ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

日本的組織について 1

2023-12-31 16:00:00 | やまとごころ、からごころ
今年起こった大きな事件を振り返ってみると、色々な切り口があろうが、自民党の統一教会問題、ジャニーズ問題、ダイハツ問題、自民党のパーティー券裏金問題など「組織」に関する様々な問題が顕在化したことが、挙げられよう。

「顕在化した」と言ったが、これらは以前から指摘されていた事柄で、知っている人は知っているという意味では、何も知らなったようなマスコミの手のひら返し的態度はいつもの事であるが、これらの問題の背後にあるものを抉り出さないと、是非を表面的に論ずるだけでは、何らの解決にもならないこと言うまでもないだろう。

従って、ここでこれらの問題に関して、巷間あまり言われていない接戦をいくつか引いてみたい。

それは、「資本ー民族ー国家」という三位一体のシステムの内の、「民族」という側面からの接線で、ここで「民族」というのは文化的な概念として言うのであるが、平たく言えば、日本の組織における伝統的・文化的特殊性という接戦を引いてみようという訳である。

一般には、こういった組織の問題というと、抽象的な「組織はなぜ衰退するのか」といった視点から、大上段に語られることがほとんどだが、これらの考察からは、一見尤もだが、実は衛生無害な結論しか出てこないのは、そこには大きな死角があるからで、その死角とは、比較文化論な視点であると言いたいのである。

この比較文化論な視点という点では、これまで多くの本を読んできたが、私が読んできた中では、山本七平の数々の著作が、日本的組織における伝統的・文化的特殊性の精髄に迫り得た、ほとんど唯一の偉業である。生前時の高評価に反比例するかのように、この山本学の影響が現在の論壇にほとんど見られないという事実は、私には奇妙を通り越していささか不思議な気がする程であるが、それはそれとして、先の死角の意味合いについて、山本はこのように述べている。

<日本に発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因であり、無自覚にこれに呪縛されていることは、「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展をもたらすが、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった」という破滅をも、もたらしうる>、と。

この点で、山本は、現在の保守と言われる、或いは保守を自称する論客とは、立場を異にするということは言っておかなければならないだろう。つまり、彼らは伝統というと、それが自明であり、守るべき良きものとしてしか語らないが、これに対して山本は、我々日本人は伝統に<無自覚に呪縛されて>いるのであって、それ故に日本に<発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因>にもなると捉えている。つまり、その長所と短所は裏表の関係にあるということであって、どちらの論が現実の複雑な襞に食い込み、その立体的な陰影を捉えているのかは、言うまでもないだろう。

ここでは、もうすでに40年以上も経っているのかという思いに改めて駆られるが、1980年に刊行された『日本資本主義の精神』から、いくつか論点を拾ってみよう。



『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』の第一章「日本の伝統と日本の資本主義」では、「日本の会社は、機能集団と共同体の二重構造」であることが指摘されている。

<日本の資本主義は、おそらく「企業神倫理と日本資本主義の精神」という形で解明されるべきもので、その基本は前記の二重構造にあるだろう。これが、日本の社会構造により支えられ、さらに、各人の精神構造は、その社会構造に対応して機能している。これを無視すれば、企業は存立しえない。
 この対応を簡単に記せば、機能集団が同時に共同体であり、機能集団における「功」が共同体における序列へ転化するという形である。
 そして、全体的に見れば、機能集団は共同体に転化してはじめて機能しうるのであり、このことはまた、集団がなんらかの必要に応じて機能すれば、それはすぐさま共同体に転化することを意味しているのであろう。>

この日本的組織における機能集団と共同体という二重構造という特異性を際立たせるために、山本は、アメリカやヨーロッパを持ち出して来て、日本とは違って、アメリカやヨーロッパでは「機能集団と共同体が分化」していることを挙げる。その比較文化論的結論は、アメリカやヨーロッパでは、イギリスの村落共同体やアメリカの地縁的共同体から社会(会社)に言わば出稼ぎにいっている(つまり、機能集団と共同体が分化している)のに対し、日本の場合は、機能集団が共同体に転化しているというものである。

山本は次のようなアメリカの地縁的共同体の例を出しているが、こういった例を持ち出して来るところが、山本の真骨頂である。

<アメリカの状態はしばしば取り上げられているが、共同体が今なお強固に存在している地方はもちろんのこと、犯罪都市ニューヨークのど真ん中の、夜は、絶対に一人歩きできないと言われる危険な場所にも、なお、そこへはいればドアに鍵はいらず、スーツケースを三日も四日もロビーへ放り出しておいても、絶対になくならない場所もある。それは、あるキリスト教系新宗派の宿舎である。その中に入ってみると、「なるほど、第三の種族が生まれる地縁社会の共同体とはこういうものなのか」とつくづく思う。そこには、あらゆる種族の人種がおり、学歴、貧富もさまざまで、経歴も多種多様、前科のある者も麻薬常習者だった者もいる。それらがみな、あらゆる系譜を断ち切って「新種族化」して共同体を構成し、超倫理的集団に転嫁しているのである。>

そして、アメリカやヨーロッパの機能集団が「契約」によって組織されているのに対し、機能集団と共同体との二重構造の日本の組織においては、「契約が(有名無実で)存在していない」事実を、挙げている。そして、ここらあたりの説明は端折って、幾分駆け足で進めるが、その代わりを成すものとして、「擬制の血縁関係」による不文律を挙げている。

この「擬制の血縁関係」の説明として、出版社の「常勤アルバイト」の例を挙げているが、この説明は私には、現在の非正規雇用社員の問題、引いては日本の労働市場の問題の核心を言い当てているように思われるが、どう思われるであろうか。

<だが、会社種族でない者は、まるで血縁社会における非血縁者のように、そこに何年いようと、生涯をそこで送ろうと、何の権利も認められない。昔、ある出版社に「常勤アルバイト」という制度があった。このアルバイトは社員と全く同じなのだが、十年勤めていても、一片の通告で解雇できた。それは不当解雇でなく、正当解雇なのである。そしてこの差別は当然とされていた。なぜならば、後者は確かに正当解雇だが、前者は血縁集団からの追放に等しく、いわば勘当であり、これはどの社会でも安直にできることではないからである。
 そしてこの種の行き方への反対は、一に、「全員を会社種族とせよ」という反対であっても、「会社種族を解体して全員を同一条件にせよ」ではなかった。すなわち、労働組合の要求も、「機能集団=共同体」への完成へと向かえということだったのである。>

ここには、なぜ日本には労働市場というものが成立し得なかった理由が、明確に説明されている。日本で正社員が解雇されるのは、<血縁集団からの追放に等しく、いわば勘当であり>、共同体からの追放であったからである。

また、こうした二重構造の日本の組織的伝統の中で発展してきた、終身雇用と年功序列という日本の企業特有の慣例は、現在では否定的にしか捉えられていないが、詰まるところ、これは果たしてそう簡単に伝統を作り替えることが出来るのかという問題に帰着するとも言えよう。

この点については、戦後、留学した御曹司が社長になって、アメリカのハーバード・ビジネス・スクール流の経営を持ち込んで、つぶれた大出版社の例を山本は持ち出しているが、少し前の大塚家具の内紛劇なども同様で、結局、経営者としての軍配は父親の方に上がったようである。コンサル出身の久美子社長の経営では、会社は、事実上機能不全に落ち入り、立ち行かなくなって、結局身売りせざるを得なくなった訳である。機能集団だけで突っ走ると、日本の企業は、ダメになってつぶれるのであるが、当然に共同体だけで行くと営利企業として機能しなくなり、これもまたつぶれてしまうのである。

この見地から考えると、結局、このような二重構造の日本の組織的伝統を自覚して、共同体という性格を守りながら、如何に機能集団としての能力を発揮しうるのかを考えて、それを実行することが出来た人が、日本の名経営者なのだということがわかる。戦後の不況期に、レイオフをしないといった松下幸之助の発言は、不景気の首切りは常態であった当時には破天荒のことであったが、彼が「経営の神様」になったのも、このような日本の組織的伝統を良く自覚していたればこそであろう。かっての日本を指して、「最も成功した共産主義社会」という評がなされたのも、うべなるかなである。

この意味で、自民党が「構造改革」の名のもとに、派遣法を成立させたのは、日本の衰退を考える上で、象徴的な出来事であったように思う。「構造改革」というのは日本の組織的伝統の「構造」を「改革」しようとした社会的な一大実験であったと言って良いが、そこには、こうした日本の組織的な伝統に対する自覚があったとは到底思われない。

言い換えると、そこに見過ごされているのは、労働市場も持ち得ない中で、終身雇用と年功序列でもって、アジアの奇跡と呼ばれた「高度成長」を成し遂げ、世界第二位の経済大国にまで成りあがり、一時は「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」とまで称された成果に対する自覚であるが、結局、これらは<「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展>でしかなかったということであろう。一連の「構造改革」とは、またもや「からごころ」の悪弊が出たと言わざるをえないが、この日本人の伝統的思考形式、宿痾としての「からごころ」という接線については、後述する。

なお、日本のバブル期には、アメリカでは「日本式経営」に倣えということで、社内運動会を開催した企業が、少なからずあったことは、今となっては面白いエピソードである。

とまあいったようなことで、私の眼から見ると、当初に挙げておいた自民党の統一教会問題、ジャニーズ問題、ダイハツ問題、自民党のパーティー券裏金問題などは同根であって、日本の組織的な伝統に対する自覚の欠如から、その共同体的悪弊が表に出た事例と言って良いが、ジャニーズやダイハツは営利企業なので、機能集団としての能力が担保されないと倒産が待っているので、この点はそう悲観する必要はないとも言えるが、問題は自民党である。ここには、日本のポリティカル・マインドの問題が関わってくるので、これはまた、この日本のポリティカル・マインドという接線を引いて、改めて論じてみたいと思っている。

ところで、これは当事者でないと解らない機微があるので、断言するつもりはないが、参政党の内紛も、根底には、この日本の組織的伝統に対する自覚の有無の問題があるのではないかと私には思われる。それは、あえて二極化して述べれば、政党として共同体的側面を無視して、機能集団オンリーで行こうとする勢力と、共同体としての性格を守りながら、政党としての機能集団の能力を発揮させようとする勢力の対立といった構図であるが、この点、どう思われるであろうか。

ここには、日本の機能集団=政策集団として政党の難しさがあるのだが、このことは、自民党や野党の派閥というものを考えてみれば、すぐにわかることで、派閥=政策集団でないことは明白であろう。つまり、派閥というのは共同体の中の、それ自体がこれまた共同体だということである。

まあ、政党というのは、与党も野党も、ある意味では日本の組織的伝統の昇華された精髄と言ったら語弊があろうが、典型例であることは確かで、機能集団として突っ走っしろうとして失敗した第一次安倍内閣の反省から、自民党の共同体という性格を守りながら、如何に機能集団としての能力を発揮しうるのかを考えて、それを実行しようと悪戦苦闘したのが、第二次安倍内閣であったと私は考えているのであるが、どう思われるであろうか。勿論、この意味で、そこには妥協がつきものなので、極端に言えば、51の意志を通すために49の妥協をするのが政治であることは言うまでもないだろう。










終戦記念日に考える 2 ー 属国根性について

2023-09-02 14:00:00 | やまとごころ、からごころ
日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実【真・日本の歴史】


知人に教えてもらったのだが、普通あまり見られない視点の考察が随所に鏤められている良質の動画なので、ここで紹介したい。2時間半弱の長尺ではあるが、全くダレることなく、非常に多くの事実や知見が緊密に凝縮して述べられているのは、作成者の見識とプレゼン能力の高さを示していて間然する所がない動画である。いや、素晴らしい。

少し難しい話になるが、前にも少し述べたことがあるように、近代以降の世界規模の歴史的現象は「資本ー民族ー国家」という三位一体のシステムの面から考えてみる必要があると考えている。

<柄谷氏は現在出来上がっている体制を「資本=ネーション=ステート(国家)」とする。この概念は、資本とネーションとステートという異質なものがハイフンで繋がれている訳だが、この見立ては、私には誠に的を得ているように思われる。勿論、この三つは重ならないので、そこからさまざまな現代的な問題が噴出して来ると言うことが出来る。思想的には、この三つが我々の頭の中に内面化されたものとして、それぞれ様々な「経済思想」、「ネーション思想」、「国家思想」などの主義やイデオロギーが考えられるが、大雑把に言えば我々個々人の世の中に対する考え=世界観の違いというものは、この三つの「思想」の微妙な濃淡の違いによる組み合わせのヴァリエーションの違いに過ぎないと言っても言い過ぎではないだろう。従って、政治においてはこの三つの勢力の鬩ぎ合いの結果が、その時々の各国政府の政策的な性格を決めることになると言っても良いだろう。>

一般に、こういった戦争に関する考察や解説というのは、主に「国家」の面から、即ち政治やら外交やら地政学の面からのみなされるのが普通だが、それだけではなく「資本」や「民族」の面からも考えてみることも必要だと言いたいのである。ここで「資本」というのは、平たく言えば「経済」の面から、「民族」というのは、比較文化論的な行動様式の面からであるが、この動画にはそれらの興味深い考察がいくつかなされている。私としては、特に後者について、少し掘り下げてみたいと思うのである。


なお、前回述べた山本五十六については、01:17:50 「 "ちゃぶ台返し”の真珠湾奇襲と連合艦隊司令長官・山本五十六」と説明されているが、実に言い得て妙である。


そして、「経済」面については、一般に日米の国力の違いと言った静態的な説明がなされるのを常とするが、さらに深く踏み込んで、01:28:50 「軍事サービスの供給能力の差が開いたのはなぜか」という動態的な問題設定から、当時日本がインフレであったのに対し、アメリカはデフレであって、軍事的生産能力に対する余力という点でアメリカに分があったという説明は、他ではあまり聞くことの出来ない明快な考察・説明で、これも素晴らしい。

それから、比較文化論的な行動様式の面については、01:05:55 「 米国の”フェア”な要求」ということで、アメリカという国は、”フェア”であると述べているのも、なかなかと興味深い。

これは、いわゆる日本”属国”論にも通ずる話なので、ここで掘り下げてみたいのだが、ここで言われているようにアメリカは交渉に当たって、要求を隠し立てすることなく、”フェア”に臨んできている訳だから、日本側の主体的な問題というものも大きいと言わなければならない。結局、突き詰めると、これは日本人通有の”属国根性”に帰結するのではないかと私は考えるのだが、どう思われるであろうか。

日本人通有の”属国根性”というと、なんだか雲を掴む話のように思われるかもしれないが、この点を明らかにするには、行動様式の帰納法的プロファイリングといった方法が有効ではないかと私は考えている。一般にこういったトピックについては、その是非だけが論じられることが多く、「なに?属国根性?卑屈だ、けしからん!」と言って、いわゆる”遺憾砲”と同じで断罪するだけでは、何ら解決がつかないのは、その背後にあるものを抉り出さない限り、この後も何度も繰り返されることになるからである。

そして、さらにこれに加えて比較文化論的というアプローチを持ち出すのは、こういった視点を考慮に入れないとなかなか我々自身の行動様式に対する見方というものは、相対化出来ないからである。

例えば、日米開戦に当たって日本は、英語・アメリカ語を敵国語として禁止した訳だが、前回の動画でも言われているように、海軍では異なり普通に使われていた。だから海軍は素晴らしいという是非論に陥り勝ちだが、日本の取った行動と、アメリカの取った行動と比べると、また別の面ー文化的な行動様式の違いというものが浮かび上がってくる。

ではアメリカはどうしたのかというと、国中から日本語の出来る人材をかき集めて日本語学校を作り、日本語使いを量産して、彼らに日本を、文化・産業等あらゆる面から徹底的に研究させたのである。孫子の「敵を知り己を知れば百戦危うからず」を地で行った訳であるが、これ以降、アメリカのジャパノロジー(日本学)は相当に進歩した訳で、実際にどのようなやり取り行われているのかはわからないが、現在の日米の様々な交渉の場においても、恐らく日本人特有の交渉態度における弱点を、アメリカ側は相当に熟知した上で、交渉に臨んでいるものと推察される。

と言ったようなことで、話を”属国根性”に戻すと、これはエンターテイメント作品を帰納法的にプロファイリングすれば容易にわかることである。

例えば、国民的アニメである「ドラえもん」である。問題があると、何かに付けてドラえもんにすがるのび太は、アメリカ大統領が代わるたびに、安保第5条が尖閣諸島にも適用されることの確認をいちいち取り付ける日本政府と瓜二つである。



また、例えば広辞苑に名前が載っているほど、日本人の人口に膾炙している「ウルトラマン」である。日本(設定は地球ということになっているが、なぜかいつも日本)の平和を脅かす宇宙怪獣や宇宙人に対して、日本(これも同様に設定は地球ということになっているが)の守護者として、どこからともなく飛来したウルトラマンが無償で戦うという、全くもって善意の守護者としてのウルトラマンという設定は、全くもって善意の守護者としての「ドラえもん」と同型である。その理由付けとしては、一応ハヤタ隊員を事故によって死なせたからだと言う設定になっているが、この設定は全くの善意の守護者たる理由としては、いささか弱いと言わざるを得ない。無理があるのは誰もが感ずることで、それが最終回での「ウルトラマン、そんなに地球人を好きになったのか?」というゾフィーのセリフを入れざるを得なかった理由であろう。



日米安保条約に関しては、果たしてアメリカは有事の際には、日本を守るために出動するのかどうか、という日本側の議論があるが、これは結局のところ、在日米軍は全くの善意の守護者なのかどうかという議論に帰着すると私には思われる。従って、この問いは、問いの仕方を変えて「在日米軍、そんなに日本人を好きになったのか?」という問いに変えてみれば、この議論の答えは明らかであろう。

まあ、実際には、在日米軍は、無償でもなんでもなく、日米開戦時に日本語学校を作ったように、アメリカ自身の行動規範に則って動いているので、先の尖閣諸島の件も同様だが、そもそもこういった議論をすること自体が不毛だと言わなければならない。アメリカが出動しない可能性があるならば、その事態に備えてさっさと日本は行動すれば良いだけのことである。結局のところ、こうした対米日本政府の行動様式に透けて見える、いわゆる「親米保守」の抜きがたいアメリカ依存性癖というものが、”属国根性”の正体であろうと私は考えるのだが、どう思われるであろうか。

例えば原爆投下などを考えてみても、「保守」と「親米」がくっ付くというのは、おかしな話だが、これは「終戦記念日」という、これまたおかしな記念日の背後にある考えと底で繋がっていると思われるので、次回には、このあたりの事について考えてみたい。


終戦記念日に考える 1 ー「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」を観る 

2023-08-21 17:00:00 | やまとごころ、からごころ


今年も終戦記念日がやって来た。特に意識していた訳ではないが、たまたまWOWOWでやっていた「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」を観た。「70年目の真実」とあるので、どんなふうに新しい見方が盛り込まれているのかなといった興味から観た訳だが、私には、この映画のどこに「70年目の真実」があるのか、全く判らなかった。観終わって、やれやれと言った感想を持ったわけだが、この「やれやれ」について、少し書いてみたい。

映画に限らず否定的な評は普段は書かないのだが、ここで描かれた、山本五十六像は、相も変わらず戦争には反対であった悲劇の司令長官という一種の理想的な人物として描かれている。副題に「70年目の真実」とあるが、言うまでもなくフィクションである。従って、この副題はミスリードであるなどと野暮なことは言うつもりはないけれども、半藤一利監修とのことだが、あまりにもフィクションが過ぎる内容である。そうは言っても、人物像として、女好き博打好きであった面は綺麗にスルーされているとか、新聞社の名前が架空の「東京日報」であるとか、そういったささいなことを問題にしたい訳ではない。映画の影響力には侮れないものがあるので、こうした山本五十六像は、現在通念となっている陸軍悪玉海軍善玉論に則ったものであることを問題にしたいのである。

この陸軍悪玉海軍善玉論というのは、小説家の阿川弘之氏がその典型であるが、主に海軍出身者が広めた見方であることは指摘しておかなければならない。この映画の監修者の半藤一利氏も海軍出身ではないが、陸軍悪玉海軍善玉論を広めるのに預かって力のあった一人である。

山本五十六が真珠湾攻撃を決断した理由と戦後の復興にかけた日本海軍の秘策 


どのような組織でも一枚岩ではなく、さまざまな解釈や意見がその濃淡とともに混在しているので、海軍の中にもこういった考え方があったということまでは否定しないが、問題は山本五十六の評価である。様々な資料から、山本は司令長官辞任を盾にとって日米開戦を強硬に主張し、日本を東進させ敗戦に導いた主犯格の人物であるということは言っておかなければならない。

私も、この事実は一応は知っていたが、近年近現代史研究家 林千勝氏が第一次資料に基づいて詳らかにされたのだが、これほどまでに一貫して策略的な姿勢だったとまでは知らなかった。林千勝氏の労を多としたい。知らない人も多いと思うので、両論併記という意味でも、正反対の見解をここで紹介しておきたい。




なぜ真珠湾奇襲案がオモテの会議記録に存在しないのか? 近現代史研究家 林千勝


従って、大勢としては天皇は言うに及ばず軍令部・海軍省、即ち陸軍海軍共に日米開戦には反対であり、朝日新聞を筆頭とするジャーナリズムとそれに乗せられた世論、それに一部の議員が対米開戦強硬派であったという構図の中にあって、それを許した組織的な問題もあったにせよ、謀略的とも言いうる立ち回りによって、山本五十六司令長官と永野陸軍総長が、日本を日米開戦へと向かわせたというのが真実であろう。

それにしても、この山本にしても永野陸軍総長にしても、なぜこういった挙に出たのかは、どうもよくわからない。極東軍事裁判における永野の尋問調書における発言も、基本的に山本に責任を押し付けるといった保身の意志がありありと伺われる内容で、ではなぜ、その山本を重用したのかという点については全く触れられていない。

そもそも真珠湾攻撃の理由付けとしての、攻撃によるアメリカ戦意喪失論と山本の有名な発言ー「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。」というアメリカ猛反撃予想論は矛盾していて、整合性が取れていない。にもかかわらず、海軍善玉論は、後者の認識の正当性だけを強調し、それは海軍の伝統として世界情勢を良く知っていたからだといったロジックであるが、正反対の前者のアメリカ認識の方は無視、或いは黙殺といった論理の建付けになっていることは指摘しておかなければならないだろう。まあ、海軍出身者が海軍善玉論を論うのは判らないでもないが、そうではない半藤一利氏が陸軍悪玉海軍善玉論を唱えたのは、訝しいところである。この意味では、現在広く影響を及ぼしている半藤史観も再検討が必要であろう。

私も色々な書物を読んで来たが、この真珠湾攻撃によるアメリカ戦意喪失論というのがどこから出てきたのか、どうもよくわからない。或いは真珠湾攻撃まずありきのこじつけ的理由付けかも知れない。林千勝氏が述べているように、とにかく正式な会議にかければ、当時の軍令部・海軍省の情勢分析と真っ向から対立するので、それが山本が正式な会議にはかけることをせずに、裏工作に走った理由であろう。

結局のところ、山本・永野の二人がどういったことを考えていたのかは良くわからないと言わざるを得ない。これは想像するしかないのだが、或いは左翼の「敗戦革命論」に近いものを胸の奥深く秘めていたのかもしれない。このあたりの事は歴史の暗部という他はない。


それはともかく、この日米開戦に至る過程は、私には現在の状況と重ね合わせて考えざるを得ない。後になって考えてみれば、なぜあんな無謀なことをしたのであろうかということになるのではないか、そう思われて仕方がないのである。

ロシアに対する経済制裁というのは、どういう経緯で決定されたのかはどうもよくわからないのであるが、岸田首相のリーダーシップによる独断とは考えにくい。おそらく自民党主流派の意向であろうが、「力による現状変更は認めない」という国連軍司令官にでもなったような岸田首相の発言が大義に値するのかどうかはさて置き、そこにはロシアウクライナ戦争の趨勢に対する大局的な戦略的戦術的認識・分析があったとはとても思えないのであるが、この点どう思われるであろうか。

専門家にもいろいろな意見があるが、ウクライナとロシアの戦力比は大体1対5ぐらい、中には制空権や人的機械的ソフトウェアも含めて考えると1対10という専門家もいる始末で、このことから常識的に考えれば、日米開戦時の日本と同じく、当初からウクライナの敗戦は、決まったも同然だと見るのが妥当だろう。日本のマスコミは、ロシアの劣勢、ウクライナの反攻・反撃ばかりを騒ぎ立てているが、太平洋戦争時の大本営発表とそっくりである。苦し紛れのクラスター爆弾の使用決定がいい例で、ウクライナの劣勢は明らかなのであるが、恐らく、ここ1年くらいのうちにウクライナの敗戦は決定的になるものと思われる。その後は「ポツダム宣言受諾」に至るか、NATO・ロシアの全面戦争に発展するかのどちかであろう。ゼレンスキー大統領のこれまでの発言を見ていると、これまた日米開戦後の大本営発表とそっくりで、講和など全くの眼中にはないといった有様で、やっていることは「国民総動員」徴兵で、国民総玉砕を目指しているかのようで、まるで太平洋戦争末期の日本を見ているようだ。実際には、裏で色々と講和への丁々発止のやり取りが行われているようだが、NATO内の強硬派・アメリカの介入・妨害があって、上手くはいっていないようである。日本のマスコミでまことしやかに言われているプーチン失脚だとかプーチン暗殺だとかは、むしろゼレンスキー大統領にこそ言えることであって、その可能性は十二分にあると私なぞは考えるのだが、ある日突然「ゼレンスキー大統領国外逃亡」といったニュースが流れることになるのかもしれない。

とこういったことを書くと、直ぐに親ロシア親プーチンかとレッテルを張る人がいるけれども、私が言いたいのは、今回もまた日本が敗戦国側になるのは、火を見るより明らかであるということである。このロシアに対する経済制裁という決断が、今後の日本の外交上どれだけ国益を損ねることになるのかを考えると、空恐ろしい気がするが、急速に親ロシア・親中国・反米へと傾いているアラブ諸国との関係を考えれば、またもや日本には、日米開戦時と同じように、石油が入ってこない事にもなりかねない。

【日本崩壊政権】岸田外交は日本を石油危機に導く?! 中東産油国にとって日本の重要性は中国,韓国以下に転落!



また、麻生氏の台湾での発言にも見られるように、「台湾有事は日本有事」というのは自民党主流派の基本的な立場と言って良いだろうが、現在の極東情勢の中でロシアを反日にするということは、如何なる意味を持つのか考えているのだろうかという問いかけもむなしい気がするのは、私だけであろうか。

私自身は、「台湾有事」の可能性は限りなく低いと考えているが、何が起こるかわからないのが、歴史の恐ろしいところである。もしそういった事態を想定した場合、中国の身になって考えてみれば、中国一国だけで事を起こすとは考えにくい。むしろ、利害が一致する中国・北朝鮮・ロシアの三国同盟というのは当然に考えられるシナリオである。この三方に対応するだけの軍事力を、現在は兎も角、自衛隊に近い将来であっても持つことが出来るかどうか。増してや、石油が入ってこなくなったら・・・。

自民党主流派は、アメリカを当てにしているようにも見えるが、この点どう考えているのか、どうもよくわからない。これは私の推測であるので、誤解されないように釘をさして置きたいが、どうも日本政府は内々にアメリカから、期限付きで在日米軍撤退の通告を受けているように思われてならない。それが、軍事費増強ありき財源論後回しで遮二無二に軍事費増強に向かう理由であろうと私は邪推するのであるが、どう思われるであろうか。

勿論、その時期は在韓米軍撤退と機を同じくするはずで、その時日本は存亡の危機に立たされることになる。しかし、ピンチはチャンスでもある。それはまた、日本は属国から真の独立国として立つ絶好の機会でもあるということでもあって、その時日本は、果たしてそれにふさわしいリーダーを持つことが出来るのであろうか。




憲法改正方式試案

2023-06-02 12:00:00 | やまとごころ、からごころ
憲法改正に関する議論はいろいろとあるが、ここでは少し毛色の変わった提案をしてみたいと思う。それはすなわち、例えば第9条とか緊急事態条項とかいった憲法改正のコンテンツに関する提案ではなく、言わば憲法改正のマナーに関する提案である。方式試案とした所以である。

具体的には、日本国憲法改正に当たっても、アメリカ合衆国憲法のように、改正内容を『修正第○○条』と書き加えていく方式を取ったらどうかというものである。

その利点はいくつかあるが、一つは争点の明確化である。自民党の改正案などが良い例だが、多くの部分に手が入れられているので、第9条の改正部分については賛成だが、緊急事態条項には反対だという人は、結局、自民党案には反対だということになろう。これでは改正など覚束ない。また、他の改正部分については良く判らないように争点を曖昧にしたまま、改正を目指すという目くらまし的な政治的な動きも見られるので、争点ごとに修正条項でもってそのつど改正していけば、取り返しの付かないことにはならない訳である。また、仮にそのような事態になったとしても、この方式だと修正が容易であることは言うまでもない。

さらなる利点、と言うか、事はもっと根底的・根本的な伝統的な立法思想の継続性に関わることなので、この点はややこしい問題なので、以下、少しばかり詳述したい。

アメリカ合衆国憲法がこのような修正条項方式を取るに至ったのは、当然のことだが、背後にそれなりの立法思想がある訳だが、以下の記事では面白いことに、専門家である一橋大学大学院法学研究科教授阪口正二郎氏は、「なんでそんなややこしいことをするんでしょうか」という問いに対して、「わかりません(笑)」と答えている。まあ、正直と言えば非常に正直な返答であろうが、法科の高等知識を持つ専門家にもそういった背後にある立法思想というものに関する知見がないようなのである。やれやれ。

憲法改正の流儀[アメリカ編]

憲法改正の流儀[アメリカ編]

他国の「憲法改正の流儀」を知ることは、わが国の改憲論議にも大いに参考になる。日本国憲法も強い影響を受けた米国合衆国憲法はいかなる改正を経てきたのか。一橋大学大学...

日経ビジネス電子版

 



そして、阪口氏の答えだけでなく、この「なんでそんなややこしいことをするんでしょうか」という問い自体も、私には非常に興味深い。ここには現代日本人通有の考え方が表れているように思われるからである。逆に言えば、現代日本人の考え方における、ある種の盲点と言うか、死角が、ネガとして逆説的に表れていると言っても良いだろう。

それを明確にするために、ここで、例として先の記事でも触れられている禁酒法についての修正条項を見てみたいと思う。アメリカには禁酒法の時代があったことを知っている人は多いと思うが、この禁酒法がアメリカ憲法の修正条項で決められていることを知っている人は多くはないだろう。修正条項を見ていくと、かの地アメリカでは、1919 年に修正第18条で一旦禁酒法を定めてから、1933 年に修正第21条でその第18条を廃止しているということが判る。

この「修正の修正」には、<なんでそんなややこしいことをするんでしょうか。削除してしまえばいいのに>と思う人が大半ではないかと思うが、どう思われるであろうか。


修正第18条[禁酒修正条項] [1919 年成立]

【第1項 この修正条項の承認から1 年を経た後は、合衆国とその管轄に服するすべての領有地におい て、飲用の目的で酒類を製造し、販売しもしくは輸送し、またはこれらの地に輸入し、もしくはこれらの 地から輸出することは、これを禁止する。

第2項 連邦議会および各州は、適切な立法により、この修正条項を実施する権限を競合的に有するも のとする。

第3項この修正条項は、連邦議会がこれを各州に提議した日から7 年以内に、この憲法の規定に従っ て各州の立法部により憲法修正として承認されない場合には、その効力を生じない。


そして、この修正第18条は修正第21 条で全文廃止にされている。

修正第21条[禁酒修正条項の廃止] [1933 年成立]

第1項 合衆国憲法修正第18 条は、本修正条項により廃止する。

第2項 合衆国のいかなる州、準州、または領有地であれ、その地の法に違反して、酒類を引渡または 使用の目的でその地に輸送しまたは輸入することは、この修正条項により禁止される。

第3項 この修正条項は、連邦議会がこれを各州に提議した日から7 年以内に、憲法の規定に従って各 州の憲法会議によりこの憲法の修正として承認されない場合には、その効力を生じない。



結局のところ、これは履歴を残して置くことに意義を見出すかどうかの考え方の違いであると言って良いだろう。一般に、現在の日本人はこういう場合、条文を削ったり文言を上書きして変更することを好むのである、そう言ってもあまり異論は出ないだろう。最近流行りの断捨離などもこういった考え方とは無縁ではないのではないかとも思う。

だが、履歴を残して置かないことによる問題もまた大きいと言わざるを得ない。むしろ、害毒の方が大きいのではないかとさえ言いたいのがこの試案の主張である。

実は、日本においても履歴を残すという方式を取っているものがいくつか存在する。土地の登記簿や戸籍である。





あまり良い画像がなかったので判り解り難いかもしれないが、登記簿や戸籍においては項目を抹消或いは変更する場合、斜線を引くだけで消去したり上書きはしないで、履歴が判る方式を取っている。これは、端的に言えば、裁判沙汰など問題があった場合に、履歴を残して置かないとそもそも正当性の判断が出来ないし、瑕疵があった場合も復旧が出来ないからである。

ただ、そういった実務的な理由にとどまらない重要な理由もここには存在する。

それは端的に言えば、伝統の歴史的な継続性という精神史的な問題である。

これは突き詰めると歴史感覚ということになるのであるが、現代日本人には、この歴史感覚というものが希薄なのだと言っても良い。と言うよりも、変な言い方だが、こういった歴史を否定する考え方の歴史もまた、日本人には長く存在するのである。

例えば、何か不祥事を起こして更生する場合には、これからは「心を入れ替えて」再出発するというような言い回しが良く使われるが、これは考えてみると奇妙な表現である。果たして心というものは、入れ替えることが出来るものなのだろうか。また、最近は例えば「テレビは洗脳装置」などという表現を良く聞くが、この「洗脳」というのも、おかしな言葉で、そもそもテレビによって洗脳が出来るものなのだろうか。文字通りに考えれば、「脳を洗う」ことが出来るのは、検視官か解剖学者だけであろう。こういうことを言うと中には怒りだす人もいるので、この点は、今一度胸に手を当てて良く考えてもらいたいが、どうやら我々日本人は、容易に別人格にされてしまったり、時には自ら別人格にもなれるような特異な文化的な素養を持っているようだ。少なくとも、我々日本人は、それが至極当然だと考えていて疑問を抱かないとは言えるだろう。また最近、「今だけ、金だけ、自分だけ」という表現も良く耳にするが、このように歴史的な継続性の感覚を欠いているために、それだけ刹那的な時間軸や時間感覚の中に、我々現代日本人は生きていると言い換えても良いだろう。

先ほど、精神史や歴史感覚という言い方をしたが、こういった歴史や○○史といった言葉だけでなく、伝統だとか文化という言葉もまた良く使われる言葉であるが、果たしてどれだけ長いスパンの時間軸や時間感覚において、それらの言葉が使われているのかは、論者によってまちまちであろう。議論が紛糾する所以であるが、普通、現在の日本国憲法改正を考えるにあたっても、旧大日本帝国憲法の内容が参照されることはほとんどないと言って良い。つまり、憲法改正に当たっては、現在の憲法は占領憲法であるからというような、言わばマナーの問題だけが注目され、大日本帝国憲法から日本国憲法へどう変わったのか、或いはどう変わらなかったのかというコンテンツの切断や継続性の問題はほとんど問題にされない。ましてや、その前の江戸時代の法体系からの切断・継続性がどうであったのかは、言うまでもないだろう。

誤解を招くといけないのでくぎを刺しておきたいが、法体系の切断・継続性と言っても、私が問題にしたいのは、専門的高度な難しい議論ではなく、現在の我々の意識に、普段意識されている常識的な歴史感覚であって、この意味で注目したいのは、江戸時代への親近感である。或いは郷愁と言っても良いかも知れないが、現在の日本においては、大河ドラマ(そのほとんどは江戸時代へ移行・確立期が対象)が良い例で、エンタメの一ジャンルとして時代劇という強固なジャンルが確立している。また、サムライ・ジャパン等の呼称が示すように、武士道が何かつけて参照されることも挙げられるであろう。これは非常に大雑把な言い方になるが、この意味では、精神史的な継続性に関しては、現在の日本は明治・大正をパスして江戸時代と地続きで繋がっていると言っても言い過ぎではないだろう。極端な言い方をすれば、現在の日本人の社会秩序に対する考え方というのは、基本的に江戸時代の社会秩序に対する考え方からほとんど変わっていないのである。

そして、これもまた異論もあろうが、そのことを端的・象徴的にに表しているのは、終戦記念日という呼称である。この敗戦ではなく終戦という表現の背後にあるのは、「やれやれ、やっと終わった」という安堵の気持ちであろう。つまり、日本は明治・大正と無理をして「軍国主義」へと舵を切ってきたのだが、やっとその無理難題から解放されたということである。制度的に見れば、江戸時代の朝廷・幕府二極体制から、明治になって国際情勢による圧力により、相当な無理をして現人神である天皇(=朝廷)一極体制にもっていったのだが、敗戦によって元の二極体制(象徴天皇・代議制民主主義)へ戻ったと見ることが出来る。従って、成立上のマナーは兎も角として、現日本国憲法のコンテンツは、近代民主主義という建前になっているが、実際には、本音としては、江戸時代的秩序的なものとして捉えられ、それに沿うように弾力的に運用されていると言わなければならない。例えば、私学助成金である。憲法八九条の「公金その他の公の財産は・・・公の支配に属しない慈善、教育・・・に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」という規定に対して、この問題については厳格に解釈しないという与野党の合意が成立している。私立学校は「公の支配」に属するので私学助成は憲法違反でないといった建前になっているのであるが、この合意形成の背後にあるものは、江戸時代的寺子屋制度を是とする「世間」観であろう。

換言すれば、日本は明治維新によって朝廷・幕府二極体制から、攘夷を経て倒幕開国へというように「心を入れ替えて」天皇一極体制へと別人格に変身し、それによって近代化には成功したが、最終的にはその最終進化型である超国家主義的軍国主義へと変貌し、思想的組織的無理が祟って敗戦へと追い込まれることとなった。そして敗戦時に、鬼畜米英からギブ・ミー・チョコレートへと再度「心を入れ替えて」別人格に変身し、象徴天皇・代議制民主主義という名目の、実質的には江戸時代的朝廷・幕府二極体制へと先祖返りしたのである。この意味で、繰り返しになるが、戦後の日本は名目上は「民主主義国家」であるが、実際には江戸時代的社会秩序である「世間」として、運営されていると言う事である。

この意味するところは、日本人の国民性というものは、江戸時代からは左程変わってはいないという事であるが、逆から考えれば、現在の日本人の社会に対する考え方やものの見方というものは、大体のところ、江戸時代的秩序の成立時にまで歴史を遡ればよいという歴史観に帰着することになる。

そして、この私の常識的な歴史観に合致したものとして、私には内藤湖南及び山本七平両氏の史観が、真に正鵠を得たものであると思われる。



<大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知って居れば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります。>(内藤湖南「応仁の乱に就て」)

この湖南の考えは、「文化史」とあるように文化に重点を置いた見方であると言って良いが、山本は日本人の考え方や感じ方、つまり精神史に重点を置いて、これを補正し、1467年の応仁の乱よりさらに235年遡って、1232年の『御成敗式目』制定に現在の起点を見い出している。



この『御成敗式目』は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、最後にちょろっと触れられた程度で、その内容については全くスルーであったが、形式的には、朝廷による認定も将軍による署名もない、単なる政治を司る執権職の手になる文書で、今でいえば、言わば地方官僚の手になる一地方知事が制定した政令といった程度の代物であった。それが、結果として日本全国に広く流布し、行き渡って、近世には寺子屋のテキストになり、それが明治の学制施行まで続いて、640年もの間範として仰がれることになったのである。その内容は、当時の社会通念を言語化して法制化したもので、日本的な社会的慣習・慣行の、言ってみれば日本の”コモン・ロー”の成文法化であったと言うことが出来る。

山本は、『御成敗式目』について日本人の相続原則・刑罰思想・日本的実力主義など、様々な側面から克明に考察しているので出来れば参照していただきたいが、例えば、一般に日本では長子相続制であったという誤解があるが、それは全くの間違いで、御成敗式目27条ではそれまでの実績の評価と能力の有無だけが基準であり、相続順位は功績、能力順位であっても、決して血縁順位でなかったことが示されている。実際には「奉公の深浅」と「器量」による「指名相続」制だった訳である。

当時のこの相続に関する考え方は、現在の我々日本人の相続に対する考え方に、地続きで続いているという点で、非常に興味深いので、少しここで紹介したい。旧帝国憲法下でも同様であったが、現在の民法は、血縁順位に基づく均等相続制を取っているが、この均等相続制というものは、果たして我々の伝統的な相続観と一致するものであるのかどうか、今一度、考えていただきたいからである。

例えば遺言があれば、法定相続分よりも遺言書の内容が優先されるのであまり問題は生じないとも言えるが、遺言がない場合にはこの法定相続による均等相続制がしばしば揉め事の原因になる。事業を誰が継承するのかとか、親の面倒を誰が実際に見ていたとか、兄弟のうち一人だけが大学に行かせて貰ったというような、言わば”不均等”な事実との間に齟齬が生じる場合があるからである。こういった場合には不合理と感ずる人が多いのではないだろうか。

また、興味深いのは、式目における「指名相続」制には、「悔い還し権」なるものが謳ってあることである。これは、相続者が所領を経営しないとか、両親を扶養しないとか、一族の面倒を見ないとかいった場合に、隠居には相続を否定して取り戻す権利というものが担保されていたということである。これなぞは、現在の中小企業は言うに及ばず、上場企業などでも同様だが、新社長に席を譲って会長に就任したものの、不祥事や業績低迷などの理由で、会長がまた社長に返り咲くといったケースがまま見られるのも、現在の会長職は会社法には明記のない不文律として、この「悔い還し権」を持っていると言えよう。時には、新社長派と会長である旧社長派とが主導権を巡って対立し、”お家騒動”になったりもするが、この「悔い還し権」に対する意識の違いというものも、当然にそこには存在していると考えられるので、明文化のないために法的に決着がついても、そこには遺恨が残る場合が多く、そのためその後も熾烈な派閥争いが続くといったことも多いようだ。


といったようなことで、日本の近代の歴史というのは、西洋近代国家の制度を急いで取り入れたために、民族的・伝統的な文化との齟齬をきたし、この意味で建前と本音のギャップを如何に埋めるかに腐心して来た歴史であるとも言えよう。建前としては、「心を入れ替えて」民族的・伝統的・文化的な考え方を否定し抹消したことになっているが、当然のことながら本音の部分では、そう易々と変われるはずもないのは、個人の場合と同じである。最近のLGBT法案なども、議論を見ていると、その根底にあるのは、この建前派と本音派の争いであること判る。

この建前と本音との間のギャップをどう埋めるかというのは、個人の場合と同様、なかなかと難しい問題であるが、まずは本音である日本人の民族的・伝統的・文化的な考え方と言うものを明確に自覚する必要があるとは言えるだろう。それは「心を入れ替えて」削除したつもりであっても、返って逆に、無意識のうちにそれに歪な形で囚われることになってしまい、害が大きいからである。この意味では、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という格言にある如く、「歴史に学ぶ」必要があろうが、それは戦後の歴史教育というものは「心を入れ替えて」、戦前の歴史を抹消した上で行われているという「歴史に学ぶ」必要があるということである。

といったようなことで、憲法改正に当たっても、明治維新時と昭和の敗戦時における伝統的なリーガル・マインドの否定・断絶というマナー、近代日本における「心を入れ替え」るという誤れるマナーの轍を二度と、いや三度と踏まないために、総上書きによる総入れ替え方式ではなく、修正条項方式による斬新的憲法改正を、ここに提案するものである。


「えん罪弁護士 今村核 ブレイブ 勇敢なる者」

2018-06-03 16:00:00 | やまとごころ、からごころ
良い番組だと思うので、改めて追記ではなく独立したエントリーにすることにした。

先に、山本七平の

<ロッキード事件の一審の判決というのは、全く今までのワン・パターン。冤罪事件と言わず、日本のあらゆる刑事事件で、今までの裁判官たちが繰返しやってきたことと同じ。それを一言で言うと自白裁判。事実認定の最大の拠り所は自白だったということ。>

という文章を引いたが、日本の刑事事件の現状がどういうものか、非常に興味深い番組がNHKで放送されたのを見つけたので紹介したい。この番組にも出て来るように、日本の刑事事件の有罪率は99.9%であって、実際には「悪魔の証明」をしないと「無罪」を勝ち取れないというのが実状である。



「悪魔の証明」と日本におけるリーガル・マインド(2)

2018-05-20 09:00:00 | やまとごころ、からごころ
この山本七平の「日本は法治国家ではなく納得治国家」というのはなかなかと核心を突いた面白い表現で、新聞やテレビなどのいわゆるオールドメディアや一部の野党にとっては、「悪魔の証明」にしろ「推定無罪」にしろ、こういった「西洋の理屈」では、まず彼等を「納得」させることは相当に難しいのではないかと思われる。そもそもそのよって立つ考え方が原理的に違うのだから。

現実をそのままに眺めれば、現在の日本においては、この「法治国家」と「納得治国家」、先に述べた言い方で言えば「西洋近代社会」と「日本の世間」の相反する2つの考え方が混在し鬩ぎあっているのであって、このゴルギアスの結び目を解くには、西洋と日本の比較文化論或は比較制度論的視点というものが要請される必要があると言えるだろう。

この点において、誰が書かれたのか知らないが、割と不正確で問題が多いwikiの文章のなかにあっても、この推定無罪に関する文章は素晴らしいだけでなく、それに加えて山本七平を持ち出して来るというのは、誠に当を得た記述だと思うのである。それは刊行から三十年以上も経っているにも関わらず、山本の分析は今なお抜群の洞察を含んでいると私には思われるからで、この本は残念ながら絶版になっていることでもあるし、主にリーガル・マインドに的を絞って、中味を少し紹介したいと思うのである。




<西欧では「事実の世界」と「法と権利の世界」を区別しても、この二つは共通の伝統的文化的基盤の上にある。だが日本はそうではない。この点を果して西欧的に割り切ってしまえるかという問題である。>

<二つの点とは、まず第一に、その基本たる「千年単位の伝統」が日本にないことである。次に西洋において「事実の世界」と「法と権利の世界」を別個に構成したとて、それは同一の社会的基盤を基としているのであって、根底ではつながっており、それを「別個に構成する技術」を彼らが創始したということに過ぎない。その「法と権利の世界」を翻訳によって日本に輸入することは出来るが、それは必ずしも「事実の世界」と社会的基盤が同じでないということである。>


山本はこの「法と権利の世界」を「宗教法的世界」とも言っているが、我々日本人にはいささか解りにくいので、この点についてここで註釈して置くと、そもそも<憲法という概念は聖書・キリスト教伝統から発生した>訳であって「法と権利の世界」は「宗教」がベースになっている。より正確に言えば「国教」national religionがベースになっている。一例を挙げれば、西洋の裁判では証言宣誓はバイブル、すなわち神に対して行われるといった塩梅である。しかるに、この「国教」という概念自体が日本人にはなく、日本の伝統の中にそれに該当するものがないので、山本も書いているように、明治時代には神道を国教化しようと政府が膨大なエネルギーを投入したにも関わらず、結局は失敗に終わることとなった。その社会的基盤たる伝統が無かったためであって、これも一例を挙げれば「国教」という概念は当然に宗教混淆を否定する排他性を本質的に持つのであるが、現在でも我々日本人は、初詣、七五三、結婚式、葬式など神仏キリスト教儀式のごちゃ混ぜに何ら疑念を抱かないといった塩梅である。またあまり知られていないが、明治四年までの一千年の間天皇家には仏壇があって、歴代天皇の位牌があり、法事も仏式であった。その菩提寺は京都の泉涌寺であった訳だが、このような宗教混淆(シンクレティズム)の伝統を持つ日本には、そもそも「国教」national religionなどという発想自体が存在しえない訳である。

少し脱線するが、この点で興味深いのは、新渡戸稲造の『武士道』である、この本の前書きには、この著作を書くに至った着想として、日本にはなぜ宗教教育というものがないのかという外国人の友人や妻(外国人)の疑問に対して、それに当たるものが武士道だと思い当ったことからこの著作をものしたと書かれているが、これなぞは新渡戸の勇み足であろう。それがこの『武士道』の内容の混乱、牽強付会によく表れているように私には思われる。それは兎も角、日本の伝統の中にそれに該当するものがないので、明治期にあったこうした「国教」に対する要求や指向性は結局のところ失われてしまうことになった訳である。


<裁判は決して”真実”を明らかにするものではない。・・・人々の法意識がそのようなものであると、近代裁判が機能し得なくなり、その系として、基本的人権を守るための歯止めが消滅してしまう。・・・川島武宜教授は、近代裁判の本質を科学的理念型として表現して次の様に言った。・・・裁判を行う前に事実があるのではない。裁判の結果として事実が決定されるのである、と。>

<原告(またはその代理人)の主張も、被告(同上)の主張も、仮説にすぎない。裁判官は、これを所定の方法(手続)によって検証(判断)する。その結果、ある主張をしりぞけ、他の主張はしりぞけない。故に、『裁判に勝った』からとて、当該人の主張がしりぞけられなかったというだけのことで、”真実”が発見されたという意味ではない。ましてや、『正義が勝った』などという意味ではない。・・・近代デモクラシー諸国における裁判にとって重要なのは、手続き(裁判のやり方)であって結論(判決)ではない。>


この「『裁判に勝った』からとて、当該人の主張がしりぞけられなかったというだけのことで、・・・『正義が勝った』などという意味ではない」はともかくとして、「重要なのは、手続き(裁判のやり方)であって結論(判決)ではない」、「裁判は決して”真実”を明らかにするものではない」といった説明には、多くの日本人にはいささか首を捻るのではないだろうか。

ここで、では”真実”は一体どうなるんだ!うやむやでいいのか!という声が聞こえてきそうだが、近代デモクラシー西洋諸国においては、それは”神のみぞ知る”という事で、宗教の領域なのである。前回の言い方で言えば「guilty or not guilty」が裁判の分担領域で、「guilty or innocent」は宗教の分担領域ということになるとでも言えば判りやすいだろうか。従って死刑判決後に、神父なり牧師が死刑囚の牢屋にやって来るのはその為である。


山本は、こういった彼我のリーガル・マインドの”捩れ”の所以を、このように一般論化して述べている。


<外来の強烈な普遍主義的思想を受け入れると、それは一見そのまま受け入れたように見えながら、実は、その国もしくは民族の文化的蓄積の中から、その普遍主義的思想と似たものを掘り起こして共鳴する、そしてその共鳴を外来思想として受け取る。・・・矢野教授はこれらの現象を一種の「もどき」現象とされる。簡単に言えば民主主義は「民主主義もどき」になり、法治主義は「法治主義もどき」になる。>

<自己に文化的蓄積がないものは、当然のことだが掘り起こし共鳴現象は起きない。>


この「法治主義もどき」を山本は「納得治主義」と言った訳であるが、この意味でそもそも日本に輸入された外来思想は総て「もどき」になってしまうということである。古くは「仏教もどき」や「儒教もどき」、「キリスト教もどき」に始まり、「共産主義もどき」や「保守主義もどき」に「リベラルもどき」、つい最近でも「ポストモダン思想もどき」や「リバタリアンもどき」なんてのがあったが、日本思想史においてはこれらの外来の「様々なる意匠」が跳梁跋扈し現在に至っているのはご存知の通りである。

そして山本は、明治8年から10年ごろの地方の政治結社、民間の俗謡、不問に付された汚職事件を概観し次の様に述べているが、現在の野党の性格を考える上でとても興味深い。こういった日本的伝統のエトスの上に現在の国会も運営されている訳である。


<当時の人々にとって、憲政を実施して民選議院を設立するということは、「立法府」を樹立するということより、政府の不正や秕政を糾弾する場をつくるということであったことがわかる。それは立法権よりむしろ監察権か審問権とでもいうべきもので、国民が法律をつくるといった意識が鮮明にあったとは見えない。この伝統は今も強く残り、法案は殆ど政府から提出され、議員立法はむしろ例外的である。>


繰返して言えば、「法治主義」における「推定無罪」という考え方は、我々日本人の文化的蓄積の中にはないもので、これに共鳴するものがないので、日本人にはこれほど理解し難いものはないとも言い得るのである。この点はマスコミや一部の野党だけではなく、司法関係者や法曹も例外ではないのであって、多くの判例を引くまでもなく、今回のいわゆるモリカケ問題や財務事務次官のセクハラ問題報道においては、地上波テレビのコメンテーターとして多くの弁護士などの司法関係者が発言しているが、「マスコミ判決」とも言うべきその発言内容を見ても、「推定無罪」という考え方に立って発言している人物は圧倒的に少数派であって、ロッキード裁判の時と全く変わっていないのは呆れるばかりである。どれだけ自覚的であるのかは別として、マスコミもまた野党と同様に、先の「政府の不正や秕政を糾弾する」という日本的伝統のエトスに基いて行動しているのは言うまでもないだろう。


また、こういった「法治主義もどきの納得治国家」におけるマスコミの役割についても、山本は述べていて、この三十年以上も前の指摘は、若干の留保がつくものの新聞や地上波テレビなどのオールドメディアについては現在も殆どそのまま当て嵌まるのは、それだけ本質を付いているということであろう。一言で言えば、マスコミもまた「ジャーナリズムもどき」であって、山本は「新聞全体主義国」とまで述べているが、言い得て妙であると思うのは私だけであろうか。


<刑事裁判は無罪の想定からはじまる」のでなく「人々が納得するか否か」の想定からはじまる訳である。では人々が納得するかしないかは何によって決まるか。それはマスコミ、特に新聞によって決まる。>

<日本のマスコミの付和雷同性は世界に冠たるところ。>

<ロッキード事件の一審の判決というのは、全く今までのワン・パターン。冤罪事件と言わず、日本のあらゆる刑事事件で、今までの裁判官たちが繰返しやってきたことと同じ。それを一言で言うと自白裁判。事実認定の最大の拠り所は自白だったということ。つまり検察官の検面調書で全体が覆われてしまって、裁判所の判断が表れていない。>

<デモクラシー諸国における世論は、常に複数でなければならない。大賛成から大反対まで、様々なヴァリエーションがあり、どの小数意見も尊重されなければならない。それゆえ『世論はこうだ』という表現はあり得ないのである。この民主主義国家にはありえないことが日本にはあり得る。いわば新聞全体主義国では、「世論はこうだ」から「その通りにしないと納得治国家は治まらない」が、”民主主義の名の下に”条件付け権力となり、司法権をも「角栄有罪」とまず条件づけてしまう。>

<そしてこの「世論」は「単数」であるから、ちょうど「新聞辞令」という言葉があるように「新聞求刑」「新聞判決」がまずあって、それに裁判官が従うことによって「納得治国家」が存立するという形になっても不思議ではない。或る意味でマスコミは全国民への「根回し」をやっているようなものだが、そこには何の職務権限もないから、結果に対して責任を追及されることはない。>

<というのは「マスコミ的根回し」の「納得治」の前に、われわれ民衆は実に無抵抗な存在だからである。>


現在、放送法改正や電波オークションが規制改革上の議題に上っているが、この点ではインターネットによる通信技術革新は、将来、日本における「報道革命」を齎すことになったと言われるかも知れない。これによる報道情報の多様性によって日本「新聞全体主義国」が崩壊することになった、というように。丁度、グラスノスチ(情報公開)によって、ソ連邦が崩壊したように。



「悪魔の証明」と日本におけるリーガル・マインド(1)

2018-04-05 12:00:00 | やまとごころ、からごころ
 最近の国内政治に関する報道の中でキー・ワードとして聞きなれない2つの言葉が出て来たのが、私にはとても興味深い。その内の「忖度」の方の意味については「忖度」するまでもないと思うので(笑)、「悪魔の証明」について少し書いてみたい。

 最初にこの言葉を目にした時には、「悪魔の証明」?はて?聞いたことがあるような気もするが、どういう意味だったか知らんと思って早速検索してみた。

wiki悪魔の証明

 これを見ると、安倍首相が直接的に言わんとしたことは「消極的事実の証明(ないことの証明、Evidence of absence)」という意味であると思われる。元々は所有権の帰属を証明する困難性の比喩であったというのは面白い。つまり所有権が”ある事の証明”を指していた訳だ。だが、そういった歴史的経緯は経緯として、検索してヒットした他の文章も幾つか読んでみたが、殆どが法律家や法律関係者の文章で、言いたいことは判るが、どうも今一つ腑に落ちて来ない、ピンと来ない説明ばかりである、そう思うのは私だけであろうか。

例えば比較的判り易いものでも、こういった文章である。

安倍首相が主張する「悪魔の証明」…なぜ「ないこと」を証明するのが難しいのか

 そうやって色々と調べながら考えを巡らしている内に、おお、そうか!とはたと思い当った。ハリソン・フォードの顔が浮かんで来たからである。



 つまり、私が思うにこの問題の核心にあるのは、刑事法におけるいわゆる「推定無罪」の原則である。この「推定無罪」という言葉を使って説明した方が、「悪魔の証明」を使うよりももっと判り易く、もっとスッキリとした説明になるのではないかと思うのである。

wiki推定無罪

 具体的にはこの問題の論点は、上のwikiの説明の定義にある<狭義では刑事裁判における立証責任の所在を示す原則であり、「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決が下される(=被告人は自らの無実を証明する責任を負担しない)」ということを意味する(刑事訴訟法336条など)>という点にあるのは、安倍首相の発言からも明らかであるが、あまり馴染みのない「悪魔の証明」という言葉を使ったがために、今一つ反論という意味では弁論上のプレゼンテーション効果に欠けた恨みがあるように思うのである。気楽な傍観者の意見ではあるが、「被疑者に立証責任を求めるのは、近代刑事訴訟の大原則に反する」とでも言えばよかったのではないか。


 ここで以前から不信に思っているので、特筆大書きして付言して置きたいのは、日本における「無罪」という法律用語は果して妥当なのかという疑問である。私はこれは「誤訳」ではないかと疑ってさえいる。この言葉に確定するに至ったのはそれなりの立法制度史上の経緯があっての事と思われるが、日本では裁判においては「有罪」か「無罪」かを判定することになっているが、英米法ではそうではない。ご存知の方も多いと思うが、英米では

guilty or not guilty

と表現し、裁判とは「guilty 有罪」か「not guilty有罪でない」かを判定することになっている。仏独などの他の欧米諸国においてはどうなのか寡聞にして知らないが、先の日本版wiki推定無罪には制度化の歴史の項にフランス人権宣言(1789年)第9条が出て来るので、恐らく同様の表現を取っているものと思われる。この点について、ご存知の方があればコメントして頂けるとありがたい。

 ここで、では「無罪」と「有罪でない」とでは、どう違うのか?と思われた方も或は多いのではないかと思うが、これはグレー・ゾーンというものを考えに入れると判り易いだろう。「有罪でない」の中には、このグレー・ゾーンも含まれるのであって、グレー・ゾーンが裁判制度自体の中に想定されているという事である。「not guilty有罪でない」=「presumed innocent推定無罪」ということであって、ここで注意してもらいたいのは、「推定無罪」の「無罪」には「innocent」という言葉が使われているという事である。日本語では「not guilty」も「innocent」も同じ「無罪」になってしまうのだが、英語ではこの二つの言葉は明確に使い分けられている。従って、裁判ではguilty or not guiltyと言うのであって、guilty or innocentとは絶対に言わない。ともあれ、このようにグレー・ゾーンの存在を認めているという事は、神ならぬ身の人間の叡智の限界性、或は誤謬性が裁判制度の前提として想定されていると言い換えても良い。これは西洋の長い歴史上の教訓から、不当な冤罪に対する防止措置として、このような考え方を採用するに至ったと思われるが、これに対し日本の「有罪」か「無罪」かという二者択一の場合、グレー・ゾーンは存在し得ない事になるのであって、どうもこの「無罪」という言葉は、述べてきたように「推定無罪」という近代刑事訴訟の大原則とは相容れないのではないかと思うのである。この意味では、たった一つの法律用語と言えども、その影響は計り知れないものがあるとも思うのである。

 というのも、こうした考え方と対極にある考え方もまた日本の「世間」には存在するからであって、「火のない所に煙は立たない」というのがそれである。さらにこれに「世間を騒がせた責任」といった理屈が加わって、一部のマスコミや野党が言わば手が付けられない状態になっているのは、先刻ご承知の通りである。この意味では、ああいった一部の野党やマスコミの意見にも、その真意はどうあれそれなりの存在理由はあると言えるのである。

 結局のところ、この政治問題が紛糾している理由の一つには「西洋近代社会」と「日本の世間」のよって立つ、相容れない根本的な考え方の違いが存在する、そのように私は考えるのだがどう思われるであろうか。

 というようなことで意図したところとは言え、何やら大きな問題になってしまったが、結論としては、私としてはやはりwikiにある山本七平氏の鋭利な分析に引き取ってもらうのが一番であろうと考える。この山本七平氏の分析に従えば「無罪」という法律用語は単なるうっかりした「誤訳」というよりも、むしろこの「納得治国家」が要請したという意味で意識的な「誤訳」と考えた方が妥当なのかも知れない。「推定無罪」という考え方を空念仏化するために。



<山本七平は「『派閥』の研究」(文春文庫、1985年初出)において、「日本は法治国家ではなく納得治国家で、違法であっても罰しなくとも国民が納得する場合は大目に見て何もしないが、罰しないと国民が納得しない場合は罰する為の法律探しが始まり別件逮捕同然のことをしてでも処罰する」と述べ、「無罪の推定など日本では空念仏同然で罰するという前提の上に法探しが始まる」としている。>