ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

「初心忘るべからず」

2020-01-18 10:00:00 | 言葉・ことば・言葉
「初心忘るべからず」という言葉は、誰もが知っている言葉だが、これが世阿弥の言葉だということを知らない人も多いのではないだろうか。調べてみれば世阿弥の『花鏡』に出てくる言葉だということは判る。だが実際に彼の『花鏡』や『風姿花伝』を読んでみる人は稀だろう。読んでみれば判るのだが、この「初心」とは普通取られているような良い意味ではない。世阿弥の理想は「初心」なぞには無い。



「この句、三カ条の口伝あり。
  是非初心忘るべからず。
  時々初心忘るべからず。
  老後初心忘るべからず。
この三、よくよく口伝すべし。

一、是非初心忘るべからずとは、若年の初心を忘れずして、身に持ちてあれば、老後にさまざまの徳あり。
「前々の非を知るを、後々の是とす」といへり。
「先車のくつがへす所、後車の戒め」と云々。
初心を忘るるは、後心をも忘るるにてあらずや。
功成り、名遂ぐる所は、能の上る果なり。
上がる所を忘るるは、初心へかへる心をも知らず。
初心へかへるは、能の下がるところなるべし。
しかれば、今の位を忘れじがために、初心を忘れじと工夫するなり。
返す返す、初心を忘るれば初心へかへる理を、よくよく工夫すべし。
初心を忘れずば、後心は正しかるべし。後心正しくば、上がる所の態は、下がる事あるべからず。
是すなはち、是非を分かつ道理なり。
又、若人は、当時の芸曲の位をよくよく覚えて、「これは初心の分也。なをなを上がる重曲を知らんがために、今の初心を忘れじ」と拈弄すべし。
今の初心を忘るれば、上がる際をも知らぬによて、能は上がらぬなり。
さるほどに、若人は今の初心を忘るべからず。

二、時々の初心を忘るべからずとは、是は、初心より、年盛りの頃、老後に至るまで、その時分時分の芸曲の、似合いたる風体をたしなみしは、時々の初心なり。
されば、その時々の風儀をし捨てし捨て忘るれば、今の当体の風儀をならでは身に持たず。
過ぎし方の一体一体を、いま当芸にみな一能曲に持てば、十体にわたりて、能数尽きず。
その時々にありし風体は、時々の初心なり。
それを当芸に一度に持つは、時々の初心を忘れぬにてはなしや。
さてこそ、わたりたる為手にてはあるべけれ。
しかれば、時々の初心を忘るべからず。

三、老後の初心忘るべからずとは、命には終わりあり、能には果てあるべからず。
その時分時分の一体一体を習ひわたりて、又老後の風体に似合ふ事を習ふは、老後の初心なり。
老後初心なれば、前能を後心とす。
五十有余よりは、「せぬならでは手立てなし」といへり。
せぬならでは手立てなきほどの大事を老後にせんこと、初心にてはなしや。
さるほどに、一期初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入舞にして、終に能下がらず。」

『花鏡』



 『風姿花伝』においては、青春期の一時的一回的な美しさを「時分の花」、芸により鍛えあげられた美しさを「まことの花」と呼び、単なる身体的な美にすぎぬ前者を後者と錯覚する青年期の慢心を「初心」と規定している。つまり、「初心」とは悪い意味なのであって、それは「初心者」特有のバイアスに基づいたある種の錯誤の一形式なのであると言って良いだろう。


 勿論、世阿弥が言う「初心」とはそれだけに限定されるものではなく、「初めての経験」や「未熟な演技」などに対応し、またそれらと一体となった精神のあり様を言うのであって、「初心」とは恥ずべきもの、「忘れずに精進を続け」克服するもので、「そこに返ってはならない」ものである。従って、「初心」の頃の未熟な芸をこころして上達過程の判断材料にせよ、齢を重ねるごとに年相応の芸をひとつづつ忘れずに幅広い芸域を求めよ、老後に至っては老いるという至難を乗り越えてこれまでの経験を生かして芸力を極めよと「三カ条の口伝」を世阿弥は言うのである。

では、この「三カ条の口伝」を言う世阿弥の精神とは何ものか。

 それは基点たる「初心」を基準にして、その時々の自己の精神のあり様を常に相対化し推し量っていく自己革新的な心の働きと言って良いであろう。言い換えると、世阿弥は動きながら言葉を発しているのであって、このような言葉を了解するのには、勿論こちらも動かなければならない。動いていなければならない。すなわち、精神の運動においてでなければならないということである。


この意味で、通常の「初心忘するべからず」という言葉の通念的解釈自体、何とまた「初心」的な解釈であろうか。