ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

「シン・コロナ3.37」―現実(ニッポン) 対 虚構(COVID-19)

2021-09-02 14:00:00 | 空気に水を差す
*2021.9.02追記

・現在、新型ワクチン成分については企業秘密なので明らかにされていないが、ロバート・ヤング博士による走査型・透過型電子顕微鏡(SEM・TEM)、位相差光学顕微鏡、エネルギー分散型X線分光法などによるファイザー社、モデナ社、アストラゼネカ社、ジョンソン・エンド・ジョンソン社の4社のワクチンの分析結果。


<これらのワクチンは治療用ワクチンではなく、動物細胞、ベロ細胞、流産した胎児の細胞から得た遺伝子組み換えタンパク質(mRNA)に、毒性の強い酸化グラフェン(GO)複合体と他のナノ粒子を結合させたものであると結論づけた。>

<ウイルス理論はまだ理論に過ぎず、科学的に証明されたものではないことを説明しました。SARS-COV-2と思われるウイルスは世界のどこにも分離されておらず、COVID-19と呼ばれているものは、より正確には、過去のワクチン(あるいはエアロゾル散布などの他の原因)による酸化グラフェン中毒と4G/5Gの放射線照射が、すでに弱っていたり、病気になっている人体に作用した「化学物質と放射線の毒」に起因する症状の集まりにすぎないという。>


COVID(コロナウイルス)ワクチン4種に含まれるグラフェン、アルミニウム、セレン化カドミウム、ステンレス鋼、LNP-GOキャプシド、寄生虫、その他の毒素の存在を科学者チームが確認。ファイザー社、モデナ社、アストラゼネカ社、ジョンソン・エンド・ジョンソン社


*2021.8.29追記

Eric Clapton “This Has Gotta Stop”


<日本人は「情況」を臨在感的に把握し、それによってその状況に逆に支配されることによって動き、これが起る以前にその情況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは動かないが、瞬間的に情況に対応できる点では天才的」という意味のことを、中根千枝氏は大変に面白い言葉で要約している。「熱いものにさわって、ジュッといって反射的にとびのくまでは、それが熱いといくら説明しても受けつけない。しかし、ジュッといったときの対応は実に巧みで、大けがはしない」と。

 オイルショックのときの対応の仕方は、まさにこの言葉の通りだが、過去を振り返ってみれば、公害問題でも同じである。この傾向は確かにわれわれにあり、またあって当然と言わねばならない。われわれは情況の変化には反射的に対応はし得ても、将来の情況を言葉で構成した予測には対応し得ない。前に’’カドミウム’’のところで「科学は万能ではない」という新聞投書を引用したが、その人が主張のつもりで言っていることは実は現実であって、言葉による科学的論証は臨在感的把握の前に無力であったし、今も無力である。>『空気の研究』山本七平 

・この「熱いものにさわって、ジュッといって反射的にとびのく」のが、何時、何に対してなのか、私はずっと注目して経過を見ているが、どうやら現在ほとんど報道されていないワクチン接種後の副反応による死亡者や症例の「実情」が、マスコミで大きく報道されるようになった時なのではないかと思料するのであるが、さてどうなりますか。

5月の超過死亡急増にコロナワクチンは関係しているのか?(前編)

ワクチン副反応投稿例

*2021.8.20追記

マスコミは、「空気」を変えようと根回しをし出した?

<日本経済新聞 史上最大のワクチン事業 ~その挫折と教訓~
1976年、米で新型インフル流行の恐怖

1976年、米国で新型インフルエンザ流行に備え、全国民2億人以上の予防接種をめざす史上最大のワクチン事業が実施された。しかし、副作用事例の頻発などで事業は中止され、結局流行も起きなかった。公衆衛生の歴史に大きな教訓を残したこの出来事は、専門家の意見と政策決断のあり方などで重い課題を突きつけており、現在の新型コロナウイルス政策に通じるものがある。

76年1月、ニュージャージー州の陸軍訓練施設で多くの兵士が呼吸器系の疾患を訴えていた。そして2月、18歳の新兵が死亡した。米疾病対策センター(CDC)が調査したところ、兵士から新型の豚インフルエンザウイルスが検出された。

このウイルスは1918年に全世界で未曽有の被害を出した"スペイン・インフルエンザ"と抗原性が類似していた。当時の人々は親世代の話から約60年前の悪夢が潜在意識にあり、CDC当局者は慄然とした。ウイルスの変異により、一定周期でパンデミックが発生するとされる「抗原循環説」では、数年以内にそれが起きると警告されていた時期でもあった。

・・・・・・

しかし、公衆衛生当局では「100万人が死亡する可能性がある」「流行はジェット機並みにやってくる」「3カ月以内に国民全員にワクチン接種をしなければならない」といった前のめりの意見が主流になっていく。

・・・・・


最大の問題はワクチンの副作用だった。10万人に1人の確率でも、2億人に接種すれば2000人が副作用による疾患を発症する。訴訟を恐れたワクチン製造会社、保険会社の圧力により、8月に賠償責任は政府が負う法案が急ぎ成立した。
新型インフルエンザワクチン接種事業は1976年10月1日から始まったが、同月11日に最初の事件が起きる。ペンシルベニア州ピッツバーグで高齢者3人が接種後まもなく死亡した。

ただ、想定はされていたことだった。ワクチン接種期間に起きた発症、死亡事案は、医学的に因果関係がなくても関連があるように受け取られる。接種数が大規模になるほど、そのような「紛れ込み事案」は増える。CDC内では「偶然同時発生説」が主張され、副作用ではないとされた。

国民の不安を払拭するため、フォード大統領は同月14日に家族とともに接種を受け、その姿がテレビで放映された。だが、ワクチン事業に決定的な逆風が11月12日に発生する。ミネソタ州で接種した人のなかでギラン・バレー症候群の発症者が出たのだ。他の州でも報告が相次ぎ、12月中旬までに50例以上となった。

同症候群は末梢(まっしょう)神経の障害により四肢や顔、呼吸器官にまひなどが起こる。10万人に1~2人が発症する非常にまれな疾患だ。ワクチンとの因果関係については議論があったが、公衆衛生当局は12月16日に接種事業の一時中断を勧告。大統領が了承した。それでも2カ月半で史上最多の4000万人以上が接種を受けていた。

その後も接種事業は再開されず、翌77年3月に正式に中止された。調査では接種者の同症候群発症率は非接種者の11倍であり、因果関係はあるとみなされる。最終的には約530人の同症候群発症が報告された。

・・・・>

史上最大のワクチン事業 ~その挫折と教訓~
1976年、米で新型インフル流行の恐怖




*2021.8.6追記

・カナダアルバータ州の裁判で、保健局が新型コロナウイルス分離の証拠を提出できず、コロナの規制に違反し罰金刑1200ドルの男性が勝訴 

WE CAN WIN! Patrick King is a proud father of 2, Freedom Fighter and Patriot who took on the powerful government in Alberta, and WON!

LEGAL DOCUMENTATION→Originating Application

・多分この判決を受けてと思われるが、アルバータ州は8月中旬までにCOVID-19の隔離・検査要件の大半を撤廃

Alberta to remove most COVID-19 isolation, testing requirements by mid-August


・日本では、大橋眞氏がコロナワクチン特例承認取消を求め、東京地裁へ提訴。

【告知】東京地裁へ提訴!全編は概要欄から


→ニコニコ動画特番『大橋眞先生、東京地裁への提訴について語る』ゲスト:徳島大学名誉教授 医学博士 大橋眞氏

武漢ウイルスワクチン特例承認取消等請求事件 特設サイト

訴状


*2021.8.1追記

・CDCは今年一杯でRT-PCR検査の緊急使用許可を撤回し、血清テストや抗体テストなどの別の新しいテストに切り替える模様。

07/21/2021: Lab Alert: Changes to CDC RT-PCR for SARS-CoV-2 Testing

・米国立衛生研究所(NIH)は管理する主要な科学データベースから、中国の研究者からの要請を受けて、3カ月前に提出した遺伝子データを削除したことを確認した。「データを提出した研究者がデータの権利を所有しており、データの撤回を要請できる」。

中国のコロナ遺伝子データ、米で削除 中国研究者の要請


この二つの動きは興味深い。勿論、偶然ではないだろう。

何度でも強調するが、新型コロナウイルスのデータはショットガン・メソッドというインシリコ解析法(コンピューターシミュレーション)によって、多くの可能性の中から選んだ一つの仮説でしかない。現在のところ、ウィルス自体も単離されてその存在が確認された訳でもないし、ましてやその遺伝子データが単離されたウィルスによって、確認されたという研究結果も存在しない。つまり、エビデンスはない。

巷では、デルタ株がと騒々しいが、RT-PCR検査ではコロナがアルファかデルタか判らないし、デルタ株の検査キットなるものが発明されたという話も聞いたことがないので、これもデルタ株存在自体のエビデンスはない。


*2021.6.18追記

この厚生労働省の対応は、人によって色々な感想があるだろうが、まあこんなもんでしょう。

厚生労働省;コロナの存在証明がない

このようにコロナ騒動について根本的な疑問を持った人々が、世界中でコロナウィルスの存在を証明する文章の開示請求を行っているが、世界53の保健/科学機関では、コロナウィルスの存在を証明する文章は存在しないと回答しているようだ。次のprettyworld氏のブログ内容を私は高く評価するものであるが、「コロナウィルスは存在しない」とまで言い切ってしまうのは、勇み足であるということは釘を刺しておきたい。「存在しない」というのは、いわゆる悪魔の証明になるので、科学的な言説としては「存在は証明されていない」に留めるべきである。


コロナはないと認めた世界の機関①

コロナはないと認めた世界の機関② 6/8米CDC追加

*2021.6.4追記

特番『今の検査は”おみくじ”だ!憲法13条違反!?』ゲスト:徳島大学名誉教授 医学博士 大橋眞氏


*2021.5.16追記

論点は出尽くしたし、データも揃ってきているので、コロナ騒動については疑問や違和感を持つ人が増えてきているようだ。

マンガ「コ□ナは概念」片岡ジョージ



人間は、恐怖心に襲われるとIQが下がるという現実を、まざまざと見せつけられた格好の今回のコロナ騒動だが、個人的に注目しているのは、グローバルダイニングの裁判と都議選である。

前者はクラウドファンディングを募ったところ、1500万円以上が集まったというし、司法がこれをどう判断するか。また、厚労省は歯科医が米ファイザーワクチンの筋肉内注射することは、一定条件を満たせば違法性はないという通知を出しているが、超法規的措置を使ってでも米FDA未承認のワクチン接種を進めたいらしい。これは将来に禍根を残すのではないか。

都議選は、対コロナ対策急先鋒である小池都知事の施策を都民が支持するかどうかが恐らく争点になろう。


*2021.3.26追記

前に「自粛要請」という言葉のおぞましさについて述べたが、「PCR検査陽性者数」を「感染者数」に、「副作用」を「副反応」と言い換え、「ワクチンでないもの」を「ワクチン」と言うのも「ニュー・スピーク(ジョージ・オーウェル)」のやり口。そもそも米FDAはこれらの「ワクチン」については、緊急使用許可(EUA)を認めただけで、正式に承認したわけではない。

新型コロナワクチンは危険 岡田正彦


確かに判りやすい。

「PCRは、RNAウイルスの検査に使ってはならない 大橋眞」を世界一わかりやすく要約してみた【本要約】



*2021.3.6追記

大橋眞先生 ー講演ー


大橋眞先生対談(最終回)


削除され続ける不都合な真実!【真実に目覚めよ日本民族!】高橋徳医師の貴重なお話 (ワクちゃん) 愛する仲間を守る為に真実にを知り、目覚めよ日本民族!


*2021.2.4追記

厚生労働省は、他の死因であっても、コロナの死者としてカウント=水増しするよう通達を出している。

令和2年6月 18 日厚労省通達

”新型コロナウイルス感染症の陽性者であって、入院中や療養中に亡くなった方については、厳密な死因を問わず、「死亡者数」として全数を公表するようお願いいたします。”

例えば、西日本新聞のこの記事。

鹿児島でコロナ感染初の死者 入院中の90代女性

”鹿児島市は28日、新型コロナウイルスに感染し市内の病院に入院していた90代女性が死亡したと発表した。鹿児島県内で感染者の死者は初めて。死因はコロナの重症化ではなく、基礎疾患で亡くなったという。国の統計上はコロナの死者としてカウントされる。”


以下の対談では、一般に遺伝子組み換え食品への危惧が流布しているが、新型コロナウイルスワクチンというのは、組み替え遺伝子による二次的な生成物どころか、組み替えた人工遺伝子そのものを直接体内に注入するものであるとの危惧を大橋氏は述べている。

Dr.細川の人間は ∞ 対談【大橋 眞】vol.1


Dr.細川の人間は ∞ 対談【大橋 眞】vol.2


Dr.細川の人間は ∞ 対談【大橋 眞】vol.3


Dr.細川の人間は ∞ 対談【大橋 眞】vol.4




*すべてがPCRによる錯覚?


*徳島大学名誉教授 大橋眞 日野市議会議員 池田利恵 コロナ記者会見令和2年6月17日厚労省記者会見室(厚生労働省9階)


現役医師「これからは『コロナは風邪』と割り切る視点も必要だ」-PRESIDENT online

新型コロナは日本人にとって本当に「怖いウイルス」なのか-DIAMOND online

コロナの無症状感染者、ウイルス拡散に果たす役割はまだ不明-WHO/Bloomberg

*新型コロナPCR検査キットの特異性を検証する


コロナ致死率、全年齢で0.4%?米国疾病予防管理センター発表でわかった各国の過剰政策

WHOが、コロナウイルスに罹患していても症状のない人は感染を広げることはまずないと表明ーCNBC
<Asymptomatic spread of coronavirus is 'very rare,' WHO says
KEY POINTS
Government responses should focus on detecting and isolating infected people with symptoms, the World Health Organization said.
Preliminary evidence from the earliest outbreaks indicated the virus could spread even if people didn't have symptoms.
But the WHO says that while asymptomatic spread can occur, it is "very rare.">

コロナウイルスの無症候性感染は「非常にまれ」とWHOが発表
キーポイント
政府の対応は、症状のある感染者の検出と隔離に焦点を当てるべきである、と世界保健機関(WHO)は述べた。
初期のアウトブレイクからの予備的な証拠は、人々 が症状を持っていなくてもウイルスが広がる可能性があることを示した。
しかし、WHOは、無症状の広がりが起こる可能性がある一方で、それは "非常にまれである "と述べています。>

新型コロナは、本当に無症状者から感染するのか


*↓のインタビューでも述べられているが、PCR検査の産みの親であったキャリー・マリス(2019.8.7没)自身は、PCR検査を免疫疾患の判定に使うのには反対であった。また同様の理由から、コッホの原則に反しているので、エイズの原因はHIVではないというエイズ否認論者でもあった。




友人から「何らかのコメントくらい付け加えろよ」というクレームというか、アドバイスを貰ったので、少々コメントを。

現在の新型コロナ騒動については、必要な情報が得られないので、私と同じように、多くの疑問点を抱く人も多いだろう。ネットで色々と調べたが、どうも良く判らないというのが実状であろう。

例えば、政府やマスコミは、感染者数だけをベンチマークとしてどうのこうの言ってるが、その分母であるPCR検査数に触れないのは、意図的としか思えない。厚生労働省のホームページにある報道発表資料によると、PCR検査数は、4月3日が4936人、4月4日が3436人、4月5日が1757人、4月6日が1533人、4月7日が9139人、4月8日が6187人となっている。日本政府が非常事態を宣言した4月7日以降、日々のPCR検査数が急増している。4月3-6日は毎日の検査数が1千人台から4千人台だが、非常事態宣言後、それが6千人台や9千人台に急増しているわけで、これを偶然と取る人は、まずいないだろう。

また、再感染だとが、PCR検査の再陽性反応などについても、色々と言われているが、これなぞはそもそもPCR検査自体の精度の問題だと思うのだが、調べてみると70%くらいの精度しかないようだ。最近注目され出した抗体検査などはもっと低いという。

また、検査自体の感度も変えられるとの事で、これも各国の感染者数や死亡者数の違いについて、生活習慣の違いや人種の違い、BCG摂取の有無など、色々と穿った説明がなされているが、実際に行われている各国の検査の精度には相当にばらつきがあると思われるので、上がってくるこれらの各国の数字を同列に扱って、どうのこうの議論すること自体が問題であろうと私は考えるのだが、どう思われるだろうか。

さらに、死亡者数についても、愛知県の誤検査で、誤って陽性とされた24人の中に死亡者(1名)がいたことから分かるように、死亡解剖による死因判定などは(まあ、常識的に考えても)もとより行われてはいないのが実状だろうし、死後陽性反応が出れば、機械的に新コロナウィルスの死亡者にカウントされているのは明らかで、じゃあこの男性の死因は一体何だったのかという疑問が浮かぶ。「対策ゼロなら40万人死亡」ー厚労省クラスター対策班という発表もあったが、御冗談でしょうとしか思えない。ショック・ドクトリンもいい加減にしてもらいたいと思ったのは、私だけではないだろう。

ということで、結局、わたしにはPCR検査がすべての問題の根幹であるように思われる。正確に言えば、感染当否の位置づけとして、どうも過大評価され過ぎているのではないかということである。

そう思って色々と調べていると、米国疾病予防センター(CDC)のPCR検査の概要文の中(p37 Limitationsの最下段の文象)に次のような文章があった。

<Detection of viral RNA may not indicate the presence of infectious virus or that 2019-nCoV is the causative agent for clinical symptoms.>

<PCR検査で検出されたウイルスの遺伝子は、感染性のウイルスの存在を示しているとは限らないし、新型コロナウイルスが臨床症状の原因とは限らない。>

これは婉曲な言い回しになっているが、こっちのPCR検査キットの説明書の注意書きの方が、よりエッジの効いた表現になっているので、この文章の方が明解である。

<1. The detection result of this product is only for clinical reference, and it should not be used as the only evidence for clinical diagnosis and treatment. The clinical management of patients should be considered in combination with their symptoms/signs, history, other laboratory tests and treatment responses. The detection results should not be directly used as the evidence for clinical diagnosis, and are only for the reference of clinicians.>

<1. 本剤の検出結果はあくまでも臨床上の参考値であり、臨床診断・治療の唯一のエビデンスとして使用してはならない。患者の症状・徴候、既往歴、他の臨床検査値、治療反応等と併せて臨床管理を考慮すること。また、検出結果は臨床診断のエビデンスとして直接使用すべきものではなく、あくまでも臨床医の参考とする。>


そして、さらに調べていくうちに、以下の徳島大学名誉教授大橋眞氏の動画に行きついた訳で、私には専門家らしい非常に説得力のある、核心を突いた本質的な議論をしていると思えたので、ここに紹介する次第である。氏の説明によって、私はこれまで抱いていたいろいろな疑問点が、なぜそうなのか非常に納得が行く形で氷解した次第である。

その最重要論点は、現在の新コロナ騒動の根拠になっている基礎研究論文である中国とドイツの二つの論文は、コッホの4原則(そのウィルス版のリバースの6原則)を満たしておらず、新コロナウィルス自体の存在は確認されていない(日本の感染研も、一度出した新コロナウィルスを分離培養したという発表を撤回して取り下げている)というもので、PCR検査で検出されているのは単に常在性ウィルスを検出しているだけだという、何というかガリレオ地動説的ちゃぶ台返しとも言うべき見解である。

要はCOVID-19というのは虚構であり、我々は現在それと戦っているのであって、それがこのような表題「シン・コロナ」―現実(ニッポン) 対 虚構(COVID-19)を付けた所以である。(2020/06/05)



徳島大学名誉教授で免疫生物学専門の大橋眞(まこと)医学博士へのインタビュー!


コロナ騒動を創出したPCR検査


新型コロナは、病原体確認の鉄則コッホの4原則を満たしていない


コロナ騒動は、常在性ウイルスをPCRで検出するというトリック


新型コロナ感染症は文明病


コロナ騒動と集団感染


新型コロナウイルスの同定には感染実験が必須である


自粛と新生活社会はワクチンへの道


コロナ騒動の原点は、PCR検査 ゴジラvsモスラの世界


新型コロナに対する免疫は粘膜バリア


コロナ騒動を理解するための高校生物と社会


コロナ騒動の原因 ソーシャルディスタンスを科学的に検証する


コロナ騒動における西浦理論を見直す


コロナの新型とは何か コロナ騒動の真相に迫る

って
コメント

シン・ネタバレ・エヴァンゲリオン𝄂

2021-05-20 16:00:00 | 映画
完結編「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」は概ね好評をもって迎え入れらているようだ。今時の言い方でいえば、エヴァンゲリオンという作品は、その都度視聴者の期待や評価の斜め上を行く、現代では稀有な作品シリーズであると言っても良いだろう。しかし、私としては、新劇場版が完結した現在というまさにこの時点においてこそ、テレビシリーズ・旧劇場版について深く考えてみるべきだと思う次第である。何と言っても、エヴァを巡る基本的な問題は、テレビシリーズ・旧劇場版においてすでに出揃っているからだ。それが未消化のままでは、新劇場版についてとやかく言ってみても始まらないだろう。

例えば、今回もいくつかの著名評論家のレビューを覗いてみたが、賛否好嫌はあるにせよ、揃いも揃って申し合わせたように「私小説」という見方をしている始末で、どうやら「エヴァンゲリオン=庵野秀明の私小説」というのは、ほとんど公定の見解になりつつあるようだ。

エヴァ人気要因の一端を見る思いだが、ここに相も変わらずの日本人の「私小説好き」を指摘することも出来るのかも知れない。私なぞは、そもそも「私小説」というのなら、それに対してどうのこうの言うこと自体、非生産的で不毛な営みにしか思えないのであるが、この「私小説」説については、誤解もここに極まれりとまでは言わないにしても、ここで少しばかり異議を唱えさせて貰いたいと思う。

もっとも「私小説」説と言っても、マリが安野モヨコで、ヴィレが株式会社カラーであるといった実在のモデル判定から、テレビ版・旧劇場版から今度の新劇場版への主人公の”成長”をそのまま作者である庵野秀明の”成長”になぞらえるといったものまで、様々なバリュエーションがあるようだけれども、結局私がこれらの「私小説」説に違和感を覚えるのは、その作品に対峙する態度が不純だからである。作品に対して、作品の外から色々な接線を引いてきて解釈をすることは、その完結性や純粋性に対する冒涜ではないかと思うからである。まあ、別に冒涜であっても構わないが、これでは扱いが有名人のゴシップニュースと本質的に何ら変わらない訳で、ふーん、皆さん、それほどまでに庵野秀明という人物に興味津々なのね、といった皮肉を言いたくもなる。では、なぜそれほどまでに庵野秀明という人物に興味津々なのかと言えば、それはエヴァの作者だからこそであろう。この堂々巡りループに気付いている人が、果たして何人いるだろうかと私は訝るのである。

いや、というよりも、実情は単に理解不能の逃げ口上として「私小説」という言葉が乱用されているだけかもしれない。では、エヴァンゲリオンは「私小説」でなければ、どういった種類の作品なのかと言われれば、私が真っ先に思い浮かべるのはドストエフスキーの「未成年」である。

このエヴァンゲリオンもまた作者の色濃い個性に染められた作品ではあるが、「未成年」という主題を表現した作品であると見るべきである。何より主人公の設定が14歳であることがそのことを端的に表している。この点「シン・ゴジラ」と大いに趣を異にしているのであって、この作品は「未成年」というものが、どういう生態の生き物であるのか、その不安と混乱、希望と絶望がないまぜになった拗らせっぷりを、幾分誇張した形ではあるけれども、見事に定着することに成功した作品だと私なぞは思うのであるが、どう思われるであろうか。

また、もう色褪せてしまったが、かってこの作品を冠するに「セカイ系」なる判ったようでいて良く判らないタームも持て囃されたが(Wikiによれば、これは肯定的にも否定的にも、主人公を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、直ちに世界存続の大問題に直結する作品を指すということらしい)、これなぞも、同時期に一括りにされた他の作品はいざ知らず、後で述べるようなエヴァで密かに行われた庵野監督による革新的な方法論などとは無縁の、単なる表層的な分類ラベリングでしかないだろう。まあ、このような尤もらしいラベリングによって訳知り顔で現代日本の社会や文学、サブカルチャー等々を語るよりは、「エヴァはもともとそういうアニメ」とでも言っておいた方が、よっぽど精神衛生上は有益かもしれない。

そしてまた、一方では、ストーリー設定上の合理的整合性を極めようと、巷には膨大な数に上る、微に入り細を穿った考察が溢れているのも対照的な景色である。これも私に言わせれば、単に庵野監督の衒学的韜晦による目くらましに翻弄されているのに過ぎないのであって、それらはお釈迦様ならぬ庵野監督の掌の上で踊らされている孫悟空達に他ならない。最も監督本人に言わせれば、これもまた視聴者サービスの一環だと言うのかも知れないけれども・・・。考えてみれば、道理で作品の最後でサービス!サービス!を連呼する訳だ。まあ、知っていてあえて踊るのも一興だろうが、これもまた歪な作品鑑賞態度であることには、変わりはないであろう。

結局、総てのエヴァのレビューは、「私小説」説や「セカイ系」などの上っ面を撫でただけの皮相的表層的レビューと、謎解き特化型のオタク的些末主義的考察レビューという二極間の間のどこかの座標にプロットすることが出来ると言っても過言ではないだろう。だが、私に言わせれば、どちらにしても一番肝心なこの作品本来の”姿”を見失っていることには変わりがないのであって、結局、この作品もまた、名声とは誤解の異名であるという”残酷な天使のテーゼ”から逃れることが出来ないでいるように思われるのだ。

従って、これらに欠けていて”補完”しなければならないのは、この作品を取り巻いている外部環境からの色々な先入観や雑念等を排した言わば即自的な作品鑑賞態度であって、獲得されなければならないのは、作品の構造とそれと裏腹にある方法論に対する直観と論理による手堅い帰納法的分析に裏打ちされた全体像の提示であろう。

とまあ、このように文章にしてみると、ドヤ顔でわざわざ言上げするのもアホらしいほど凡庸且つ至極当たり前の話なのであるが、この至極当たり前の話が大口を叩くことになってしまうというのが、この作品の置かれた特異な状況なのであろう。

いや、持って回った回りくどい書き出しになってしまったが、以下、この大口叩きの所以について、当初に述べておいたようにテレビ版・旧劇場版をまな板に載せ、出来るだけ明晰に私見を述べてみたい。

* * *

このエヴァンゲリオンという作品を考える上で、私が重要だと考える庵野監督の三つの言葉を、次に引きたいと思う。

一つは、見た人も多いと思うが、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』庵野秀明スペシャルの中での発言である。

僕としては、もうちょっと理解されていると思っていた。それが全く理解されていないというのが分かったから、困ったなあと。理解されていないっていうのがね。




興味深いことに(株)カラーでは、スタッフ全員の意見を取り入れるシステムを構築しているようで、この事実から作品がどのように受け取られているかを非常に気に掛けている庵野監督の姿勢が伺われる。恐らく、スタッフの感想をパイロットランプとして公開後に視聴者にどう受け取られるのか、どの程度理解されるのかを探っているものと思われる。この発言は、最終Dパート部分についての会議上における、そのスタッフの感想に対するもので、結局この後Dパートの脚本は大幅に書き換えられることになったとのことである。ということは、「シン・エヴァ」完成バージョンの最終Dパートは、この「無理解」に対する監督の何らかの対応策が盛り込まれた内容になっているものと推定される。これは押さえておかなければならない重要な視点であろう。だが、論を急ぐまい。ただ、私がここで言いたいのは、この「無理解」は何も今回の「シン・エヴァ」、さらには新劇場版に始まった話ではなく、そもそもテレビ版・旧劇場版自体が「全く理解されていない」のではないかということである。

そして、後の二つは、それぞれTVシリーズおよび新劇場版四部作を制作するにあたって発表された、同じ「我々は何を作ろうとしているのか?」と題された二つの声明文の中にある言葉である。

まずは、1995年に発表された一つ目の「我々は何を作ろうとしているのか?」の結尾の言葉である。

それすらも模造である」というリスクを背負ってでも、今はこの方法論で作るしかないのです。私たちの「オリジナル」は、その場所にしかないのですから……

そして、次には2006年の「我々は何を作ろうとしているのか?」の中の言葉。

10年以上昔のタイトルをなぜ今更、とも思います。エヴァはもう古い、 とも感じます。しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。

私が思うに、ここで言われている「新しさ」とは、例えば第3次アニメ革命を起こしたこと等の商業的な意味での「新しさ」のことではないだろう。むしろ、それを齎した作品自体の「新しさ」のことを言っているはずだ。従って、これは新四部作が完成した現在でも、全く同様の指摘をすることが出来るものと思われる。<この26年間エヴァより新しいアニメはありませんでした>、と。

では、エヴァの「新しさ」とは、一体何であろうか。オリジナリティーとは何であろうか。

なぜ、私がこの一見相反するように見えないでもない二つの文章を引いたのかというと、この二つの文章の交差する正にその地点にこそ、このエヴァンゲリオンという作品は屹立していると考えるからだ。

結局のところ、私はこのように考えている。

エヴァンゲリオンという作品は、模造であるということを逆手に取るという、これまでにない革新的・野心的な方法論によって、オリジナリティーを獲得することに成功した稀有な作品である。そして、この逆説的独創性とでも言うべき「新しさ」については、現在に至るまで全くと言っていいほど理解されてはいない、と。

* * *

さて、ここからは各論に入っていきたいと思うが、やはり、わがささやかな作品鑑賞の時間軸に沿って述べるのが判り易いだろう。

御多分に漏れず、私自身もエヴァンゲリオンについては後になってから知った口で、ネットで話題になっているのに接して、ふと大した期待もなくテレビシリーズを見出したところ、なかなかと面白く、結局、旧劇場版まで一気に通して見る羽目に陥った。そして、これもまた御多分に漏れず、観終わったのは良いが、どうもよくわからないので、もう一度改めて見直すことと相成った次第である。

そして、あれは忘れもしないが、再び、テレビシリーズの第26話にまでたどり着き、アスカに「やっと判ったの、バカシンジ!」と言われた主人公がハッと我に返るシーンを見た瞬間、一気に霧が晴れるように、この作品全体の明確鮮明なビジョンを得たのである。瞬時に、まるでドミノ倒しの20倍速映像を見ているように、多くの疑問点や不可解な点が瞬時に連結され脈絡が付いて、庵野監督がどういう言い方をしているのか、何を言いたいのかが判った。ここで主人公のバカシンジと同じく私自身もまた、やっと判ったのである。やれやれ。




言うまでもなく、この作品には、ウルトラマンやデビルマンなどの多くの作品や、登場人物の名前が軍艦や海事用語から取られているなど膨大な数の「引用」が鏤められていることは良く知られている。勿論、ここで、そのすべてが分かったなどと言うつもりはない。この時私が気づいたのは、「引用」ではなく、その「引用」の意味である。つまり、これらの「引用」は普通、それらの作品に対する監督のオマージュだとか監督自身の(オタク的)趣味嗜好を表しているといった理解をされているが、私がここで気づいたのは、これらの「引用」にはもう一つ奥があって、そういった表面上の意味だけでなく、作品の成り立ちの上での必然性があるということである。

では、これらの膨大な「引用」の作品成立上の必然性とは何か。

それは、何のことはない、そもそもこの作品はそういった膨大な「引用」が犇めき合って存在している世界自体を描いているということである。

では、そういった膨大な「引用」が犇めき合って存在している世界とは何か。

それは取りも直さず、主人公の心の中であろう。

つまり、この作品で描かれたロボットアニメの世界というのは、オタクである主人公の心の中をビジュアル化したものなのである。そのことに、このシーンに至って私は改めて気づいたという訳である。一般にテレビシリーズについては、25話26話で急に”精神世界の話”になってしまうといった受け取り方をされているようだが、実は、この作品はそもそも最初から”精神世界の話”だったのである。従って、「主人公を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、直ちに世界存続の大問題に直結」してしまう様に見えるのも、当然と言えば至極当然の話なのである。

そして、ここからが重要なポイントなのだが、それと同時に、この作品にはそのことを直接間接に示すシーンやセリフが至る所に散りばめられ、仕掛けられているということにも気づいたのである。脈絡が付いたというのは、そういうことである。その事を最も端的象徴的に示すシーンは、先に挙げた26話での主人公が我に返るシーンであるが、ここで他にもいくつか挙げておこう。

例えば、旧劇場版の砂場のシーンである。このシーンに違和感や疑問点を抱いた人も多いだろう。

この砂場のシーンでは、奇妙なことに舞台装置や照明装置がシーンの中に出てくるのである。さらに、あろうことか次のシーンに出てくる母親役が、椅子に座って出待ちしている様子までもが描かれているが、なぜこんな模写をする必要があるのであろうか。それはここで描かれたシーンが、一種の仮構された”作り物”であるということを、制作者が殊更に強調していると取るのが普通であろう。そのことを強調するためであろう、この部分はよくあるようなメイキング映像に特有な、劣化した一種ざらついた映像にもなっている。このシーンで私は、主人公が壊す砂山の形状に目が行ったのだが、この砂山のピラミッドを壊すシーンから、テレビシリーズ19話で、怒ったシンジの乗った初号機がジオフロントの建物を破壊しようとするシーンを連想したのであるが、どう思われるだろうか。ともあれ、この砂場のシーンで暗示されているのは、エヴァという物語全体がこの砂場のシーンと同じく、仮構された”作り物”であるということであろう。









比較のための良い画像がなかったので、「新劇破」から。




それから、例の物議を醸すことになった観客側を映し出した実写シーンの少し後には、シンジとレイ、カヲル3人の次のような会話が交わされるシーンがある。

シンジ「でも、僕の心の中にいる君たちは、何?

レイ 「希望なのよ。人はこの世に判りえるかも知れないということの。

カヲル「好きだという言葉と共にね。




この他にも、テレビシリーズ15話の墓参りのシーンでのゲンドウのセリフ「総ては心の中だ。今はそれでいい。」等々、探せばこの他にもいくつも見つかると思うが、このことからこの作品はロボットアニメでありながら、それを主人公の心の中の世界として相対化する、一種のメタロジックが構造的に組み込まれていると言うことが出来る。その表層上のロボットアニメの世界の下には、主人公の心の中の世界が透かし絵のように存在しているという一種の表裏一体的二重構造になっている、と言っても良いだろう。

私には、このような方法を取ることで、庵野監督は自らを含むオタクの精神世界というものを客体化し、誤解を恐れずに言えば普遍化しようとしたのではないかと思われる。ベルクソニアンたる私には、このように「意識に直接与えられたもの」から始める方法は実に理にかなった真っ当な方法論だと思われるが、それは兎も角、そのためには「未成年」という切り口が、誠に都合の良い切り口であったことは、この作品の成功が如実に物語っていると思うのだが、どう思われるであろうか。さらに興味深いのは、この作品が、これまでのアニメの暗黙の前提であった、視聴者とのなれ合いによる一種の心地よい共犯関係を拒絶していることで、オタク性を極限まで追求し客体化しようとする制作行為の極限において、遂には批評性をも獲得するに至ったといった趣があることである。この点でもドストエフスキーを思い起こさせるが、これは作者の資質もあるにせよ、それを可能にする程までに、日本のオタク文化も成熟し、爛熟期に入ったと言うことが出来るのかも知れない。

だが、このエヴァの「新しさ」はまた「極北」でもある。なぜなら、言うまでもなくこの方法は、一回限りの有効性しか持ち得ないからだ。従って、このような作品を一旦作ってしまえば、後は断崖絶壁で、もうその先はないとも言える。それが再度新劇場版を作らざるを得なかった根本的な理由であろう。恐らく、庵野監督はもうアニメを作ることはないのではないか。

とまあいったことで、結局のところ、この作品を真に理解するためには、鑑賞者はロボットアニメの世界を、主人公の心の中の世界へと変換して理解するように、このビルトインされたメタロジックによって要請されていると言わなければならないだろう。


以下、その概要を示す。

物語は、基本的にネルフという組織を中心にして展開されるが、このNERV=神経というネーミングは象徴的である。私はこの言葉から「神経症」とか「神経異常」といった言葉を連想するが、このネルフから出動するエヴァンゲリオン初号機という人造人型決戦兵器は、窮地に陥ると突然キレ(暴走)て狂暴化するという行動パターンを特徴とする。そして、このネルフの最高司令官は碇ゲンドウという人物であるが、このネーミングも「怒り・言動」を連想させる。つまり、このネルフという組織は、主人公の心の中に湧き上がってくる「怒りによる神経(症)的な言動」を象徴的に意味しているように思われるのだ。

そして、このネルフの上位組織としてはゼーレ(SEELE=魂)があって、名目上は同じ人類補完計画を目指しながらも、実は碇ゲンドウ=ネルフは少しく異なった目的を持っているとされるが、これは同じ人類補完計画を目指しながらも、微妙に異なった様々な観念や感情が心の中で鬩ぎあっているという心の中の葛藤を表しているということであろう。大枠としては、そういった葛藤がありながらも、主人公の心の基本的な指向性としては、人類補完計画を目指しているということである。

この人類補完計画については色々と述べられているが、25話でゲンドウが「総ては始まりに戻すに過ぎない。この世界に失われた母へと帰るだけだ。すべての心が一つとなり永遠の安らぎを得る。ただそれだけのことに過ぎない」と述べているように、これは要するに母体回帰による一種の引きこもり願望のことであろう。そして、エヴァンゲリオンがアンビリカルケーブル(もともとUmbilical cableという用語は、Umbilical cord=へその緒という語から作られた)に繋がっていることや、そのパイロットがLCLという液体に漬かっていることも胎児を連想させるが、それと共に、シンジの直属の上司が二人とも”女性”である事もまた、この人類補完計画=母体回帰による引きこもり願望を考えるに当たっては象徴的である。

そして、ネルフ=エヴァンゲリオンはシトと戦うのであるが、このシトについてはテレビシリーズ5話では「構成素材に違いはあっても、シトの信号の配置と座標は、人間の遺伝子と酷似しているわ。99.89%ね」というリツコのセリフや、旧劇場版Air25話での「私たち人類もね、アダムと同じくリリスと呼ばれた生命体の源から生まれた18番目のシトなのよ。他のシト達は別の可能性だったの。人の形を捨てた人類の。ただ、お互いを拒絶するしかなかった悲しい存在だったけどね。同じ人間同士の」というミサトのセリフがあるが、これらの衒学的婉曲的表現の衣をはぎ取ってしまえば、その意味するところは要するにシトとは人間ということであろう(言わずもがなの説明をすれば、人間と遺伝子が99.89%ー誤差の範囲内で酷似ということは結局は人間であって、人類もシトだったということは、逆に言えばシトもまた人類だったということであって、しかもそのあとに続けて念を押すように「同じ人間同士」と明言している)。また、テレビシリーズ11話でも、「所詮、人間の敵は人間だよ」というゲンドウのセリフが出て来る。つまり、心の中の「他人への恐怖」が産み出したのがこのシトという存在だと言っていいだろう。従って、敵味方、パターン青かどうかというのはこの「恐怖」の存在如何によって容易に反転することになるので、テレビシリーズではトウジ、新劇場版ではアスカの乗った参号機がシトと見做されることにもなった訳である。ところで、なぜこの識別パターンが「青」なのかと言えば、「恐怖」によって主人公が「青」ざめるからではないかと言ったら、こじ付けに過ぎるだろうか。

それから、ATフィールドというのは「誰もが持っている心の壁」(テレビシリーズ24話でのカヲルのセリフ)を現していることも、いろいろなところで説明されているので、特に付け加える必要もないであろう。

そして、特別なキャラクターだと思われるので、ここでレイとカヲルについて述べておくと、「君は僕と同じだね」というカヲルのレイに対してのセリフや旧劇場版で巨大化したレイがカヲルに変わるシーン等の示すように、同じ性格の存在であることが伺われるが、先に引いた旧劇場版での3人での会話からすれば、心の中に存在する「希望」を象徴するキャラクターということになる。その所属から考えれば、カヲルはゼーレ=魂における「希望」、レイはネルフ=神経における「希望」の有様を体現しているということになる。



カヲルはシトと見做され殺されるが、これについては後述する。レイはアルミサエル戦で自爆し、ゲンドウによって三人目のクローンが作られるが、最後にはゲンドウを拒否するに至るという展開は、主人公の心の中にある「怒り」においてしか生まれ得なかった「希望」は二度失われ、三度目に生まれた「希望」もその出自である「怒り」という感情からは離れていくことでその本来の指向性=皆との絆(テレビシリーズ6話で、エヴァになぜ乗るのかとシンジに聞かれたレイは「絆だから、皆との。私には他に何もないもの」と答えている。)を探っていこうとする主人公の心の動きを示していると思われる。

なお、ここでもあえてこじ付け解釈をすれば、「渚」は「サナギ」のアナグラムであり、「カヲル」はすでに指摘されているように、2001年宇宙の旅のHALのネーミングに則って「オワリ」を意味すると解すれば、カヲルは主人公の「サナギ期を終わらせる」役目を、「綾波」には「ナヤミ」が含まれており、「レイ」=ゼロとすれば、レイは主人公の「ナヤミをゼロにする」役割を担わされた「希望」ということになる(サービス!サービス!)。

そして、先に引いた25話でのゲンドウの人類補完計画についてセリフに被せるようにリツコとミサトの殺されたシーンがフラッシュで示されるのも見逃せない。このことは、ロボットアニメの世界ではこの2人は死ななければならないということを示していて、それは、旧劇場版で描かることになった訳だが、カヲルが死に、ネルフという組織自体も壊滅し、人類補完計画が発動するとともに、初号機に乗った主人公によってサードインパクトが引き起こされることになる。





このサードインパクトというのは、詰まるところ心の世界の崩壊=主人公の絶望であって、なぜサードなのかと言えば、主人公には過去において二度そういった経験があったということを示唆していると考えられる。このカヲルの死を経て人類補完計画の発動からサードインパクトに至る過程の模写は、リリン、リリス、アダムやロンギヌスの槍、ガフの部屋の扉等々難解な衒学的用語のオンパレードによる怒涛の展開で、何ともややこしいという他ないが、このややこしさの演出上の意図を考えると、絶望に至る主人公の精神状態を表していると取るべきであろう。

つまり、ここで次々と繰り出される衒学的用語による難解な概念説明のややこしさというものは、主人公の精神状態の明晰さや正気度を示すものではなく、むしろ、それらとは真逆の混乱や錯乱を示すものではないかと思うのである。ここで私は「気が違った人間とは理性を失った人間のことではない。むしろ、理性以外のあらゆる物を失った人間のことである。」というG.K.チェスタトンの言葉を思い出したのだが、どう思われるであろうか。

例えば、24話で「君が何を言っているのか判らないよ、カヲル君」というシンジの印象的なセリフが出てくるが、これなぞはカヲル=「希望」の意味さえもが分からなくなってしまった主人公の、精神崩壊一歩手前の錯乱した精神状態を象徴的に表しているセリフだと思うのである。言い換えれば、ここではゼーレ=魂とネルフ=神経との間の精神的な葛藤や相克がそれ程までに高まっていると言うことである。カヲルがシトと見做され、続いてセントラルドグマに侵入したレイも強力なATフィールドからシトか?と疑われることなども同様であって、このセントラルドグマへのシト侵入という危機的状況シーンのバックミュージックとしてベートーヴェンの「歓喜の歌」が使われていることも、この支離滅裂さを効果的に表すのに一役買っているのは言うまでもないだろう。

そして、この間のややこしい経過を極々単純化して整理すれば、希望が失われると共に怒りも消失し、絶望するに至って、主人公の心の中では以前から潜在的に存在していた母体回帰願望である引きこもり願望が顕在化するに至った、と言うことが出来よう。

そして最終的には、この願望の顕在化=人類補完計画の発動による、すべての心が一つとなった他者のいない世界、かって自分が望んだ母体回帰の引きこもりの世界を、結局、主人公は拒否し、母親へ別れを告げることで、再度心の壁が傷つけ合う他者のいる世界へ戻ることを望む。

旧劇場版では、さらにワン・モア・ファイナルがあって、この最後の「首絞めシーン」の意味については、すでに語りつくされているので、特に付け加える事もないだろう。テレビシリーズの結末と共に、明暗両面を描くことで、主人公の置かれた「ヤマアラシのジレンマ」の二面性を強調した作りになっている訳である。

以上、だいぶ端折った(それでも大分長くなってしまった)が、基本的な構図としては、大体このようになろうかと思う。


さて、これでテレビ版・旧劇場版についての私見を終えたいと思うが、あえて新劇場版についてはなるべく触れないようにして来た。まあ、応用問題を解くお楽しみを奪うような無粋な振る舞いは控えておくのが賢明と考えたからで、ここまで読んでこられた奇特な方には、このチャレンジングな応用問題に、ぜひトライしてみて頂きたいと思う次第である。


それからワン・モア・ファイナル、最後に庵野監督と新劇場版の主題歌を歌っている宇多田ヒカルとの精神的同族性について述べ、この文章を終えることにしたい。

庵野監督は主題歌のオファーをするに当たっては、内容については特に注文は付けなかったとのことであるが、それは恐らく彼女とのこの精神的同族性についての明確な認識があったためではないかと私には思われる。つまり、どのような曲が出来上がってこようとも、それはそのままただちにエヴァの世界観にジャスト・フィットしてしまう、「シンクロ率100%」になってしまうという事実に対する確信があったからではないかと思うのだ。言い換えれば、エヴァという作品、そのクリエーターである庵野秀明、主題歌のクリエーターである宇多田ヒカル、この三者の三位一体性の基底には二人の精神的同族性が存在しているということである。

この点は、次の両者のそれぞれに対応する3つの文章を並べてみれば一目瞭然であろう。

「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。>庵野秀明 2006 09/28


2012年12月。エヴァ:Qの公開後、僕は壊れました。
所謂、鬱状態となりました。
6年間、自分の魂を削って再びエヴァを作っていた事への、当然の報いでした。
明けた2013年。その一年間は精神的な負の波が何度も揺れ戻してくる年でした。自分が代表を務め、自分が作品を背負っているスタジオにただの1度も近づく事が出来ませんでした。
他者や世間との関係性がおかしくなり、まるで回復しない疲労困憊も手伝って、ズブズブと精神的な不安定感に取り込まれていきました。
・・・・
2014年初頭。ようやくスタジオに戻る事が出来ました。それから、1年以上かけた心のリハビリにより徐々にアニメの仕事に戻っています。>庵野秀明 2015.04.01



「諦め」という屍を苗床に、「願い」と「祈り」という雑草が、どんどん私の心を覆い尽くしていった。絶望が深くなればなるほど、この雑草もたくましさを増すようで、摘んでも摘んでもまた生えてくる、やっかいなものだった。
でも「願うこと」「祈ること」は、「求めること」と決定的に違う。それは「希望」と「期待」の違い。(前者は、してもいいことなんだ・・・っつうかどうしようもなくね?)と気付いた。それに、願いと祈りをなくしたら私になにが残るだろう。人ではいられないだろう。
ならば雑草よ、好き放題に生えるがいいっ!> 宇多田ヒカル『線―sen―』



従って、この二人の作品の背後には、共に夥しい血が流れているのであって、このような二人のクリエーターを持ち得たことは、現代日本の栄光を示すのか、或いは悲惨を示すのか知らないが、そのことが判らずに両者の作品を愛玩するものは、誹りを免れ得ないであろう。

気持ち悪い!」と。



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「女神の見えざる手/Miss Sloane」

2021-02-19 00:00:00 | 映画
*2021.2.19追記 
 
新コロナ騒動にせよ、森喜朗会長辞任劇にせよ、アメリカの大統領選挙騒動にせよ、SNS等の通信技術革新によって、洪水とも言いべき情報の氾濫の最中にあっては、”事実”というものが、如何に不確かなものであるのかということを、改めて目の前に突き付けられているように感じる今日この頃である、そう思うのは私だけであろうか。

なお、森氏の件の発言については、あるいは元の発言自体を確認をしていない方がいるかも知れないので、リンクを貼っておくので、これが果たして巷間言われているような女性蔑視発言に当たるのかどうか、この機に今一度考えてみていただきたい。

「森氏 3日の発言「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」

そして、アメリカの大統領選挙であるが、いろいろな意見があろうが、これは信じる信じないといったことではなく、これも結局不正があったのかどうかという”事実”に帰着すると至極単純に私は考えている。

この件に関しては私自身は相当に疑わしいと思っているが、今現在の時点においては、勿論確実なことは言えはしない。

この選挙不正については「証拠もなしに」と散々言われてきたが、前に述べたように、弾劾裁判が反トランプ側の”切り札”であったと思われる現在、いよいよこれからトランプ側が”切り札”を出してくると考えるのは、むしろ戦術上至極もっともな考え方のように思われる。

以下のトランプ側の選挙不正に関する裁判の一覧では、26がactiveになっていて、これから争われることになる。恐らくこれらの裁判においてトランプ側の”切り札”が出てくることになるのではないか。勿論、立証責任は訴えを起こしたトランプ側にあるので、疑わしいというというだけでは、推定無罪=敗訴になる可能性が高いことは言うまでもない。

2020 US Presidential Election Related Lawsuits

そして、”切り札”となるのは、具体的なドミニオン機器の解析による不正行為の証明であろうが、以下のMike Lindellのビデオが参考になろう。英語がわからない方も、一つ目のビデオAbsolute Proof Trailerの13:07~と19:46~辺りを見れば、それがどういったレベルのものであろうか大体想像がつくであろう。おそらくもっと詳細なものが裁判で提出され、その証拠能力が争われることになると思われる。

Absolute Proof

さらに注目すべきことは、トランプは辞める直前の1月18日に「法執行官、裁判官、検察官及びその家族を保護する大統領令」を出していることである。つまり、今後行われるであろう裁判を審議する裁判官への脅迫や脅しを排除する手を、事前に打っていたということになる訳である。

Executive Order 13977—Protecting Law Enforcement Officers, Judges, Prosecutors, and Their Families

といったようなことで、次の大統領選挙にトランプが出るのではないかといった早まった観測もあるようだが、いやいや2020年のアメリカ大統領選挙自体が、未だ決着がついていないのではないかと考える次第。


*2021.1.15「オバマゲート」諜報書類 機密解除

FISA Abuse Investigation


*2021.1.14追記 

この映画はは2016年に制作されたものであるが、アメリカの大統領選挙結果決着前夜の現在においては、いよいよその作品としての光芒、面白さを増して来ているように思われる。未見の方は、ぜひ見ることをお勧めする次第である。



Lobbying is about foresight, about anticipating your oponents' movesand devising countermeasures.
The winner plots one step ahead of the opposition and plays the trump cardjust after they play theirs.
It's about making sure you surprise them and they don't surprise you.

ロビー活動は予見すること、敵の動きを予測し、対策をを考えること。
勝者は敵の一歩先を読んで計画し、敵が切り札を使った後で自分の札を出す。
そして、不意を突かれたのが、どちら側であったのかが白日の下になる。


勿論、ことは熾烈な政治権力闘争であるから、最終的に勝敗がどちらの側に転ぶのかは神のみぞ知る、事後的にしか判らない事はいうまでもないが、色々な読み筋を考えると、この主人公の言葉通りのシナリオに沿って事は進んでいるように、私には思われてならない。

果たして、この後”激震”が起こるのかどうか、まだまだ目が離せない状況にあると個人的には考えている訳である。








いやあ、久しぶりにすこぶる面白い映画を見た。


「天才的な戦略を駆使して政治を影で動かすロビイストの知られざる実態に迫った社会派サスペンス」とのことであるが、これ以上書くとネタバレになるので、見ていない方は、これくらいでの事前知識だけで見る事をお勧めする。2016年制作。

以下、なるべくネタバレにならないように感想を記すが、それでも最低限作品の幾つかの特徴には触れざるを得ないので、以下の文章は鑑賞前には読まない方が良いだろうと改めて釘を刺して置く次第である。





中で、主人公がJohn Grisham を読んでいるがシーンが出て来るのに気付いた人も居られるだろう。John Grisham と言えば、私には第一作「法律事務所/The Firm」の印象が目覚ましい。尤も、最近の作品は読んでいないので何とも言えないが、見終ってみて、コン・ゲームとしてのストーリーの建付けは、グリシャムのこの傑作処女小説を思わせるものがあると思うのは、私だけではないだろう。



これは一例だが、かようにJohn Grisham という名前をさり気無く観客に示し、主人公の性格と同時にこの映画自体の性格をも暗に示唆しているのが良い例で、スピーディーかつ全く無駄なシーンやセリフが一切ない緻密なストーリー展開に危く振り落とさるところだった。危ない、危ない。

色々な伏線を確めるために、すぐさまもう一回見直して、さらにもう一回見直す羽目になったが、それ程脚本が素晴らしいとも言える。勿論、編集も素晴らしいことは言うまでもない。脚本はジョナサン・ペレラ。この名前は憶えて置こう。

色々な見方が出来ようが、主人公スローンと法務担当のポスナーのバディー・フィルムとしても見ることができる。会話の中でソクラテスの名前が数回出てくるが、聴聞会を裁判に見立てれば、さしずめポスナーはプラトンの役回りであろうか、そういったらちょっと穿ち過ぎな解釈かな。つまり、この映画は「ソクラテスの弁明」ならぬ「スローンの弁明」である、と。


まず見終って強い印象を受けたのは、主人公の際立った人物設定、彼女のが行動が「理念」に基いているという点である。あるいは「大義」と言い換えてもいい。

この点でも主人公はソクラテスを思わせるが、大体こういった設定の場合、よくあるのは動機の精神的原因説明として、例えば主人公の過去に身内だとか知り合いだとかに銃乱射事件の犠牲者がいて、そのシーンがフラッシュバックされて示されるといった技法が使われる事が多いが、主人公はそういった動機から行動しているのではないことが一連の会話によって再三念を押すようにして一応は描かれてはいるが、そのことがが本心であった事が判るのが最後の最期になってからであるような描き方をしているのは素晴らしい。またこの主人公の人物設定を際立させるために、まさしくそういった人物としてエズメという脇役が対照的に設定されていることは明らかであろう。このエズメとの対比に置いて、この主人公の人物設定が一層際立つことになる訳で、聴聞会が終わって、場内で主人公とエズメが遠目に見つめ合う印象的なシーンが出て来るが、思わせぶりな目くばせだとか軽くうなずいてみせるといったベタな演出を取っていないのも非常に好ましい。エズメが目をそらして去っていくのであるが、これでこそ交差した二人の人生、それぞれの生き方の違いが際立つというものである。


そして、最終的に見終わって私が考えたのは、彼我の文化的な違いである。

こういった「理念」や「大儀」、「思想」を体現した人物というのは、「空気」で動いている日本社会においては現実から遊離した絵空事でしかないし、この映画で描かれているようなインテリジェンス活動の伝統を持たない日本では、これもまた非現実的な絵空事でしかないが(日本ではそれらは普通「陰謀論」としてカテゴライズされ一蹴されてしまうのが落ちであって、そのことはスノーデン問題に関する無関心でも明らかであるし、そもそも日本には”ロビイスト”という言葉自体が存在しない。ましてや存在をや)、「戦術」や「戦略」に基づく「共同謀議」がせめぎ合っている彼の地においては、この映画はもっと現実的な意味合いを持った映画として受け取られているのではないか、そう私には思われたということである。2018.11.14




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投資雑感

2021-01-04 17:00:00 | 投資


2020年は、個人的にいろいろな意味で節目となる年だったので、備忘録がてら考えや結果を文章にして残しておくことにする。

こうして日経225の年間チャートを改めて眺めてみると、この一年は非常に判りやすい相場だったように思う。日米ともに、暴落時に証券会社の口座数が爆発的に増えたというニュースがあったが、これらの新規参入者だけでなく、2020年は、恐らくほとんどの参加者がプラスで終えたのではないだろうか。その後のV字回復によって、暴落に耐え抜いた人はもちろんのこと、暴落で痛手を負った人も巻き返して、結果としては、プラスで終ることができた人も結構多いのではと想像する。例によって、先物による無理やりな指数操作とは言え、特に最後の11月12月のバイデン曲線かと見間ごう如き上げによって救われた人も多いだろう。(私なぞは逆にそれが恐ろしいと思うのであるけれども。)

私にとって2020年は、結果としては、プラス200%以上とすこぶる良好な成績を収めることできた年であった。一般に、こうした易しい相場を逃さないというのは、投資における必須の成功要因であるが、これはいわゆる二度のドテン売り、ドテン買いがうまくいったからで、一つ目の黒丸でドテン売り次の赤丸でドテン買いに転じ、私は2019年に付けた2万4448円で天井を付けたのではないかと思っていたので、二つ目の黒丸で買い玉が二倍以上になったのを機に、半分を利確した。この厳選した3回の売買タイミングがうまくいった形である。従って、現在は、気分的にストレスの掛からない、いわゆるタダ株のポートフォリオになっている。なお、年度末時点のものを以下記録として残しておくが、例によってセカンダリー投資として、すでに持っていたのを買い直したので、IPO年度でくくってある。

2016IPO

2017IPO

2018IPO

2019IPO



さらにいわゆる100バガーを達成したという点でも、記憶に残る年でもあった。売る前に持っていた銘柄のうち、断トツの上位二つは3064MonotaROと6035アイ・アールジャパンホールディングスだったが、この2つも3月23日に買い戻したが、6月11日には全部売ってしまった。それは100バガーを達成した(MonotaROは60バガー)からで、普通に考えて、まあここからさらに100倍になることはないだろうという考えからである。両者ともに決算は好調で成長株としてはいまだ魅力的であるが、次の100バガー候補に資金を振り向けた方がよいのではという目算である。また、これまでの資金的制約から思うようなポートフォリオが組成できなかったくびきから解放されたという意味でも、記念すべき年であった。これで思い描いていた理想の投資法がようやくにして実践できるというものである。

最近は時価総額の小さい小型グロース株でテンバガーを狙うといった投資法が流行っているが、そもそもIPO直後は時価総額は小さい訳であるし、私に言わせるとIPO後のいわゆるセカンダリー投資のほうがスクーリングなどの調べる手間が省けて楽ちんである。またこのセカンダリー投資法では逃してしまう銘柄もある訳だが、そういったものは別にリストを作っておいて暴落時に仕込めばいいので、結局のところ、グロース株投資は、セカンダリーと暴落時に限るというのが、かねてよりの私の持論である。2020年もそれらを実践した訳である。

とはいっても、これは自戒を込めて書いておくのであるが、こうした単年度の好成績は、これだけではそれほど意味はないので、この成果をいかにキープして、減らさずに増やしていくことが出来るのかということの方がはるかに重要である。

「強気相場は悲観の中で生まれ、懐疑の中で育ち、楽観の中で成熟し、陶酔の中で消えていく」という有名なテンプルトンの言葉は、ジェシー・シュタインの「自分が天才だと思ったら相場から撤退する時である」という言葉とともに、常に胸に銘記しておこう。

なお、私が天井を付けたのではないかと考えた理由の一つに、「小型成長株でテンバガー」といった大同小異の成功した個人投資家本が陸続と出版されたことがあげられる。これは「靴磨きが株の話をしだしたら天井」という相場格言の現代版だと認識しているが、この現象は過去の個人バリュー投資家本の出版氾濫現象を思い起させる。これらの本に共通した特徴は内容が手法一辺倒な点で、むしろそれよりも重要なリスクマネージメントやマインドマネージメントにはほとんど触れられていないことがあげられる。投資というのは対戦ゲームの一つなので、対戦型スポーツがいい例で、勝ち続けるためには、攻撃も無論大事であるが、何といっても防御やマインドセットの方が大事なのであるが、相場というのは罪作りなもので、数年に渡る楽観や陶酔がこの真実を過小評価あるいは無視させるのもまた繰り返される歴史であるとも言えよう。

言い換えると、相場には、5年±2~3年の周期的な上昇下降の波があって、私に言わせると、バリュー投資であれグロース投資であれ、そのすべての局面において有効な投資法というのは存在しない。従って、勝率も損益比率も悪くなる苦手な相場局面においては、如何に防御に徹することが出来るのかが、一発屋で終わるかかどうかの分水嶺になるということである。野球やサッカーでいえば、7-3で勝つことももちろん重要であるが、鉄壁の守りで1-0で勝つことの方がはるかに重要であるということである。


さて、述べたように、私は2万4448円で天井を付けたのではないかと思っていたので、2020年は全世界的金融緩和の威力を思い知らされた一年でもあった。なんせ緊縮財政派の御本尊IMFにしてからが、金融緩和推奨レポートを出すほどで、テクニカルにおいても、アメリカのダウに続いて日経225も上値を更新したので、ダウ理論から言ってアップ・トレンド継続確定で、現在は3万円を目指す流れと言えよう。だが、私に言わせれば、現在は完全にバブルである。いや、恐ろしい。



これは日経225の30年チャートであるが、私はバブル最高値3万8915円は超えないと思っているので、つまり、現在はダウントレンドの中の単なる綾戻しでしかないと考えている。現状ではこのアップトレンドがどこまで行くのかはわからないが、ここからは天井圏の危険水域突入だと捉えている。前にも述べたが、天井を付けた後は前回のバブル崩壊時と同じように、2030年辺りの大底に向かってまっしぐらのダウントレンドになると考えている訳である。

従って、今はこれまで培った知識と能力を総動員して如何に天井を捉えるかに注力することだけを考えているが、その心強い味方となるのはトレンドフォローという考え方であるというは、再度ここで強調しておきたいと思う。
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暴落はトレンド、トレンドはフレンド 9

2020-05-22 11:00:00 | 投資


⑧3月23日 先ず、ここに至るまでの相場認識を記して置くと、キリ番の19000円、18000円も割り、順調に(?)下げてきて、3月17日に16378円を一旦は付けたが、結局、陽線で引けた。髭を上下に着けているので、底打ちを示唆しているが、日柄としては戻り高値からは18日目で、5日線に絡んでもいないので、様子見。

3月18日、19日は陰線だが5日線にタッチし出しているので、下げの勢いが鈍ってきている。この3日で小さいレンジを作っていると見れば、やはり16300円を意識した動きとも取れる。日柄は20日目なので、底打ちの期間に入ったと考えられる。週明けの動きに注目。

ということで、週が明けて23日には、ごくわずかだが陽線で5日線を下から上に抜けている。これはグランビルの法則の買いのシグナルで、縦軸横軸の目安から見ても底を打ったのではないかと判断した。

従って、だいぶ利益が出ていたこともあって、ショートの裡9を利確し、結局、2-3とした。ショートを2残したのは、下げる可能性もあるからで、もし下げていくようであれば、例によって臨機応変にポジション・ワークで対応していく訳である。また、このポジションは、2-(2+1)と見ることも出来る。ショートの2の利益をロングの2でヘッジして確保し、リスクにさらしているのはロングの1だけであると考える事も出来る。

と同時に、ここでドテンした形になったので、前日の安値16538円の1円下、16537円にヘッジ売り1の予約注文を入れる。若しこれで下げて行って下値を更新すれば、自動的に3-3のポジションになる訳である。

さらに、今回は底打ちを示す今一つの兆候が見られたので、それも記して置こう。

日経225というのは指数なので、先物やCFDのように、ETFとは別に取引所の時間帯以外にも取引されている金融商品もあって、同じ日経225であってもそれぞれのチャートは微妙に異なっている。

私はそれらのチャートも参照するのを常としているが、見たいチャートが一通り揃っているので、以下のサイトを常用している。

世界の株価と個人投資家ニュース

そして、3月23日の夜、いつもの様にこのサイトのチャートをざっとチェックしていったところ、日経225CFDと日経225ドル換算のチャートの形に目が留まった。この2つは殆ど同じなので、ここでは日経225CFDのチャートを示すが、私はこのチャートを見て、やはり明日から上昇するのでは、と思ったのである。判り易いように、直近の陽線を黒く塗っておいたが、引いてあるのは、16300円と16100円のラインである。直近の動きが、この二つの価格帯ゾーンを意識した動きになっているのが判るだろうか。



ついでに比較の意味で、通常の日経225のチャートも示しておこう。



このCFDのチャートが示すのは、前に相場と言うのはブルとベアの陣取り合戦と述べたが、件のゾーンに向ってベア側が攻めてきたが、直近では、ここを防衛ラインと考えているであろうブル側が徐々に押し戻していったことを示している。そして、注目すべきはこの3月23日のピンバーである。この日に、押し戻されていたベア側が、再度一気にゾーン内に攻め込んだが、ブル側が猛反撃に出てそれを押し戻し、結局この日は陽線で引けたという形になっている。つまり、このゾーンをめぐる熾烈な攻防を、ブル側が結果として死守し切って制したということを、このチャートは如実に示していると私は解釈した訳である。

⑨3月24日 窓を開けて長い陽線。やはり、底打ちしたようだ。ショートを切って、0-3とする。従って、ヘッジ売りも3とする。位置はそのまま。

今度は、上値の目安であるが、18000円は超えたので、キリ番の19000円と20000円、25日線にタッチする辺りが挙げられる。それに、今回の下げのフィボナッチ比率による戻し、19174(38.2%)と20054(50.0%)辺りが考えられるが、後者はキリ番の20000円と近接しているので、上げてもこの辺りまでであろうと見当をつける。

⑩3月26日 3月25日も窓を開けて長い陽線、19546で引けたが、この26日には下げて陰線、はらみ線(天井シグナル)になってしまった。よって、1-1のスクウェアのポジションとした。

⑪3月31日 3月27日は陽線だが、25日の高値を超えられず。週明けの2月30日も陽線だが、前日に対して高値安値を切り下げている。5日線に触りだしたのも下げの兆候である。そして、この31日に陰線で上から5日線を下に抜ける。従って、グランビルの法則に従って、売りを入れ2-1とした。

なお、26日の陰線の始値は19234円、同じく陰線のこの21日の始値は19181円と、フィボナッチ比率による戻し、19174(38.2%)がマーケット・メイカーには意識されているようだ。



⑫4月1日 窓を開けて長い陰線。ロングを切って3-0とする。これで上値を切り下げたので、下値を切り下げて2番底を付けに行くかに注目。

⑬4月3日 2日3日と上下に髭が出た短い陰線が並び、下げ渋っている。この並びは戻しで上げた分の戻し安値(ややこしいな)の目安として、フィボナッチ比率61.8%の17592円が意識されているように思えたので、1-1のスクウェアに戻す。



⑭4月6日 長い陽線で5日線を下から上に抜ける。0-2。これで下値を切り上げたので、底打ちが明確になった。このあと上値を切り上げるかどうかに注目である。

⑮4月7日 上下に髭の出た短い陽線だが、初めて25日線の上に出た。経験則として、25日線をロウソク足の実体部分が超えると、そのまま上がっていくことが多いので、ロングを追加、0-3とする。

⑯4月13日 そのあと3日上がっていったが、前の高値を超えられず、この13日に陰線で5日線を上から下に抜けたので、0-0とし、手仕舞いすることにした。私の暴落システムはあくまでも短期勝負用と割り切っているので、手仕舞いのルールとして大体1月半くらいを期限にしているからである。それは、これ以上ダラダラと続けると判断が甘くなり、思わぬポカをする傾向があるためである。

この後、結果としては高値を切り上げてアップトレンドになって行ったので、手仕舞いをするには早すぎたという見方もできようが、これだけでも十分な”餅”が得られたので、まあ良しとしよう。終わってみれば、今回の暴落は、妙な乱高下もなく非常に素直な動きの暴落であったように思う。幾分長居し過ぎた嫌いがないでもないが、それは底打ちが若干早く、2番底を付けに行くのではないかという先入観が少なからずあったからで、それでも動きに素直についていくことが出来たので、まあ上出来の部類である。それは端的に数字に表れているので、今回は勝率と損益比率ともに、これまでの平均値を上回ったトレードであった。


さて、以上で私の説明を終わりたいと思うが、最後に再度、暴落について述べておきたい。

誰が言い出したか知らないが百年に一度の暴落といった表現をよく耳にすることが多いが、そもそも原理的に言えば資本主義経済というのは非常に不安定なシステムであって、資本主義経済市場には暴落は付物であると言わなければならない。これは過去のチャートを確めてみれば、直ぐに分かることで、暴落は百年どころか実に頻繁に起きているのが判る。小さな暴落も含めれば、年に数回は必ず起きているというのが実状である。また同様に、暴落で〇〇兆とかの富が失われたなどといった言い方をされることも多いが、基本的に市場取引というのはゼロサム・ゲームであるので、実際には暴落時には多大な富の移転が行われているのが真実であって、この真実を冷徹に理解すべきである。

言い換えると、暴落はイレギュラーな市場現象ではなく、極めてレギュラーな市場現象であって、この事実を真摯に受け入れるならば、結局、投資(或は投機)における最終的な成否を分けるものは、暴落にうまく対処できるか否かに掛かっていると言っても過言ではないだろう。従って、ごくありふれた当然のリスク・マネージメントと言う意味で、暴落については、前もってよく研究した上で怠りなく準備しておく必要がある、とここで声を大にして再度強調して置きたいと思うのである。

といった次第で、この点を踏まえて考えれば、洋の東西を問わず、これまで暴落について特化して書かれた碌な投資本がないという事実は不思議な気がしないでもないが、結局、暴落に対する対処法というのは「裏に道あり、花の道」の典型例ということになるのだろう。日本ではないがしろにされている、そのバック・ボーンとなる基本的な考え方や原理原則に関する理論、それに私なりの暴落システムについては、これまで縷々述べてきたとおりであるが、いささかなりとも参考にしてもらって、ぜひ自分なりの暴落に対する何らかの対処法を確立して、暴落をフレンドにしてもらえればと思う次第である。成功を祈る。

なお最後に、最近感銘を受けた動画を紹介して終わりたいと思う。内容もさることながら、プレゼンテーションとしても、簡潔にして明解、実によく出来た動画であると思うので。

人間というのは通常の性癖として、どうしても「経験」というミクロな小局にしか目が行かないもので、「歴史」というマクロの大局を俯瞰するのには、よく訓練された叡智を必要とすると言わなければならないが、それが「賢人(賢者)」がオマハにしかいない理由であろう。そのバフェットがこの点で、実にうまく暴落に対処しているのは、今さら私ごときが言うまでもないことだが、この動画はバフェットではなく、もう一人の「賢人(賢者)」、相方のマンガーについてのものである。

史上最高のサクセスストーリー。ウォーレン・バフェットの右腕




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暴落はトレンド、トレンドはフレンド 8

2020-05-16 00:00:00 | 投資
さて、前回述べたように今年の1月の月足で、ショートのエントリー・シグナルが出たので、2月からは週足も参考にしながら日足でエントリーポイントを探って行った。しかし、週足には取り上げるべき特別な特徴は見られなかったので、日足のチャートのみに基いて説明することにする。

結果としては、次の図のようなポジション・ワークになった次第であるが、その時々にどのような事を考えて、ポジションを動かしていったのかを、出来るだけ再現してみようと思う。

なお、前にも説明したように、場が引けてから、夜の時点で完成した日足を見て、翌朝寄り成りで注文をいれるというやり方を取っているので、図中のポジションは朝一の時点で取っているポジションということになる。



まず、2月4日の時点で下限ラインが確定したので、図に引いて置いたようなレンジが確認出来る。想定としては、最終的にはこのレンジを下にブレイクするので、出来るだけこのレンジの上限付近でショートを入れるのがセオリーという事になる。

①2月10日 上がって来て、想定通りレンジ上限辺りで下げたのでショートの試し玉(1単位)を入れる。1-0。

②2月14日 一旦上げたが、直ぐに高値を切り下げて下げたので。ショートを追加。2-0

③2月25日 もう一度上げ、高値を綺麗に切り下げて、待望のレンジを下にブレイク。ここは断固として本玉を入れるところである。5-2。

ここで同時にロングの2を入れたのは、もしも時のヘッジの為であるが、それは一般にレンジ・ブレイクというのは、ダマシが多いからである。タートルズ方式もレンジ・ブレイク手法だが、当然の如く勝率が低いので、これを逆手にとったタートル・スープなる手法が発明された程である。こうしておくと、もし万が一、踏み上げられてレンジ内に戻っていくようであれば、ショートを切って2-2にし、その後はトレンドに沿ってポジション・ワークで対応していくことが出来る訳である。

そして図に引いてある移動平均線は、5日、25日、75日線であるが、この25日の時点では、この3つの移動平均線のグランビルの法則によるからみ具合が、まず5日線が25日線をデッドクロスし、さらに5日線が75日線もデッドクロスしていて、次に25日線が75日線にぶつかって、今まさにデッドクロスしようとしているというダウントレンド転換の典型的なパターンである。従って、翌日、余程の大陽線でも出ない限り、パーフェクト・オーダーが完成することになる。

つまり、この25日の時点では、テクニカル的に、ダウ理論による高値安値切り下げの4点セット、グランビルの法則による移動平均線のパーフェクト・オーダー、レンジブレイクと3つが揃っていることになる。恐らく、この25日にショートを入れた人も相当数いるはずである。

なお、この2月25日には原油価格が暴落、50ドルを割れている(WTI終値49.9ドル/バレル)ので、これが今回の株価暴落のトリガーとなったと思われるが、前に述べたように私はファンダメンタルとテクニカルは表裏一体のものと考えているので、これも前に述べて置いたような、この原油暴落による株価暴落への波及シナリオは上に述べたようなテクニカル判断を補強するものという位置づけである。

逆に言うとファンダメンタル・シナリオだけで行動に移すという事は、大きなリスクを伴うので、必ずテクニカルの裏付けを取る必要があるということである。この点は、例えば「マネーショート」という映画を見た人はご存知だと思うが、サブプライムローン崩壊に懸けた主人公たちが、ショートを踏みあげられて一時的に慌てふためくシーンがあるが、これなぞは私に言わせると、主人公たちがテクニカルを全く参照していないというリスクを、実に象徴的に示しているシーンだと思うのである。まあ、原作を読んでいないのでこれは推測でしかないが、映画のシナリオ展開上、一波乱がないと面白くないという点はあるにしても、実話に基づいているということなので、このエピソードは恐らく事実であろう。



④2月27日 26日は様子見し(基本的に日足が5日線の下にあれば問題はない)、この27日の下げで、明確にダウントレンド入りと判断したので、ヘッジを切り、その分ショートを足して、7-0にする。そして、この時点で片張りになったので、同数のヘッジ買いの予約注文を入れて置いた。位置は、25日にレンジ割れした日足の高値+1円の22951円である。このあと下げるに従って、このヘッジの位置も下げていくという、トレーリング・ストップならぬ言わばトレーリング・ヘッジということになるが、最近は株でもようやく、このようなIFDだとかCOCOだとかの予約注文が出来るようになったのは、朗報である。

⑤3月5日 数日上げ下げして小さなレンジを作り、ごく小さな陰線とは言え5日線の上に出たので、グランビルの法則に忠実に従い、ヘッジを入れる。7-2

⑥3月6日 下げて5日線の下に再度潜り込み、レンジを下に抜けたので、ヘッジを切ってショートを足して、9-0にする。そして同時に、トレーリング・ヘッジをレンジの上、21720円に移動する。

⑦3月12日 3月10日につけた陽線(2万円奪回の試みか)の下ヒゲを割ったのでダウン・トレンド継続と見なし、ショートを追加、11-0にする。そしてトレーリング・ヘッジも3月11日の上髭の上、19975円へ移動する。

さて、入ってくるニュースといえば、新コロナウィルスによる全世界的パンデミックによる総悲観論一色といった有様で、1万9000円も割り込んでしまい、3つの移動平均線の傾き具合や開き具合から見ても、予期していたところとは言え、相当な暴落となったが、ここからは底値を探って行く展開である。

そのためには、縦軸と横軸の2つの目安を考慮する必要がある。

先ず縦軸の安値の目安であるが、大きな節目としてこの時考えていたのは、いわゆるキリ番である1万8000円、1万7000円、1万6000円等の外に、アベノミクス相場による上昇幅のフィボナッチ比率による戻しとサポレジ転換線である。注目していたのは、以下の図にあるフィボナッチ比率38.2%戻しの18200円と同50%(半値)戻しの16300円、それに16100円あたりのサポレジ転換線である。特に、後者2つは近接しているので、この辺りまで下げるようだと、この1万6100円から1万6300円当たりの価格帯は、マーケット・メイカー達に相当意識されるゾーンであるのは間違いない。



次に、横軸としては、日柄による目安である。この日柄という時間概念は、長いものでは例えばクズネック・サイクルなどの各種のサイクルが指摘されいるが、ごく短期においては、これまで相当な数の投資本や相場に関する本を読んできたにもかかわらず、殆どと言って良い程言及されず、考慮もされていない(その唯一の例外は林輝太郎氏の60日周期説くらいか)概念であるが、私見では非常に重要な概念である。

例えば、空売りなどは6か月の期限があるので、大きな出来高のあった日の6か月後やその半分の日柄である3か月後などはトレンドの転換点などの重要な節目となりやすいことが挙げられる。

それはともかく、過去30年間の日経225と東証1部全銘柄を調べた私の検証結果から言えば、アノマリーとして大体の暴落は1か月くらいで底を付けると言うことが出来る。稼働日でいうと大体23日前後で底を打っている。リーマン・ショックの時でも25日で底を付けているので、何処を起点に取るのかにもよるが、今回の暴落は戻り高値である2月20日から始まったとすれば、3月20日から25日くらいの間辺りに底打ちをするという目安が想定できる訳である。

勿論、これらはあくまでも目安に過ぎないので、前にも述べたように、これ等の目安にマーケット・メイカーがどのようにテクニカルを意識して、相場を動かしていくのかを探って行く作業が重要であることは言うまでもない。
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暴落はトレンド、トレンドはフレンド 7

2020-05-09 12:00:00 | 投資
ということで、実際には個別株もいくつか手がけたが、主に日経225ETFを手掛けたので、225のチャートを例にとって、このシナリオをどのように読み、修正していったのかを次に示そうと思うが、その前にテクニカルについて今一度、掘り下げておきたい。

前に、テクニカルという相場における法則は、原理的に物理法則とは性格を異にすると述べたが、その最も根源的な理由は、そこに人間の意志が存在しているという点にあると私は考えている。一元論対二元論と述べた所以であるが、これは基本的に相場をどのように捉えるかという相場観にも通底している。

それを単純化して述べれば、基本的に相場を動かしているのは、意志を持った複数のマーケットメイカーであるという事である。この点で、よく言われるような雑多な弱小投資家の群れ=大衆の動向という因子は全く考慮に入れる必要はないと考えている。これらマーケットメイカーは、また複数の売り手(ベア)と複数の買い手(ブル)に分かれる訳だが、この両者の力関係の均衡点がその時々の価格になるのは言うまでもないだろう。これをしごく単純なアナロジーで表現すれば、相場とはブルとベアとの陣取り合戦であると考えてよい。

そして、これらの売り手と買い手のマーケットメイカーは、ただ闇雲に売ったり買ったりしている筈もないので、何らかの根拠や基準に基づいて行動しているのは言うまでもないだろう。従って、その行動の特徴や痕跡がテクニカル的な傾向や規則性となって相場には現れることになる。例えば、サポートラインというのは買い手のマーケットメイカーが意識して買っている水準を表わしているし、レジスタンスラインというのは売り手のマーケットメイカーが意識して売っている水準を表わしている。さらに、両者の特徴を兼ね備えたサポレジ転換ラインというのは、売り手と買い手両方のマーケットメイカーが意識している攻防ラインであるから、今後も機能する可能性が非常に高いということにもなる訳である。そして、さらに高次の海千山千のマーケットメイカーは、この原理を熟知しているので、テクニカルにはわれわれ弱小投資家などよりはるかに精通していると考えなければならない。そのため、テクニカルを逆手に取ったいわゆる”ダマシ”なども意図的に仕掛けているというのは、相場に長年親しんでいる者には常識であることも付け加えておかなければならない。

結局のところ、この点を理解しないで、単に自然現象と同じように相場の動きを捉えれば、テクニカルが機能しないケースも多く見られるので、テクニカルというのはたまたま機能しているだけのようにも見える。そのため相場は単にランダムウォークしているだけだと考えるのも判らないでもないが、この点に関しては、通常、市場は効率的か否かといった論点から論じられる事が多いが、私に言わせるとどちらも一元論的な見方にとらわれているのであって、その両方に欠けているのは相場と言うのは、あくまでも人間の意識的・意図的な営為であるという、常識的な二元論的な見方である。

従って、”ダマシ”(というのは表面的はテクニカルは機能していないことになる訳だが、あえて意図的に機能させていないという意味では、逆説的に”機能している”と考えることもできる)も含めて、テクニカルが機能するか否かというのは、結局、そのテクニカルをマーケットメイカーが意識して行動しているか否かと言う事実に帰結する。当然のことながら、マーケットメイカーたちに意識されずスルーされたテクニカルは機能しないという事になる訳である、従って、この点を踏まえて考えれば、テクニカルを使いこなすためには、その時点で幾つかあるテクニカルの中から、マーケットメイカーが意識しているテクニカルを、チャート上の痕跡や兆候から推理してピックアップする必要があるという事である。言い換えると、テクニカルを使いこなす要諦とは、マーケットメイカーの背後からいわば肩越しに、彼らが注目・意識しているテクニカルを見なければならないということである。


さて、又もや前置きが長くなったが、下の図は今回のアベノミクス相場の上昇を示す日経225の月足チャートである。これを見るとアベノミクス相場というのは、2011年11月から比較的綺麗なエリオット波動を描いているのが判るだろう。



勿論、この調整波の部分は事後的に引いたラインであるが、図の黄色に塗ってある足が2019年度の月足である。この2019年の時点で考えていたのは、2018年10月につけた前の高値24448円が天井である可能性が高いという事である。その根拠の一つとして挙げられるのは、フィボナッチ比率による戻り高値の概算数値である。

1989年につけたバブルの高値38957.44円から2008年につけた底値6994.90円へのダウントレンドの戻しの目安としては、この下げ幅のフィボナッチ比率ー0.382と0.50、それに0.618が大きな節目として意識されることが考えられる。この2019年の時点では、この内の0.50による22976.17という概算値辺りで天井をつけるという想定が出来る訳である。まあ、フィボナッチなんぞを使わなくても、普通に半値戻しというのは相当に意識されやすい数字であるのは言うまでもないだろう。図中にはオレンジのラインで引いて置いたが、一旦このラインで下げてから再度上昇し(ダマシ?)、多少オーバーシュートした形になっている。このフィボナッチによる概算値とチャートから伺えるエリオット波動カウントを合わせて考えると、この24448円が天井である可能性はかなり高いと考えていた訳である。早ければ、アノマリーから考えて秋口に暴落するのではないかと考えて、私は虎視眈々と待ち構えていた次第である、

勿論、この時点では可能性は高いと言えども、未だ仮説にすぎなかった訳だが、それが明確になるのは、この後上げていった次の高値がこの24448円を越えずに下げた時点である。これによってエリオット波動理論でいう調整派(ダウントレンド)入りが確定したという事になる訳である。下のエリオット波動の基本形図でいえば、赤丸で囲った部分である。



従って、この赤丸の部分、戻り高値が切り下げたポイントは絶好の売りエントリーポイントになる訳である。今回は調整波bが強く、ダブルトップ気味になっているが、これも良くあるパターンである。

なおこれは余談だが、年が明けた翌2020年の一月の確定した上髭ピンバー(トレンドの転換点を示すプライスアクション)を見て、私は殆ど確信に近いものを持った。アベノミクス・バブルもこれで終ったな、と。従って、これまで長期投資として保有していたポートフォリオの殆どを処分することにした。中には長いもので30年に渡って保有していたものもあるが、わずかの優待株と高配当株(これらも同数の売りヘッジを掛けて置いたことは言うまでもない)を除いて、すべて売り払ってしまった。それはリーマンショックと同じ轍は二度と踏むまいと、堅く心に誓っていたからである。

ここで、ダウ理論について述べて置かなければならない。

ダウ理論は、すべてのテクニカルの基本となる重要な理論であるにもかかわらず、これもまた日本の株式投資では殆ど語られることがない理論であって、これもまたそれだけ見えざる検閲制度の強度を物語るものであるが、ここではそのトレンドの定義について述べるに止める。

普通、ダウ理論の6つ目の原則「トレンドは明確な転換シグナルが出るまで継続する」の説明としては、このようなトレンドの定義がなされている。

安値を切り上げ、高値を更新→上昇トレンドが継続。

高値を切り下げ、安値を更新→下降トレンドが継続。

つまり、高値安値の四点セットでトレンドが判断できるという実に明解な定義になっている訳である。



「なんだ、あたりまえじゃないか」と思う人がいるかも知れないが、それはこのように厳密に定義をして置いてから、それを基に分析をしていくというやり方に馴れていないからである。と言うよりも、こうした定義を基に厳格に論理を組み上げていくといった考え方は、そもそも我々日本人にはないもので、それが見えざる検閲制度の根幹にある思想であるが、それがまたダウ理論の奥深さがなかなか判らない理由でもある。まあ、これまで何遍も述べて来たように、我々の普段使っている「高値」「安値」という言葉の融通無碍さ、実にいい加減さを考えてみれば、この事は良く判るだろう。

ともあれ、ここでいう「明確な転換シグナル」とは、例えばアップトレンドでは「押し安値」を下へ、ダウントレンドでは「戻り高値」を上へ抜けることを意味する訳であるが、そう言われてこの意味がすぐに分かるだろうか。

これはどういうことかというと、アップトレンドの場合、高値を切り上げても安値を切り上げなかったら、その時点でトレンドは終了したという事である。逆に、ダウントレンドの場合、安値を切り下げても高値を切り下げなかったら、その時点でトレンドは終了したという事である。

かようにダウ理論と言うのは、応用を含めて考えると、実に明快且つ奥深い重要な基本的原理論であって、ぜひマスターしておく必要があるので、一度詳しく調べてみる事をお勧めする次第である。

ここで、先の日経225の月足チャートをもう一度見てもらいたいが、現在の時点ではかなり戻していて一部では楽観論がみられるが、ダウ理論では高値安値を切り下げていて、「明確な転換シグナル」は出ていないので、未だダウントレンド中である。つまり、直近では丸印の高値を超えて現在のダウントレンドが否定されるのかどうかに注目する必要があるという事である。


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暴落はトレンド、トレンドはフレンド 6

2020-05-02 12:20:00 | 投資
先ず簡単に、私の暴落システムについて説明しておくと、手法としてはツナギ売買による日足トレードになる。

日足トレードというのは、場が引けてから、日足が確定したチャートを見て判断を行い、買うにせよ売るにせよ、翌朝の寄り付き成り行きで予約注文を入れるというやり方を取っている。この方法だと場中には一切株価を見なくて済むし、場が引けてから翌朝の場が始まるまでの間の好きな時間に判断を行えば良いので、非常に楽ちんである。掛かる時間も早ければ数秒、長くても数分で終るので、ものぐさにはピッタリという訳である。というよりも、逆に長考すると、考えに考えを重ねて悪手を打つ場合が多いので、なるべく時間を掛けないで、最初に頭に浮かんだ判断に素直に従うよう心がけていると言った方が正確かも知れない。



そして、ツナギ売買とは、両建ての技法で、玉をつないでいくことからつけられた名前のようだが、次のようなポジション・ワーク技法である。

まず、表記だが普通は両建てのポジションを

(ショート)3-2(ロング)

というように表記するのが慣例になっている。
そして、例えば、これから上がると思い

0-1

というポジションを持ったとする。そして、これは得てしてよくある事だが、案に相違して下がってしまったとする。その場合、損切りはしないで、反対玉の売りを入れて、

1-1

とする。そして、その後、再び上がっていくようであれば、ショートを切って、ロングを追加して

0-2

でその上げを取っていく訳である。逆に、さらに下げていくようであれば、ロングを切ってショートを追加して

2-0

で下げを取っていく、といった技法である。実際は、入れる玉も多く、もっと複雑なポジション・ワークになることが多いが、基本的にはこの基本形のバリエーションになる訳である。従って、その前提としては、上げるか下げるかの見極めー相場認識の技術精度が要求されるのは言うまでもない。


そして、次に私の暴落システムの基本型を示す。当選の事だが、まず売りから入る(2-0)訳だが、下げ止まった底の辺りで、ショートを利確してロングを入れ、ポジションをスクウェアにし(1-1)、リバウンドし出したら、ショートを切ってロングを追加し(0-2)、リバウンドの上げを取っていくというものである。普通、暴落時には幾ばくかのリバウンドは必ずあるもので、その下げ上げの両方を取ってやろうという、なかなかと欲張りな、と言うか、えげつないシステムである。


以下、このシステムでもって、今回の暴落に置いて、どのような相場認識の下に、どのように考えて、売り買いを行ったのかを説明する。

先ずは、大局観から説明したいと思うが、これは2015年にまで遡る。次に引くのは、一旦はひっこめてしまったが、2015年の夏ごろに書いた文章の一部である。


<さてさて、というようなことで簡単ではあるが短期ベア中期ブルとの私的相場観を述べてきたので、ついでにここで長期ベア観も述べておくのも良いだろう。まず、前にも引いたが半藤一利氏の興味深い説を再度引く。

「じつは、私はインチキ史観を持っている。インチキ史観というか、遊びと思っていただいてもよい。それをここで語っておく。

日本が開国を迫られ、朝廷が開国と決めたのが慶応元年。その前は幕府が朝廷の勅許を得ず、勝手に開国したということで尊王攘夷運動が起きていたが、結局、攘夷は不可能ということで、朝廷も開国に踏み切らざるをえなかった。つまり、国策として開国が決まったのが慶応元年で、西暦にすると1865年である。

 それから明治の一代目が近代日本をつくるために辛酸をなめながら努力し、日清戦争、日露戦争と勝ち進んだ。とにかく世界の植民地にならず、世界列強の仲間入りをしたと喜んだのが日露戦争に勝ったときである。それが1905年のことで、国策としての開国が決まった慶応元年からちょうど四十年後にあたる。 それから軍部が力を持つようになり、国民もうぬぼれのぼせ、われこそアジア唯一の強国であると世界を敵に回すようになり、太平洋戦争に突入して散々な敗戦を喫した。それが1945年で、日露戦争から数えると四十年が経過している。つまり国をつくるにも、国を滅ぼすにも、四十年なんである。

 その後、占領期間の六年間を除くと、戦後日本は1951年からはじまる。そこから戦後の復興があり、建設があり、経済大国になってバブルのはじけたのが1991年。またしても四十年後の物語になっている。その間、戦後日本は最初から経済大国を目指したわけではなかった。アメリカの政策もあり、日本人は文化国家の創造を目ざしていた。働く人間たちに経済大国を目ざす意識はなかったが、朝鮮戦争などもあって、いつしか経済大国を目ざす流れになっていた。

 私の勝手な史観でいくと、”第一の滅び”は日露戦争にはじまり、太平洋戦争の敗戦で終わった。そこから日本は”第二の国づくり”をはじめ、バブルを経て、”第二の滅び”へと入った。つまり、”終わりのはじまり”がはじまっている。

 私の計算で行けば、2030年が”第二の滅び”の最終年になる。2030年と言えば高齢者人口が全人口の三分の一以上になり、労働人口も四分の一になると予想されている。日本の活力が危機にさらされ、まさに日本の危機である。 ”終わりのはじまり”はまだはじまったばかりである。いまのうちに2030年に最終年を迎えるこの”第二の滅び”を何とかしておかないと、日本は本当に滅びるかもしれない。」(『撤退戦の研究』光文社)

この「インチキ史観」に基けば2030年ごろに日本の転換点がやってくることになる。つまり、時期的にいって今回のブル相場が終わった後のベア相場の最悪期あたりになりそうである。山高ければ、谷深し。恐らく日経平均は最安値を更新するのではないか。その時にはそれを象徴するような未曽有の大事件が勃発するのではないかと考えているが、今のところそれが何であるのかは判らない。

アベノミクスのツケが回って財政破たんするのか、社会主義中国北朝鮮の崩壊時の戦争に日本も巻き込まれて多大の被害を受ける(核ミサイルの存在は脅威である)のか、東南海大地震が起きて日本沈没となるのか、はたまたGODZILLAあるいはシトが日本を襲うのか(笑)、あるいはそれらのうちいくつかが同時に起るということもあるのかもしれない。

そして、そこから日本は”第三の国づくり”を始める事になる訳である。なに、苦境に強いのは日本人の強みであって、日本はまたしても復興するのは間違いないだろうが、好調時にうぬぼれるのもまた日本人の弱みでもあって、2070年ごろにはまたもや「アジアの盟主」だとか「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」とかうぬぼれて必ずやへまをしでかすのであろう。

この「四十年」という周期は何に由来するのか、勿論分析の限りではないが、恐らく時代を担う現役世代が交代する周期がこれくらいなのであろうと思われる。つまり、「経験に学び」それが通用するのは高々「四十年」でしかないとも言えるのであって、やはり「歴史に学ぶ」必要があるということである。とまあ、このように書いてきたものの、何分「インチキ史観」であるのでこれを信用するには当たらない。(「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」2015/08/30)>


ということで、GODZILLAが日本を襲うという私の予言は、見事シン・ゴジラとなって的中した!訳であるが、実際に顕れたのはシン・ゴジラならぬシン・コロナであったというのは、シャレにもならない話である。新コロナウィルスについては様々な仮説や憶測、悲観論や楽観論が錯綜しているが、専門家にも本当のところはまだ良く判らないというのが真実であろう。それにしても、この間の日本政府の対応を見ていると、日本人というのはつくづくリスク・マネージメントが不得意だなあと思わざるを得ない。恐らく非常事態宣言による経済への波及効果なぞは、試算もしないで実行に移したのではないか。例えば、これまで「緩やかに回復」と白々しくも言いつづけて消費税を増税して置いて、四月の月例経済報告で、10年11ヶ月ぶりに新型コロナという絶好の口実を得て、今更「悪化」としたことが象徴的で、私の目には、「インチキ史観」のシナリオに沿って日本は、着々とその歩みを進めているようにしか見えない。

なお、これは余談だが、誰も指摘しないので、「自粛要請」という言葉のおぞましさについて一言述べておきたい。これは山本七平のいい方で言えば「空体語」、ジョージ・オーウェルの言い方で言えば「ニュー・スピーク」という事になろうが、そもそも「自粛」は促すものであって、「要請」するものではない。「要請」するなら「休業」のはずであるが、なぜこのような胡乱な論理のすり替えを行うのかと言うと、そこには「休業補償」をしたくないという政府=財務省の下心が透けて見える、そう考えるのは私だけではないだろう。実際、「休業補償」も「協力金」なる「空体語」へとすり替えられて、一律50万円という算定基準や給付基準も良く判らない支給でもってお茶を濁させられているのは、ご存じの通りである。また、現在の日本の法体系においては、強制的な禁止は出来ないので、マスコミを使って実質休業に追い込むよう「空気」の醸成があからさまに行われているが、そのためにパチンコ店が槍玉に挙げられているのは、戦時中の「隣組」による相互監視体制やそれによる「非国民」の糾弾・摘発を連想させられるが、そう思うのは私だけであろうか。これもまた「非常時」や「非常事態」に特有の、実に日本的なおぞましい「空気」によるものであろう。

まあ、「空気」は読むものだと考えている人には耳に念仏であろうが、「空気」は本来水を差すものである。



それはともかく、従って、このシナリオによれば、日本はバブル崩壊によって四十年周期のダウントレンドへと突入したのであって、アベノミクスによる上昇相場も単なる綾戻しでしかないので、バブル期の高値を越えることは無いという見立てになる訳である。

そして去年の時点で考えていたのは、これは同じように考えていた人も多いのではと思うが、特需が剥がれるオリンピック開始前後が、アベノミクス相場の終わりになるのではないか、ということである。ただ、これだけなら単なるシナリオでしかないのであって、このシナリオを実際の相場展開の中において、修正を加えながら読み込んでいく相場認識の技術が伴わなければ絵に描いた餅であるのは言うまでもないだろう。つまり、これは実に当たり前の話であるが、実際に餅を得ることが出来るのかどうか、ここが相場認識技術の腕の見せ所であるということである。

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暴落はトレンド、トレンドはフレンド 5

2020-04-25 18:00:00 | 投資
duke氏が本書の最後の方で書いているこの文章は、特にどうという事もない常套的な文意で、何気なく読み飛ばしてしまいがちな文章だが、実に象徴的な一文であるように私の目には映る。


<自分のルールを全うする上で重要なのは、「何事も起こり得る。確実なことは何もない」ということを心に受け入れ、確率で考えられるようにすることです。自分の投資法の優位性を「確率的思考」で実行し、売買回数が多くなれば、大数の法則で、最終的には儲かる、勝てると信じることが重要です。>


私が注目するのは最後に<信じることが重要>と書いていることで、これを読んで「ふむふむ、やはりそうなのね」という感を禁じ得なかったからである。やっぱり氏もまたブルース・リー信者であったか、と思ったのである。ここに、ある種の考え方の典型をみたと言っても良い。

あるいは、些細な言葉尻を捕まえて、針小棒大にものを言っているのではないかと取られるかも知れないが、それはここに至るまでの記述の中に、こういった考え方をほのめかす文章がそこかしこに見られたからで、私にはduke氏がついうっかりと<信じる>という言葉を書いてしまったとは、全く思えないのである。例えば、duke氏はさまざまな投資手法を試した手法ジプシー期を経て、ふりーパパ氏の投資手法に出合い、<大きく飛躍>した時のことをこう書いている。


<とはいえ、最初は試行錯誤の繰り返し、疑心暗鬼の連続でした。>

<実際に自分が新高値で買った株式の株価が、さらに上昇していくのを見て、この手法はイケると直感しました。まさにウロコが落ちた瞬間です>


つまり、もうお分かりの方には言うまでもないことだろうが、私が疑問を呈したいのは、「確率」だとか「有意性」(or「優位性」)という言葉は、昨今の投資家なら誰でも普通に使う言葉だが、投資システム(あえて手法とは言わない)の「確率的有意性(or優位性)」というものは、果して「信じる」といった性格のものなのかどうか、果して「直観」で判断する性格のものかどうか、という事である。

これは言い換えると、「確率的有意性(or「優位性」)」の裏付けを何に求めるのかという事であって、勿論、信心や直感に基いて「信じる者こそ救われん」とか「考えるな。感じろ!」と考えるのは勝手だが、相場に置いて「救われる」かどうかは、全く別の話である。私はブルース・リー信者ではないので(というのは勿論冗談だが、いや我ながらくどいね)、理性的合理的根拠による裏付けがなければ、勿論、信用しない。というか、採用しないだけである。

つまり、なにが言いたいのかと言うと、結局ここには、検証という考えが全くもって欠けているという事が言いたいのである。言い換えると、リスク・マネージメントの一環としての検証という事である。これもまた株式投資においては、確率的思考や確率的有意性という言葉の氾濫とは裏腹に、言及されることがほとんどなく、全く軽んじられている重要項目の一つであるが、ネットでの私の狭い見聞範囲でも、株式投資で検証をまともにやっている人を全くと言って良い程見たことがない。

極端な事を言えば、そこにあるのは検証を経ていない借り物の手法や単なる思い付きによる手法の雑多な混淆の群れであって、これではそれらを信じるか信じないかの丁半ばくちになってしまうことになるのも仕方がないと思われる。私がシステムと言うのもこの検証作業を必須の前提とした意味合いで言うのであって、結局、そこには信頼に足る明確なシステムもなければ、それに基づいたルールもないのが実情ではないかと思うのである。この意味において、duke氏が<疑心暗鬼>と書いているのは誠に象徴的であると私の目には映る。或は的確にと言うべきかもしれないが。

であるから、この観点から見ると、duke氏の次のような、いきなりステーキならぬいきなり実弾投入主義的アドバイスは、リスク・マネージメントという意味でも、私には全く受け入れがたいギャンブル・アドバイスとしか思えない。しかも、これは手法ジプシー期を含めてのアドバイスであるから、何をか言わんやである。

<こうした私の失敗から、株式投資の初心者の方にアドバイスするとしたら、とにかく小さい金額で始める事をお勧めします。・・・・投資する金額は小さくてもいいので、退場させられることなく続けていけば、経験値という素晴らしいお宝が得られます。>

私には、この本を読み終わって、duke氏はよくこれで退場しなかったなとしか思えないのであるが、まあ、これはフルタイムの「普通の正社員」という、現在の日本においてはかなり恵まれた給与や付加給付あってのものであろう。つまり、これは「普通の正社員」でも出来る投資法ではなくて、「普通の正社員」しかできない投資法だという事である。一般論として投資家としての退場の成否を分ける最大の要因は、つまり最後に物を言うのは、何と言っても資金量だからである。

ともあれ、私もここでアドバイスをするとすれば、自分のやっていることの確率的有意性について、ある程度の確信や自信がなければ、たとえ利益が出ていようと、即刻実弾投入は止めて、検証作業へと移るべきである。これは実に至極当たり前のことだと思うが、投資以外の実務と同じように、検証→デモトレード→本番トレードという工程を踏むべきである。


というようなことで、NO検証、NO相場LIFE!を強調するために、いささか回りくどい話になってしまったが、ここからは検証へとディペンドして書いていこうと思う。

さて、検証が重要と言っても、検証の目的は検証結果の成否を得る事だけが目的ではない。検証には色々な意味合いがあるが、その最大の効用は、何と言っても、システムに対する疑心暗鬼が無くなるということである。マインド・マネージメントという観点から言っても、このようなダーク・サイド側のマイナス要素は事前に撲滅して置く必要があるのは言うまでもないだろう。この安心感と言おうか、自信と言おうか、猜疑心による動揺の払拭による心の平静さと言うものはちょっと言葉にできないもので、或は検証をやったことのない人にはわからないものなのかも知れない。

さらに、特筆大書きして強調して置きたいのは、検証作業においては、得られたデータを活用・分析することによって、ある程度システムをリファインしていくことができるということである。

この意味では、duke氏が「売買したら日記を付ける」という文章を書いて、ポイントとして挙げていることは、私は高く評価するものである。

<簡単なメモ書きでも、書き続けている内に、必ずいろいろな気付きが得られます。不思議な事に、自分自身の考えや気持ちの整理もできます。心にかかっていたモヤモヤが晴れていくのを実感できるはずです。この効果は計り知れません。・・・・
特に、損をした経験からは、多くの事が学べるはずです。
なぜ損をしたのか。
損切りはルール通りにできたのか。
こうした過ちの原因をメモし、振り返ってみるのです。
そして、そこで得た気付きを、次の売買に生かしててください。
ものごとはこれの繰り返しです。実際にやってみて、反省し、改善点を探す。さらにやってみて、反省し、改善点を探す。それを繰り返していくうちに、徐々に実力が付いてきます。
売買記録をエクセルで管理し、すべての取引を数値化するのもお勧めです。自分の取引記録のデータ集をつくるのです。買い値、売り値、株数、投資額、保有期間、損益率などを記録します。数字は嘘をつきませんから、感覚よりも正しい姿をあなたに教えてくれます。>


ただし、当然のことながらduke氏と私とでは、記録の重要性やその活用法につてのスタンスが異なるので、この文章では大きな不満が残るのも事実である。これでは、よくあるPDCAサイクルのお気軽な総花的一般論的解説の見本みたいな文章でしかない、そう言ったら、あまりにも辛辣に過ぎる感想だろうか。

以下、私なりの観点から記録データの活用法について、もう少し具体的に述べてみたい。

まず、取引記録から勝率と損益比率を計算する。記録を全く取ってない人でも、証券会社にそれらのデータがあるので、この二つの数字は容易に出せるはずである。この二つの数字だけで端的にシステムの特性を知ることができるので、あとはとりあえずは必要ない。つまり、確率的有意性の当否は、具体的にはこの二つの数値ー勝率と損益比率によって明確に知ることができるという事である。言い換えると、私にとって、確率有意性の同義語は検証であり、検証の同義語は勝率と損益比率の数値であると言っても過言ではない。それ程この二つの数字は取り分け重要だということである。計算の基になる期間は、人によって取引量が異なるので一概に言えないが、サンプル数としては大数の法則から言えば1000は欲しい所である。

そして、この出て来た勝率と損益比率という数値によって、自分の実際に行ってきた投資(システム)の現状をまず把握し、そこからこの二つの数値をどう改善できるかを考えていくという手順を踏む。

まず第一に取り組むべきは、平均損失額を減らすことで、大体普通は損失額が大きすぎるのが足を引っ張っているので、最初に損切ルールを見直すという事である。また、損切ルールを変えると損益比率だけではなく、それに伴って勝率も変わってくるので、いろいろとルールを変えてみて、利益が最大になるように最適な組み合わせの数値を探って行く訳である。この時に、何パーセント下がったら損切りするというような自己中心的なと言う意味での主観的なルールを採用している人は、前に述べたように相場に基いたという意味での客観的な基準(例えばATRの何倍とか、いろいろな平均移動線とかにタッチした時点とか、PIVOTとか等々)も検証してみるべきである。

普通はこれだけの作業でも数字は劇的に改善される場合が多いが、これが終わったら次には平均利益額を増やすことの検証で、これも同様に利食いルールを見直すことで、最適解を探って行くのは、損失の場合と同じである。また、この時には、先の客観的な基準に加えてブレイク・イーブンだとかトレーリング・ストップも検証すると良いだろう。主に、前者は勝率の、後者は損益比率の改善に寄与するはずである。

そして、最後に見直すのはエントリー・ルールで、特に損失で終ったトレードは、そもそもエントリー自体が問題である場合が多いので、エントリー・ルール自体の見直しもそうだが、それだけでなく、エントリーに何らかのフィルターを掛け、エントリーを厳選することも検討すべきである。

そして、このエントリー・フィルターとして最も重要なのは相場認識の技術であるが、これはかいつまんで説明することが出来ない性質のもので、前にも少し述べたがより高次の大局観が重要であるということである。至極単純化して言えば、例えばマクロの局面がダウントレンドなのにも関わらず、ミクロの局面のアップトレンドで買いで入るから、損切が頻発することになるといったことである。ファンダメンタルだけをエントリー基準にしている人は、往々にしてこういったバリュー・トラップの袋小路に嵌り易いので、特にそうである。ここでは、日本の相場格言ー「着眼大局、着手小局」を紹介するに止める。


とまあ、以上の三つの段階を踏むことによって、バルサラの破産確率表と照らし合わせて、破産確率がゼロとなるような勝率と損益比率の数値に持っていくのが理想であるが、以上の概略説明からも容易に想像されるように、検証には膨大な作業が必要とされることは覚悟しておかなければならい。期間も、まあ最低でも半年はかかるものと考えるべきで、それでも結果が保証されている訳ではないので、検証の結果として、リファインしたにもかかわらず結局使えないシステムだったという事も十二分にあり得る。まあ、これは投資に限らず検証と言うものに付物の<経験値という素晴らしいお宝>であるから仕方がないとも言える訳だが。


ということで、以上でもって、私の考える検証作業というものについての基本的なアウトラインを述べてきた訳だが、これを読んで、果して実際に検証をやってみようという人がどれだけいるだろうか、という疑義を私は拭い去る事が出来ないのも事実である。

恐らく、実際にやってみる人は殆どいないのではと想像するが、結局のところ、「投資」と言うのは、出来合いの「手法」に一か八か懸けてみるか、(金銭的に余裕のある人は実弾で)試行錯誤しながら、自分でオーダーメイドのシステムを作り上げていくかの二択しかないというのが厳然たる真実であって、検証がその分水嶺になるという事実は動かせない。要は、この眞實にどう向き合うかということである。

前に、「淡々と実行できなければ」と書いたことやシステムという言葉から、或はインデックス投資を連想した人がいるかも知れない。私に言わせればインデックス投資というのは、投資システムとして見れば、一方においては範とするべきものであって、普通はその成果に満足できないから、パッシブではなくアグレッシブ投資を行っている訳であるが、今回の暴落で、アベノミクスで積み上げて来た利益の多くをを一挙に吐き出すことになった人も多いだろう。過去の例からいづれ回復してゆくと考えて、ホールドに徹するのも一案であるが、今一度再考してみることも必要であろう。つまり、インデックス投資の成績(大体、年率5~7%)を今後も確実に陵駕出来る自信がないと考えるのであれば、これまでやってきた「投資」に懸けてみる(という「投機」)よりは、インデックス投資の方が、はるかに賢明な選択肢である事は言うまでもないということである。


さて、以上でもって理論編の”まくら”を終えたいと思うが、結果的にduke氏に批判的な文章になってしまったので、duke氏の苗字が東郷ではないのを祈るのみである(狙撃されたくはないので。ズキューン!あっ。)。ただ、私としては目に見えぬ伏字を復元しようと努めただけの事であって、そのために日本の株式投資では普通語られることのない、原理原則に関する項目や考え方(太字で示して置いた)を取り上げることになってしまった訳である。ここまで読んでこられた奇特な方には、或は聞きなれぬ事ばかりで頭の芯がいささか疲れたかもしれない。しかし、知っている人にはごくごく基本的・初歩的な事柄ばかりなので、ご苦労さんでしたと言いたいところだが、肝心要の演目はこれからである。

ということで、次回は今回の暴落での実践編へと移りたいと思う。

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暴落はトレンド、トレンドはフレンド 4

2020-04-11 09:00:00 | 投資
検証について述べると書いたが、肝心のタートル・システムのポジション・サイズ・マネージメントについて述べておくのを失念していたので、補足しておくことにする。


<タートルの資金管理には、ふたつのアプローチ法がある。ひとつは、持ち高(ポジション)を複数の小さな単位に分散する方法だ。そうすることで負けトレードになっても、損失の発生はポジションの一部に限定される。リッチとビルは、分散したこの小さな単位をユニットと呼んだ。
二つ目は、それぞれの市場に適したポジション・サイズを算出することで、タートルはこれに、リッチとビルが考案した革新的な手法を用いた。この手法は、金額ベースでの日々の市場の上下動を基準にしている。リッチとビルは各商品の値動きが金額ベースではほぼ同額になるようにそれぞれの契約枚数を決定した。ふたりはこの変動尺度をNと名付けたが、今ではATR(アベレージ・トゥルー・レンジ)・・・と呼ぶほうが一般的だ.。
・・・・
取引単位(ポジション・サイズ)を変動性で調整をするという概念は、さまざまな書物で扱われている・・・だが、1983年当時は、この概念はきわめて革新的だった。あのころのトレーダーの多くは、さまさざまな市場のポジション・サイズを、大まかで主観的な尺度かブローカーの証拠金率をもとに決めており、これらは変動性とは大まかに関係しているにとどまっていた。>

<リッチとビルは、ある程度長いトレーディング経験のある人なら誰でも承知していることに間違いなく気付いていた。それは、多くの市場は高度に相互関係がある事、そして、大きなトレンドの終わりが来て、ツキから見放された時、すべてが一斉に自分に不利に動いているように見える事だ。そして、トレンド崩壊の乱高下期には、ふだんは相互関係がないと思われた市場までもが連動してくる。・・・・そのようなリスクへの対抗策として、リッチとビルは私たちの取引にいくつかの制限を課していた、まず、ひとつの市場について、最高4ユニットまで。二つ目に、市場間に高い相互関係がある場合はグループごとに最高6ユニットまで。3つ目に、任意の方向に最高10ユニットまで(買い持ちに10、または売り持ちに10という具合に)とした。相互関連のない市場でのポジションであれば、この数字は12まで上げる事が出来た。>
(『タートル流投資の魔術』)


一読しただけではよく意味が解らないかも知れないが、ここでは非常に重要な考えが示されている。それは一言で言えば、リスク・マネージメントであるが、これはマネー・マネージメント(資金管理)とか、ベット・サイジング(投入資金額の決定)とかポジション・サイジング(ポジションサイズの決定)だとか様々に言われているが、投資においては最も重要な項目の一つである。

一つ目は、市場の相関性或は非相関性に関するリスク・マネージメントで、タートルズの場合は多くの異なった市場に投資をするのでこういったルールになる訳だが、これは日本で株式投資をやっている人には殆ど意識さえされていないリスク・マネージメントで、この考え方から敷衍して言えば株式投資専門であっても他の市場、為替や債券、金利や資源などの動向には常に注意を払って置く必要があるということである。

例えば今回の暴落は一般にコロナショックが原因と考えられている様だが、実際のトリガーとなったのは明らかに原油価格の暴落であって、その波及効果ー相関性についての認識があれば、リアルタイムで異常を察知することが出来、事前に何らかの対処が出来たはずである。

この点で、普通はファンダメンタル派といわれる多くの投資家が、個々の企業のファンダメンタルには細心の注意を払っているのに対して、経済一般のファンダメンタルには殆ど注意を払っていないのは、私には非常に危く見える。これはテクニカルでも同様だが、ミクロの分析だけでマクロの視点や分析がないと、こういった今回のようなマクロの急変によって、一気に十把一絡げで刈り取られてしまうことになる訳である。

ここで、では、なぜ原油価格が暴落すると株式市場が暴落することになるのか?この点についての説明はあまり見られないようなので簡単に私見を述べておくと、背景にはアメリカ対ロシア・サウジの新旧石油輸出国間の軋轢がある。近年、アメリカはシェールガス革命によって世界最大の石油輸出国に成り上がった訳だが、これを快く思わないロシア・サウジがアメリカ潰しのために減産に反対するだけではなく、さらには増産に向うという体力勝負へ打って出たというのは、ニュースでも報道されている通りである。だが、なぜ原油価格が暴落すると株式市場の暴落に繋がるのか。

結論を先に述べれば、それはリーマンショック時と同じようにアメリカの債券市場のシステミック・リスクに繋がるからである。アメリカのシェールガス革命を担った企業群は、多くの社債やCPを発行しているが、いろいろな複雑な仕組債に組み込まれてもいる。従って、これらがサブプライムローンと同じような位置にあって、原油の急落によってこれらが火種になる蓋然性が非常に高いということである。つまり、ロシア・サウジ対アメリカという構図は、国営企業対民間企業という構図でもある訳で、これが前者が体力勝負に出た理由でもある。まあ、大体、以上のような大雑把な説明だけで必要にして十分だと思うが、FRBが例を見ないような緊急利下げに踏み切ったのも、この認識によるものだと私は捉えている。こういった恒常的に存在するアメリカの債券市場のシステミック・リスクという観点から、アメリカの10年物国債金利は常にモニターして置く必用があると常々考えているので。前にも3%を越えたら要注意と書いたことがあるが、少し上がりかけたが今回は落ち着いたので一先ずは回避できたようである。しかし、コロナショックが追い打ちを掛けることも十二分に考えられるので、目が離せない。ちなみに、VIX指数を注目しているファンダメンタル投資家も多い様だが、あんなものはファンダメンタルでも何でもなく、遅行指標にしかならないので私には大いに疑問である。

そして、二つ目はボラティリティー、言い換えると変動リスクに基いてポジションサイズを決定するというリスク・マネージメントである。<1983年当時は、この概念はきわめて革新的だった>と書かれているが、現在においても十二分に革新的である。

<あのころのトレーダーの多くは、さまさざまな市場のポジション・サイズを、大まかで主観的な尺度かブローカーの証拠金率をもとに決めており、これらは変動性とは大まかに関係しているにとどまっていた>と書かれているが、これは現在でも同様であって、資金の何パーセントを割り振るといったduke氏と同じような方法を取っている人がほとんどだと思うが、タートル・システムはそういった考え方とは一線を画している。

これは具体的な例を挙げた方が判り易いだろう。

A-1000円の株とBー2000円の株があって、これらを買うとする。この時にduke方式ではAの購入数量はBの2倍になる訳だが、タートル・システムでは逆に高い価格であるBの購入数量が2倍になることもあり得る。実際にはATRという指標(これは端的にボラティリティーを示す指標である)を使って、これに基いて購入数量を決めるので、その時点でのBのボラティリティーがAの半分なら2倍の購入数量になる訳である。当然、ストップの損切り幅もATRに基いて入れる(タートル・ルールではATRの2倍)ので、損切りになった場合の両者の損失額=リスクは同じになるという訳である。結果、こういう方式を取ることによって、タートル・システムにおいては、株であれ先物であれ為替であれ、どのような投資対象であっても、ポジションのリスクを同じ数値にすることによって、一元的なリスク管理ができることになる訳である。

私はこの本のこの部分を読んだ時、大げさでなく目からうろこが落ちたような感覚を持ったのを、今でもありありと覚えている。「世の中には凄く頭の切れる人がいるものだ」と。この時、初めてリスクマネージメントとは何かを理解したと言っても過言ではないように思う。

これは言い換えると、投資においてはリスクというものは、当たり前のことだが、相場によって決定されるので、結局相場という御主人様には徹底して従順でなければならないという事である。従って自己中心的な考えではリスクマネージメントなど覚束ないという事であって、相場と言うのは個々の市場参加者の資金量だとか買値だとかには関係なく動いていく。この観点から見れば、資金量からポジションサイズを決めるとか、10%下がったら損切りするとか、2倍になったら売るとかいったルールが、いかに自己チューなものであるかは言うまでもないだろう。結局、そういった諸々の投資に関するルールは相場(における何らかの根拠)に基づいて決められなければならないというのが、リスクマネージメントの根幹にある考えであるという事が、腹に入って理解できたという事である。そして、これはまた勝率や損益比率の数字に直結する話でもあって、相場認識の重要性へと繋がってゆく話でもあるので、多分この文章は一度読んだだけでは良く判らないと思うので、この点はよくよく考えを巡らせて頂きたいと思う次第である。

なお、こうした考え方によるポジションサイズ・マネージメントは、ファンドの運用においては、リスク・パリティーと言ってリーマンショック以降標準的な方法とされるに至っているようだ。このことからもタートル・システムというものが、如何に先進的・革新的であったかが判ろうというものである。




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暴落はトレンド、トレンドはフレンド 3

2020-04-04 12:00:00 | 投資
次は、リスク・マネージメントによるポジション・マネージメントについての部分。

duke氏は1銘柄への投資上限額を総資金の5分の1とし、さらにその1銘柄へのエントリーも5回に分けるという「5分割ルール」を述べているが、その理由づけの説明は私には論理的に全く受け入れがたい文章であって、これは非常に重要なことなので、いささか揚げ足取り的な文章になるが、私見を述べてみたい。


<5分割ルールとは、一銘柄あたりの投資上限額の5分の一を、最初のエントリーで投入することです。総資金が500万円で、一銘柄当たりの投資上限額が100万円だとすると、エントリーはその5分の一ですから、20万円を投入するのです。>

<この手法を取ると、一回目のエントリーでとるリスクは総資金の4%(=20万円÷500万円)です。そして、私の場合、10%の損失が生じたところを、絶対に譲れない損切ラインにしているので、最悪損切に追い込まれたとしても、2万円の損失額で済みます。2万円は総資金の0.4%です。>

<5分割ルールには明確な根拠があります。例えば、次のようなルールのゲームに参加したとしましょう。これはラルフ・ビンズが行った実験を参考にしたものです。

・おみくじの箱に当たりが6本、はずれが4本入っている。
・当たりが出れば掛け金は2倍、はずれが出たら掛け金は没収。
・元手は1万円で、100回おみくじを引ける。
・1回ごとの掛け金は、ゲーム参加者が毎回自由に決めることができる。

そして、100回引いた後の手持ちの金額が最も多かった参加者が勝者です。
・・・・・・・・
このゲームで、損失を被ったり破産したりせず、生き残るためにはどういうお金の掛け方がいいのでしょうか。それが、「最新の手持ち資金残高の20%を掛ける」という5分割ルールを用いる事なのです。私も実際に検証してみました。結論としては、・・・・かなり優位性の高い手法なのです。

・買っている時にはポジションサイズを増やし、負けている時には減らす。
・買いは5分割で試し玉から。

このルールを何度も復唱してください。そうすれば破産することなく、株式投資を続ける事が出来ます。続けることさえ出来れば、少しずつ経験値が上がり、勝てる投資家になれるはずです。>


ここでラルフ・ビンズの名前を持ち出して来ているということは、いわゆるケリーの公式(ケリー基準)を「根拠」として「五分割ルール」を決めたという事のようである。実際にはラルフ・ビンズはケリーの公式(ケリー基準)を基に改良して考案した最適リスク計算法 オプティマルf の唱道者であるが、原理的には同じなので、これらの違いについてはここでは触れない。

なお、duke氏はこの20%という数字を「損失を被ったり破産したりせず、生き残るため」と表現しているが、正確にいうとそれだけではなく、その中で最も資金効率が良い掛け方の割合を示す数字である。「損失を被ったり破産したりせず、生き残るため」というだけなら、5%や10%といった20%以下の掛け率でも何ら問題はない。

それはともかく、この20%と言う実験結果数値は総てのケースに当てはまる普遍的なものではなく、ややこしいので数式は引かないが、このケリーの公式(ケリー基準)はパラメーターとして勝率損益比率を含んでいるので、この2つのパラメーターの数値が異なれば、当然結果も異なって来る。つまり、この20%という数字は、このおみくじの個別解ー勝率60%、損益比率が1対2という組み合せの時の最適解ーであって、duke氏の言うようにこれを株式投資一般に通ずる一般解とするのは、問題である。勿論、duke氏自身の場合もパラメーターの数字は異なってくるので当て嵌まらない。正確な数値は判らないが、他のところの記述からすると、duke氏の場合は勝率30%損益比率1対5~10といった数値になるようであるが。

そして、さらに議論の混乱に拍車を駆けているのはリスクの捉え方で、<一回目のエントリーでとるリスクは総資金の4%(=20万円÷500万円)>と書いている一方で、直ぐその後に<私の場合、10%の損失が生じたところを、絶対に譲れない損切ラインにしているので、最悪損切に追い込まれたとしても、2万円の損失額で済みます。2万円は総資金の0.4%です>と書いているので、20万円まるまるをリスクにさらしている訳ではない。従って、実際は<一回目のエントリーでとるリスクは総資金の0.4%>である。逆に言うと、duke氏は20%のリスクを取るのであれば、10倍のロットにしなければならないことになる訳である。

といったようなことで、結果として「五分割ルール」のリスクテイク自体は穏当なもので、損切ラインをなぜ10%に設定したのかの説明もないので、どうも私にはこれは結論先にありきの文章のように思われてならない。引き合いに出されたラルフ・ビンズもいい迷惑であるが、私がここでそれを指摘するのは、非常に重要であるにもかかわらず勝率と損益比率と掛け率の相関に関する原理原則が、日本の株式投資においては殆ど語られることがないからである。

話をおみくじに戻すと、このおみくじの場合のように勝率60%、損益比率が1対2になるような非常に優秀な投資システムというのは実際にはまずお目に係れない。一般に、損益比率が1対2であれば勝率は50%を切るのが普通であって、逆に勝率が60%であれば損益比率は1対0.8といった数字になるのが通例である。普通は勝率ばかりが重視されているが、実際には勝率40%でも損益比率1対2ならトータルで利益になり、勝率70%でも損益比率が3対1ならトータルはマイナスになる。

また、ケリーの公式(ケリー基準)に基いて掛け率を設定すると、資金の増減が激しく通常はメンタルが堪えられないのが普通である。このおみくじの場合で言うと、勝率60%であれば5連敗は普通に起こり得るので、20%の掛け率だと5連敗で1万円は3276円、3分の1以下になってしまうので、それでも続けられる人は稀であろう。そのため半分ケリーだとかの一種の妥協案が色々と発明されているが、このようなことから通常はバルサラの破産確率に基いたアレキザンダー・エルダーの主張する2パーセント・ルールが適正とされている。実際はduke氏の「五分割ルール」のリスクテイクは説明とは違って2%になるので穏当なものと書いた所以である。

それはともかく、ここで問題となるのが、実際には自分の投資システムの勝率や損益比率の正確な数字が判らないという事である。先のおみくじの例で言うと、5連敗して1万円が3276円になっても、勝率60%、損益比率が1対2という数値にゆくゆくは収斂していくという絶対の確信があれば、20%ずつ掛け続けていくことはそう難しいことではない。しかし、私の場合相場に限らず人生において絶対の確信など持ち得たことがない。まあ、この絶対というのも乱用されている言葉の一つであって、ここで阿川弘之氏の名言(迷言?)を引いて置くのも良いかも知れない。

<世の中には絶対という事は絶対にない。だから、絶対という言葉は絶対に、いいか、絶対に使ってはならない。>

そのため、これを検証によって確めるということになる訳であるが、検証という言葉もこれまた乱用されている言葉で、ネットでは(例えば実際はアフィリエイトサイトである無数の検証サイトなどが好例だが)1回或は数回試しただけで検証と謳っている例がほとんどで何とも呆れる他はない始末だが、確率論から言えば検証数は100回や200回でも足りないので、大数の法則では1万回の試行で80%の確率で誤差±20%の結果、4万回の試行で90%の確率で±10%の結果に収斂するとされている。

ということで、小難しい話がいささか長くなったので、今回はここまでとするが、この検証もその重要性にもかかわらず株式投資では殆ど指摘されることがない事項であって、duke氏もその例外ではないようだ。次にはこの点について述べることにする。

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暴落はトレンド、トレンドはフレンド 2

2020-03-28 12:00:00 | 投資



なお、私がタートル・システムを最高位に評価するというは、「システム」としてであって、いわゆる「手法」の事を言っている訳ではない。

タートルズの手法自体はドンチャン・ブレイクアウトといって1960年代からある古典的なもので、勿論、手法としてもタートルズの成績が示すように素晴らしいアイデアであるが、私がここでシステムと言うのは、これを三つの要素に分解して三つのMマインド、メソッド、マネーのマネージメントなどと言われることがあるが、それらを明晰かつ簡潔なルールに落とし込んだシステム・ルールとしての完成度が、類を見ない程高い次元にあるという事である。普通、こういったシステム・ルールでは、どうしてもある程度の裁量部分を含まざるを得ず、裁量という要素から逃れ得ないものだが、その裁量部分をタートル・システムではほとんどと言って良い程締め出すことに成功している。言うまでもないことだが、それがこのプロジェクトに成功を齎した一番の要因であろう。

これは、見えない検閲制度によって、日本の株式投資では殆ど注目されることのない原理原則に係ることなので少し脱線するが、よく相場では聖杯なる言葉が使われるが、聖杯とは初心で考えるのとは少しく異なった位相に置いて存在しているのであって、それは言うなれば総合力に存在していると言わなければならない。先の例で言えば、マインド、メソッド、マネーの三位一体の総合的なマネージメント能力にあるのであって、例えば「バリュー投資」とか「グロース投資」というような手法にあるわけではない。手法とはここでいうメソッドの単に一部を成すものでしかなく、重要度もそれ程高くない。むしろ重要なのは次にいうようなマインド・モニタリング相場認識(FXでは奇異な環境認識という用語が定着している)や資金管理技術の方である。私は言い過ぎだと思うが、「ぶっちゃけ手法なぞ何でもよい」とまで言う億トレーダーもいるほどである。従って、前に挙げたような「バリュー投資の優位性」を言い募るような言説は、初心にありがちな手法至上主義的なバイアスにもとづいた偏向した考え方の一症例だと言わざるを得ない。

ここでマインド、メソッド、マネーの三位一体のマネージメントというのは、この三つは相互に密接な関係にあるということであって、例えばいくら優れたメソッドであっても、マインドに適合しなければ実行に支障をきたすので、この意味でマインド・マネージメントとは、初心者にありがちなマインドを鍛えるといった事を指す訳ではない。今回のような暴落時が良い例で、そういう人が多いと思うが、バイアンドホールドでストロングホールドに徹して、握力を鍛える必要があるなどといった一種の精神論がその典型で、私に言わせれば、マインドが堪えられないようなら、メソッドやマネーに対するマネージメント・ルールを見直すべきである。そもそも心が動揺して眠れないとか仕事が手につかないとか、何らかの私生活上の支障をきたすという時点で、マイルールとしては問題があると考えるべきである。それは淡々と実行できないようなマイルールでは、マインドの動揺によってミスやルール破りに陥り易く、その結果一貫性によるシステム・エッジの放棄或は崩壊という悲劇に終わる可能性が高いからである。

結局、こうしたことは一般論では解決の出来ない事であって、マインドー考え方や感じ方というのは一人ひとり異なるのだから、自分に合った優位性のあるシステム=聖杯というのは自分自身で作り上げるしかないと言わなければならない。というと身も蓋もない話のようだが、基本的に投資アイデアというものは出尽くしているので、その中から自分自身に合ったものをピックアップして、自分に合うように徹底的にアレンジを加えて、わが物とすればよい訳である。そのためには、基本的な投資アイデアというものは満遍なく網羅しておく必要があるので、トレンドフォローもその中の代表的且つ重要な項目であることは言うまでもない。この意味では悪いニュアンスで使われることの多い聖杯探し手法ジプシーといった過程は、誰でも一度は通らなければならない一種の通過儀礼であって、いたずらに経験年数を重ねるだけでそこから抜け出せない人が多いのは上に述べ様なポイントを外していることになかなか気付かないからである。


というようなことで、この点で、この duke 氏の本は、これまでの手法一辺倒の日本の株式投資本の中にあって、マインド・マネージメントについての言及は見られないが、メソッドやマネーに対するマネジメントについて踏み込んで書かれているという点で、ようやくこのレベルの本が日本でも出るようになったかという読後感を私は持った。

以下、目に付いた部分について述べる。

<一般的に、株式投資は「安値で買って、高値で売る」と言われていますが、私の投資術は、「新高値をつけた銘柄を買って、さらに高値で売る」という、米国の著名投資家ウィリアム・オニールの投資法を基にしたものです。・・・私の投資術が一般的でないことは判っています。>

<株は安く買って、高く売るという固定観念があったので、新高値で買って、さらに高い価格で売るというオニールの考え方には衝撃を受けました。>

正直な感想を述べた文章だと思うが、この文章は前に述べたように典型的な日本人の発想に基づいた文章であって、ここでは一般的な「安値で買って、高値で売る」投資法と一般的でない「新高値をつけた銘柄を買って、さらに高値で売る」投資法が対置されているが、これも述べたように前者の高安には明確な定義がないので、何のことは無い、「新高値」を「安値」と考えれば同じことを別の言い回しで表現しただけで、実は両者は同じ投資法だと考えることも出来る。ただ、後者には明確な基準が存在するという点が前者とは決定的に異なるのである。その意味では「衝撃」的だということが出来るのかも知れない。これは想像するしかないのだが、私流の言い方で述べると、ここで述べられていることは、duke 氏の内面においては恐らく「安値・高値」という観念についてのコペルニクス的転回があったのではないかと思われる。なお、今の若い人は知らないかも知れないが、日本の投資格言の一つに「年初来高値は買い」というのがある。


<私の投資術は、成長株を主体にしたテクノファンダメンタル投資、・・・・新高値というテクニカルをまず見た後、会社のファンダメンタルを見て投資する。>

duke氏は当初はファンダメンタルによって投資を行っていたようだが、テクニカル重視に切り替えたようだ。テクノファンダメンタルとは聞きなれない用語で、ここにもduke氏にはテクニカルとファンダメンタルの観念についての何らかの「転回」があったと思われるが、そのことについては何も書かれてはいない。

というと、まあ、ごちゃごちゃ言わないで、テクニカルでもファンダメンタルでも使えれば何でもいいじゃないかと言う声が聞こえてきそうだが、ここにも原理原則を踏まえていないとテクニカルジプシー、つまり手法ジプシーという罠が待ち構えているので、じゃあ、それらが使えなくなったらどうするのかと言う問題がある。普通はテクニカルか、ファンダメンタルか、という二択で考えられているので、これに対しduke氏はテクノファンダメンタルという第三の新しい考えを打ち出すためにこのような用語を使ったものと推測される。

ここで少しテクニカルとファンダメンタルについての私見を述べておこうと思う。私の見るところ日本においては、テクニカル派はファンダメンタル分析についてはその必要を感じないと言ったスタンスで、あえて否定するという態度は取らないようだが、ファンダメンタル派はテクニカル分析を否定ないし軽視する傾向が強いように思われる。その結果、大枠では、テクニカルか、ファンダメンタルか、という二者択一が結構重要視されているようで、ネットでも自称投資家のプロフィールにもそれらの記載がなされているのをよく見かけるが、私に言わせるとこういった二者択一の考え方はテクニカルとファンダメンタルというものについて根本から考えていないからである。

要は、テクニカルとファンダメンタルというのは表裏一体の関係にあるもので、ファンダメンタルが相場現象として現れる時の振る舞いが、単にテクニカル的な形式を取るのに過ぎないと、私は簡明に考えている。この点は外国でも同様だが、テクニカル否定派の誤解の基にあるのは、そもそもテクニカルの”法則”や”原理”を物理学におけるそれらと同一視している点にあると思われる。この点はテクニカルの用語選定にも責任があって、テクニカルには「法則」と名のつくものが幾つかあるが、それらは物理学における「法則」とは原理的に異なるものであるという認識が欠けているように思うのだ。まあ、ファンダメンタルにも「バフェットの法則」なんてのがあるから、言葉の乱用には気を付けなければならない。

私が思うに、これは世界観に関わっている問題であって、そこには一元論と二元論の相克がある。ここで二元論というのは、世界は基本的に物理法則に支配されている訳だが、その中には物理法則に支配されないで、むしろそれらに抗っているように見える現象群が存在するということである。それは他ならぬ生命現象で、例えば万有引力に逆らって木々は空に向かって伸び、鳥は空を舞い、我々人間は直立歩行をする。これは、考えてみれば実に不思議な事ではないだろうか。それはともかく、従って、この世界は物質と生命という二つの異なった原理に基づいた現象群に二元的に分割される訳で、相場というのは我々人間の生命活動であることは言うまでもない。そこには物質世界の法則とは原理的に異なった「法則」、と言うよりも独自の規則性や傾向が存在し、勿論、物質現象の影響も免れ得ない訳だが、その影響もまたこれらの生命現象独自の規則性や傾向に則って現れることになると考えるのが妥当であろうと私は考えるのだが、どう思われるであろうか。

ところがややこしいというか面白いのは、後で述べる有名なエリオット波動の提唱者であるラルフ・ネルソン・エリオット自身が、 晩年にはエリオット波動で宇宙の法則をも説明できると主張するに至ったというエピソードがあって、これなぞは否定派の恰好の餌食となっている。また、エリオット波動理論はフィボナッチ数列に基いているが、このフィボナッチ数列もテクニカル分析によく使われていて私も使うが、その有効性の理由づけの説明は私にはこじ付けとしか思えない。結局、それらは世界の二元性に思い至らない、異なる領域への論理の勝手な延長による誤った適用であって、一元論的な考え方がそれだけ一般的だとも言えるのだろう。

というようなことで、結局のところ、あえてファンダメンタルだとか、テクニカルだとか、はたまたテクノファンダメンタル?とかいった主張を特にする意味はないように私には思われる。言い換えると「どちらでも使えればいい」ということではなく、「どちらも使いこなす必要がある」という事である。
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暴落はトレンド、トレンドはフレンド 1

2020-03-20 18:00:00 | 投資
nikkei225




Carole King - You've Got a Friend

When you're down and troubled
And you need some loving care
And nothing, nothing is going right

トラブルで落ち込んで
誰かにやさしくして欲しいと感じる
そんな風になにもかもが上手くいかないと思ったとき

Close your eyes and think of me
And soon I will be there
To brighten up even your darkest night

目を閉じて、私のことを思い出して
すぐにあなたのところへ駆けつけるわ
どんなに真っ暗な夜でさえも明るくしてあげる

(Chorus)
You just call out my name 
And you know wherever I am 
I'll come running to see you again 
Winter, spring, summer or fall 
All you have to do is call 
And I'll be there 
You've got a friend 

ただ私の名前を口にするだけでいいの
私がどこにいたって
急いであなたのところに駆けつけるって、わかっているでしょ
冬であろうと、春であろうと、夏であろうと、秋であろうと何時でも
名前を呼びさえすればいいの
私はそこにいるから
だって友達だもの

If the sky above you 
Grows dark and full of clouds 
And that old north wind begins to blow 

あなたの上の空が
暗くなって、雲が立ち込め
そしてあのいまいましい北風が吹き始めても

Keep your head together
And call my name out loud
Soon you'll hear me knocking at your door

うろたえずに心を落ち着けて
声に出してはっきりと私の名を呼んでみて
すぐにドアをノックする音が聞こえるから

(Chorus)

Ain't it good to know that you've got a friend
When people can be so cold
They'll hurt you and desert you
And take your soul if you let them
Oh, but don't you let them

友達がいるって素敵なことだと思わない?
時には世間はとても冷たくなることもあるわ
そんなときはあなたを傷つけ孤独にし
そのうえ。魂までも奪おうとするかもしれない
だけど、そうさせてはいけないわ

You just call out my name
And you know wherever I am
I'll come running to see you again
Winter, spring, summer or fall
All you have to do is call
And I'll be there
You've got a friend
Ain't it good to know that you've got a friend
Oh yeah,you've got a friend

ただ私の名前を呼べばいいの
私がどこにいたって
急いであなたのところに駆けつけるって、わかっているでしょ
冬であろうと、春であろうと、夏であろうと、秋であろうと何時でも
私の名前を声にだして呼びさえすればいいの
私はそこにいるから
だって友達だもの
友達がいるって素敵なことだと思わない?
あなたには私と言う友達がいるから



今回の暴落に金銭的にダメージを受け、マインド的にも痛手を負っている人も多いだろう。だが、こんなことは先刻ご承知だろうが、暴落と言うものは市場には定期的にやってくるものである。従って、危機管理の一環として、暴落に対する対処法は前もって決めておく必要がある。明確にマイ・ルール化して置く必要がある。だが、長年の見聞から言っても、それが出来ている人は稀であろう。第一、どのようにルールを決めたらよいか、途方に暮れている人も多いだろう。この文章は、そういった人たちに参考になればと思って書いている次第である。

その骨子を先に述べて置けば、暴落という言葉は、ある一定の考え方を前提にしているので、その考え方の呪縛から解き放たれて自由になる必要がある。つまり、ものの見方を変えて、暴落という現象を一つ進級を繰り上げてより高次な概念であるトレンドとして捉え直すということ、つまるところはトレンド・フォローの勧めという事である。とは言っても、必ずしもショート=空売りの勧めという事ではなく(勿論それが出来るに越したことは無いが)、最低限でも相場認識としてダウントレンドをどのように捉えるかというトレンド・フォローの技術は身に着けておく必要があるということである。そうすれば必ずしもショートを建てなくても、例えばポジションを縮小しておくとかヘッジを建てるとか、いろいろと対応策が打てるというものである。結局のところ、暴落というものは、それに抗い防戦に努める敵としてではなく、トレンドとして捉えれば、これぼど心強い友達はいないと言うことが出来るのである。uptrend だけではなく downtrend もぜひ友達に加えるべきであるというのが、私のアドバイスである。

だが、Trend is your friend なる投資格言は、我々日本人にとってなかなかと理解しにくいものであって、そのためにはクリアしなければならない関門があるのもまた確かなことなのであって、この関門は明確に自覚して置かなければならない。ということで、前置きとして少々理屈を述べるが、心当たりがあるかどうか、胸に手を当ててよく考えて頂きたいと思う次第である。



投資というものに関わりだしてから長い年月が経つが、自分自身を顧みても、日本での投資についての様々な著作や議論を目にし読むにつれ、改めての思うのは、次の山本七平の洞察の鋭さである。


<外来の強烈な普遍主義的思想を受け入れると、それは一見そのまま受け入れたように見えながら、実は、その国もしくは民族の文化的蓄積の中から、その普遍主義的思想と似たものを掘り起こして共鳴する、そしてその共鳴を外来思想として受け取る。・・・矢野教授はこれらの現象を一種の「もどき」現象とされる。簡単に言えば民主主義は「民主主義もどき」になり、法治主義は「法治主義もどき」になる。・・・・自己に文化的蓄積がないものは、当然のことだが掘り起こし共鳴現象は起きない。>


これは、文化財の輸入に当たっては、我々の意識していない言わば見えざる検閲制度というものが厳然として存在するという事である。つまり、日本に輸入される投資理論には多かれ少なかれ見えざる伏字が存在し、中には発禁処分になっているものもある。その典型が、トレンドという考え方ートレンド・フォローである。

例えば、「バリュー投資」というのは憲法第九条と同じく、誠に日本人の心の琴線に触れるものがあるようで、日本で「バリュー投資」がこれだけ流布したのは、それだけ我々日本人の発想法に実にしっくりと来るものがあると言えるだろう。この点は議論がややこしくなるので、あまり立ち入らないが、一般に日本で行われている「バリュー投資」もまた、その依って立つ文化的な発想法が異なるために、「バリュー投資もどき」たらざるを得ないのであって、現在、尤もらしく「バリュー投資の有意性は証明されている」などという言説が誠しやかに流布されているが、実際の調査結果なども勿論存在しないので、確めるすべもないが、常識的に考えて恐らく日本で「バリュー投資」を実践している投資家ユニバースにおける勝ち組と負け組の比率は、全投資家ユニバースにおける勝ち組と負け組の比率と殆ど変わらないのではないかと私は勝手に推測している。やはり勝ち組のバリュー投資家もまた、一割未満といった数字あたりに収まるのではないか。

それはともかく、「バリュー投資」があまり機能しなくなると、例によって「収益バリュー」だとか「カタリスト」だとか耳新しい「様々なる意匠」が登場し、アベノミクス相場という上昇相場とともに「グロース投資」へと流行の軸足はシフトし、この他にも優待株投資やインデックス投資なども加わって、現在の日本の投資に関する言説空間はガラパゴス化の様相を呈しているように私の目には映る。それが一概に悪いとは言わないが、その表面上の多様性とは裏腹に、それらは実はたった一つの考え方に集約出来るように思われるのだ。

「安く買って、高く売る」と。

つまり、基本的に我々日本人の投資方法と言うのは、小数の例外者は別にして、買い一辺倒の片張り思考しかないのである。「バリュー投資」も「グロース投資」も「優待株投資」も「インデックス投資」もその他諸々も、要はこのバリエーションの一つでしかないということである。以前証券会社の信用口座の開設割合は3割くらいしかないという記事を読んだことがあるが、この数字の低さがこのことを端的に物語っている。だが、その3割の空売りをする人達もまた、恐らく「高く売って、安く買う」というように「安く買って、高く売る」を逆にしただけで、基本的にこの考え方の域から出てはいないのではないかと私には思われる。言い換えれば、いろいろと理屈はつけていても、結局我々は「値ごろ感」によって投機をしているだけであって、そこには原理原則に基づいたルールなぞは存在しないということである。

従って、そこにはトレンドという概念は存在しない、言い換えれば我々日本人の文化的蓄積の中にはトレンドという概念は存在しないので、結果、掘り起しによる共鳴現象は起きないので、トレンドフォローなぞ理解の外という事になる訳だ。我々にとって、トレンドフォローほど理解しにくい投資アイデアはないとも言えるのである。なお日本語には「順張り」という一見トレンドフォローと似かよった言葉があるが、後で述べるようにトレンドには明確な定義があるのに対し、「安く買って、高く売る」の「安」「高」に明確な定義や基準がないのと同じように「順張り」にも明確な定義や基準はない。「逆張り」も同様であって、そもそもそこには原理原則というものがないからルール化なぞ出来はしないのである。日本には、こういった判ったようでいて、良く判らない、同様の言い回しの言葉はいくつもあって、例えば「もうはまだなり、まだはもうなり」という投資格言などその典型であろう。

そのために、いささか茶化して言えば、日本人には有名な、このブルース・リーのセリフが、深奥な真実を表したクレドとして、実に胸にグッとくるという訳である。

「考えるな。感じろ!」


まあ、冗談はともかくとして、何やら大仰な話になってしまったが、外国人投資家に牛耳られている日本の株式市場にあっては、カモにされないためには、こうした投資行動の基にある彼我の考え方の違いと言うものは、頭に入れておく必要があるという事である。その時に気を付けなくてはならないのは、「ああ、トレンド・フォローね、順張でしょ」と言う風に、安易に我々の考えを当てはめて理解したつもりにならない事である。「もどき」に堕してしまわないために。この点で、いろいろと海外の著名な投資本も数多く翻訳されてはいるが、訳文の質の問題もあるにしても、そもそも根本的な理解が成されていないように見受けられると思うのは、私だけであろうか。それらは実績の数字の素晴らしさばかりが注目され、高く評価されはするが、次々に単に今流行の旬の投資法として消費され、次から次へと忘れ去られて行くだけのように思われる。「ああ、ピーター・リンチね、グリーンブラットね、なつかしいねえ。」

とまあいったことを念頭にしていただいて、次には最近たまたま読んだこの本を例にとって、私がトレンド・フォロー・システムとして最高位に評価するタートル・システムと対比して、若干の比較考察を加えることで、トレンド・フォローと言う観点から暴落の対処法について幾分か光を当ててみたいと思う。



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「初心忘るべからず」

2020-01-18 10:00:00 | 言葉・ことば・言葉
「初心忘るべからず」という言葉は、誰もが知っている言葉だが、これが世阿弥の言葉だということを知らない人も多いのではないだろうか。調べてみれば世阿弥の『花鏡』に出てくる言葉だということは判る。だが実際に彼の『花鏡』や『風姿花伝』を読んでみる人は稀だろう。読んでみれば判るのだが、この「初心」とは普通取られているような良い意味ではない。世阿弥の理想は「初心」なぞには無い。



「この句、三カ条の口伝あり。
  是非初心忘るべからず。
  時々初心忘るべからず。
  老後初心忘るべからず。
この三、よくよく口伝すべし。

一、是非初心忘るべからずとは、若年の初心を忘れずして、身に持ちてあれば、老後にさまざまの徳あり。
「前々の非を知るを、後々の是とす」といへり。
「先車のくつがへす所、後車の戒め」と云々。
初心を忘るるは、後心をも忘るるにてあらずや。
功成り、名遂ぐる所は、能の上る果なり。
上がる所を忘るるは、初心へかへる心をも知らず。
初心へかへるは、能の下がるところなるべし。
しかれば、今の位を忘れじがために、初心を忘れじと工夫するなり。
返す返す、初心を忘るれば初心へかへる理を、よくよく工夫すべし。
初心を忘れずば、後心は正しかるべし。後心正しくば、上がる所の態は、下がる事あるべからず。
是すなはち、是非を分かつ道理なり。
又、若人は、当時の芸曲の位をよくよく覚えて、「これは初心の分也。なをなを上がる重曲を知らんがために、今の初心を忘れじ」と拈弄すべし。
今の初心を忘るれば、上がる際をも知らぬによて、能は上がらぬなり。
さるほどに、若人は今の初心を忘るべからず。

二、時々の初心を忘るべからずとは、是は、初心より、年盛りの頃、老後に至るまで、その時分時分の芸曲の、似合いたる風体をたしなみしは、時々の初心なり。
されば、その時々の風儀をし捨てし捨て忘るれば、今の当体の風儀をならでは身に持たず。
過ぎし方の一体一体を、いま当芸にみな一能曲に持てば、十体にわたりて、能数尽きず。
その時々にありし風体は、時々の初心なり。
それを当芸に一度に持つは、時々の初心を忘れぬにてはなしや。
さてこそ、わたりたる為手にてはあるべけれ。
しかれば、時々の初心を忘るべからず。

三、老後の初心忘るべからずとは、命には終わりあり、能には果てあるべからず。
その時分時分の一体一体を習ひわたりて、又老後の風体に似合ふ事を習ふは、老後の初心なり。
老後初心なれば、前能を後心とす。
五十有余よりは、「せぬならでは手立てなし」といへり。
せぬならでは手立てなきほどの大事を老後にせんこと、初心にてはなしや。
さるほどに、一期初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入舞にして、終に能下がらず。」

『花鏡』



 『風姿花伝』においては、青春期の一時的一回的な美しさを「時分の花」、芸により鍛えあげられた美しさを「まことの花」と呼び、単なる身体的な美にすぎぬ前者を後者と錯覚する青年期の慢心を「初心」と規定している。つまり、「初心」とは悪い意味なのであって、それは「初心者」特有のバイアスに基づいたある種の錯誤の一形式なのであると言って良いだろう。


 勿論、世阿弥が言う「初心」とはそれだけに限定されるものではなく、「初めての経験」や「未熟な演技」などに対応し、またそれらと一体となった精神のあり様を言うのであって、「初心」とは恥ずべきもの、「忘れずに精進を続け」克服するもので、「そこに返ってはならない」ものである。従って、「初心」の頃の未熟な芸をこころして上達過程の判断材料にせよ、齢を重ねるごとに年相応の芸をひとつづつ忘れずに幅広い芸域を求めよ、老後に至っては老いるという至難を乗り越えてこれまでの経験を生かして芸力を極めよと「三カ条の口伝」を世阿弥は言うのである。

では、この「三カ条の口伝」を言う世阿弥の精神とは何ものか。

 それは基点たる「初心」を基準にして、その時々の自己の精神のあり様を常に相対化し推し量っていく自己革新的な心の働きと言って良いであろう。言い換えると、世阿弥は動きながら言葉を発しているのであって、このような言葉を了解するのには、勿論こちらも動かなければならない。動いていなければならない。すなわち、精神の運動においてでなければならないということである。


この意味で、通常の「初心忘するべからず」という言葉の通念的解釈自体、何とまた「初心」的な解釈であろうか。
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『物質と記憶』

2019-11-15 12:00:00 | 読書録


ベルクソン『物質と記憶』の新しい訳が又しても講談社学術文庫から出版された。この本は長年の愛読書でもあることだし、この機に少し思いつくところを書いてみたいと思う。

今度の杉山直樹訳は「すべての既訳を凌駕する決定版新訳!―第一級の研究者、渾身の訳業。」という出版社の謳い文句が目を引くが、まあ、出版社の謳い文句は謳い文句として、杉山氏自身も解説のなかでイマージュや記憶か或は記憶力か等翻訳の難しさについて述べているように、そもそも決定版たる翻訳などは成立し得ない著作であると言うべきだろう。

<第二章と第三章では「イマージュ」がふつうの意味、すなわち主観的心像(特に記憶心像)の意味で用いられる場合がほとんどなので話は厄介になるが、とりわけ第一章に関するかぎり、「イマージュ」とは客観的実在そのもの、ただしそれ自体で見えている実在、という意味で用いられている。「第七版の序」でベルクソンが言っているとおり、この点はあまり理解されなかった。しかし、ベルクソン自身のせいでもある。≪image≫という語は、もともと「像、似像」という意味なのだから。・・・・
この≪image≫という語をどう訳すかには、以前からさまざまな意見がある。「像、象」の字を含んだ訳語を用いてしまうと、「複写物のことではない」という根本的な主張が反映できないだろう。・・・また「イメージ」という英語系の言葉は、・・・逆になじみ過ぎたところがあって、一般に「イメージ」と言うと、われわれの側で勝手に、あるいは創造的・芸術的に、いろいろ思い描けるもの、という方向に意味はシフトするように思われる。そうなってしまうと、「イマージュ=知覚される客観的実在」という本書第一章の根本主張が見えにくくなろう。・・・・一定の違和感が残った方が、かえってよいのではないか。ここでは日本語とフランス語の距離をむしろ利用しよう・・・・・ということで、今回は「イマージュ」というカナ表記を用いることにした。>(杉山氏解説)

ここには、前田英樹氏も言うように、ベルクソンの意図的な戦略性がある訳である。

<ベルクソンの使う「イマージュ」という語は、極めて翻訳しにくい。この語には、まず二つの意味がある。ひとつは、知覚された「物の姿」のことで、これを「映像」と訳すことは誤りである。知覚によるイマージュは、知覚する身体が物質界のなかで限定した物の一部分にほかならない。この意味で、物質界とは、知覚によるイマージュをことごとく取り集めた総体だとも言える。「イマージュ」のもうひとつの意味は、記憶のなかの「映像」である。この映像は、現在の知覚のイマージュに結び付き、知覚された対象を「再認」させる。実際には、私たちのあらゆる知覚は、これら二つの「イマージュ」の解きがたい混合によって成り立っている。だが、これほど異なる二つの概念を、なぜ「イマージュ」の一語をもって呼ぶのか。そこには、『物質と記憶』全体にはりめぐらされたひとつの大がかりな戦略がある。そして、この戦略は、認識を外界の実在から永久に切り離してしまう近代の認識哲学に向けられている。>(ドゥルーズ編『記憶と生』における訳者注)

つまり、ベルクソンはこれまでの認識論的常識の転覆、いわばちゃぶ台返しを意図しているのであって、その目指して行きつくところは、主観と客観は内外という空間的区別ではなく、むしろ「時間との関係」において考えなければならないという、”持続"の相において捉えられたパースペクティブー新しい二元論である。


という訳で、この「イマージュ」などはその代表的なものであるが、読者側から見れば<見慣れた言葉だし、そう構えなくてもだいじょうぶ、と思って分け入ってみるのだが、気がつくと、あたかも密林の中で遭難するといった目に遭わされる>(杉山)ことになる訳だ。このような意味で、なかなかと一筋縄では行かない難解さを本書はその特徴とする。従って、この本は難解な古典群のなかにあっても、際立って独特の難解さを持った古典であるとも言えようか。

そういえば、小林秀雄もこの著作に対する自らの”遭難”経験をこのように語っている。

<・・・私のような尋常な愛読者にしてみると記述の複雑に心屈し、要するに何が言いたいのかと呟きたくなる。それと言うのも、精密な分析を辿りながら、やがて著作の思索の建築は、その構造を明瞭に明かすであろう、と知らず知らずのうちに期待しているからであろうと思う。例えば、或る複雑な装置の或る部分の構造が徹底的に分析される。次にこれと全く無関係に見える或る部分の構造の分析が現れる、そういう風に次から次へと部分、部分の構造が明かされて、終いに、さてこれで全装置は円滑に動く筈だ、と著者から言われる。動く筈だが、さて動力は何処にあるのか。私はそんな風な読み方をした。そんな風には決して書かれてはいないと納得するまで、繰り返し、した。>(『感想』三十五)

このベルクソン理解の難しさについては、岩波文庫旧版『思想と動くものⅠ』の河野与一氏の文章が、明晰な指針による忠告をしているので、ここで引いて置きたい。これは『哲学入門』について書かれた文章だが、このことはベルクソンの総ての著作に当てはまることは言うまでもないだろう。

<ベルクソンは危険な思想家である。・・・・この『哲学入門』を手にする初歩の読者に向つて先ず云ひたいのは、大抵の場合逆手に出られるからそこをよく御用心なさいといふこと、豊富な概念をいきなり読者の手に渡して置いて、それを少しづつ軽くして行くやり方が多いからそのつもりでお掛かりなさいということである。未知のものを既知の如くに扱ひ、答の方が最初に来て問が後から出るやうな仕組も珍しくない。抽象と具体、静止と運動、空間と時間、悟性と感性、といふやうな対になつてゐる述語の意味の重みの附け方が学問の通念と反対に受け取れることも多い。さういふ様々な順序の逆転が普通にいふ反省とも違ふ。又単に順序が逆になつてゐるだけだと決めるわけにも行かないような、ひどく意地の悪い出方も覚悟しなければならない。絶対だの流動だの直観だの生命だの、とかく神秘な甘い連想を伴ふ言葉がどんなに凶暴な魔力を揮つているか。悪くすると、哲学を求めるものの希望を挫く惧れがないとは云へない。>

と、ここまでの文章を読み返してみると、難解とか危険とかばかりを強調してしまった格好だが、永年の愛読者として言わせてもらえれば、「イマージュ」だろうが「形像」だろうが「イメージ」だろうが、逆に言えば個々の訳語なぞはそれ程問題ではないとも言えるのであって、この著作は難解とは言え河野氏のいう忠告を念頭に置いて、文脈から意味を演繹・類推することが出来れば、全く理解出ないという事もない。誤解を恐れずに大それた言い方をすれば、時間が掛かるかも知れないが、その核心にある考えを掴んでしまえば理解するのにそれほど難しい書物ではないとも言える訳だ。

ついでにここでも参考のために、小林秀雄の「イマージュ」についての文章も引いて置こう。私にしてみれば、小林がいなかったら、この書物にこれ程入れ込むことは無かったのも事実なので、どうしても彼の文章の引用が多くなるのはやむを得ない。

<ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。
「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に「性質情状アルカタチ」です。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思ったことがある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言って良いものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。>


さて、まだそれほどこの杉山直樹訳の中味を精査した訳ではないが、個人的に気になる部分を幾つかピックアップして見た限りでは、この翻訳にはそれ程アドバンテージを感じなかったというのが、私の偽らざる感想である。逆に言えば、これまでになされてきた訳文の水準の高さを確めることにもなった格好で、通して読んでみるとまた違った感想を持つのかも知れないが、現状では今のところ私には読みなれているせいか高橋里美訳と岡部聰夫氏の旧訳がやはり一番好ましく感じられる。

ここでそのチェックした部分の例をひとつを挙げておこうか。それは第三章「イマージュの残存について」の中の「夢の平面と行動の平面」の結尾の文章である。

以下に見る様に、この二つの運動は、一つ目は「移動」「並進運動」「併進運動」「平行移動」、二つ目は「自転」「旋回運動」「自転運動」など色々に訳されているが、ここでベルクソンは物理学のテクニカルタームを使用しているのは間違いない。これらについては、現在日本語では

「並進運動」と「回転運動」

という用語が定着しているようで、従ってこれらの用語を訳語に選定している翻訳も多い訳だが、これらの専門用語を知っている人が果してどれだけいるだろうかとも思う。私は調べてみるまでは知らなかったのだが、要は、この二つの運動の対比による性格の違いが文脈から判ればいいのであって、「並進運動」という訳語にどうにも違和感が残る私には、この部分に限って言えば、むしろ古い高橋里美訳や岡部聰夫氏の新訳の方が好ましく思えるのであるが、どう思われるであろうか。

なお、なぜここを私がチェックしたのかと言うと、ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』(宇波彰訳)を読んだ時、ここの一節の引用が出てきて(P66)、この二つの運動が「置換の運動」と「それ自体に対する回転の運動」と訳されているのを読んで、前者の訳に少しく違和感を持った経験があるからである。いくらそれ程訳語は問題ではないと言っても、この「置換の運動」という訳語はいささか問題であろう。そのためであろう、さすがに新訳の『ベルクソニズム』(檜垣立哉・小林卓也訳)では、「並進運動」と訂正されている。ちなみに、このドゥルーズの『ベルクソニズム』は、私が読んだ中では類書を圧倒して深い洞察がちりばめられられた啓発的なベルクソン哲学の概説書であって、先ず第一に参照すべきものと思われる。いや、この本は啓発的な概説書というよりも、ベルクソン哲学の挑発的な再創造と言った方が当たっている。そこでは否応なしにドゥルーズの独創的な読解に対決を迫られるのであって、この意味ではベルクソンを読む者にとっては強面で実にやっかいな、そしてまたそれゆえに実に魅惑的な必読参考書でもある。本国フランスでベルクソン再評価の切っ掛けとなったというのも、さもありなんと思わせる内容である。



<換言すれば、全体の記憶が次の二つの同時的運動を以て現在状態の必要に応ずる。即ち、その一つは移動であつて、記憶は全体として経験の方に運動し来り、かくて動作の目的のために分裂することなく多少の収縮を行ふ。他は自転であつて、記憶はその瞬間の位置に向ひ、最も有益なる側面をそれに呈する。そしてこれらの収縮の種々の程度に対応して種々の形式の類似連合があるのである。>(高橋里美訳旧岩波文庫)

<換言すれば、完全な記憶力は現在の状態の呼びかけに、同時的な二つの運動によって答えるのである。ひとつは並進運動であり、これによって記憶力は全面的に経験に向って進み、こうして行動のために、分かたれることなく多少とも収縮する。いまひとつは自転運動であり、これによって記憶力は現在の状況へと方向をとりながら、いちばん役に立つ側面をそこへさし向ける。収縮のこのさまざまな段階に応じて、類似による連合の多様な形態がある。>(田島節夫訳白水社旧全集)

<いいかえると、現在の状況からの呼びかけに、記憶全体は、同時に、二つの運動で応じる。ひとつは、並進運動で、この運動によって、記憶全体が、経験の方向に移行し、行動を目指して、不可分のまま、多少とも収縮する。もうひとつは、面内の旋回運動で、この運動によって、記憶は、現在の状況に向けられ、この状況に、もっとも有用な側面を提示する。これらの、異なったさまざまな収縮度に応じて、類似による、さまざまな連想形態がある。>(岡部聰夫旧訳駿河台出版社)

<言い換えれば、記憶の全体が、同時に生じる二つの運動によって、現在の状態の呼びかけに答えるのだが、その運動の一方は並進運動であり、それによって、記憶は全面的に経験に先んじ、行動することをめざして、分割されることなく多かれ少なかれ収縮する。他方は自転運動であり、それによって、記憶はその時の状況へと向かって最も有益な面をその状況に示す。これらの様々な収縮の段階に、類似による連合の多様な形態が対応している。>(合田正人・松本力訳ちくま学芸文庫)

<言い換えれば、記憶の全体が、現在の[心的]状態の呼びかけに、二つの運動によって同時に応答しているということだ。一つは並進運動で、記憶は、現在の経験に全面的に向かい合い、自らの一体性を保持しつつ、為すべき行動に役立つべく、多少とも自らを凝縮させる。もう一つは、自転運動で、この運動によって記憶は、現下の状況に向き直り、その状況にもっとも有効な面を振り向けるのである。こうして、[二つの運動の]さまざまに異なる凝縮の度合いに対応して、さまざまに異なる形態の、類似性による連合がある、ということになる。>(竹内信夫訳白水社新全集)

<ことばをかえれば、統合された記憶は、現在の状態からの呼びかけに対して、ふたつの同時的な運動をつうじて応答するのだ。そのひとつは併進運動であって、これによって記憶は全面的に経験に向ってすすみ、かくて行動のために、分割されることなく多少ともみずからを凝縮させる。もうひとつは自転運動であり、それをつうじて記憶は、現下の状況へと方向づけられながら、その状況に対してもっとも有用な側面を提示する。収縮におけるこうしたさまざまな段階に、類似性をつうじた連合にあって、その多様な形態が対応しているのである。>(熊野純彦訳岩波文庫新訳)

<いいかえると、すべてを保存している記憶力が、現在の状態の呼びかけに対して、同時に二つの運動で応じている。ひとつは平行移動で、この移動によって、記憶力全体が経験の方向に移行し、こうして行動を目指して未分割のまま多少とも収縮する。もうひとつは旋回運動で、この運動によって、記憶力全体は現時点の状況に向けられて、この状況にもっとも有用な側面を提示する。これらのさまざまな収縮度に応じて、類似による連合の多様な形態がある。>(岡部聰夫新訳駿河台出版社)

<言い換えれば、過去全体についての記憶力は、現在の状態からの呼び出しに、二つの同時的な運動で応じるのである。一つは並進運動であり、それによって記憶力は全体として経験の前に身を移しながら、行為を目指しつつ、自分を分割しないものの、何らかの度合いで自分を凝縮させる。もう一つは自転運動であり、これによって記憶力は目下の状況に向って方向を定め、最も有用な面をそちらに提示できるようにする。このような凝縮のさまざまな度合いに、類似による適合のさまざまな形態が対応しているのである。>(杉山直樹訳講談社学術文庫)


なお、翻訳ではないが小林秀雄のベルクソン論『感想』では、ここのところは「前進する運動」と「自転運動」と表現されていて、小林が一つめの運動を「前進運動」としているのは、読み込みの深さをうかがわせて、わたしにはこれが一番明解でしっくり来る用語選定である。

<従って記憶全体は、現在からの呼び声に二重の運動を以て答えているわけだ。記憶全体が、常に経験を背後にして前進する運動、行動を見詰めて、多かれ少なかれ収縮して前進する運動、もう一つの運動は、言わば記憶の自転運動であって、記憶が、自分の、その時その時の位置方向を、保持し、これに最も有効な面を現す。>(『感想』「四十七」)

その小林が高橋里美訳を愛読していたことは雑誌『ノーサイド』1994年12月号「特集黄金の読書」の中の「一冊入魂 達人小林秀雄の読書法」という文章で郡司義勝氏が証言しているが、あまり言及されることがないようなので、ここで引いて置こう。

<ー高橋里美訳は、大正三年にすでにでていましたね、それとは・・・・。
「勿論、原書も買ってもいたし、対照しても読んでいた。今の人には、あの翻訳の文章は親しみづらかろう。が、実に丁寧によく出来ているね。文庫本で出てからは、手軽で便利だから、常住座臥かたわらに置いて、折りにふれて読んだものだった。僕の生涯のうちで、あれほど隅から隅まで、魂を打ちこんで読んだものは、他にない。・・・」>

また、この雑誌にはこの小林の読んでいたぼろぼろになった高橋里美訳岩波文庫の写真ー「常住座臥かたわらに置いて、折りにふれて読んだ」ことを如実に示す<葦編三絶の態>の写真も載っているので、ついでにこれも紹介してこの文章を終えることにする。




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