ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

『ベルクソン思想の現在』

2023-03-20 16:00:00 | ベルクソン



どうやら2022年という年は、ベルクソンに関する高度な専門書が陸続と出版された年だったようだ。それを締めくくるように、福岡で開催された著者5人の組み合わせによる連続トークイベントの内容をブラッシュアップし、増補して書籍化したのが本書とのこと、好企画本である。一応ベルクソン入門書という体裁をとっているが、簡単な紹介の後に、連続トークイベントの内容そのままに、いきなり最先端の高度な内容が語られていくという、なかなかとスパルタンな構成になっている。そういう意味では読者を選ぶ本ではあろうが、それがまた大きな魅力にもなっている。個人的には、世に氾濫する毒にも薬にもならない通り一遍の入門書や概説書などより、余程好ましい内容と構成である。

出版元は書肆侃々房という聞きなれない名前だが、所在地もイベントが行われた福岡で、この連続トークイベントはネット配信もされたようなので、一種のメディア・ミックス戦略の一環としての出版と言って良いだろう。出版不況の現在にあって、こうした方法論の下に、地方都市からこのような本が出版されるというのは、新しい可能性を感じさせる出版でもある。また一方では、福岡という都市の文化レベルの高さが感ぜられる本でもあって、あとがき等から推察するに、どうやら九州という地は、主要なベルクソン研究者が大学に在籍していることから、今後の日本のベルクソン研究の要になっていく場所だと言っても良いのかもしれない。近い将来、ひょっとしたら、九州のどこかに、ベルクソン研究者の集落が出来て、べるく村という村が出現するかもしれない(笑)。

内容については、著者5人のそれぞれの本を読んではいないので、コメントのしようもないが、藤田氏の本に関しては、何を隠そう→けいそう ビブリオフィルの連載は密かに注目していて、ベルクソンのテキストを参照しながら熟読していたので、目覚ましい論考であることは、古くからのベルクソン愛読者としては、はっきりと断言できる。書籍化に伴ってその全部を読めなくなってしまったのは残念であるけれども。


といった様なことで、ベルクソンに関する高度な議論はここでは差し置いておいて、それらとは別の意味で興味をひかれた「序章 ベルクソンに出会う」を出汁にして、思うところを述べてみたいと思う。

5人の文章を読んでみて思ったのは、いささか得手勝手な感想かも知れないが、なぜベルクソンを選択したという点については、スルーしている人、良く解らないと書いている人等様々だが、一応理由を書いている人にしても、自身どうもうまく言語化出来ていないのではないかという感じを私は受けた。例えば、平井靖史氏である。哲学研究者としては美術大学油絵科出身という変わり種であるが、ベルクソン哲学を良く知る者にとっては、この経歴あっての選択であったことは疑いようのない事実であるように思われるのだが、どう思われるであろうか。結局のところ、これは、或いは個人的な経験の投影であるのかも知れないが、私には、5人が5人とも良く解らないままに、ベルクソンに魅入られているように見受けられるのである。私の直観がそう囁くのだ。

そして、こういった考え方自体、実にベルクソン的であるのだけれど、この私の直知から、ベルクソンの「呼びかけ」に応和するものが、そもそも我々日本人の考え方や感じ方の中には備わっているのではないかという考えに、私は自然と誘われるのである。私の関心は、この事実線の方向へと向かうのである。

これは言い換えると、「やまとごころ」とベルクソニズムとの親和性、響合或いは共振性とでも言うことが出来ようが、そのためには比較文化論的な視点が要請されるように思われる。

以下、非常に大雑把な見取り図を述べてみる。

ベルクソンの哲学というのは、反理性とかスピリチュアリズムといった文脈で語られるが、いわゆる実証主義的な考え方が主流を占め、正統となった近代西洋社会の時流に対して、もともと西洋にあったキリスト教以前の、そういった反理性とかスピリチュアリズム文脈の異端的な考え方を掘り起こし、復興させようとしたある種の哲学上のルネッサンス運動であったと見ることが出来る。例えば「二源泉」における神秘主義の肯定的な評価などは、その好例である。

そして、この近代西洋の実証主義的な考え方の文脈の根底には、キリスト教の創造神という発想が鎮座しているように私には思われる。すなわち、この世界は神よって創造された訳だが、この創造は神による摂理=何らかの設計思想に基づいて行われているといった発想である。従って、実証的科学というのは、世の中のあらゆる事象の中に、神によるこの設計思想たる摂理=抽象的な公理や法則を読み解くために発達してきたと言うことが出来る。そして、実証主義的な科学の驚異的な発展に伴って「神は死んだ」(ニーチェ)後も、こういった発想そのものは依然としてそのままであることは、ボーア・アインシュタイン論争における有名なエピソードー「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインに対し、ボーアは「神がなさることに注文をつけるべきではない」と応酬したというーが物語っていよう。

ところが、日本においては、例えば古事記を見れば解るように、この創造神という発想自体がないので、これが実証的な科学というものが、我国では発達してこなかった一番の、そもそもの理由ではないかと考えられる。抽象的な公理や法則を見出すという発想自体がそもそも欠落していると言い換えても良い。端的に言えば、古事記における日本の神々というのは”成る”もの=生成するものであって、神羅万象すべてもが同様に生成変化するものである。

従って、この総てが生成変化するという考え方、近代西洋では異端であったベルクソン哲学の考え方というのは、日本においては古来から連綿と続いている、まことに伝統的な、正統的な考え方だと言うことが出来る。そして、このあたりの事は、「やまとごころ」と「からごころ」のややこしい問題があるので詳述しないが、近代に入って西洋文化が入ってきた後も、こういった我々日本人の伝統的な発想や考え方は、西洋思想との相克にさらされても、今だしっかりと無意識的に受け継がれている様に見受けられる。巷間「日本の常識は世界の非常識」などと言われるが、哲学的な考え方に関しては、「西洋の異端は、日本の正統」と言うことが出来るのかも知れない。というか、全歴史的全地球的規模で俯瞰して見れば、むしろ近代西洋における実証主義的一元的世界観という考え方の方が特異なものであって、異端的なのだと言うことも出来よう。

そして、私見では小林秀雄の『本居宣長』は、まさしくこの問題を巡って書かれている。宣長は、古事記に体現されている原始神道を「古道」と称した訳だが、この古道とベルクソン哲学とは、発想や考え方の上で、言わば”同心円を描きつつ、動いている”と言って良い。『本居宣長』本文においては、ベルクソンのべの字も出てこないために、この小林の深く隠された主張は、ほとんどと言って良いほど理解されてはいないが、対談の中で小林は、宣長の仕事についてこのように語っている。私は最後に出てくる「哲学」という言葉に注目するのである。


<ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。・・・ベルクソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直截な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言って良いものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だったのだ。
 この純粋な知覚経験の上に払われた、無私な、芸術家によって行われる努力を、宣長は神話の世界に見ていた。私はそう思った。「古事記伝」には、ベルクソンが行った哲学の革新を思わせるものがあるのですよ。私達を取りかこんでいる物のあるがままの「かたち」を、どこまでも追うという学問の道、ベルクソンの所謂「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」を掴む道は開けているのだ。たとえ、それがどんなに説き難いものであってもだ。これは私の単なる思い付きではない。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、「古事記伝」と、ベルクソンの哲学の革新との間には本質的なアナロジーがあるのを、私は悟った。宣長の神代の物語の注解は哲学であって、神話学ではない。>



最後に、先の画像にある『ベルグソンの哲学』は、アルベール・チボーデの手になるもので、本書のブックガイドには漏れているので、ここで紹介しておきたい。これは昭和十八年刊といささか古いものだが、私が読んできたベルクソン論の中では、ブックガイドに上がっているジャンケレヴィッチのものと共に、直接ベルクソンに教えを受けた世代のベルクソン論という意味合いを超えて、現在でも読むに堪えるベルクソン論だと思われるので、出来れば、どなたか奇特な方が新しく訳して頂けるとありがたいと思う次第である。


『物質と記憶』

2019-11-15 12:00:00 | ベルクソン


ベルクソン『物質と記憶』の新しい訳が又しても講談社学術文庫から出版された。この本は長年の愛読書でもあることだし、この機に少し思いつくところを書いてみたいと思う。

今度の杉山直樹訳は「すべての既訳を凌駕する決定版新訳!―第一級の研究者、渾身の訳業。」という出版社の謳い文句が目を引くが、まあ、出版社の謳い文句は謳い文句として、杉山氏自身も解説のなかでイマージュや記憶か或は記憶力か等翻訳の難しさについて述べているように、そもそも決定版たる翻訳などは成立し得ない著作であると言うべきだろう。

<第二章と第三章では「イマージュ」がふつうの意味、すなわち主観的心像(特に記憶心像)の意味で用いられる場合がほとんどなので話は厄介になるが、とりわけ第一章に関するかぎり、「イマージュ」とは客観的実在そのもの、ただしそれ自体で見えている実在、という意味で用いられている。「第七版の序」でベルクソンが言っているとおり、この点はあまり理解されなかった。しかし、ベルクソン自身のせいでもある。≪image≫という語は、もともと「像、似像」という意味なのだから。・・・・
この≪image≫という語をどう訳すかには、以前からさまざまな意見がある。「像、象」の字を含んだ訳語を用いてしまうと、「複写物のことではない」という根本的な主張が反映できないだろう。・・・また「イメージ」という英語系の言葉は、・・・逆になじみ過ぎたところがあって、一般に「イメージ」と言うと、われわれの側で勝手に、あるいは創造的・芸術的に、いろいろ思い描けるもの、という方向に意味はシフトするように思われる。そうなってしまうと、「イマージュ=知覚される客観的実在」という本書第一章の根本主張が見えにくくなろう。・・・・一定の違和感が残った方が、かえってよいのではないか。ここでは日本語とフランス語の距離をむしろ利用しよう・・・・・ということで、今回は「イマージュ」というカナ表記を用いることにした。>(杉山氏解説)

ここには、前田英樹氏も言うように、ベルクソンの意図的な戦略性がある訳である。

<ベルクソンの使う「イマージュ」という語は、極めて翻訳しにくい。この語には、まず二つの意味がある。ひとつは、知覚された「物の姿」のことで、これを「映像」と訳すことは誤りである。知覚によるイマージュは、知覚する身体が物質界のなかで限定した物の一部分にほかならない。この意味で、物質界とは、知覚によるイマージュをことごとく取り集めた総体だとも言える。「イマージュ」のもうひとつの意味は、記憶のなかの「映像」である。この映像は、現在の知覚のイマージュに結び付き、知覚された対象を「再認」させる。実際には、私たちのあらゆる知覚は、これら二つの「イマージュ」の解きがたい混合によって成り立っている。だが、これほど異なる二つの概念を、なぜ「イマージュ」の一語をもって呼ぶのか。そこには、『物質と記憶』全体にはりめぐらされたひとつの大がかりな戦略がある。そして、この戦略は、認識を外界の実在から永久に切り離してしまう近代の認識哲学に向けられている。>(ドゥルーズ編『記憶と生』における訳者注)

つまり、ベルクソンはこれまでの認識論的常識の転覆、いわばちゃぶ台返しを意図しているのであって、その目指して行きつくところは、主観と客観は内外という空間的区別ではなく、むしろ「時間との関係」において考えなければならないという、”持続"の相において捉えられたパースペクティブー新しい二元論である。


という訳で、この「イマージュ」などはその代表的なものであるが、読者側から見れば<見慣れた言葉だし、そう構えなくてもだいじょうぶ、と思って分け入ってみるのだが、気がつくと、あたかも密林の中で遭難するといった目に遭わされる>(杉山)ことになる訳だ。このような意味で、なかなかと一筋縄では行かない難解さを本書はその特徴とする。従って、この本は難解な古典群のなかにあっても、際立って独特の難解さを持った古典であるとも言えようか。

そういえば、小林秀雄もこの著作に対する自らの”遭難”経験をこのように語っている。

<・・・私のような尋常な愛読者にしてみると記述の複雑に心屈し、要するに何が言いたいのかと呟きたくなる。それと言うのも、精密な分析を辿りながら、やがて著作の思索の建築は、その構造を明瞭に明かすであろう、と知らず知らずのうちに期待しているからであろうと思う。例えば、或る複雑な装置の或る部分の構造が徹底的に分析される。次にこれと全く無関係に見える或る部分の構造の分析が現れる、そういう風に次から次へと部分、部分の構造が明かされて、終いに、さてこれで全装置は円滑に動く筈だ、と著者から言われる。動く筈だが、さて動力は何処にあるのか。私はそんな風な読み方をした。そんな風には決して書かれてはいないと納得するまで、繰り返し、した。>(『感想』三十五)

このベルクソン理解の難しさについては、岩波文庫旧版『思想と動くものⅠ』の河野与一氏の文章が、明晰な指針による忠告をしているので、ここで引いて置きたい。これは『哲学入門』について書かれた文章だが、このことはベルクソンの総ての著作に当てはまることは言うまでもないだろう。

<ベルクソンは危険な思想家である。・・・・この『哲学入門』を手にする初歩の読者に向つて先ず云ひたいのは、大抵の場合逆手に出られるからそこをよく御用心なさいといふこと、豊富な概念をいきなり読者の手に渡して置いて、それを少しづつ軽くして行くやり方が多いからそのつもりでお掛かりなさいということである。未知のものを既知の如くに扱ひ、答の方が最初に来て問が後から出るやうな仕組も珍しくない。抽象と具体、静止と運動、空間と時間、悟性と感性、といふやうな対になつてゐる述語の意味の重みの附け方が学問の通念と反対に受け取れることも多い。さういふ様々な順序の逆転が普通にいふ反省とも違ふ。又単に順序が逆になつてゐるだけだと決めるわけにも行かないような、ひどく意地の悪い出方も覚悟しなければならない。絶対だの流動だの直観だの生命だの、とかく神秘な甘い連想を伴ふ言葉がどんなに凶暴な魔力を揮つているか。悪くすると、哲学を求めるものの希望を挫く惧れがないとは云へない。>

と、ここまでの文章を読み返してみると、難解とか危険とかばかりを強調してしまった格好だが、永年の愛読者として言わせてもらえれば、「イマージュ」だろうが「形像」だろうが「イメージ」だろうが、逆に言えば個々の訳語なぞはそれ程問題ではないとも言えるのであって、この著作は難解とは言え河野氏のいう忠告を念頭に置いて、文脈から意味を演繹・類推することが出来れば、全く理解出ないという事もない。誤解を恐れずに大それた言い方をすれば、時間が掛かるかも知れないが、その核心にある考えを掴んでしまえば理解するのにそれほど難しい書物ではないとも言える訳だ。

ついでにここでも参考のために、小林秀雄の「イマージュ」についての文章も引いて置こう。私にしてみれば、小林がいなかったら、この書物にこれ程入れ込むことは無かったのも事実なので、どうしても彼の文章の引用が多くなるのはやむを得ない。

<ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。
「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に「性質情状アルカタチ」です。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思ったことがある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言って良いものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。>


さて、まだそれほどこの杉山直樹訳の中味を精査した訳ではないが、個人的に気になる部分を幾つかピックアップして見た限りでは、この翻訳にはそれ程アドバンテージを感じなかったというのが、私の偽らざる感想である。逆に言えば、これまでになされてきた訳文の水準の高さを確めることにもなった格好で、通して読んでみるとまた違った感想を持つのかも知れないが、現状では今のところ私には読みなれているせいか高橋里美訳と岡部聰夫氏の旧訳がやはり一番好ましく感じられる。

ここでそのチェックした部分の例をひとつ挙げておこうか。それは第三章「イマージュの残存について」の中の「夢の平面と行動の平面」の結尾の文章である。

以下に見る様に、この二つの運動は、一つ目は「移動」「並進運動」「併進運動」「平行移動」、二つ目は「自転」「旋回運動」「自転運動」など色々に訳されているが、ここでベルクソンは物理学のテクニカルタームを使用しているのは間違いない。これらについては、現在日本語では

「並進運動」と「回転運動」

という用語が定着しているようで、従ってこれらの用語を訳語に選定している翻訳も多い訳だが、これらの専門用語を知っている人が果してどれだけいるだろうかとも思う。私は調べてみるまでは知らなかったのだが、要は、この二つの運動の対比による性格の違いが文脈から判ればいいのであって、「並進運動」という訳語にどうにも違和感が残る私には、この部分に限って言えば、むしろ古い高橋里美訳や岡部聰夫氏の新訳の方が好ましく思えるのであるが、どう思われるであろうか。

なお、なぜここを私がチェックしたのかと言うと、ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』(宇波彰訳)を読んだ時、ここの一節の引用が出てきて(P66)、この二つの運動が「置換の運動」と「それ自体に対する回転の運動」と訳されているのを読んで、前者の訳に少しく違和感を持った経験があるからである。いくらそれ程訳語は問題ではないと言っても、この「置換の運動」という訳語はいささか問題であろう。そのためであろう、さすがに新訳の『ベルクソニズム』(檜垣立哉・小林卓也訳)では、「並進運動」と訂正されている。ちなみに、このドゥルーズの『ベルクソニズム』は、私が読んだ中では類書を圧倒して深い洞察がちりばめられられた啓発的なベルクソン哲学の概説書であって、先ず第一に参照すべきものと思われる。いや、この本は啓発的な概説書というよりも、ベルクソン哲学の挑発的な再創造と言った方が当たっている。そこでは否応なしにドゥルーズの独創的な読解に対決を迫られるのであって、この意味ではベルクソンを読む者にとっては強面で実にやっかいな、そしてまたそれゆえに実に魅惑的な必読参考書でもある。本国フランスでベルクソン再評価の切っ掛けとなったというのも、さもありなんと思わせる内容である。



<換言すれば、全体の記憶が次の二つの同時的運動を以て現在状態の必要に応ずる。即ち、その一つは移動であつて、記憶は全体として経験の方に運動し来り、かくて動作の目的のために分裂することなく多少の収縮を行ふ。他は自転であつて、記憶はその瞬間の位置に向ひ、最も有益なる側面をそれに呈する。そしてこれらの収縮の種々の程度に対応して種々の形式の類似連合があるのである。>(高橋里美訳旧岩波文庫)

<換言すれば、完全な記憶力は現在の状態の呼びかけに、同時的な二つの運動によって答えるのである。ひとつは並進運動であり、これによって記憶力は全面的に経験に向って進み、こうして行動のために、分かたれることなく多少とも収縮する。いまひとつは自転運動であり、これによって記憶力は現在の状況へと方向をとりながら、いちばん役に立つ側面をそこへさし向ける。収縮のこのさまざまな段階に応じて、類似による連合の多様な形態がある。>(田島節夫訳白水社旧全集)

<いいかえると、現在の状況からの呼びかけに、記憶全体は、同時に、二つの運動で応じる。ひとつは、並進運動で、この運動によって、記憶全体が、経験の方向に移行し、行動を目指して、不可分のまま、多少とも収縮する。もうひとつは、面内の旋回運動で、この運動によって、記憶は、現在の状況に向けられ、この状況に、もっとも有用な側面を提示する。これらの、異なったさまざまな収縮度に応じて、類似による、さまざまな連想形態がある。>(岡部聰夫旧訳駿河台出版社)

<言い換えれば、記憶の全体が、同時に生じる二つの運動によって、現在の状態の呼びかけに答えるのだが、その運動の一方は並進運動であり、それによって、記憶は全面的に経験に先んじ、行動することをめざして、分割されることなく多かれ少なかれ収縮する。他方は自転運動であり、それによって、記憶はその時の状況へと向かって最も有益な面をその状況に示す。これらの様々な収縮の段階に、類似による連合の多様な形態が対応している。>(合田正人・松本力訳ちくま学芸文庫)

<言い換えれば、記憶の全体が、現在の[心的]状態の呼びかけに、二つの運動によって同時に応答しているということだ。一つは並進運動で、記憶は、現在の経験に全面的に向かい合い、自らの一体性を保持しつつ、為すべき行動に役立つべく、多少とも自らを凝縮させる。もう一つは、自転運動で、この運動によって記憶は、現下の状況に向き直り、その状況にもっとも有効な面を振り向けるのである。こうして、[二つの運動の]さまざまに異なる凝縮の度合いに対応して、さまざまに異なる形態の、類似性による連合がある、ということになる。>(竹内信夫訳白水社新全集)

<ことばをかえれば、統合された記憶は、現在の状態からの呼びかけに対して、ふたつの同時的な運動をつうじて応答するのだ。そのひとつは併進運動であって、これによって記憶は全面的に経験に向ってすすみ、かくて行動のために、分割されることなく多少ともみずからを凝縮させる。もうひとつは自転運動であり、それをつうじて記憶は、現下の状況へと方向づけられながら、その状況に対してもっとも有用な側面を提示する。収縮におけるこうしたさまざまな段階に、類似性をつうじた連合にあって、その多様な形態が対応しているのである。>(熊野純彦訳岩波文庫新訳)

<いいかえると、すべてを保存している記憶力が、現在の状態の呼びかけに対して、同時に二つの運動で応じている。ひとつは平行移動で、この移動によって、記憶力全体が経験の方向に移行し、こうして行動を目指して未分割のまま多少とも収縮する。もうひとつは旋回運動で、この運動によって、記憶力全体は現時点の状況に向けられて、この状況にもっとも有用な側面を提示する。これらのさまざまな収縮度に応じて、類似による連合の多様な形態がある。>(岡部聰夫新訳駿河台出版社)

<言い換えれば、過去全体についての記憶力は、現在の状態からの呼び出しに、二つの同時的な運動で応じるのである。一つは並進運動であり、それによって記憶力は全体として経験の前に身を移しながら、行為を目指しつつ、自分を分割しないものの、何らかの度合いで自分を凝縮させる。もう一つは自転運動であり、これによって記憶力は目下の状況に向って方向を定め、最も有用な面をそちらに提示できるようにする。このような凝縮のさまざまな度合いに、類似による適合のさまざまな形態が対応しているのである。>(杉山直樹訳講談社学術文庫)


なお、翻訳ではないが小林秀雄のベルクソン論『感想』では、ここのところは「前進する運動」と「自転運動」と表現されていて、小林が一つ目の運動を「前進運動」としているのは、読み込みの深さをうかがわせて、わたしにはこれが一番明解でしっくり来る用語選定である。

<従って記憶全体は、現在からの呼び声に二重の運動を以て答えているわけだ。記憶全体が、常に経験を背後にして前進する運動、行動を見詰めて、多かれ少なかれ収縮して前進する運動、もう一つの運動は、言わば記憶の自転運動であって、記憶が、自分の、その時その時の位置方向を、保持し、これに最も有効な面を現す。>(『感想』「四十七」)

その小林が高橋里美訳を愛読していたことは雑誌『ノーサイド』1994年12月号「特集黄金の読書」の中の「一冊入魂 達人小林秀雄の読書法」という文章で郡司義勝氏が証言しているが、あまり言及されることがないようなので、ここで引いて置こう。

<ー高橋里美訳は、大正三年にすでにでていましたね、それとは・・・・。
「勿論、原書も買ってもいたし、対照しても読んでいた。今の人には、あの翻訳の文章は親しみづらかろう。が、実に丁寧によく出来ているね。文庫本で出てからは、手軽で便利だから、常住座臥かたわらに置いて、折りにふれて読んだものだった。僕の生涯のうちで、あれほど隅から隅まで、魂を打ちこんで読んだものは、他にない。・・・」>

また、この雑誌にはこの小林の読んでいたぼろぼろになった高橋里美訳岩波文庫の写真ー「常住座臥かたわらに置いて、折りにふれて読んだ」ことを如実に示す<葦編三絶の態>の写真も載っているので、ついでにこれも紹介してこの文章を終えることにする。