ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

「グラン・トリノ」3

2014-11-09 00:00:00 | 映画

 この映画を二度目に観た時、私がタオの胸のシルバー・スターのズーム・アップ・シーンから読み取ったものは、この勲章の二面性・両義性ではない。表向きは勇猛果敢な英雄行為の象徴であると共に、実際には卑劣な残虐行為を象徴してもいるという、この勲章の持つ二面性・両義性は、誰でもこの映画を一度観ただけで理解出来るように作られている。私が読み取ったのは、この二面性・両義性というものの非単独性或は作品横断性とでも言うべきものである。つまり、この意味でこのシルバー・スターはこの映画全体を象徴している事に気付いたということである。尤も、これこそがこのシーンに込められた監督の真意であるとまで私は断言するつもりはないが、要するに、こういった二面性・両義性は、この勲章だけではなく、実はこの「グラン・トリノ」という作品全体の構造であり、そのようにこの映画が意図的作為的に作られていることに、私は二度目にして気付いたということである。私はどうしても主人公に感情移入出来ないと言ったが、実はそれこそが製作者イーストウッドの意図したところであったということである。何やらややこしいことをややこしく述べているので判り難いかも知れないが、これは、視点を変える事でもう一つの顔が浮かび上がって来る、あの”騙し絵”に例えれば、或は判り易いのかもしれない。「グラン・トリノ」は”騙し絵”ならぬ”騙し映画”である、と。





 これはつまりどういうことかと言えば、主人公コワルスキーはこの映画の多くの絶賛評にあるような頑固一徹な誇り高い男でもあるが、少しく視点をずらせば私が最初に書いたような実に鼻持ちならない頑迷固陋で家父長的な男でもあって、この映画は主人公を、そのようなどちらとも取れる二面性・両義性において、あえて意図的に描き出しているという事である。一方で前者と見る見方からも、後者と見る見方からもはみ出す余剰部分があるのはそのためだと思われる。余り彼の映画を見ていない私が言うのも何だが、犬の様に唸り声をあげ、はたまた目に涙を浮べるイーストウッドは、この映画以外ではちょっと目にすることが出来ないのではないか。それはちょうどあの”騙し絵”が、全体として見ると絵として何だが微妙に変なところがあるのと同じである。そして、このように浮び上がってくる二つの”顔”の内、どちらにイーストウッドの本音が託されているのかと言えば、後で見る様に否定的な”顔”の方であるのはまず間違いない。つまり、結局のところ、監督イーストウッドは、主人公コワルスキーを褒め称えていると見せかけて、実は糾弾し批判しているのであって、この映画は一種の反語語法でもって語られているということである。しかも、意識的な方法論として首尾一貫して。

 このことから、この映画は”騙し”に引っかからないためには、どうしてもある種の深読みを要求する、いささか難解な作品であると言わなければならない。この”騙し絵”的反語語法に気付かずに、この映画にカッコいいイーストウッドや感動的なヒューマン・ドラマだけを見る事は、誤読もここに極まれり!とまでは言うつもりはないが、その本質を掴みそこなった一面的な見方であるということは言っておかなければならないだろう。勿論、当初の私の様に一方的に拒絶し断罪する事も同様の誹りを免れないのであって、どちらも言わば、お釈迦様イーストウッドの手のひらの上で踊っている孫悟空に他ならないからである。

ということは、では、私の本能はイーストウッドの手のひらの存在を直覚していたということになるのであろうか。うーむ。




 さて、こういった読み筋からこの映画の総てのシーンについて一々詳細な訓詁をすることも出来ようが、ものぐさにはちと荷が重いので一例だけに留めることにする。それは裏庭でのBBQのシーンである。


 肉を焼いているコワルスキーに、スーが「本当に楽しそうね。こんなに楽しそうなあなた見たことないわ」と言う。ちっとも楽しそうに見えないイーストウッドは兎も角、なぜ彼が「楽しそう」かと言えば、この後で手の怪我をスーが見つけることからも判るように、前日にギャングの一人を散々痛めつけ半殺しの目に遭わせた上に、銃を突きつけて手を出すなと警告して置いたからである。ここに、これでもうタオには手を出さないだろうという安心感からくるコワルスキーの喜びという一つの”顔”を見る事も出来ようが、視点を変えれば暴力を振るった事が嬉しくて嬉しくて堪らないコワルスキーの残虐な性向というもう一つの”顔”が浮かび上がってくる。これまでになく主人公が喜んでいるのは、この映画で初めて描かれた主人公の暴力行為シーンの後であるのは象徴的である。それを仄めかすために、「本当に楽しんでるのね。こんなに楽しそうなあなた見たことないわ」という一節がセリフに挿入されているのは明らかであろう。さらにもう一つこの後に注目しなければならないセリフが出て来る。この後話題はユアとのデートへと移り、タオにお前が誘わないなら俺がデートに誘うと言うコワルスキーに、スーがダメ出しをして「腹黒い白人だから」と言う。それをオウム返しにコワルスキーが自ら「ああ、腹黒い白人だ」と言うところも何だか妙に引っかかるセリフである。この”white devil(白い悪魔) 腹黒い白人”とは西部劇ににおける悪役インディアンの白人に対する常套的決まり文句であるが、ここに近年の修正西部劇の流れに則ったイーストウッドの西部劇批判を見る事も出来るだろう。私は、引退する前に、監督イーストウッドはどうしても西部劇スター・イーストウッドに一度は自ら「(俺は)腹黒い白人だ」と言わせて置きたかったのではないかと想像を逞しくするのであるが、

元のスクリプト

を見ると、このコワルスキーのセリフはないようである。或は撮影時のアドリブかも知れない。それは兎も角、そう考えるのは先の暗示の後にこの”white devil 腹黒い白人”という言葉が出て来るからで、先の暴力を振るう事が嬉しくて嬉しくて堪らない白人像と通底しているからである。要はこのように、連携した仄めかしの連続によって、浮び上がってくるもう一つの否定的な”顔”のエッジを際立たせているということである。

 

 というような次第で、興味のある方には、このような二面性や両義性、ダブル・ミーニングによる色々な暗喩やほのめかしを探りながら、この映画を今一度観直すことをお勧めする。

 結局のところ、私が一言でもってこの「グラン・トリノ」という映画を言い表すとすれば、これはその引退に及んでかっては数々のマッチョ・キャラを演ずることでもって大スターに登り詰めたその当の張本人が、自らそのはまり役であるヒーロー像を否定し、その欺瞞性を白日の下に引きずり出して告発・断罪し葬り去り、その事でもってそのマッチョなアメリカン・ヒーローに拍手喝采を贈ったアメリカ人を批判・糾弾している作品なのであるとでも言おうか。

 イーストウッドは「何で、みんな俺のダーティ・ハリーを欲しがるんだ」「それが問題なんだ」と言っている訳である。



 なおこのセリフは元の原語では、「Yeah,everybody seems to want that car.You don't know the half of it.」となっていて、その発想の文脈がいささか異なる。「みんなをこの車を欲しがるようだが、その半面しか知らない」とでも訳せようか。後になってみると、私のこの映画に対する解釈の一番のヒントとなったのものは、この「You don't know the half of it.その半面しか知らない」という言葉だったのかも知れない。原語で観なかったら例のシルバー・スターのアップ・シーンで、この映画の語り口の構造に気付くことは無かったのかも知れないとも思うのである。ともあれ、この吹き替えの翻訳もなかなか素晴らしいと私には思われるのであるが、どう思われるであろうか。録画のクレディットには翻訳久保善昭とあった。



 この作品の商業上の成功や好評、さらには俳優イーストウッド引退作という話題性にも関わらずアカデミー賞に推薦されなかった事は多くの人も言うように私も訝しいが、或はこの作品の方法論が災いしたのかも知れない。なぜ彼が、このようなトリッキーとも言うべき、ある意味で誤解を免れえない方法論を取ったのかと言えば、一般に多くのこういった反語的表現が強いられたものであることから考えれば、やはり後で述べるような”遅れて来た西部劇スター”という彼の立ち位置が強いたものと考える他ないようだ。従って、この方法論は彼の映画スターとして名声が強いたという意味では必然的な、俳優人生において引退作でしか使え得ない一回限りの捨て身の方法論であったとも言えようか。



 さて、最後に「グラン・トリノ」が何を象徴しているかについて述べ、このエントリーを終える事にしたい。

 なぜこのグラン・トリノという車をイーストウッドが選んだのか、その根本的な理由はどうも今一つ私には判らないのであるが、先のセリフの意味するところから言っても自ら歌うエンドロールで流れる歌の歌詞は見過ごせない。

<「do you belong in your skin; just wondering お前は自身の見た目にふさわしい男なのか。どうなんだろうな。」>

<「realign all the stars above my head warning signs travel far 全ての星をもう一度並べ替えてやろう、俺の頭上で警告サインを発しながら進む星たちを。」>

<「engines humm and better dreams grow エンジンは唸り、苦い夢が膨らむ。」>

これらの歌詞から言っても、やはりこの車は映画スターとしての彼自身を投影している事にまず間違いはないだろう。従って、先のフォード・トリノの歴史に置けるこの車の微妙な立ち位置は、そのまま映画スターとしての彼の立ち位置の微妙さを示していると考えられる。つまり、彼は西部劇が時代に合わなくなる変節点、そのジャスト・タイミングに登場して来た、言うなれば”遅れて来た西部劇スター”なのであって、この意味では、さしずめトリノGTやトリノ・コブラはゲイリー・クーパーやジョン・ウェインに擬える事が出来るだろう。彼の出世作になった西部劇は、マカロニ・ウエスタンという、しかも、それは極東の島国におけるチャンバラ映画のリメイクという二重の意味での模造品であったこともこの立ち位置の微妙さを示している。逆に言えば、こういった正統的な西部劇スターではないという自分の立ち位置を彼は良く自覚しており、むしろ意図的にそれらの正統性に抗らって来たとも考えることが出来るだろう。また、「グラン・トリノ」の「トリノ」の名前の由来は詳らかにしないが、「トリノ」と言えば私にはイタリアの「トリノ」がすぐに浮かぶ。この意味からもマカロニ・ウエスタンの代名詞である彼には相応しいともいうことも出来よう。


 私は最初に観たとき、この「グラン・トリノ」はてっきりGTだと勘違いしていたが、調べてみると「グラン・トリノ」にはGTは存在しないようである。であるから実際は間違いなのであるが、ツー・ドアであること、クーペであること、また「グラン・トリノ」という名前自体もGTを連想させることから、この車はGTであった方が相応しいように私には思われる。つまり、以下述べる事は私の手前勝手な度が過ぎた読み込みである事を承知の上で読んで頂きたいが、GTとは、そもそもグランド・ツーリングに由来する名称であるが、それはWiKiのグランド・ツアーにあるように、元はイギリス貴族の子息が大人になるための必須の通過儀礼、即ち社会的な見聞や知識を広めるための一種の修養体験ツアーとしての「大旅行」であった。日本の修学旅行という慣行もひょっとすると、このグランド・ツアーに由来するのかも知れない。ともあれ、元々はGT(グランド・ツアラー或はグラン・ツーリスモ)というのは、この「大旅行」に用いられた長距離旅行用の馬車を差して云うのであって、その呼称がのちに自動車に転用された訳である。先のツー・ドアとかクーペというのも、この馬車の特徴であった訳である。従って、「グラン・トリノ」が走り去っていくこの映画のエンディングの象徴するものは、グランド・ツアーと取ると私には非常に納得が行く、というか好ましい。つまり、それが象徴するものは、アメリカという国は、未だ社会的な見聞や知識を広めるためのグランド・ツーリング途上であるということ、言い換えればアメリカという国は、未だ大人になり切れていない未成熟な国なのではないか、ということである。



「グラン・トリノ」2

2014-11-02 00:00:00 | 映画

 最初にこの「グラン・トリノ」という映画を観終って感じたのは、ストーリーとしては単純至極、非常に判り易い話であるにも関わらず、そのストーリーでもって何を言いたいのかが一向に判らないということであった。製作者イーストウッドの意図をどうにも私は計りかねた。にも関わらず、前に述べた様な奇妙なずしりとした手ごたえがあって、私の直感はこの作品が逸すべからざる作品であると告げていた。言わば、本能がこの映画は傑作であると主張しているのに対して、頭ではそれがてんで理解出来ないという、何とも苛立たしい自己分裂的ジレンマの渦中にあった訳である。そして、そのジレンマが嵩じてこうしてこの文章を書かざるを得なくなったことは前に書いた通りである。

 俳優引退作品として作られたと言われているこの作品で、一体全体イーストウッドは何をしたかったのであろうか。何を言いたかったのであろうか。

 
 映画文法に則った暗喩や読み筋などは、勿論幾つか見い出せるのであるが、私にはそれらがどうしても統一した像を結ばず、その矛盾した不整合性が不快な不協和音を奏でているように思われた。この映画に「人種問題」「家族」「生と死」「父と子」「男の矜持或は美学」「自己犠牲による贖罪と魂の救済」などの色々なテーマを読み込むことは容易であるが、それらは干物のように干からびた古色蒼然としたステレオ・タイプなものであって、ここには何ら新しいものはないように思われた。これでは全く持ってハリウッド・スター、イーストウッドの名声に寄り掛かっただけの詰まらない駄作ではないのか、という疑念が観ていて何度も私の頭をよぎった。観終って、幾つかの評を読んでみたが、絶賛されるような感動的ヒューマン・ドラマとはまるで思えなかった。そのように素直に享受出来ないのは、主人公に輪を掛けて私が偏屈な頑固ジジイであるためだろうか。そんな事を思った。その理由の最たるものは、西部劇でもないのにこれ見よがしに描かれるセルフ・パロディとも言うべき主人公の大時代的マッチョぶりである。これが大きな違和感を生み、私には、この主人公にまったく感情移入できないのであった。主人公コワルスキーは屈託を持った人間として描かれているが、その原因が朝鮮戦争従軍時に自ら進んで行った虐殺行為であることが次第に明かされる。自らの内にある”悪”を自覚した人間という設定なのだが、この人物設定は一応内面に一歩踏み込んではいるものの、それが人物造形に複雑な陰影を与えているのかというと、否と言わざるを得ない。その行動は相も変わらずの単細胞マッチョぶりで、常に銃を持ち歩き、唾を吐き、啖呵を切る様や左胸の懐に手を入れる仕草など、これでは明らかにダーティー・ハリーや用心棒のジョーのキャラクターの単なる旧態以前たる”反復”でしかないと言わざるを得ない。自らの行動が招いたギャングの報復に「俺は何て馬鹿なんだ!何でこんなことになるのに気付かなかったんだ!」と臍を噛む様にも、私は同情するよりむしろその単細胞ぶりに呆れ返るばかりであった。

 ところで、ここで一般に言われている「孤独に生きる人種差別主義者の偏屈老人」といったコワルスキー像に異を唱えて置こうか。コワルスキーは「孤独に生き」ている訳ではないし、ましてや「人種差別主義者」なんかではないし、「偏屈」でもない。これはその行動から明らかであって、彼の発言に惑わされてはならない。

 まずコワルスキーは身内とは疎遠であるにしても、バーテンダーを含むバーでの飲み友達の存在や床屋や建築現場主任との関係などが示すように、一定の交友関係を持っていることは明らかであろう。妻の葬儀後にも多くの列席者が家に来ていた事実も、コワルスキーの発言とは裏腹にそういった交友関係の(限定的ではあるにしても一定の)広さを示していると言わなければならないだろう。

 また地下室でのユアとの会話から、コワルスキーは流しや乾燥機を直したりカルテを書き直させたりといった雑用の言わば万事屋で生計を立てているという事が判る。年金だけで暮らしている訳ではないので、この事実も近隣での一定の関係性を示唆する訳である。コワルスキーがスズメバチ撤去以来を受けるシーンが出て来るが、このシーンから言えるのは彼は近所の異人種の人間と全く接触を断っている訳ではなく、例えば芝生や家のメインテナンスをしないなどの気に入らないことがあると、それが「人種差別」的発言という形でもって表に出て来るだけなのである。手慣れた感じでコワルスキーがメモ書きを取り出すしぐさは、これが彼のたつきであることを示していると言えよう。

 同様に、発言に惑わせられ無ければ、述べたようにコワルスキーが「人種差別主義者」でもないし「偏屈」でもないことが判るだろう。そもそもゴリゴリの「人種差別主義者」だったら、絶対に異人種の家の中になんか入らないし、増してや相手の伝統的民族料理なんかを食べはしないだろう。会話も注意して聞いてみると判るが、言葉使いとは裏腹にまず相手の言う事を良く聴いていることが判る。コワルスキーは会話自体を頭ごなしに拒絶するといった態度を取ることは絶対に無いのであって、急にスーやタオと親しくなる展開に違和感があるといった感想も多く見られるようだが、元々コワルスキーはそういう人間なのであって「人種差別主義者」ではないと見るべきである。親しい床屋のオヤジや建築現場監督などの会話でも同様に「人種差別」的であって、私が思うにこれは非WASP系移民の間でのそういった一種の交友プロトコルの型が、部外者の目には「人種差別主義」的と映るのに過ぎないのである。


 そして、この映画の不協和音は「グラン・トリノ」という題名にも顕れていると思われた。このグラン・トリノという車が象徴するものは古き良きアメリカ、その全盛期の栄光であるというような一見穿った解釈がなされているようだが、そうだろうか。私はこのグラン・トリノという名前をこの映画で初めて知ったのだが、何分アメ車の知識なぞ殆ど持ち合わせていないので、そう言われても私にはどうもピンとこない。私にそういうイメージとして直ぐに思い浮ぶのは、キャデラックであるが、それは例えばエルビス・プレスリーが所有していた有名なピンクのキャデラックとか、大地に突き刺さったキャデラックが並ぶ、アメリカでは有名な「キャデラック・ランチ」といった(パフォーマンスオブジェ?)芸術作品などが思い浮ぶからである。フォードの車というのも何だかなあという様な気がする。別にキャデラックでなければならないと言うつもりはないが、もっと他に相応しい車があるような気がするのは私だけであろうか。

 そして、このグラン・トリノは主人公コワルスキーの遺言によれば1972年製だということになっている。ネットで調べてみると、この車は排ガス規制法として有名なマスキー法以降のモデルであるようだ。であるから、むしろフォード・トリノというモデルの歴史における最強マシンは、それ以前の1970-71年に生産されたトリノGTやトリノ・コブラというモデルであって、現在もビンテージとして人気が高いのもこれらのモデルであるということのようである。従って、グラン・トリノという車は、トリノ史上に燦然と輝く代表的なモデルとは言い難く、ある種微妙な立ち位置にある車のようである。そう言えば、映画の中でも、就職させるべくタオを連れていった先の建設現場の責任者とのやり取りとりとの中で、”貸し”への礼としてグラン・トリノのキーをよこせと言われたのに対し、「何で、みんな俺の車を欲しがるんだ?」とコワルスキーも言っているではないか。そして、それに続けて「それが問題なんだ。」と言うのも会話として何やら変、というか妙に浮いていて不自然である。私にはこのセリフは何か重要な事を暗示しているように思われて仕方がないのであるが、それが何であるのかは判らない。一体、「グラン・トリノ」が象徴するものは何なのであろうか。だが、そもそも、こういった象徴的な意味合いを何やかやと詮索する事自体、大した意味がないことかも知れない。

とまあ、そういったような事を考えているうち、ふと思い立ってWiKiで「グラン・トリノ」の項目を読んでいたら、注に「イーストウッドが『ダーティハリー3』(1976年)で新米の女性刑事を連れ回して乗っている。」とあるのに出くわした。であれば、「グラン・トリノ」が象徴するものは、やはり「ダーティ・ハリー」ということなるのか。ではその「ダーティ・ハリー」が象徴するものは一体何なのか?ハリーが乗っている車の中から、なぜあえてこの車を選んだのか?この「グラン・トリノ」のストーリー設定にふさわしいからなのか?と自問自答するのであるが、どうもこれらの問いに整合するような納得できるだけの答えが見つからない。先のセリフに当てはめれば「何で、みんな俺のダーティ・ハリーを欲しがるんだ?」とイーストウッドは言いたいのであろうか。


 とまあいった具合で不協和音は増しこそすれ止むことはなかったのである。その一方で、だが、ここには何かがある、そう直観は告げているから何とも始末に困る体たらくであった。



 そういうような次第で、最初に観た録画は吹き替えということもあって、言い回しや微妙なニュアンスなどの点で違和感が多々あったということあり、DVDを借りてきて原語でもう一度観直すことにした。突然の用事などで中断することがないように時間を多めに確保し、改めて居住いを正し、一切の先入観を廃し虚心坦懐に作品に対峙して観ることにした。こんなに集中して真剣に映画を観たのは何時以来だろうか。そして、話の終盤、タオとスーがグラン・トリノに乗って現場に駆け付けたシーンで、コワルスキーの死を知ってショックを受け愕然とする二人のショットから、画面は次第にタオの上半身へ、その胸に着けられたシルバー・スターへとアップしていく映像を見た瞬間、「なるほど、そういうことか!」と判然として悟るところがあった。この瞬間不協和音は一斉に止み、この映画でイ―ストウッドが何をしているのか、彼が何を言いたいのか、彼がどういう言い方をしているのかが判った。ようやくにしてわが本能に頭が追いついたのである。

 そして、それは私のなんちゃってイ―ストウッド観を根底から覆すものでもあった。そこに浮び上がってきたものは、ハリウッドの大スターにして巨匠監督という名声の只中にあって、自らのはまり役のイメージに抗う一人の映画人の姿であった。私は自らの不明を恥じた。