
We shut `em up and then we shut `em down

Tonight, tonight the strip's just right
I wanna blow `em off in my first heat
Summer's here and the time is right
For goin' racin' in the street

フュエリーのシリンダー・ヘッドとハーストのフロア・シフトを奢った6.4リッターの69年型シボレーを持っている。
今夜、そいつはセブン・イレブンの駐車場で時間をつぶしている。

俺と相棒のソニーで、一から組上げたんだ。
二人で、町から町へ移動し
俺たちはただ金のためにレースをする、
それ以外のしがらみは無い。
そして、ぐうの音も出ない程、相手を打ち負かす。
今夜、通りはレースにうってつけだ。
最初からぶっちぎってやる。
夏になって、お誂え向きの季節になった
ストリートでレースするのには。

・・・・・・・・・

I met her on the strip three years ago
In a Camaro with this dude from L.A.
I blew that Camaro off my back and drove that little girl away
But now there's wrinkles around my baby's eyes
And she cries herself to sleep at night
When I come home the house is dark
She sighs "Baby did you make it all right"
She sits on the porch of her daddy's house
But all her pretty dreams are torn
She stares off alone into the night
With the eyes of one who hates for just being born
For all the shut down strangers and hot rod angels
Rumbling through this promised land
Tonight my baby and me we're gonna ride to the sea
And wash these sins off our hands

Tonight tonight the highway's bright

三年前レース・ウェイで女に会った。
L.A.から来た男のキャメロに乗っていた。
キャメロを破り、俺は彼女を奪い去った。
しかし、今、彼女の眼の周りにはしわが浮き、
夜は泣きながら眠りにつく。
俺が家に帰ると、内は暗く彼女は呟く、
「今日のレース、どうだったの?」と。

父親の家のポーチに彼女は座り
美しい夢は皆擦り切れ、生まれたことを呪う者特有の目で
一人夜の中を見詰めている。

この約束の地を、轟音を立てて走り抜けていく敗北した見知らぬ奴らとホット・ロッドの天使総てのために
今夜、彼女と俺は海へ行き、今までの罪を手から洗い落とそう。
今夜、今夜はハイウェイは輝いている
邪魔しないで脇にどいていてくれ
夏になって、お誂え向きの季節になった
ストリートでレースするのには


Bruce Springsteen - Racing In The Street (live in Houston 1978)


 フラナリー・オコナーの影響の下に作られた衝撃的な『ネブラスカ』の発売後、何年か経って『ボーン・イン・ザ・USA』が発売された。そのツアーで彼がこの極東の島国にもやって来るという話が伝わってきた。コンサート・チケット発売日直前まで迷っていたが、結局買うのを止めてしまった。それまでは一部の熱狂的なファンはいてもビル・ボードヒットも数えるほどしかなかったのが、このアルバムでスプリングスティーンは、一気にブレイクし、メジャーになった。シングル・カットも軒並み初登場一位で、確か同一アルバムからのシングル・カット初登場一位の連続記録を作ったと記憶している。メガ・ヒットという言葉も確かこの時覚えた。しかし、私にはどうにも気に入らなかった。よくある、成功してしまったミュージシャンに対する昔からのファン特有の捻くれた心情かもしれない。このアルバムに対する違和感がどうにもあったからだ。正確に言うと、メガ・ヒットになったことで、マスコミがこの違和感をいっそう増幅させているように思えたことだ。或はマスコミが増幅させたから、メガ・ヒットになったという事なのかも知れない。それは来日時のコンサート評で、「ボーン・イン・ザ・USA」が演奏され、「born in the U.S.A.」というサビ・フレーズに、会場全体が一体となって一斉にこぶしを振り上げ、大合唱になったという絶賛の文章を読んだ時、現実となった。

昔からのファンの予感は的中したのである。

Born down in a dead man's town 
The first kick I took was when I hit the ground 
You end up like a dog that's been beat too much
Till you spend half your life just covering up 

Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.

Got in a little hometown jam so they put a rifle in my hand 
Sent me off to a foreign land to go and kill the yellow man

Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.


死んだも同然の生気のない町に生まれ
物心付いたときから蹴飛ばされてきた。
殴られ慣れた犬みたいに、一生を終えるしかない
身を守ることに、ただ汲々としながら。

俺はアメリカに生まれた
俺はアメリカに生まれた。

俺は町で小さな問題を起こした。
彼らは俺の手にライフルを握らせ
外国へ送り込んだ
黄色人種を殺すために。

俺はアメリカに生まれた
俺はアメリカに生まれた。


「Born In The U.S.A.」

Bruce Springsteen - Born in the U.S.A.



 この歌詞に対して、アメリカ人と同じようにこぶしを振り上げるという行為は、日本人として一体どういう意味をもつのかという自覚の有無の問い掛けも、暖簾に腕押しであろう。恐らく、他の来日ミュージシャンと同じように、スプリングスティーンも単に今流行のトレンドとして消費されたのに過ぎない。大体、『BORN TO RUN』という彼のサード・アルバムのタイトルにしてからが、『明日なき暴走』になってしまう国なのだから。恐らく、この「ボーン・イン・ザ・USA」という曲の価値とは、そのストレートなロック・サウンドと歌詞のギャップにあると言って良いのだろう。ヴィジュアル的にも、この時の彼は腕を組むのにも苦労するほどに鍛え上げたマッチョな肉体をしていたが、いかにもロック然とした高揚感を持つ楽曲と逆説的な歌詞の組み合わせという、ある意味で誤解をも武器にしていく作品構造になっている。だが、その誤解は、このアルバムがメガ・ヒットとなり、アメリカで社会現象にまでなり、自身がAmerican Icon と化した時、作者の想像の範囲を遥かに超えた処まで進んでしまったのではないか。何を勘違いしたか、このアルバムでワールド・ツアーを組むという愚行もこれを助長したと私には思われる。違和感といったのはこのことだ。 

 その後の彼は、スターに登り詰めたミュージシャンの典型的とも言える行動に出る。長年連れ添ったバンドを解散して一人立ちし、(勿論、その後すぐに離婚する事になるのだが)ファッション・モデルと結婚までしてしまった。「ああ、ブルースよ、お前もか!」と思ったのはジュリアス・シーザーだけではあるまい。最も、彼自身この事に気付いていなかったはずはない。聞くところによると、精神科のカウンセラーにまで通ったと言う。そのことは、その異常とも言える人気の高騰やセールスの好調とは裏腹に、何よりこれ以降のアルバムの低迷、楽曲の試行錯誤が如実に物語っていると思われる。彼にとって、百鬼夜行の日々が続いたのであろう。デイブ・マーシュによると『ボーン・イン・ザ・USA』は、第二の『ネブラスカ』になる危険を孕んでいたということだが、むしろ、ならなかった危険の方が大きかったのではないか。最近の彼は、主にアコースティック・スタイルでしか『ボーン・イン・ザ・USA』を演奏していないが、この事実はそのことを黙示的に示していると私には思われてならない。

彼はアルバムLUCKY TOWNの中のLocal Heroで、こうした自らの姿を曲に描いている。

I was driving through my hometown
I was just kinda killin' time
When I seen a face staring out of a black velvet painting
From the window of the five and dime
I couldn't quite recall the name
But the pose looked familiar to me
So I asked the salesgirl
・・・・・
She said "Just a local hero"
"Local hero" she said with a smile
"Yeah a local hero he used to live here for a while"

ホーム・タウンを暇つぶしにドライブしていたら
ファイブ・アンド・ダイムの店先で
黒いビロードの絵の中の顔がこっちを見つめていた。
名前をどうしても思い出せなかったが
見覚えはあった。
・・・・
あの男は誰か、と店員に聞くと
ローカル・ヒーローよ、と彼女は笑って答えた。
ローカル・ヒーローよ、この町にしばらく住んでいたわ。

・・・・・
They get their local hero
Somebody with the right style
They get their local hero
Somebody with just the right smile

ヒーローを待望している連中は手に入れることになる
ローカル・ヒーローを
それにぴったりと相応しい人物を。
ローカル・ヒーローを
それに相応しく笑う人物を。

Well I learned my job I learned it well
Fit myself with religion and a story to tell
First they made me the king then they made me pope
Then they brought the rope

俺は仕事を覚えた、とても上手く
宗教や作り話を信じるふりをしたら
先ず王様にされ、それから教皇にされた。
そして最後には絞首刑のロープが待っていた。

・・・・・
Needs a local hero
Somebody with the right style
Lookin' for a local hero
Someone with the right smile
Local hero local hero she said with a smile
Local hero he used to live here for a while

彼らは探している
ローカル・ヒーローを 
それにぴったりと相応しい人物を。
ローカル・ヒーローを 
それに相応しく笑う人物を。

ローカル・ヒーローよ、と彼女は笑って答えた。
ローカル・ヒーローよ、この町にしばらく住んでいたわ。

「Local Hero」




 彼の日本のミュージシャンに与えた影響はと言えば、佐野元春、浜田省吾、大友康平、尾崎豊、長渕剛とこの他にも多くの名前が挙がるようだけれど、大胆な言い方をすれば、その影響は表面上の音楽スタイルの模倣に留まり、ロックという音楽様式に内在するこの批評精神を受け継いだのは、恐らく皆無に等しい。日本のロック・ミュージック・シーンでこうした批評精神を持ったミュージシャンが現れるのは、ブルー・ハーツの登場まで待たなければならなかった、そう言っても過言ではないと私は思う。それ程、内にロック魂を蔵したミュージシャンというものは稀なのだと言えようか。

※   ※   ※



 次に、村上春樹氏のスプリングスティーンについて述べた文章を引くが、それは私のスプリングスティーン観と対比して述べるのに誠に好都合な文章であるからである。なんと言っても世界のハルキ・ムラカミですからね、相手にとって不足はない(笑)。或は、同様の趣旨を述べた文章だと取られる方もいるかも知れないが、私には氏の文章は違和感を覚えずには読めない文章である。



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「ボーン・イン・ザ・USA」は日本においてもアメリカにおいても、往々にして、単純なアメリカ礼賛の歌として捉えられているようだが、実はこの歌の内容もかなり殺伐としたものだ。こんな歌が数百万枚を売るヒット・シングルになったということ自体、ちょっと信じられないくらいだ。ロック音楽史上で、これくらい誤解を受けた曲もないかも知れない。歌詞はこんな内容だ。


救いのない町に生れ落ちて
物心ついたときから蹴飛ばされてきた。
殴られつけた犬みたいに、一生を終えるしかない。
身を守ることに、ただ汲々としながら。

俺はアメリカに生まれたんだ。
それがアメリカに生まれるということなんだ。

・・・・・・・・・


 しかし人々はなぜか、その歌詞の内容にはほとんど関心を払わなかった。たぶんブルース・スプリングスティーン特有の叩きつけるようなしゃがれ声の歌唱のせいで、アメリカ人にとってさえ歌詞の内容を聞き取るのが簡単でない、という事情もあるのだろう。しかしそれにしても、スプリングスティーンがその曲に込めた切実なメッセージは、社会的なレベルで大幅に見過ごされることになった。・・・・・

・・・・・・

 これまでスプリングスティーンの音楽を支えてきた忠実でハードコアな「ボスマニア」たちは、もちろんそのメッセージを即座に理解した。しかし「ボーン・イン・ザ・USA」というメガヒットによってほとんど初めて彼の存在を発見した一般大衆は、歌詞の内容を聞き流し、その曲を現象的に咀嚼した。ジャケット写真にあしらわれた巨大な星条旗も、誤解を生むひとつの要因となった。ブルースがそこに計算した逆説的でシニカルな implication (含み)は、巨大な消費トレンドの中で、なすすべもなく呑み込まれてしまった。そしてそれは皮肉というべきか、「レーガン時代」の始まりと時を同じくしていたのだ。ブルースの側の真意がどのようなものであれ、「ボーン・イン・ザ・USA」の商業的成功の多くの部分が、レーガニズム誕生を支えたのと同じエトスによって支えられていたことには、おそらく疑問の余地はあるまい。」(「ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ」『意味がなければ、スウィングはない』)

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 私がこの村上春樹氏の文章に覚える違和感は色々あるがーあえて引用しなかったが、例えば氏のお気に入りのレイモンド・カーヴァーとスプリングスティーンを強引に結びつけて論じている点やその商業的成功と創作的成功を意図的に混同して論じている点など色々とあるのだがー「スプリングスティーンは酒も煙草もドラッグもやらない」というのはご愛嬌にしても(飲酒については今度の本にも言及があって、これは又別の意味で興味深いが)、一番の私との違いは「Born In The U.S.A.」がなぜあれほどの商業的成功を収めたのかという理解の点で、決定的に見方が違うからだ。前の文章では、その事は当然の前提として明確には書いてはいなかったので、ここで明確にしておきたいと思うのであるが、村上氏はこの曲を「物語の開放性」という方法論によって、「ワーキング・クラスの抱えた問題をより広範な普遍的な問題として提示した」という様な非常に高級な議論でもって説明している。その事に異存はないにしても、それはこれまでの彼の曲総てに言える特徴であって、この曲はそれとは少しずれたところに位置している曲だと私は考えるのだ。後で述べるように、村上氏の目には見過されているものがあるのである。

私が何より違和感を覚えるのは、

「ロック音楽史上で、これくらい誤解を受けた曲もないかも知れない。」
「人々はなぜか、その歌詞の内容にはほとんど関心を払わなかった。」
「スプリングスティーンがその曲に込めた切実なメッセージは、社会的なレベルで大幅に見過ごされることになった。」
「しかし「ボーン・イン・ザ・USA」というメガヒットによってほとんど初めて彼の存在を発見した一般大衆は、歌詞の内容を聞き流し、その曲を現象的に咀嚼した。ジャケット写真にあしらわれた巨大な星条旗も、誤解を生むひとつの要因となった。ブルースがそこに計算した逆説的でシニカルな implication (含み)は、巨大な消費トレンドの中で、なすすべもなく呑み込まれてしまった。」

というような村上氏の捉え方で、私自身もこの曲が誤解されたことを認めるのにはやぶさかではないものの、少なくともアメリカ国内に置いては、幾らなんでもこれは言い過ぎであろう。日本などの異言語の外国においては兎も角、本国アメリカではこれ程歌詞の内容が顧みられないということはちょっと考えられないのではないかと思うのですがね、村上さん。ことアメリカ国内に限って言えば勿論誤解もあったであろうが、この曲は基本的には正当に理解され、その正当に理解されたという事その事自体が、正に商業的成功を収めた理由であると私は考えるのだ。この曲については、日本では村上氏の言うようにレーガンが演説で勘違いな言及をしたことが誤解の典型例として挙げられるのが殆ど常套的な紹介文のまくらになっているが、これなぞはこの曲を政治利用しようとしたレーガンの、というよりもむしろ彼のスタッフー恐らくはスピーチ・ライターによる単純なミス、内容の事実関係についての確認を怠った単なるテクニカル・ミステイクというだけの事例に過ぎないと取るべきであろう。それほどこの誤解には普遍性はないのではないかと私なぞは思うのであるが、まあ、洋の東西を問わず政治家とはそういうものであるとまで言ったら、言い過ぎだろうか。アメリカではこのレーガンの言及と並んで、アルバム「ボーン・イン・ザ・USA」のジャケットについては、ブルースが星条旗にオシッコを引っかけている様に見えるという評もあった訳で、その当否はともかくこういった評が出て来ること自体、その歌詞の内容は正当に理解されていたという証ではないかと私は思うのだけれど、どう思われるであろうか。




 結局のところ、この曲の誤解の性質はもう少し錯綜しているように私には思われる。そこには村上氏の理解している誤解の文脈とは異なった誤解の文脈が存在し、この村上氏によるうっかりした文脈の重ね合わせ、いわば微妙に異なった文脈の上書きによる理解が問題をややこしいものにしていると思うのだ。つまり、誤解を言い募る村上氏自身もまた別の筋違いの誤解の中にいる訳である、そう言ったら世にいる数多のハルキスト達には怪訝な顔をされるだろうか。


 その村上氏の理解における端的な誤認部分を指摘すれば、この曲は氏の言うような「ワーキング・クラスの抱えた問題」をテーマとした曲ではなく、「 Vietnam Veterans ベトナム退役軍人の抱えた問題」をテーマとした曲だということである。