ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

座右の秀雄 57

2023-03-04 12:00:00 | 小林秀雄
ここで言われている吉本隆明の「内観」という方法については、小林の「本居宣長」に対する吉本自身の評から伺い知ることが出来る。


<宣長が戦後の現在もなお生きているところがあるとすれば、実証的な古典研究者としてだけだといってよい。古典語の語義を盲目的な手さぐりと味読・体読・翫読のたゆみないつみかさねの経験と勘とで切開いていった驚くべき努力のあとだけが、誤解と正解とをおりまぜて、近世から戦前までの古典研究の方法におおきな先蹤となった。この意味では現在もまだ古典学者たちは宣長を嗤うことはできない。
・・・・
けれども宣長の方法と思想は、小林秀雄が繰返し熱心に説くほど上等なものではない。せいぜい博学、読み込みを積み重ねた挙句の正確で鋭敏な経験主義のうち、近世で抜群に行き届いた成果というくらいにしか評価できない。その『古事記』研究は、原理的にも実証的にも、だれがどうかんがえても虚妄だとおもえるところと、わたしが独断で虚妄だと断じ得るところに充ち充ちている。わたしは宣長にも、それに追従する小林にも哀しい盲点をみつけだす。日本の学問、芸術がついにすわりよく落着いた果てにいつも陥るあの普遍的な迷妄の場所を感じる。そこは抽象・論理・原理を確立することのおそろしさに対する無知と軽蔑が眠っている墓地である。「凡庸」な歴史家たちや文学史家たちや文芸批評家たちが、ほんとうの意味で論理を軽蔑したあげく、原理的なものなしの経験や想像力のまにまに落ちてゆく誤謬・迷信・袋小路に小林も落ち込んでいるとしかおもえない。>(「小林秀雄」『悲劇の解読』)


なかなかと辛らつな意見だが、<宣長が戦後の現在もなお生きているところがあるとすれば、実証的な古典研究者としてだけだ>という断言が端的に示しているように、吉本の「内観」という方法は、正に小林が批判している当の「近代科学の実証主義に強く影響された」方法と言って良いだろう。

それにしても、小林のベルクソンへの度々の言及にも拘らず、宣長学者の菅野覚明氏は言うに及ばず、こうした吉本から現代にいたる評論家の小林の批評方法に対する無知と無理解、それと裏腹の関係にある実証主義至上主義的傾向というものは、私には不可解を通り越していささか不思議な気がする。というのは、少しでもベルクソンを齧ったことがあれば、小林の批評方法がベルクソン哲学直伝の方法であるのは、自明であると思うからだ。

また、この事は何も小林を批判する批評家だけでなく、評価する側の評論家にも言えることであって、これまでも他の哲学者たち、例えばハイデガーだとかウィトゲンシュタイン等を依り代にして小林秀雄が論じられて来た。また、一方では小林批評とは詰まるところ実感主義だとか、勘による断定主義だとかいった通俗的な小林評もなされてきた訳だが、そういえば、対談<「本居宣長」を巡って>では、このようなやり取りもあった。何気ない一言に江藤淳の小林観が図らずも露呈しているが、江藤淳にしてこの体たらくである。

江藤 そうすると、宣長の著作では最初に「古事記伝」をお読みになったのですね。
小林 そうです。「古事記」をしっかり読もうと思い、どうせ読むなら「古事記伝」で読もうと思った。
江藤 それもやはり、勘のようなものですか。
小林 それは、勘ではない。

結局、どちらにしても、小林の批評方法に対する無知と無理解という点では、全く変わりがないのであって、これでは、<ほんとうの意味で論理を軽蔑したあげく、原理的なものなしの経験や想像力のまにまに落ちてゆく誤謬・迷信・袋小路に落ち込んでいる>のは、一体どちらなのかと言いたくもなるが、この点は、百歩譲ってベルクソン哲学による認識論的転回という洗礼を受けていないと、なかなかと判り辛いという点は別にしても、不勉強の誹りは免れ得ないであろう。





では、この小林批評におけるベルクソン直伝の方法とは何か。それはベルクソン哲学において<もっとも入念につくられた方法>(ドゥルーズ)である”直観”である。

ベルクソンは、物を知るには原理的に異なった二つの仕方があると言う。第一の知り方はその物の周りを回ることであり、第二の知り方はその物の内部に入ることである。前者の方法として発達してきたのが、実証主義的方法であり、後者の方法としてベルクソンによって練り上げられたのが直観という方法である。

<たとえば空間の中に一つの物体が運動しているとする。私はその運動を眺める視点が動いているか動いていないかによって別々の知覚を持つ。私がその運動を関係づける座標や基準点の系に従って、すなわち私がその運動を翻訳するのに使う記号に従って、違う言い方をする。この二つの理由から、私はこの運動を相対的と名づける。前の場合も後の場合も私はその物の外に身を置いている。ところが絶対運動という時には、私はその運動体に内面的なところ、いわば気分を認め、私はその気分に同感し想像の力でその気分のなかに入り込むのである。その場合、その物体が動いているか動いていないか、一つの運動をとるか別の運動をとるかによって私は同じことを感じないだろう。私の感ずることは、私がその物体の中にいるのであるからそれに対してとる視点には依存しないし、元のものを把握するためにあらゆる翻訳を断念しているのであるから翻訳に使う記号にも依存しない。つまりその運動は外から、いわば私の方からではなく、内から、運動のなかで、そのまま捉えるのである。そうすれば私は絶対を捉えたことになる。>(ベルクソン「形而上学入門」)

つまり、ベルクソンは、実証主義的方法というのは相対的な認識方法であり、これに対して直観という方法は絶対的な認識方法だと言うのである。

ここにはそれまでの西洋哲学の伝統的な認識論に対する根本的な批判があるのだが、一般に実証主義的分析方法において我々が事象のうちから特定の属性を取り出すことを分節という。分節とは、文字通りにいえば、渾沌とした全体性としての事象を、ある特定のカテゴリーに切り分けることをいう。事象にはさまざまな属性がある訳だが、その多数の属性の中から特定のものに注目して、それを特定のカテゴリーに当て嵌めるのである。カテゴリーとは概念であるから、分節は渾沌とした具体的な事象を抽象的な概念へと転化させる作業だと言うことができる。そして実証主義的分析方法の常套的な手順としては、知覚をもとに知覚から概念的かつ理念的なものを創り出した後に、その抽象的な原理でもって知覚を説明するのである。ベルクソンが、これを相対的だというのは、<分析は対象をとらえようとして、永遠に満たされない欲望をいだき、対象の周りをまわる運命を負わされ、視点の数をどこまでもふやし、つねに不完全な表象を完全にしようとし、記号を絶えず取りかえ、不満足な翻訳を満足にしようとする>からである。言い換えると、知覚が基であり、概念は知覚から派生したものであるにも拘らず、伝統的な認識論というのは、抽象的な概念の方を優位に置き、それでもって具体的な知覚を説明しようとするという、言ってみれば転倒した方法だということである。

これに対し、直観によって捉えられた知覚の特徴は、分節されていない生の状態それ自体が直接に与えられている。つまり直観によって齎される知は、対象に対する抽象的概念ではなく、直接内面そのものの全体を絶対的な形で表していることになる。ベルクソンの哲学的営為は、人はいかにして対象の内面に入り込み、そのことを通じて対象を全体的・絶対的に把握できるのか、その道筋を明らかにすることだったと言っても良いだろう。

これはどういうことかというと、知覚には外的な世界の姿もあるが、我々自身の内的な世界もある。知覚は外に向えば自然を対象とする科学に結びつくが、内に向うと、純粋持続としての自我の把握につながる。我々にとって外的な対象は、分析を通じて、概念的・相対的に理解することができるが、知覚対象の中には、そのような分析に依らず、直観によって把握出来る特権的な対象がある。我々自身の自我である。我々は我々自身とは容易に同感できるわけであるから、我々自身の内部に深く分け入れば、絶対的な知に達することができる。哲学とはこの自我を対象とするもので、つまり、ここには純粋持続としての自我と、空間的な存在としての自然とは根本的原理的に異なっているという実存形式の二元性というものに対する理解がその根底にある訳である。従来の哲学は、自我を対象としているにもかかわらず、自然を扱う科学をロール・モデルとして、あたかも科学の一種であるかのように装ってきたが、それは根本的に間違っている。科学と哲学とは、原理的に異なった対象を扱っているのであるから、その方法論も当然に原理的に異ならなければならない。その両者を混同することは許されない。科学には科学固有のものを、哲学には哲学固有のものをという二元論がベルグソンの基本的な立場でる。

このような二元論の見地に立つ時、科学的実証主義的方法の最も大きな欠点は、知覚のもつ豊かさが犠牲にされ、我々の世界を見る眼が貧しくなることである。一方で芸術はその貧しから知覚本来の豊かさを回復してくれる。芸術は、事象をその渾沌とした豊かさのままに、全体として我々に見せてくれるからだ。そこでは分節によって阻害され排除された部分が回復され、事象の持つすべてのものが全体として可視化されるために、我々の世界についての経験は飛躍的に豊かになる。芸術によって我々の生体験は、深みと拡がりを獲得することになる。この意味で、芸術作品とは、その固有な形式において、知覚の深化或いは拡大を実現しようとしている試みだと言うことが出来る。

こういう次第であるから、直観は世界を見る目を基本的に変えることになり、それゆえ、直観は、当然にも日常的な見方に疑いの目を向けることにもなる。従って、ここにおいては、いわば認識論的転回といったものが要求されることになることは言うまでもない。知覚における外的な世界から内的な世界を原理的に切り分けることによって、運動に動きを、変化に運動を、時間に持続を見い出し獲得することで、我々の生は本来の姿をとって現われる。連続的な創造、新しいものの絶えざる湧出になる。<そうすれば哲学は経験そのものになる。>

以上は、ベルクソンの直観という方法についての私なりのざっくりとした拙劣な説明であるが、この直観が、日常的な実感や勘や直感と異なる一番根底的な点は、「意識に直接与えられている」ものとして、外部を持たない純粋に内的な継起としての持続をその前提としている点である。この意味合いで、つまり経験の転回点を超えるという意味合いで、意識的な努力の非常な集中を要件とする認識営為であるということである。

<精神を直観的に深めることは、たぶんずっと苦しい仕事である。どんな哲学者であっても、見ることのできるものをその度ごとにちらっと見ただけなのだ。ところがそれとは反対に、私のいう直観的な方法を採用するとなると準備作業はいくらでも必要となり、もう充分ということは決してない。>

以上、いささか駆け足での説明になったので分かりづらい文章だったかもしれない。小林も言うように、未読の方はぜひ直接ベルクソンを読んでいただきたいと思う次第である。

従って、小林の批評というのは、この直観という方法の一生を通じた実践であったと言っても何ら大げさな物言いではない。勿論、別にベルクソンを読まなくても、小林の文章を理解することは可能であろうが、いらぬ回り道や迷い道に踏み込まぬためにも、ベルクソンを理解しておいた方が良いことは、私の経験からは確かに言えることである。

例えば、

<宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。>(「本居宣長」)

という文章の、<彼の生きた個性の持続性>や<在りのままの姿から、直接感受>といった言い回しにおけるベルクソン的意味合いが判れば、まさしくここで述べられているのは、直観という方法の実践であることは直ちに了解できるであろう。


思うにこの点に関しては、やはり山本七平氏の読みは卓越して素晴らしいと言わざるを得ない。山本がベルクソンを読んでいたはずもないが、対比の意味で再度山本の文章から該当する箇所を引きたいが、言葉自体は似かよっているものの、吉本の言う「内観」と山本の言う「内部感覚」とでは、その批評的認識論的な意味合いにおける深度の違いは明らかであろう。この文章における「内部感覚」を、そのまま「直観」と読み替えて何ら差し支えないことが、その証左である。


<この問題も決して単純ではない。だがこれを「言葉と実感」「思想と実生活」という問題と結びつけてみれば、藤村と白鳥はそれを共有している。それを共有しているが故に、それが「己の天性を見定める道」にもなりうる。だがそれを共有していない対象への態度が同じであってよいとは言えまい。これは常に小林秀雄にあった「内部感覚」であったろう。氏の旧約聖書の読み方と万葉集の読み方は決して同じではないし、ドストエフスキーの読み方と本居宣長の読み方も決して同じではない。・・・・・
「言葉と実感」、「思想と現実」という関係は「作品と生活」という形でも現れうる。そこでまず『ドストエフスキイの生活』があり、それが終わったところで、すなわち「・・・彼の死という一事件とともに。今は、『不安な途轍もない彼の作品』にはいって行く時だ」となる。・・・・と同時に、なぜドストエフスキーでは分けられ、宣長では一体化しているかもわかる。というのは、宣長が極力「上代人になって上代人の目」で見ようとしているように、小林秀雄は「宣長になって宣長の目」で見ようとしている。いわば宣長と小林秀雄の間には「常套的な意味合いでは、作家批評家の別はない」という状態を目指す。確かにこれも批評の方法である。そしてそれが出来るのは、「言葉と実感」、「思想と現実(生活)」を共有しうるからだが、ドストエフスキーでははじめからそれが不可能なことを彼はよく知っている。知っているが故に『生活』と『作品』という腑分けをしているわけであろう。・・・・端的にいえばそれは「敵を狙う」という態度であっても、決して「宣長になって宣長の目」で見ようという態度ではない。小林秀雄の聖書やドストエフスキーに対する接し方は非常に用心深く、氏自身の言葉を借りれば、あらゆる方法で正確に狙い、対象を「射止めよう」としているのである。この違いは理論や方法論の違いというよりむしろ、彼の「内部感覚」のなせるわざであろう。>(「小林秀雄の流儀」『小林秀雄の流儀』)
















座右の秀雄 56

2023-01-27 16:00:00 | 小林秀雄
小林秀雄 講演 『本居宣長』を刊行するまで


この講演で、小林は『本居宣長』(昭和52年)については、<一言も言い残したことはない。読んでくれさえすれば良い>と言い切っていることから『本居宣長』刊行直後には、本居宣長については、新たに文章を書くつもりは全く無かったことが判る。ところが、実際には二年ほどたってから「本居宣長補記(Ⅰ)」、「本居宣長補記Ⅱ」という二つの文章が相次いで発表され、この二つの文章だけを収録した113ページの薄い単行本『本居宣長補記』が、『本居宣長』と同じ装丁で昭和57年に出版されたのであった。

これは。一体どういうことなのであろうか。

この小林の心変わりの裏には何があったのであろうか。

出版された『補記』を『本居宣長』と並べてみると、この二冊は厚さがいささかアンバランスで、私の眼には誠に不格好に映る。無様と言っても良い。いまさら増補版を出す訳にはいかなかったのであろうが、逆に言えば、この不格好さは、小林の心変わりの唐突さを、そのままに”かたち”として表しているとも言えようか。




この”小林の心変わり”というものをつらつら考えていたある日の事、『本居宣長』が日本文学大賞を受賞した翌年である昭和54年に「補記(Ⅰ)」に続いて発表された「本の広告」という文章を読み返していたところ、以前に漫然と読んでいた時には全く気づかなかった、この”心変わり”の基となったであろう事実認識が書かれているのに今更ながらに気付いたのであった。やれやれ。

『本居宣長』は、小林も述べているように定価四千円で最終的に十万部を売り上げ、総売上高としては四億円という数字を誇っている。出版不況の現在からはこの数字の意味するところはなかなか想像するのは難しいが、当時出版元の新潮社は自社販売もしていたので、販売開始時には新潮社の前に長蛇の列が出来たというのがニュースになったほどである。今でいえばアップルの新製品発売時と同じような状況だった訳で、真偽のほどは判らないが、お歳暮として贈られたとか、パチンコの景品として並んでいたというような話もあったように記憶している。言うなれば一出版物という枠を超えて社会現象にまでなっていた訳だが、この現象を小林自身どう見ていたかが、この文章には書かれていたのであった。


<さて、この宣長の教えに従って、言わせて貰う事にしたいが、私の本は、定価四千円で、なるほど、高いと言えば高いが、その吟味に及ばないのは粗忽の至りなのである。私の文章は、ちょっと見ると、何か面白いことが書いてあるように見えるが、一度読んでもなかなか解らない。読者は、立止ったり、後を振り返ったりしなければならない。自然とそうなるように、私が工夫を凝らしているからです。これは、永年文章を書いていれば、自ずとできる工夫に過ぎないのだが、読者は、うっかり、二度三度と読んで了う。簡単明瞭に読書時間から割り出すと、この本は、定価一万二、三千円どころの値打ちがある。それが四千円で買える、書肆としても大変な割引です。嘘だと思うなら、買って御覧なさい。とまあ、講演めかして、そういう事を喋った。
聴衆の諸君も解ってくれたのではないかと思う。売れました。誰よりも販売担当者が、まず驚いた。鎌倉でも、私のよく行く鰻屋のおかみさんまで買ってくれました。鰻の蒲焼と「古事記」とは関係がないから、おかみさんが読んでくれたとは思わないが、買った本は、読まなければならぬなどという義務は、誰にもありはしない。しかし、出版元は、客が買えば印税を支払う義務がある。私としては、それで充分である。昔流に言えば、文士冥利に叶う事だ。冥利の冥とは、人間には全く見通しがきかないという意味でしょう。私は、大学にいた頃から、文を売って生計を立てて来たから、文を売って生きて行くとはどういう意味合いの事かと、あれこれ思案をめぐらして来た道はずい分長かった。しかし、私の眼には、この冥暗界の雲は、まだ霽れてくれないようです。>


<買った本は、読まなければならぬなどという義務は、誰にもありはしない>、<冥暗界の雲は、まだ霽れてくれないようです>という書きぶりから、小林は喜ぶどころか、全く逆に喜んではいない事が判る。つまり、この時の小林の心中を慮ってはっきり言えば、刊行後の評判ー批判も高評価も一通り見渡して、この本が十万部も売れ、日本文学大賞を受賞したのにも関わず、誰もまともに読んではいないし、あまつさえ全くと言って良いほど理解されてはいないことを小林は直ちに悟った、そう言って良いだろう。つまり、この異常なブームと裏腹に存在する無理解という冷徹な事実認識が、小林に新たに宣長論を書くことを要請、というより強要したのに違いない、そう私は想像するのであるが、どう思われるであろうか。

そして、このためであろう、二つの「補記」を読めば直ちに分るが、小林は『本居宣長』とは明らかに論述方法を変えている。

<ところが、当今の宣長研究は、皆、近代科学の実証主義に強く影響された観点に、それと意識しないで立って行われて来た。言わば、形而上なるものに対する反感から出発していたと言っていい。これをどうにかしなければならぬ事には、早くから気付いていた。方法はたった一つしかなかった。出来るだけ、この人間の内部に入り込み、入り込んだら外に出ない事なんだ。この学者の発想の中から、発想に添うて、その物の言い方を綿密に辿り直してみる事、それをやってみたのです。>(「本居宣長」を巡って、江藤淳との対談)


これに対し「補記」では、その最もわかりやすい端的な例を挙げれば、「補記(Ⅰ)」ではプラトンの「パイドロス」が引用され、宣長の思想とソクラテスの思想とを対比し、「双方の物の言い方は、言わば同心円を描きつつ動いている」という説明がなされていることである。つまり、あえて「補記」では宣長という「人間の内部」から「外に出」て論を展開している訳である。


だが、『補記』の内容に入る前に、まずは前提として『本居宣長』の論述方法について深堀りしてみたい。いささか持って回った論理展開になったが、この論述方法の根底にある小林の批評原理に対するそもそもの無理解が、この小林晩年の心変わりという「思想劇」の大元にある原因と思われるので、この点について論理の襞の間に分け入って考えてみたいと思うのである。

この<当今の宣長研究は、皆、近代科学の実証主義に強く影響された観点に、それと意識しないで立って行われて来た。言わば、形而上なるものに対する反感から出発していたと言っていい>という対談での小林の物言いは、対談ゆえか、ほとんど顧みられることはなかったように見える。というのは、<形而上なるものに対する反感から出発していた><近代科学の実証主義に強く影響された観点>に基づいた『本居宣長』に対する批判や無理解や、さらには賞賛さえもが、小林逝去後の現在においても、繰り返し再生産され、事態は全く変わっていないように見受けられるからだ。まあ、前に挙げた橋爪氏の著作などは、<実証主義に強く影響された>どころか、全く実証的だなどとは言えない代物であった訳だけれども。

なお、私は小林の対談は、特に戦後以降はものは、その徹底した推敲ぶり(参照→「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」)から、通常の文章と同等に扱うべきであり、その内容はある意味では通常の文章以上に重要だと考えているが、『本居宣長』を巡っての江藤淳との一連の対談は皆欠くべからざるものばかりである。先の発言も、有らぬ誤解や無理解に陥らないように、小林は予め釘を刺してて置いたといった気味合いがあるが、小林の懸念は的中したと言っても過言ではないようだ。


さて、ここでこれまでの幾多の宣長論を独自のパースペクティブから整理した興味深い文章が載った本を挙げる事にしたい。



 その本とは2011年に出版された『本居宣長』相良亨著 (講談社学術文庫) で、これは東大出版会より1978年に出版されたものの復刊である。私がこの復刊の方の講談社学術文庫版を取り上げるのは、新たに付された菅野覚明氏による解説をとても面白く読み、長大な相良氏の本編よりも、遥かに短いこの菅野氏の解説の方をむしろ私はより興味深く読んだからである。


<近代日本における思想的な営みは、西洋近代に由来する文物の受容・摂取を通じて展開された。>

<人々は、西洋の文物の斬新さと有用性に圧倒され、日本人の自己を形づくる習俗や生活感情と、その核にある神仏への信仰を未開・野蛮の残滓であると思い込み、あえてそこから目をそらしつづけた。日本人としての自己の内実は、真面目に向き合うことさえはばかられる恥部として隠蔽され、半ば意図的に忘れ去られていった。
 自己の内実を不問に付したまま、人々(典型的には知識人たち)は、西洋の「意匠」を追いつづける。しかし、隠蔽され、見失われ・・・十全に内実を問われないままに、「日本人」という符牒の内に封印された自己の半身は、やがて事あるごとに亡霊のように捉えがたい姿をあらわし、知識人たちを脅かしつづけることになる。>

<「自覚」されるべきものは、・・・・何よりも「わたしたち自体」の現存の「実像」である。近代日本において、統一された自己を回復するには、知の側からは、自身の半身である「日本人としての自己」の実質を、その奥行きや細部に至るまでまずは徹底的に「内観」しなければならない。・・・しかし、とりわけ思想的な知識人たちにとって、「内観」の恰好の試金石とされたのは、本居宣長という思想家の存在であった。>

<宣長という存在には、共感をもって理解できる部分と、理解しがたい得体の知れない部分とがある。この二つは、宣長の中では分かちがたく結びついているはずなのだが、その統一の形は容易に像を結ばない。・・・・本居宣長の持つ、共感の容易な半身とは、いうまでもなく、彼の「実証的」な学問、即ち合理的知性に関わる側面である。そして、近代知識人の共感をはねつける半身とは、彼の生活者としての実感に関わる側面、即ち、習俗や神への信をめぐる言葉である。この、一見すると相容れない二つの半身は、しかし宣長の自己においては矛盾なく統一されている。少なくとも宣長自身は、そこに何の不安も感じていないように見える。>

<わかる宣長とわからない宣長とに分裂した近代の宣長像は、早くは明治の終わりに、村岡典嗣によって、「客観的説明的古代学と主観的規範的古代主義」との「対峙の存在とその包蔵」という形で定式化されている(『本居宣長』)。以来、見失われた半身であるところの「日本人としての自己」を、後者のわからない宣長にさかのぼって問うことが、繰り返し試みられてきた。しかし、それを真に自己自身への問いとして引き受け、徹底的に遂行された「内観」は、数多の宣長論の中でもごくわずかにとどまる。多くは、観念的知識人としての自己を暗黙裡に絶対化しながら、一人の近世の生活者・知識人の、息づき脈を打っている自己を、単なる論理操作の対象として取り扱い、否定あるいは回収しようとした、例えば宣長の自信に満ちた自己は、私生活のみを関心事とする大衆の論理へと矮小化され(=大衆蔑視)、彼の見いだした神道は、公的規範をはねのけようとする欲望が論理的に行きつくところの抽象的な到達点とみなされる(丸山眞男『日本政治思想史研究』)。宣長の実感や信仰の内実に分け入ろうとせず、「神」や「幽事」を「方法的な概念である」と断じて切り捨てる議論(子安宣邦『宣長と篤胤の世界』)、あるいは神道論についての疑問をカッコに入れたまま、ひたすら宣長の「学問の方法」をなぞる論(吉川幸次郎『本居宣長』)など、いずれも研究としては学ぶべき点の多い秀れた業績ではあるとはいえ、ほど遠いものといわざるをえない(「内観」としては失格であるという点では、はずかしながら、解説者自身の旧著もまた同断である)。
 こうした中にあって、「生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬ」「自分の身丈に、しっくり合った思想しか」語ろうとしなかった「全く平凡な松坂の一生活人」の「生き生きとした思想の劇」を、どこまでも内在的に辿ることによって異彩を放ってみせたのが、小林秀雄の『本居宣長』であった。・・・・しかし、宣長の「充実した自己感」をどこまでなぞっても、宣長の、そして小林自身の「思想の源泉」は、ついに明らかな姿をあらわさなかったように見える。・・・・徹底的に内在し寄りそう小林の意識的方法は、はじめから相手の正体をそれとして明るみに出すことをめざしていない。小林は、決して対象に向って問いただすことをしない(遠慮がちに質問はするが)からである。
 小林の「内在」とはある意味対照的に、自身の内なる日本人を対峙化する営みの一環として、徹底的に宣長の自己そのもののを問いただしたのが、小林の大著の出た翌年の昭和五十三(一九七八)年に刊行された、相良亨の『本居宣長』である。相良の論は、吉本隆明のいう意味での「内観」が、宣長の直接の対象としてきわめてまっとうに遂行された、ほとんど唯一の書物であるといってよい。>


 この文章は、これまでの宣長論を俯瞰する上で明快なパースペクティブを与えてくれる文章で、なかなか良いポイントを衝いている。特に前半の日本の近代知識人に関する問題設定は、前に引いた小林の<近代の日本文化が翻訳文化であるという事と、僕らの喜びも悲しみもその中にしかあり得なかったし、現在も未だないという事とは違うのである>という問題意識とほとんど同じと言って良いだろう。

 そして、この文章の中の「意匠」という言葉に私は注目するのだが、小林の批評は、その出発点から知識人批判というスタンスを取っていたことは、そのデビュー作の題名が「様々なる意匠」であることからも明らかであろう。その内容は、菅野の言うように「自己の内実を不問に付したまま、人々(典型的には知識人たち)は、西洋の「意匠」を追いつづける」という当時流行の文学的文化的暗愚を批判したものであった。この意味で「様々なる意匠」というこの小林特有の造語は、宣長独特の意味合いによる「漢意(からごころ)」とその核心において、全く同じ「内部感覚」から発想された言葉である、そう言って良い。つまり、その中心にある批評概念は「外部の文化の優秀性によって日本を批評する」という地に足が付かない日本(の知識)人通有の一見合理主義的な観念的態度への批判に他ならない。

 菅野氏は、この「観念的合理主義」によって分裂した我々日本人の実存に対して要請されるべきは、見失われた「自身の内なる日本人」を「対峙化」する方法、「吉本隆明のいう意味での「内観」」という方法だとしている。そしてこの観点に立って、旧来の宣長論において村岡典嗣「以来、見失われた半身であるところの「日本人としての自己」を、後者のわからない宣長にさかのぼって問うことが、繰り返し試みられてきた」と菅野は総括するのであるが、そうだろうか。少しばかり揚げ足取り的な言い方になるが、これは自らの文脈に引き付けた、いささか願望読み込み的な総括であろう。私には、宣長論の論者がそうのような意図をたとえ半ば無意識にせよ共有していたとはとても思えない。むしろ、「わからない宣長」を国粋主義だとか狂信的な排外的国家主義とかのレッテルを張って一方的に断罪してきたのではないだろうか。従って、むしろ、これまでの宣長解釈こそが、「外部の文化の優秀性によって日本を批評する」という日本の近代知識人に関する問題の典型例であることを見抜いていたのが小林であって、私に言わせれば、この点こそが小林の『本居宣長』が「異彩を放ってみせた」そもそもの理由なのである。

逆に言えば、この菅野氏の勇み足的総括は、小林の「内在」に対して、吉本隆明のいう意味での「内観」を優位に置く、この後に続く文章への一種の論理的な布石と言って良いであろう。



座右の秀雄 55

2023-01-06 18:00:00 | 小林秀雄
そして、私がこの『流儀』という著作の中で最も注目したのは、これらの文章である。より正確に言えば、これらの文章の背後にある山本のエモーショナルな何ものかである。


<一体この「悲劇の運命的性格、精神史的な顔」とは、どのような性格で、どのような顔なのであろうか。私はそれを、まず明恵上人、北条泰時、山崎闇斎、浅見絅斎、栗山潜鋒、三宅観瀾などに求めようとした。小林秀雄は、確かに明恵上人も闇斎も絅斎も取り上げているが、彼の求めた顔と性格は、中江藤樹、熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠、そして本居宣長であった。>

<だが、『本居宣長』については余り書きたくない。今回この稿を記すにあたって、『宣長』からはじめて、主として今まで読まなかったものを読み、ついでかって読んだものを読みかえしたが、少なくとも『宣長』は、二十年ぐらいたってから読み返せば何か書けるかも知れないという感じである。>

<多少、徳川時代に関心がある私、「現人神の創作者」のつぎに「現人神の育成者」としての宣長という目で彼を見たいという「私心」のある私などは、-この私心は「私の流儀」であるから捨てる気はないとはいえ―全く別の目でこの『玉くしげ』を、小林秀雄が読んでいるのは事実であった。>

<「では小林秀雄の思想とは何なのか、それが社会にどういう影響を与えたのか、彼には思想と言えるものがあったのか」。・・・そんな問いは、・・・本居宣長の思想は何なのかという問いと同じで、答えなぞありようはずはあるまい。・・・また、死後入門の平田篤胤が実に大きな社会的影響力を行使し、「現人神の育成者」の一人となったこともよく知られている。・・・篤胤が日本の進路に与えた功罪は、さまざまな点から論じられるであろう。小林秀雄がそういう役割を演ずる結果になるかどうか私は知らない。それは「問い」としては残るが「答え」は、ない。『本居宣長』については、二十年たてば何かかけるかもしれぬと最初に記したのは、その点への「自反」から何か「答え」が出てそれが新たな「問い」となるかも知れないというだけのことである。それが直接に小林秀雄につづいているかどうか、も「問い」になり得よう。>


これらの文章で語られているのは、『本居宣長』へのある種の当惑であるが、さりげなく書かれている<二十年たてば何かかけるかもしれぬ>という一節の背後にある山本の気持ちを私は思うのである。

山本七平年譜を見ると『流儀』が出版されたのは、山本が65歳の時であり、二十年後といえば、85歳ということになる。胃が悪く、結核も完治しておらず、抗生物質を飲み続けていた病身の山本にとっては、二十年後の生存確率は、かなり低いと言わざるを得ないだろう。従って、「二十年ぐらいたってから読み返せば何か書けるかも知れない」というのは、はっきり言えば、ほとんどかなわぬ夢に近いものであったであろう。つまり、何が言いたいのかというと、これらの文章を書くことによって、山本はこの事実をはっきりと悟ったのではないか、そう私には思われて仕方がないのである。

また、この二十年という数字も適当に挙げた数字とも思われない。年譜でみると、イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』が出たのが、49歳の時であるから、この処女作からこの時点で十六年の歳月が経っていることになる。従って、この二十年という数字を山本の著述家としてのキャリアについて考えれば、これまでの著述家としての全活動期間よりも長いことになる。

ああ、何ということであろうか。

小林秀雄から<その人の生き方の秘伝とも言うべきものを探り出し、否、探り出したと信じ、その秘伝によって生きてきたと思っている>山本の前に、小林から受け取った問いに対しては、その当の小林自身が『本居宣長』という著作でもって、山本とは異なった「答え」を持って、その行く手に立ち塞がるという事態が出来したのである。そして、山本には、その小林の「答え」を検討する余命が(それはまた自らの「山本学」の再検討の時間でもある)与えられてはいないのである。

この事実を悟った山本の心持は、如何なるものであったろうか。

山本は、この後五年、七十歳まで生き、実際の著作活動期間は二十年ほどで、「山本学」を残して物故していったが、このような意味で、私には、この『小林秀雄の流儀』という著作は、山本の思想としてはその最後の著作、言わば思想的遺書であったと思われるのである。


といったようなことを考えているうち、無性に山本の文章を読みたくなり、年末にかけて、近年陸続と刊行された山本の未読の著作の読書に勤しんでいた。これらは、単行本化されていなかった連載原稿群であるが、その質の高さは相変わらずで、愛読者にとっては、実にうれしい出版であり、その労を多としたい。そして、それとともに関連する旧著をも読み返したりしていたが、せわしい年末の喧騒の中で、それとは異質の非常に充実した時間を過ごすことが出来たのであった。







座右の秀雄 54

2022-07-28 13:00:00 | 小林秀雄



『小林秀雄の流儀』は、「山本学」と言われる山本七平の著作群の中にあっては、継子扱いにされている著作のようだ。そのことは主要著作を網羅した山本七平ライブラリー全16巻には収録されていないという事実に端的に表れている。山本を評価する文章でも、この『小林秀雄の流儀』に触れたものはほとんどないといった有様である。『小林秀雄の流儀』という著作は、「山本学」からは疎外され、排除されている。





にも関わらず文庫本では、PHP文庫、新潮文庫、そして文春学藝ライブラリーと趣を変えて三度も出版されているのは興味深い。恐らく小林秀雄論としての需要によるものであろう。


     


そして、これらの文庫に収録されている解説も、私には上滑りの文章ばかりで、この著作の精髄を捉えあぐねているように見える。それだけこの著作に入れ込んでいる私の読み方が異端的だとも言えるのだが、それは山本七平という著作家を考えるにあたっては、この本は決して外すことの出来ない最重要の著作、ある意味では自伝である『静かなる細き声』よりも、重要であるとさえ考えているからだ。

これはどういうことかというと、見てきたように橋爪大三郎氏なぞはその典型であるが、批判するにせよ賛美するにせよ、これまでなされてきたほとんどの山本七平に対する論考は、「山本学」とこの『小林秀雄の流儀』との接続がなされていないという点で、ピント外れも甚だしいと考えているからである。逆に言えば、これまで盲点であった「山本学」と『小林秀雄の流儀』との接続がなされることによって、山本七平という思想家の全人的総体的な理解が得られることになり、「山本学」に対しても新たな光を当てることになるという事である。


※    ※    ※ 


山本の著作を愛読していた私にとって、この本の出現は大げさでなく青天の霹靂であった。

一読、「ああ、そうだったのか!」という驚きとともにずしりとした感銘とも感慨ともつかぬものを受けとめることになったが、その読後感の軛から今現在も抜け出せずにいると言ってよい。それは、この本には小林に対する山本の肺腑の言葉が縷々綴られていたからである。訃に接し、”生き方の秘伝”を学んだ小林の思想に、一気呵成に分け入ってゆく山本の思考が直に綴られていたからである。そして、さらには、露には書かれていないが、小林の思想に対峙する山本の「思想劇」を読み取ることが出来るからである。幾分極端な言い方をすれば、この著作の奥深く隠されているこの「思想劇」こそが、この『小林秀雄の流儀』という著作を駆動する動力であり精髄であって、それが読み取れぬようではこの著作を読んだことにはならないとさえ考えている。


山本は、小林の死に際して原稿依頼を受けた時の衝撃から書き起こしている。

<またいやな声がする。「お前はまさか、それをもう小林秀雄が絶対に読まないと思って、『いいですよ』と言ったのではあるまいな」と。>

<お前は何でそんな衝撃を受けている。・・・衝撃を受けていないとは言わせない。今まで原稿の依頼を受けて、そんな状態になったことが一度でもあったか」と。>

<ある人間からその人の生き方の秘伝とも言うべきものを探り出し、否、探り出したと信じ、その秘伝によって生きてきたと思っている人間には、その存在は「あ、若いときちょっと影響を受けたけどね」と言える対象ではない。>

<だが生み出した人間はそれによって生きている。そしてこの生きているというのが、こういう読者にとっては相当にやっかいな問題だから、生きている限り、何も言いたくないのである。
 人がもし、自分に関心のあることにしか目を向けず、言いたいことしか言わず、書きたいことだけを書いて現実に生活していけたら、それはもっとも贅沢な生活だ。そういう生活をした人間がいたら、それは、超一流の生活者であろう。そして私にとっての小林秀雄とは、耐えられぬほどの羨望の的であった。・・・
彼の書いたものは本となって一人歩きをしている。それを徹底的に読めばそれを生み出した人間がわかるはずだ。読者はどう本を読んでもよい。それが読者の特権なら、その特権を徹底的に行使すればよいのだ。私はそれを実行した。否、少なくとも実行したつもりであった。・・・
何を読んだのか、その時点までの彼の作品は全部読んだのだろう。徹底的に読み返し読み返し、暗記するまで読んだはずだ。では今も覚えているか。全部忘れた。否、忘れようと努めた。それでいいのだろう。>

<新潮社から話があったとき受けた衝撃は何だったのだろう。おそらく忘れたことにしていたものが、実は忘れていなかったからである。別の表現を使えば「図星をさされた」のだ。>

<さまざまな出版社が「小林秀雄との対談」の企画をわたしのところに持ち込んで来た。私はいつも生返事をしていた。なぜ、生返事をしたかを自らに問うまい。問うたところで意味はないことだ。小林秀雄は死んだ。会うことは永久にないし、この文章も読むこともない。それでよいのであろう。>


そして、この後に続く小林の思想に一気呵成に分け入ってゆく山本の文章は、要約のできない緊密な文章で、ぜひ全文を読んでいただきたいが、これまで山本七平以外に誰一人として出来なかった小林の思想の深みに分け入っている文章で、そこには幾つもの独創的な読みが散りばめられている。

例えば、小林には「ドストエフスキーの生活」と言う長編評論があるが、この題名に違和感を抱いた人もいるだろう。一般的には、「ドストエフスキーの生涯」とか「ドストエフスキーの一生」といった題名を付けるのが普通であろうが、なぜ「ドストエフスキーの生活」なのであろうか。これを山本はこのように紐解いている。

<というのは、宣長が極力「上代人になって上代人の目」で見ようとしているように、小林秀雄は「宣長になって宣長の目」で見ようとしている。いわば、宣長と小林秀雄の間には「常套的な意味合いでは、作家批評家の別はない」という状態をさす。確かにこれも批評の方法である。そしてそれが出来るのは「言葉と実感」「思想と現実(生活)」を共有しうるからだが、ドストエフスキーでははじめからそれが不可能なことを彼は良く知っている。知っているが故に『生活』と『作品』という腑分けをしている訳であろう。・・・・そのやり方は、「小林秀雄とラスコーリニコフ」で記したから再説しないが、端的に言えばそれは「敵を狙う」という態度であっても、決して「宣長になって宣長の目」で見ようという態度ではない。小林秀雄の聖書やドストエフスキーに対する接し方は非常に用心深く、氏自身の言葉を借りれば、あらゆる方法で正確に狙い、対象を「射止めようと」としているのである。>

つまり、山本によれば、「内部感覚」により小林には比較文化的な視点があって、作品の基盤である文化的な土壌の異なる言わばアウェーの対象に対しては、批評方法として異なるアプローチを取っていた。そういった文化的な土壌の異なる対象に対しては「思想と実生活」というベルクソン直伝の二元論的方法論においては、「思想(作品)」を語る前に、それとは別に「(実)生活」を考察しておく必要があり、それが「ドストエフスキーの生活」であったという解釈である。

そして、山本の独創性は、小林がそもそもなぜ『本居宣長』書いたのかを、これほど的確明確に説明した批評はないという点に端的に表れていると言わなければならない。これまで多くの小林秀雄論を読んできた経験から言えば、これまでこの点に言及した読むに堪える文章は、皆無といった現状の体たらくであるが、例えば、後で述べる山本の理解とこの松岡正剛氏のシニカルな理解とを対比して読み比べてみれば、小林の問題意識をどちらが的確に射抜いているのかは、言うまでもないであろう。


千夜千冊992夜 小林秀雄 本居宣長


<さあ、どうするか。小林にとっては人格はともかくも、無意識そのものを相手にする気など、ない。石川とちがって、小林は宣長が「無意識の名優」だとも見たくない。
 しかし、宣長は自己には毫もこだわらない。自己が一気に日本大ないしは日本小になっていて、そこにしか「まごころ」がないと言っている。しかも宣長は、そういう見方だけが学問や思想をひらく唯一の方法だと考えた。
 一方、小林は正直に告白しているのだが、他の思想家にくらべても、宣長の学問的方法にはそうとうの、いや抜群卓抜な説得力があると感じている。けれども、それがすべて日本の思想の根幹であると言われると、困る。
 こうして小林が格闘することになったのだ。自問し、自答することになったのである。
 小林の『本居宣長』は、小林が自己に問うて自己に答えようとするその自問自答が、つねに宣長を介在させながら進むところが、興味深い。>


松岡氏は「つねに宣長を介在させながら」「小林が自己に問うて自己に答えようとするその自問自答が、興味深い」と述べているが、氏の理解も基本的には、前に述べたような「宣長をダシにして自分語りをしただけだ」といった理解、その一変奏だと言ってよいだろう。


次に本意ではないが、山本の文章を抜き出してみよう。

<「私達は、みな生ま身の俳優となって戦争という一大悲劇を演じたのであった。それは、後になって清算すれば事が済む様な一政治的事件ではなかったのである。・・・・
 日が経つにつれて、日本の演じた悲劇の運命的性格、精神史的な顔が明らかになって行くであろう。もしそういう事が起こらなければ、日本の文化にはもう命がないであろう。」
 一体この「悲劇の運命的性格、精神史的な顔」とは、どのような性格で、どのような顔なのであろうか。私はそれを、まず明恵上人、北条泰時、玉崎闇斎、浅見絅斎、栗山潜鋒 、三宅観瀾などに求めようとした。小林秀雄は、確かに明恵上人も闇斎も絅斎も取り上げてはいるが、彼の求めた顔と性格は、中江藤樹、熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠、そして本居宣長であった。一体なぜこれらにそれを求めて、それが本居宣長で帰結したのか。>

<宣長は「古学の世界」を「古学の目」で見、小林秀雄は宣長の目で宣長を見る、ということは宣長が獲得したと信じた「古学の目」で見ている「上代人の世界」を、宣長を見つつ見ているという事である。そしてそこに小林秀雄が見たものは、まさに日本文化そのもの、いわば「その運命的性格と精神史的な顔」である。>

<「漢字漢文の模倣は、自信を持って、徹底的に行われた。・・・・
何故なら、文字と言えば、漢字の他に考えられなかった日本人にとっては、恐らくこれは、漢字によってわが身が実験されるということでもあったからだ。従って、実験を重ね、漢字の扱いに熟練するというそのことが、漢字は日本語を書く為に作られた文字ではない、という意識を磨ぐ事でもあった。口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕らえられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。
この日本語に対する、日本人の最初の反省が『古事記』を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見つけたところに始まった、『古事記』はそれを証している、言ってみれば、宣長は、そう見ていた」
大分長く引用したが、それは、私にはこれが小林秀雄の自伝のように思えるからだ。>

<「文学は翻訳で読み、音楽はレコードで聞き、絵は複製で見る。誰も彼もが、そうして来たのだ。少なくとも、凡そ近代芸術に関する僕等の最初の開眼は、そういう経験に頼ってなされたのである。翻訳文化と言う軽蔑的な言葉が屡々人の口に上る。尤もな言い分であるが、尤も過ぎれば嘘になる。近代の日本文化が翻訳文化であるという事と、僕らの喜びも悲しみもその中にしかあり得なかったし、現在も未だないという事とは違うのである」(「ゴッホの手紙」序)。この言葉は、「日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見つけたところに始まった」という言葉に通ずるであろう。そして「知識人は、自国の口頭言語の伝統から、意識して一応離れてはみたのだが、伝統の方で、彼を離さなかった」ように、小林秀雄をも離さなかった。否、離すはずがない。>

<小林秀雄はおそらく『本居宣長』において、自分という本体に出合ったであろう。>

<二十余年ぶりに小林秀雄の著作を手に取った私の動機は少々不純なものであった。否、出版屋としては純粋と言うべきかも知れない。私が驚いたのは、『本居宣長』という書名の四千円(当時)の本が、十万部も売れたということだ。これは社会に衝撃を与えたという事だが、その理由が何であるかを問うてみたかったのだ。というのは、宣長は戦後の社会の興味の対象ではあり得ない。否むしろ否定的存在だったこともあるはずだ。さらに大冊でしかも読みやすい内容ではなさそうで、そのうえ高価である。さらに悪いことに、いわゆる”専門書”ではない。これは出版社にとって最も危険な出版物のはずだ。ではなぜこれが衝撃を与え得たのか。それを探るべく読み、今回読み返してつくづく感じたことは、この本が、日本文化の基本的な問題を、「もしそういう事が起らならければ、日本の文化にはもう命がない」という、まさにその問題を正面から取り上げているからだ。「模倣の意味を問い、その答えを見つけ」ること。それはまさに、過去を語りながら未来を創出することだからである。>


これらの文章で山本が告白していることは、「日本文化の運命的性格と精神史的な顔」という問題、言い換えれば「外国文明の模倣の意味を問い、その答えを見つけなければ、日本の文化にはもう命がない」という課題を小林秀雄から受け取ったという事である。

さらに別の言い方をすれば、日本文化のユニバーサル・モーターとは何かという思想的課題を小林から受け取ったという事である。「山本学」とは、この課題に対する山本の答えに他ならない。

「創元」第一輯

2021-10-29 17:00:00 | 小林秀雄



<といって、小林秀雄の書いた『モーツァルト』の中にモーツァルトがいたか? というとこれは疑問だ。彼はあの中で、ゲーテだとか、スタンダールだとか、アンリ・ゲオンだとか(これははっきり名前をあげて書いてないけれど、小林さんには、どうも、そういう癖があった)を、自由に思うがままに、天才的に巧妙に、引用したり、利用したりしながら--もちろんモーツァルトにもふれながら--いろいろとおもしろい話をきかせてくれた。あれは読んで、とてもおもしろい読みもの。それこそ、読んでいて、わくわくさせるものさえあった。>

<「走る悲しみ」というのは、なるほど、小林秀雄がアンリ・ゲオンの本からとって来て、一言のことわりもなしに使った言葉だ。>


 前々からこの吉田秀和氏の文章が気になっていたこともあり、「モオツアルト」の初出の文章を確かめるべく「創元」第一輯をネットで購入。というのは、言うまでもなく現在読める小林の「モオツアルト」にはアンリ・ゲオンの名前が著作名と共に明記されているからだ。

真ん中は同時に注文した百花文庫版「モオツアルト」。三日で届く。包装を解き、しばし手に取り本の体裁を検める。洒脱な装丁・造本である。発売当時、<定価百円という戦後の業界一般の苦慮に対し、「不謹慎」な編輯の行き方と結びついて、反感を混えた高踏的>(河上徹太郎)という評があったのも、さもありなんと思われる。中を覗いてみると、相当に凝った造りで、活字の大きさや組み方などもゆったりとした紙面である。挿絵等にも十分な注意が払われていて、これは現在に置いて見ても相当に贅沢な「編輯の行き方」であると言えそうである。表紙の絵は梅原龍三郎のカットで、装幀者は青山二郎。つまり、この第一輯は「梅原龍三郎特集」で、見返しと巻頭にも梅原龍三郎の原色版の絵画六葉と単色の素描が四葉掲載されている。本文は144ページ。本文中にもカットが四十葉挿入されていて、本文の黒に対しカットは薄赤茶色の二色刷り。とびらには「小林秀雄、青山二郎、石原龍一 編輯」と三人の名前が併記されてはいるが、奥付には「編輯者 小林秀雄」とだけある。



目次は次の通り。

梅原龍三郎……青山二郎
短歌百余章……吉野秀雄
モオツアルト……小林秀雄
詩(四篇)  ……中原中也
土地(小説)……島木健作

 早速「モオツアルト」の該当の部分を見てみると、やはりと言うべきか、はっきりとゲオンの名前が著作名と共に挙げられている。



 詳細に比べてみた訳ではないが、ざっと読んだ限りどうやら現行の「モオツアルト」の文章と異同は無いようだ。まあ、吉田秀和氏の記憶違いか、さもなくば読み落としであろうか。吉田氏ともあろう方が「啓示」を受けたとまで言う割にはいささかお粗末ではあるが、<吉田さんには、どうも、そういう癖があった>と言うことが出来るのかもしれない。この点をどう見るかについてはここで吉田秀和論をするつもりはないので、単なる指摘だけに留めておく。

ここで、吉田氏の小林の「モオツアルト」について、時間をおいて書かれた三つの文章を以下に引用したいと思う。氏の評価の変遷が伺われて興味深いが、先に引いたゲオンについての一節は、二つ目と三つ目の文章にある。


<小林秀雄の『モオツアルト』が『創元』という雑誌に発表され、それを読んだときのショックは一生忘れられないだろう。
 昭和二十年の夏、太平洋戦争が日本の完敗に終わると間もなく、私はそれまでのつとめをやめた。食べるあてがあったわけではない。ただ、戦争が深刻化するにつれて毎日つのってきた想い、何時死んでも後悔しないような生活を送りたいという熱望、それに自分を全部投げ入れることにしたのである。>
<私は、家に坐って毎日々々、音楽のことを、音楽と音楽家のことを書きはじめた。もちろん、書いたものを売るあてがあってのことではない。ただ、やたらと書いていたのである。そうして書くにつれて、音楽について書くとはどういうことか、だんだんわからなくなっていった。難問がつぎつぎに出てくるのだった。>
<そういう時に、私は、小林秀雄の『モオツアルト』を読んだのである。それは、一方では自分のできることすべてをその中に投げ入れる方法の啓示であり、一方では、どうやって、すべてを書きつくさないで、たくさんのものを与えるかという問題への答えであった。書いてあるものは、ほかに書き直しようがないほど明瞭であるが、読むものはそこに書いてあるもの以上のことを聴く。つまり、音楽をきくのと同じようにして読む。>
<私は興奮し、何度も何度も、途中でやめたり、くり返し読んだりする。その間に、音楽が鳴る。それもモーツァルトのとは限らない。ベートーベンとも限らない。
 その少しあとで、私は有名な音楽学者に会った。たまたま、この『モオツアルト』が話題にのぼり、その人の口から、「文章がうまいというのは得なもんだね」という言葉をきいた時、カッと逆上して、もう少しで食ってかかりそうになった。それをしなかったおかげで、私は、長いこと、いろいろな人びとを軽蔑する病気にかかった。
ともかく、この『モオツアルト』は、私には啓示だった。>
<『モオツアルト』でそういう経験をしたものは、音楽文筆業者の中で、一つの世代を形成しているにちがいない。>(吉田秀和「演奏家で満足です」)

* * *

<これまでも書いたことだが、小林秀雄のあの評論(?)は、私が音楽についてものを書くようになった一つの大きなきっかけ--啓示といってもいいような--になったものである。あれを読んで、「ああ、そうか。こういうことが可能なのだ」と目を開かされた点がある。

 といって、小林秀雄の書いた『モーツァルト』の中にモーツァルトがいたか? というとこれは疑問だ。彼はあの中で、ゲーテだとか、スタンダールだとか、アンリ・ゲオンだとか(これははっきり名前をあげて書いてないけれど、小林さんには、どうも、そういう癖があった)を、自由に思うがままに、天才的に巧妙に、引用したり、利用したりしながら--もちろんモーツァルトにもふれながら--いろいろとおもしろい話をきかせてくれた。あれは読んで、とてもおもしろい読みもの。それこそ、読んでいて、わくわくさせるものさえあった。

 あれは、私の心を自由にしてくれた。何から自由に? モーツァルトを軸にして、自分のことと、自分の心の翼を自由に拡げ、気持ちよく飛びまわるのを許すのに、加勢してくれた。
 と、ここまでは、私は、その後の長い年月の間に、わかってきていた。あの論文(?)を読まなくなって、長い年月がたつが。

 でも、さっきふれたように、最近、ある席で、全く別々に、二度まで、小林秀雄のことをきかれているうち、もう一つ、このことで私が言うべきことに気がついた。

 小林秀雄はあの中で「一つのモーツァルト」、「彼のモーツァルト」を書いたのだ。そうして、それは、いろんな人からの引用だとか何だとかがあるにせよ、小林のもの、ほとんど小林の創ったといってもいいほど「小林的な」モーツァルトとなったのである。いや、彼は「自分のモーツァルトを創るのに成功した」のである。

 そうして、多くの人々に、あれを読んで、そこにモーツァルトを感じ取った--「モーツァルトがここにいる」と思わせるのに成功した。ここにモーツァルトが立っていると信じたくらい。

 小林のあの論文(?)は天才的な独創性に富んだものだと思う。そうして、その天才的独創性は実に日本語の力、日本語の天才と結びついたものだ。こんなことはいうまでもないように思われるかもしれないが、そうではない。その証拠に、あの論文はほかのどこの国の人たちよりも日本語のわかる人たちの共感を呼び覚ますものになっている。つまり、ほかの言語に直して読んだら、--他の言語に訳したものでしか読めない人が読んだら--私たち日本語で読むものほど、--わからないし、感じないと思う。もう一歩踏みこんでいえば、あれは、他国語に翻訳されたら、ほとんどわからないのではないか。>

* * *

<昔、小林秀雄が『モーツァルト』を書いたとき、それを読んだ多くの日本人は強い衝撃を受けた。もちろん、あそこには、音楽学的検証にかかったら、批判に耐えられないようなところが少なくなかった。それより何より、論述の仕方が、小林流の飛躍の多い、人によってはコケオドカシと呼びたくなるようなものだと、非難する声は、当時からあった。

 でも--

 あれは、日本人のモーツァルトのきき方に一つの新しい強烈な一条の光を投げる力を持っていた。

「走る悲しみ」というのは、なるほど、小林秀雄がアンリ・ゲオンの本からとって来て、一言のことわりもなしに使った言葉だ。おまけにゲオンはあれをフルート四重奏曲の一つの楽章について使ったのに、彼はこの一言でもってモーツァルトのト短調弦楽五重奏や交響曲の二曲の中を貫き走ってゆくものを言い当てた。そうして、この一言は、その後多くの日本人のモーツァルトをきく耳を呪縛するのに成功した。

 それまでの「日本人のモーツァルト」は、せいぜいブルーノ・ワルターの、あのおじいさんが優しく愛情をもって孫を抱き上げるような扱い方が規範だった。そうでなければ、モーツァルトはただ「優雅で明澄で流麗玉の如き」音楽のお手本のようなものだった。彼のピアノ・ソナタは真珠の玉のような音で綴られていた。

 そこに「走る悲しみ」である。

 私も衝撃を受けた。論理より爆弾。

 そんなことがいつまでも続くはずはない。

 だが、そのあと、私たちは何を持ったか。そう、海老沢敏さんが『アマデウス』のモーツァルトを正面から真面目に受けとめつつ、何とか日本人の「モーツァルト像」をまともで学問的検証の軌道にのせられるようにするための真剣な努力をした。

 ただ、それで日本人の間にどういうモーツァルトをきく耳が育ったかは別問題だ。

 あ、それから井上太郎さんがいる。この人は愛情あふれる、繊細な心と耳を持ったモーツァルティアンで、レクイエムについてのモノグラフィーをものした。

 石井宏? そう、私の知る限り、彼はモーツァルトの交響曲を、ベートーヴェンやブラームスの交響曲をきく耳で受けとることへの警戒の鐘をくりかえし鳴らしていた。

 それから、さきに触れた岡田暁生。彼のモーツァルトを論じる鋭意の文章が日本人のモーツァルトのきき方にどんな変革をもたらすかは、私のこれからの楽しみの一つである。>(「之を楽しむ者に如かず」)



 さて私としては今回、小林の「モオツアルト」を十数年ぶりに、この「創元」で通読した訳だが、今だ色あせぬ「名演奏」である。今回読んで特に改めて強く感じたのは、古典派から浪漫派へという大きな流れの俯瞰が、この評論全編を貫く骨子をなしているという事実で、それは冒頭のゲーテとベートーヴェンの逸話によってモオツァルトを浪漫派から厳格に引き離している点に端的に表れている。この逸話の小林の意図はこれまで一般には殆ど理解されていないように思われるが、それは単に<ゲーテだとか、スタンダールだとか、アンリ・ゲオンだとかを、自由に思うがままに、天才的に巧妙に、引用したり、利用したりしながら--もちろんモーツァルトにもふれながら--いろいろとおもしろい話をきかせてくれた>というような事ではなく、この評論にはもっと厳格な論理が存在しているということである。ここには「爆弾」だけではなく筋金入りの「論理」が存在し、それが文章全体を貫いているのである。このことはは少し後の<べエトオヴェンという沃野に、ゲエテが、浪漫派音楽達のどの様な花園を予感したか想像に難くない。尤も、浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命題を、僕は、ここで応用する気にはなれぬ。この応用問題は、うまく解かれた例がない>という一節や、<彼の死に続く、浪漫主義の時代は音楽家の意識の最重要部は、音で出来上がっているという、少なくとも当人にとっては自明な事柄が見る見る曖昧になって行く時代とも定義出来る様に思う。音の世界に言葉が侵入して来た結果である>という一節、または<浪漫派以後の音楽が僕等に提供して来た誇張された昂奮や緊張、過度な複雑、無用な装飾は、僕等の曖昧で空虚な精神に、どれほど好都合な隠所を用意してくれたかを考えると・・・>という一節に明確に伺えるのであって、こういった記述はこのほかにもこの文章の至る所に見つかるだろうが、このように浪漫主義を堕落荒廃と捉えることで、言い換えれば近代の”毒”を指摘することで、この文章で小林は自らの立場―反近代という立場を表明しているという言い方も出来る訳である。

 そして私がこれを「名演奏」というのは、<彼はその上でこの文章も亦モオツァルトのポリフォニーのように鳴らして見たかったのだ。そこで彼は体験的回想だの、文献的渉猟でこの天才の逸話だの、音楽史の論述だの、古典精神と浪漫精神の対立だのいう幾多のテーマを併置し、転回し、転調し、展開して、そのハーモニーを愉しんでいるかに見える。この工夫が彼の一番の狙いであり、もしそれに成功したとすれば、ここにモオツァルトの音楽、その人物、小林の文章という三位一体を現出する筈なのである。この企図にこの文章の独創性があるのだ>(河上徹太郎)という意味合においてであって、従って、良く批判されるようなそれらの構成部品たるそれぞれのテーマの瑕疵、例えば単にモーツアルトを器楽作者に限定し矮小化しているとか、引用されている“オットー・ヤーン”によってモーツアルトのものであると保証されたと記されている手紙が、現在はモーツアルト自身のものではないと考証されているとか等々、は大した問題ではない。

 このような意味で、つまり文章の内容がまたその文体においても見事に達成され高度に具現化されている作品としては、私は他にドゥルーズ=ガタリの「MillePlateaux」「千のプラトー」くらいしか思いつかないのだが、この小林の「モオツアルト」も、それほど稀有な高みにある個性的な「名演奏」であり、恐らく今後も”聴き”継がれるであろう独創的な「名演奏」の一つであり続けるであろうと私には思われる。

そして、そこに聞こえて来るモーツァルトは、<おじいさんが優しく愛情をもって孫を抱き上げるような>モーツァルトでもなく、増してや<優雅で明澄で流麗玉の如き>モーツァルトでもない。むしろ、そういった予定調和的なモーツァルトとは対極にある軋轢型のダイナミックなモーツァルトであって、そういった意味では近来の古楽系の演奏―レオンハルトやア―ノンクール、ブリュッヘン等以降の一連の演奏を先取りしたもののように私には聞こえるのであるが、どう思われるであろうか。

そして、古楽と言えば、私には、どうも日本においてはこの運動の企画意図というものをないがしろにして、単にその演奏の新規さや斬新さだけが注目されているようにしか思われないのであるが、これは伝統の上に胡坐を掻き硬直化形骸化したクラシック音楽界に起こった起死回生の運動、ー激しい批評精神の導入による一種のルネッサンス運動とでも捉えることが出来るだろう。従って、残念ながら小林も河上もこの運動の勃興を知らずに他界したのであるが、知るところであれば必ずや大きな興味を示したであろうことは想像に難くない。この古楽という運動は、古事記解読というテキスト・クリティークの極むるところ、不可避的必然的に独創的な創造性が要求されるに至った宣長の古学と本質的なアナロジーがあるからだ、そう言って良いように私には思われる。



Mozart: Symphony No.40 in G minor, K.550 - 4. Finale (Allegro assai)



モーツァルト弦楽五重奏曲第4番第1楽章 クイケン四重奏団+寺神戸亮 (1st viola)






座右の秀雄 53

2019-10-18 12:00:00 | 小林秀雄



<戦後の知的世界をながめてみる。吉本隆明、山本七平、小室直樹といった人びとは、本質的で普遍的な仕事をしている。いっぽう、大御所と仰ぎみられている丸山眞男、小林秀雄は、普遍的なみかけなのに、それぞれ問題を抱えている。そこで、みながこれから大きな建物を建てるのに、まず必要な地ならしをしておこうと思った。>

と『小林秀雄の悲哀』の「あとがき」では、著作に至った橋爪氏の基本的な着想が述べられているが、『丸山眞男の憂鬱』『小林秀雄の悲哀』のニ著は、<本質的で普遍的な仕事をしている>三人のうち、山本七平の褌でもって<普遍的なみかけなのに、それぞれ問題を抱えている>丸山眞男、小林秀雄それぞれを相手に相撲を取って見せた著作と言って良い。具体的には、山本七平の『現人神の創作者たち』に依拠して、丸山の『日本政治思想史研究』と「闇斎学と闇斎学派」、小林の『本居宣長』を批判する内容になっている。その<地ならし>プロジェクトの拠り所は、山本の皇国史観の系譜学――儒学(朱子学)ー国学ー水戸学ー尊王思想ー戦前戦中の超国家主義イデオロギーという系譜学である。

当の山本自身は、この系譜学は『現人神の創作者たち』『現人神の育成者たち』『現人神の完成者たち』という三部作でもって完結する構想であったと書いているが、実際にはその三部作のうちの、最初の一書をしか書き終えることが出来ずに他界してしまった。皇国史観の系譜学のスキームで言うと、最初の儒学(朱子学)のところに当たる部分である。

ここが重要なポイントである。

なぜかというと、橋爪氏は丸山の『日本政治思想史研究』と「闇斎学と闇斎学派」を批判するに当たっては、単に山本七平の『現人神の創作者たち』を参照すればそれで事足りた訳だが、小林の『本居宣長』を批判するに当たっては、書かれずに終わった『現人神の育成者たち』(の一部)を、山本に代わって言わば代筆する必要があったからである。もうお分かりだと思うが、それは系譜学のなかの国学の部分で、橋爪氏はこの<地ならし>プロジェクトの一環として、本居宣長を『現人神の育成者たち』の一人として位置づける論考を書き上げるという挙に出た訳である。すでに述べたように、この橋爪氏の代筆の試みはとても成功したなぞとは言える代物ではないのは勿論のことであるが、事は単にそれに止まらない。

というのは、うっかりすると危く見逃がしてしまう、一見些細だが実は重要な事実が『小林秀雄の悲哀』ではさり気なく述べられているからだ。それは「はじめに」で橋爪氏は一言、山本の『小林秀雄の流儀』を店頭で見かけてすぐに購入したと書いている事である。

勿論、山本を高く評価する橋爪氏の事である、店頭で見かけてすぐに購入したにもかかわらず、目を通さないでいるという事は、まずもって考えられない。ところが、この本の内容については全く触れることなく橋爪氏は『小林秀雄の悲哀』を終えているのであって、この『小林秀雄の流儀』に対する全くの欠語、或は完璧な黙殺は、私の目には誠に不自然に映る。なぜなら、『小林秀雄の流儀』には、『本居宣長』(とそれに付随して宣長)に対する山本の見解が縷々述べられているからだ。

とは言っても、そこに述べられているのは、ある種の当惑と共にではあるが、山本による『本居宣長』への好意的な、それも相当に肯定的な批評であった。ということは、実は山本に依拠して小林を批判するという橋爪氏の<地ならし>プロジェクトにとっては、この本は誠に不都合な、下手をするとその存在基盤自体を揺るがしかねない存在であったということを意味する。なにせ当の山本自身が小林に対しては、正反対の姿勢を取っているのだから。橋爪氏にとって、出来れば、この本はこの世に存在して欲しくない著作であったと言っても、過言ではないだろう。私はこの黙殺に、橋爪氏の意図的な不作為を感じる。私の直観が、しきりにそう囁くのだ。

従って、ここにおいて、橋爪氏の宣長理解を山本の宣長理解でもって、さらには橋爪氏の『本居宣長』理解を山本の『本居宣長』理解でもって検討・批判するという論点が、俄然意味を持って浮かび上がってくることになる訳である。



ということで、『小林秀雄の流儀』の中には、短いが宣長に関して言及した文章も幾つか挟み込まれているので、そこから他の著作も参考にして、そもそも山本自身が宣長をどのように見ていたのか、次に少しく探ってみたい。


<思想も思想の演ずる劇も同じであろう。それは一人歩きをはじめる。それはもう、それを生み出した人間には如何ともしがたいことではないか。宣長に、お前は結果に於いて、超国家主義を生み出し、それが日本を悲劇のどん底に落したと言っても何になるであろう。>

<多少、徳川時代に関心がある私、「現人神の創作者」のつぎに「現人神の育成者」としての宣長という目で彼を見たいという「私心」のある私などは、-この私心は「私の流儀」であるから捨てる気はないとはいえ―全く別の目でこの『玉くしげ』を、小林秀雄が読んでいるのは事実であった。>

<「では小林秀雄の思想とは何なのか、それが社会にどういう影響を与えたのか、彼には思想と言えるものがあったのか」。・・・そんな問いは、・・・本居宣長の思想は何なのかという問いと同じで、答えなぞありようはずはあるまい。・・・また、死後入門の平田篤胤が実に大きな社会的影響力を行使し、「現人神の育成者」の一人となったこともよく知られている。・・・篤胤が日本の進路に与えた功罪は、さまざまな点から論じられるであろう。小林秀雄がそういう役割を演ずる結果になるかどうか私は知らない。それは「問い」としては残るが「答え」は、ない。『本居宣長』については、二十年たてば何かかけるかもしれぬと最初に記したのは、その点への「自反」から何か「答え」が出てそれが新たな「問い」となるかも知れないというだけのことである。それが直接に小林秀雄につづいているかどうか、も「問い」になり得よう。>


一見すると、これらの記述から山本は宣長を「現人神の育成者」の一人として見ていたように思われるかも知れないが、注意して読むと、必ずしもそうとは言い切れないことが判る。

最初の文章では、<宣長に、お前は結果に於いて、超国家主義を生み出し、それが日本を悲劇のどん底に落した>とは述べてはいるが、同時に一方では、それはあくまで思想が<一人歩き>をはじめた<結果に於いて>であるとも述べているのであって、そう<言っても何になるであろう><それを生み出した人間には如何ともしがたいことではないか>と、暗に宣長擁護と取れる発言をもしている訳である。

また、三つ目の文章では<平田篤胤が実に大きな社会的影響力を行使し、「現人神の育成者」の一人となった>と断言し、<篤胤が日本の進路に与えた功罪は、さまざまな点から論じられるであろう>と篤胤の名前だけを挙げていて、そこには宣長の名前がないこと、それに二つ目の文章では<「現人神の育成者」としての宣長という目で彼を見たいという「私心」>といった、慎重とも取れる控えめな表現を取っていることにも注目すべきであろう。

山本がなぜこのような歯切れの悪い言い方をするに至ったのかは、<全く別の目>で見ている小林に対する当惑とそこから来る対抗心からであろうと私には思われるが、大本にはそれなりの理由があったと言わなければならない。というのは山本の皇国史観の系譜学スキームにあっては、<現人神の育成>には、国学と儒学(中国朱子学)の正統主義との<習合>が必要条件であるが、「現人神の育成者」と認定するためには、儒学の正統主義への何らかの指向性やそれとの親和性が必要だからである。だが、系譜上宣長に続く篤胤にはそれが見られるのに対し、宣長にはそれが全く見られないからである。両者は国学という系譜の上では繋がってはいるが、この点での発想の上では隔たりもまた大きいのである。

『現人神の創作者たち』や『小林秀雄の流儀』とは別に書かれた山本の「日本の正統と理想主義」という文章では、次のような文章が見て取れる。

<そういう形で一つの正統論が確立し、その正統論に基く理想的な(と彼らが信じた)社会をつくろうとしますと、当然、その前に、中国朱子学と国学とが習合をいたします。この習合というのは山鹿素行の中朝論ですでに起こっているのですが、国学が盛んになると、これと朱子学とがくっつくという形になります。
 もっとも、本居宣長自身にはそういう意識はなかったと思いますが、平田篤胤になるとそれがあったと見てもいいと思う点が出てまいります。>

さらに、『日本人と「日本病」について』(岸田秀との対談本)の中では、山本はこの篤胤と宣長の違いについて、もう少し詳しく述べている。

<そうすると、国学とは何だったのか。中国的なもの、仏教的なものをすべて取り払った原日本思想とは何であるのかという疑問が出てきますね。本居宣長の動機にもこれがあったろうと思うんです。で、全部取り払うとじつは何も残らない。だから中国心ならぬ原日本精神、つまり大和心は何かを人に問われたら、<朝日に匂う山桜花>としか答えられなくなってしまう。なにしろ原理原則がないんですから。まあ、宣長としては、ないならないで、一種満足していたわけですよ。
しかし、弟子の平田篤胤となるとそうはいかない。儒仏を排除して、中国におけるキリスト教伝導文書であるマテオ・リッチの『畸人十篇』を読むんです。そして、それに影響を受けて日本神話を読み直すわけです。
どんなふうにつくり直したのか。
「天地初出の時、高天原に神あれまして」というのは誤りであって、「天地未出の時、高天原に神ありまして」でなくてはいけない。「あれまして」と読むとそこは「生まれる」ことになるけれど、「ありまして」なら、もうすでに「いた」わけだ。つまり、創造神的発想を持ち込んだんですね。
そうして、日本は創造神を持っていた、ところが世界中がその真似をした。イザナミ、イザナギの命をヨーロッパ人が真似たのが、アタン(アダム)とエワ(イヴ)である、と、こうなるんです。>


この発言からすると、篤胤による<現人神の育成>は、国学と儒学の正統主義との<習合>により行われたというよりも、むしろ実質的な思考様式においては、キリスト教の創造神的発想と儒学の正統主義との<習合>によって行われたと考えられそうである。つまり、<現人神の育成>は、むしろ宣長の主張する「からごころ」と「やまとごころ」というスキームで言うところの「からごころ」(=輸入思想)、二系統の異なった欧中「からごころ」の<習合>によって齎されたと考えた方が相応しいのかも知れない。

それはともかく、これらの文章からすると、宣長と明らかに「現人神の育成者」の一人であった死後入門の平田篤胤の間には、このように明確な境界線を山本は見ていたのであって、宣長については「現人神の育成者」の一人だとは考えていなかったとするのが妥当であろう。

とまあいったようなことで、高く評価する割には橋爪氏がどれ程山本七平を理解しているのかも疑問ではあるし、そもそもこういった考察による宣長と篤胤の差異なぞ、氏の視野においては全くの埒外であろう。結局のところ、山本の皇国史観のスキームを公式主義的に当て嵌めて、この境界線から粗忽にも一歩を踏み出して、宣長を「現人神の育成者」の一人であると決めつけたのが橋爪氏であったということである。前に<この橋爪氏のスキームは、山本七平のスキームを下敷きにした誤流用、その論理を逸脱した応用といって良い>と述べて置いた所以である。






座右の秀雄 52

2019-09-14 09:00:00 | 小林秀雄



橋爪大三郎氏の『小林秀雄の悲哀』を読んだ。

刊行された当初は、出版元の講談社のサイトにある

試し読み

をざっと読んで、読む必要性を全く感じなかったのだけれども、図書館で『丸山眞男の憂鬱』を見つけ、ふとパラパラと中味を覗いて見たところ、俄然興味を惹かれたので、すぐ横にあった『小林秀雄の悲哀』とともに、借り出して来た次第である。


この『小林秀雄の悲哀』については、浜崎洋介氏の書評

「直感」の「限界」について 小林秀雄の言葉を〝小林神話〟から救い出す

がこれもネットで読むことが出来る。

そもそもテーマパークじゃあるまいし、なぜに文芸批評家に「日本最大の」なる形容詞を冠するのか?とか、<ベルグソン譲り>なら「直感」じゃなくて「直観」でしょ?といった些末な(よく考えてみると結構意味深な)”言いまつがい”はともかく、この本の骨子については実に的確な要約をしてくれている。そして、あえて裏を読んだ結語ーー<それなら本書は、小林の言葉を小林神話(批評の神様)から救い出し、『本居宣長』という本を、その本来の場所――つまり、文学論へと差し戻すためにこそ書かれたと言えはしまいか>という結語もなかなかエスプリが効いていると言いたいところだが、誤読もここに極まれりである。


私に言わせると、橋爪氏は小林の『本居宣長』という著作自体の意図が全然読めてはいないので、<これを批評とは言わない>、<批評と言うものを知らない>、<小林秀雄のことを、私は「批評家」だと認めない。批評めいた文体を繰り出すだけの、哀れな文筆家に過ぎない>と全編これ否定のオンパレードであるが、大雑把で図式的公式主義的な考察や三流週刊誌の様な動機分析が、のほほんと脳天気な無邪気さでもって語られるのには、読んでいて思わず笑ってしまった程である。いや、何も私はこの本に対抗して「橋爪大三郎の滑稽」と言う大論文をものするつもりはないが、そこに透けて見える橋爪氏のこの『本居宣長』に対する誤解というか無理解というものの性質が、この『本居宣長』という著作を論ずるのに誠に都合の良いものなので、取り上げる気になったということである。



私が根本的な疑問を感ずるのは、浜崎氏の言葉で言う<一切の論点>―<『古事記伝』には、良くも悪くも皇国イデオロギーを可能にしてしまうカラクリ>、さらに言えば<「江戸思想」と「国学」と「近代日本」とを結ぶ系譜学>、すなわち『古事記伝』が<「天皇」を介して後期水戸学(儒教的政治論)へと繋がり、近代日本のナショナリズムを、そして、昭和戦中期の皇国イデオロギーをも用意することになる>という<これらの論点の一切>を、小林の『本居宣長』は拾えていないというのであるが、明確に言及していないからと言って、果してそう断言できるのだろうか?という点である。むしろ、<これらの論点の一切>を暗黙の前提として、それに対抗するものとして小林の『本居宣長』は、書かれたのではないのか。

そしてまた私が浜崎氏にも疑義を抱くのは、

<なるほど、小林自身は「作者の肉声を聞く」ことによって、強張った皇国イデオロギー(政治)から、本居宣長本来の柔かさ(文学)を救い出し、自らの「批評」の起源にある姿を、つまり、伝統を味わい、それを生きる文学者の姿を定着したかったのかもしれない。>

といったような(政治)と(文学)を分断して対置し、後者に小林批評を限定し、そこに小林を押し込めようとする見方である。


これ等の点についてはおいおい見ていきたいと思うが、そうは言ってもやはりその前に、『本居宣長』が全く読めてない「橋爪大三郎の滑稽」と大口を叩くからには、しかるべき理由を書いて置くのが筋と言うものであろう。以下、判り易いと思われる論点を幾つか挙げるだけに留めるが、まあ、これくらいで必要にして十分であろう。

まずは、<8「日の神論争」>の部分(p238~)。

<小林は冒頭で、宣長の学問は≪難点を蔵していた≫と断言してしまう。これはないだろう。>

<小林はいかにも、宣長に理がないように言っている。・・・・これを勝手に「逃げ口上」と決めつけるのは、批評としてフェアでなかろう。>

「ええっ!?」と私は思わず吹き出してしまったのだが、いや、橋爪先生、文間が読めないというか、文脈が読めないというか、学者としてもちょっとこの読みはいくら何でもないんじゃないの?ここで引用されている『本居宣長』(四十)の記述は、論争自体が噛み合っていないという事を示すために、秋成の目には宣長の言うところがどういう風に映ったのかを描いている文章であって、宣長に対する小林自身の見解を述べた文章ではないことは明々白々だと思うのですけどね。

他のところで橋爪先生も引用している小林秀雄・江藤淳対談でも、このように述べられている訳で、ここの部分は読み落としたのか、或は意図的に無視したのか知りませんけど。


<江藤 ・・・そのときも、私は納得がいかなかったのです。なぜ、日本を相対化している秋成がだめで、宣長の言っていることが正しいということになるのか。私はこの論争が噛み合っている論争だとばかり思い込んでいたものですから、秋成の言うことにも一部の理はあるのではないかと考えていたのです。
 ところが、今度御本を拝見して、はじめてなるほどと納得がいきました。・・・

小林 あの論争は、批評家にとっては好都合な論争なんです。それを私は利用したわけです。どうもあゝいうものを利用しないとなかなかわからぬ思想の上での機微がありますね。>



それから今一つは、<いまわれわれは、本書のもっとも中心となる内容を、論じつつある>という部分で、宣長の『馭戎概言』を引いて、その解釈を述べた部分(P389)である。この部分は、橋爪氏本人も言うようにこの著作のロジックの根幹となる部分なので、ここは避けて通ることの出来ない論点である。


<宣長は『馭戎概言』・・・で日本の統治システムについて、こうのべる。≪天皇のかぎりなく尊くまします御事は。申すもさらなれど。まづ大御国は。萬の国をあまねく御照らしまします。日の大御神の御国にして。天地の間に及ぶ国なきを。やがてその大御国の御末を。次々に伝えましまして。天津日嗣と申て。其御国しろしめし。万代の末までも。うごきなき御位になんましま≫す。
 また、中国と日本のあるべき関係について、遣隋使の携えた手紙を例に、こうのべる。≪かのよしもなくみだりにたかぶりおる。もろこしの國の王など・・・へ。詔書たまはんには。天皇勅隋國王などとこそ有べきに。此度かれをしも。天子とのたまへるは。ゐやまひ給へること。ことわりに過たりき。≫≪そもそももろこしの國王が。いにしへよりかくのみゐやなきは。天皇のことなる御尊さをわきまへしらずて。ことわりにそむける。みだりごとなる物をや。・・・天皇とあがめ申さざらんかぎりは。こなたよりも。かの王を天子皇帝などと。あがめいふべきにあらず。又かの國につかはす書のみにもあらず。すべて皇国のうちにて。つねに物にかき。口にいふ詞にも。ましてかの王を尊みて。天子皇帝などとは。かりにもいふべきわざにあらず。そはかの王のさだめをうけ。したがふ國のもののいふ言にこそあれ≫
 要するに、日本は、あるべき国際秩序の中心となるべきである。なぜなら、日本は、カミガミの意志をあらわす古言を受け継ぎ、そのもとに統治秩序を実現している唯一の国であり、世界の国々、世界の人々を指導すべき存在なのだから。

どうだろうか。実証的な作業として始まった『古事記』の読解が、実にスムーズに、なめらかに、超国粋主義的な主張に移行しているではないか。>


そして、<この移行の具体的なあり方は、これまで注目もされず詳しく論じられもしていないと思う>と述べ、橋爪氏はいささかドーダ・モードに入っているようだが、何をか言わんや、これは宣長の論理を勝手に延長した全く持って恣意的な解釈と言う他ないものである。確かに橋爪氏の言うように宣長は、日本の<このような国のあり方は、すぐれていて、正しく、また美しい。日本はそのことを自覚し、誇るべきである。他の国はそのことを認め、敬意をはらうべきである>とは述べているが、<日本は、あるべき国際秩序の中心となるべきで・・・世界の国々、世界の人々を指導すべき存在>だなぞとは一言も主張してはいない。一体全体、この引用文のどこにそんな記述があるんですかね?どうやら橋爪先生は、学者以前にそもそも文章自体がまともに読めない人ではないのか、読んでいてそういった疑義がしきりに頭に浮かんできてしようがないのであるが、こう思うのは私だけであろうか。

ここは宣長をどのように捉えるのか、分水嶺となる最も重要な論点なので、この文章を読んでいる方はぜひ実際に『小林秀雄の悲哀』に当たって、この該当部分を確認して頂きたいと思う。出来ればさらに進んで『馭戎概言』自体に当たって中味を直接読んで頂きたいとも思うが、これまでにも『馭戎概言』は「直毘霊」と並んで宣長の狂信的な国粋主義思想を典型的に示す文章というレッテルを張られてきた。このこと自体も、色々と考えさせられる問題だが、普通に読めば宣長の言っていることは、日本の外交史に見られる属国の様な卑屈な態度を嘆き、単に矜持を持って外交に当たれと主張しているのに過ぎないのであって、要は土下座外交をするなと言っているだけのことである。

従って、<実にスムーズに、なめらかに、超国粋主義的な主張に移行している>などとはデタラメもいいところで、橋爪先生、こんなことを言っていてはチコちゃんに叱られても知らないからね、そう私は忠告しておく次第である(笑)。これは『丸山眞男の憂鬱』の表現で言えば、明らかな<誤認逮捕>、意図的な冤罪のでっち上げであって、むしろ、こういった恣意的な飛躍した発想法こそが超国家主義的・超国粋主義的な主張の根幹をなすものではないのか、と橋爪先生には猛省を促したいと思うのである。

ということはまた当然に、先の<『古事記伝』には、良くも悪くも皇国イデオロギーを可能にしてしまうカラクリ>――『古事記伝』が<「天皇」を介して後期水戸学(儒教的政治論)へと繋がり、近代日本のナショナリズムを、そして、昭和戦中期の皇国イデオロギーをも用意することになる>というスキームが、根本的な見直しを要請される事にもなる訳である。実のところ、この橋爪氏のスキームは、山本七平のスキームを下敷きにした誤流用、その論理を逸脱した応用といって良いが、その逸脱ぶりは、宣長に対する平田篤胤のそれを思わせるものがある。この点についても後程述べることになろう。


ついでにもう一つ挙げておこうか。橋爪氏は宣長をボッブズになぞらえているが、これも相当に無理筋の思い付きである。「神勅」と「社会契約」に<通じるものがある>と言われれば、そりゃあ<通じるものがある>でしょうねと答えるだけの事であって、こんなことを言えば、人間とエリマキトカゲにだって<通じるものがある>。後肢だけで直立歩行出来るからね。この点はご本人も自覚しているようで、面倒なので一々引用しないが、直ぐに続けて社会契約と異なる「特異点」を、七つも!挙げているのはご愛嬌と言う他ない。橋爪氏は著名な社会学者らしいが、そもそも、これだけ異なる「特異点」があるのなら「社会契約」を持ち出してくる本質的な意味合いがどこにあるんですかね、と私は言いたい。『丸山眞男の憂鬱』で橋爪氏も述べているように、<お手本となる都合のよい西洋のもの差しは存在しないのだ>。これもおいおい述べていきたいと思うが、宣長は社会思想家としてはむしろ反対に、社会契約を批判した思想家の系列に列せられる思想家であって、その発想に置いて本質的に同質の西洋の思想家として引き合いに出すとすれば、それはエドマンド・バークであろう。

面倒なので他にも一々挙げないが、この『小林秀雄の悲哀』はこういった臆断・独断の連続技で構成されていて、それが理由であろう、「小林秀雄ゆかりの出版社」には断られたらしいが、これを出版した講談社の英断には或は拍手を送るべきかも知れない。ま、予期していた事とは言え、試し読みの時の、私のベルクソン譲りというほどでもない”直観”を確認するだけの読書に終わったのは、残念と言う他はない。やれやれ。従って、この本は『恵み』だとか『ドーダ』とか『戦争の時』だとかと一緒に「小林秀雄マウンティング本」と表示された分別コンテナに放り込んで置くのに如くはない。その裡、業者が然るべく処分してくれるだろう。



とまあ言ったような事で、この『小林秀雄の悲哀』という本の個別の価値自体はそれはそれとして、『丸山眞男の憂鬱』と通して読んでみると、そこにはこの『小林秀雄の悲哀』という著作の背後に、ある一冊の本が浮き上がってくるのもまた確かなことなのであって、むしろ私の目はそちらの方に向くのである。

その一冊とは、山本七平の『小林秀雄の流儀』である。




座右の秀雄 51

2019-08-22 18:59:53 | 小林秀雄
小林秀雄の死後、既に三十五年以上も経過しているのにも関わらず、未だに毎年のように小林に関する本が出版されているのは考えてみると不思議な現象である。学術論文では、引用や言及などのリファレンス頻度が、その論文の重要性を計る一つの大きな指標として使われているという話を聞いたことがあるが、「批評の神様」の威光冷めやらずといったところであろうか。

同時代の文芸評論と言うものを積極的に読まなくなって久しい。そのため日本の批評の現状、もっと言えば現在の知識人のレベル一般を、個人的にはこれら陸続と出版される小林秀雄論によって推し計ってきたと言っても良いのかもしれない。勿論、その総てを読んだ訳ではないので異論もあろうが、私としては評論として読むべき小林秀雄論はただ一つ、山本七平の『小林秀雄の流儀』だけであると考えている。



あとは総て、病院食の様に薄味で歯ごたえのない賛辞本か、あるいはその位置に取って代わろうとするマウンティング批判本のどちらかと言っても過言ではないとさえ思っている。それより小林本人の文章を読んでいる方がよっぽど良いといった塩梅である。結局のところ、賛否両論どちらにせよ、「批評の神様」というお化けの様な言葉にしてやられている事に変わりはないのであって、どうやら、この事実が小林について引き続き書く事を、私に要請するといった恰好である。




さて、池田雅延氏が全集発刊に際して、興味深い小林のユニバーサル・モーターの話のエピソードを書いている。『本居宣長』が出版されたのが十月だから、出版からそれ程時がたってはいない頃の話である。

<昭和五十二年の暮、「本居宣長」がベストセラーとなっていた頃のことだ。お宅へ伺い、私が売れ行き状況などを報告し終えると、「君、ユニバーサル・モーターって知ってるかい」と先生が問いかけられた。
「世界中のヨットというヨットが、みんなこのモーターを積んでいる。いま、エンジンメーカーはどこもかしこもスピードを競いあっているが、ユニバーサル・モーターだけは昔ながらのモーターを造り続けている。このモーターは、スピードは出ない、しかし絶対に壊れない。ヨットがこれを必ず積んでいるのは、帆柱が折れるなどしたとき、確実に港へ帰り着くためだ。だからスピードは必要ない、絶対に壊れないことだけが肝心なんだ」
先生の話はそれだけだった。しかし私は、先生はご自身のことを話されたのだと思った。『新潮』連載十一年半、全面推敲さらに一年、「本居宣長」に取り組まれた先生の歩みは、まさにユニバーサル・モーターだった。
・・・・・
第五次、第六次の両全集を造り終えて、私は先生のあの話を再び思い出している。「小林秀雄全集」も、ユニバーサル・モーターである。心の帆柱をまたしても折ってしまう私たちが、帰り着くべき港へと、確実に送ってもらえる不滅のモーターである。>


別に殊更に異論を唱えるわけではないが、私の感想は池田雅延氏の解釈とは少しく重点の置きどころが異なる。素直に取れば、小林はこう言いたかったのではないだろうか。

帆柱が折れた時のような緊急時に、港へ確実に帰り着くためのユニバーサル・モーターとして今度の『本居宣長』を書いたんだ。従って、私たちが帰り着くべき港とは、本居宣長その人である、と。

勿論、これは私の勝手な憶測であるが、これは小林がなぜ本居宣長を取り上げるに至ったのかという点が、ともすれば見過ごされがちであることに対する異論でもある。

またこれは、小林の批評というものは、古くは青山二郎の「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ」といった、小林の批評に対する偏見への異議申し建てでもある。勿論、小林の批評文の中には、この事が当て嵌まる作品があることは否定しないが、これを小林の批評総てに当て嵌めるのは、これまで色々と書いてきたように小林の精神の持続を見ない静態的な硬直した見方であって、『本居宣長』については「宣長をダシにして自分語りをしただけだ」といった理解は、その本質を全く見誤るものであると言わなければならない。なぜかというと、この点にともすれば小林の批評の弱点があったとする誤解が、現在も続いていると思われるからだ。

小林秀雄 その古典との出会い―堀辰雄と林房雄を通して― 石川則夫

2018-01-01 00:00:00 | 小林秀雄
「好*信*楽」2017年12月号に石川則夫氏が寄稿した文章を興味深く読んた。


小林秀雄 その古典との出会い――堀辰雄と林房雄を通して――石川則夫


 編集後記で「この西洋から日本の古典へという舵を、小林秀雄にきらせた動因は奈辺にあったか、・・・・・石川氏の今度の論考によって、ずいぶん広く、また遠く、見通しがきくようになった」と池田雅延氏が述べているように、私と同じように色々と勉強になった方も多いのではないだろうか。石川氏の労を多としたいと思う。

 だが、果して「堀辰雄と林房雄が小林秀雄に人生の舵を大きく切らせた」とまで言ってしまって良いのであろうか。これは小林秀雄という文学者理解の根幹に関わる重要な論点であると考えるので、ここであえて疑問を呈させて頂きたいと思うのである。




<「紫文要領」の中に、「準拠の事」という章がある。文学作品の成り立つ、歴史的、或は社会的根拠です。今日の言葉で言うなら、文学が生まれて来る歴史的、社会的条件を明らかにする事、これは何も今日始った事ではない。昔から、文学研究者は気にかけていた事だ。それを、宣長は、そのような問題は詰らぬ、私には、格別興味のある事ではないとはっきり言った。どういう言葉で言ったかというと、「およそ準拠という事は、ただ作者の心中にある事にて」—。いろいろの事物をモデルにして、画家は絵を描き、小説家は小説を書く。その時、彼等が傾ける努力、それは、彼等の心中にあるではないか。物語の根拠というものは、ただ紫式部の心の中だけでほんとうの意味を持つ。物語の根拠を生かすも殺すも式部の心次第なので、その心次第だけに大事がある、と宣長は、はっきり言う。このような思い切った意見を述べた人は、誰もいなかった。>

 これは昭和五十三年の「感想」の中にある小林の文章であるが、『本居宣長』刊行の翌年に書かれたという事を考えると、何気なく読み飛ばしてしまうこの一節も、その意味するところはなかなかと深いと言わざるを得ない。この念を押すように挟み込んで置いた一節の、小林の「心次第」を私は想うのである。

 この「準拠の事」については『本居宣長』本文では、このようにも書かれている。

<彼は、在来の準拠の沙汰に精通していたし、「河海抄」を「源氏」研究の「至宝」とまで言っているのだし、勿論、頭からこれを否定する考えはなかったが、ただこの説を、「緊要の事にはあらず」と覚ったものがいなかった事は、どうしても言いたかったのである。註釈者たちが物語の準拠として求めた王朝の故事や儒仏の典籍は、物語作者にすれば、物語に利用されてしまった素材に過ぎない。ところが、彼等は、これらを物語を構成する要素と見做し、これらで「源氏」を再構成出来ると信じた。宣長が、彼の「源氏」論で、極力警戒したのは、研究の緊要ならざる補助手段の、そのような越権なのである。>(「十六」)

 この「準拠の事」は、いわば「思想と実生活」に関する高度な応用問題と言って良いだろうが、現在においても「素材」によって「再構成出来る」と考える一元論的思考方法の通念は根深い為であろう、『本居宣長』の他のところでも繰返し小林は論じている。

<歴史の資料は、宣長の思想が立っていた教養の複雑な地盤にについて、はっきり語るし、これに準じて、宣長の思想を分析することは、宣長の思想の様々な特色を説明するが、彼の様な創造的な思想家には、このやり方は、あまり効果はあるまい。私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れている或るものを想像するのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自な魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私の希いは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家に用いられる有力な方法とは、全く逆な向きに働く。これは致し方の無い事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私達の努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。>(「四」)

 では、この「準拠の事」は当の小林自身については、どう考えるべきであろうか。つまり、ここにももう一つの「思想と実生活」に関する高度な応用問題があると私は考えるのである。

 その答えは、やはり「ただ小林の心中にある事にて」—。つまり、「西洋から日本の古典へという舵を、切らせた動因」は、小林の「心の中にだけに大事がある」、彼の「心次第」であると言わなければならないだろう。この日本への舵を、小林に切らせた「心次第」の紆余曲折については『座右の秀雄』に書いたので繰返さないが、ここには小林自身の自己批評による「頭の中の波乱万丈」があったと私は考えている。この自己批評における深い反省こそが、小林に「西洋から日本の古典へという舵を切らせた」動因の骨髄を成すものである、そう考えるのである。この点で、石川氏の引いている小林の発言の中で私が注目するのは、「いろいろの例を挙げる場合に、どうしても日本人の言葉のほうが僕には能く解る。能く解るし、僕は、その方がね、何というのかな、云い易くなって来たのだね段々……。」という発言である。中でも取り分け注目するのは「どうしても」という言葉である。

 石川氏は「4つの文脈」を挙げておられるが、例えば戦争の小林に対する影響を過大視する山城むつみ氏の<ここで「原作」とは単にドストエフスキー作品の本文ではない。それは敗戦とともに露頭した現実である。・・・テクストさえもない、と言ってもいい>というような極論は論外としても、これ等の文脈は確かにそういう事も指摘できるのであろうが、小林に倣って言えば、これらは「小林の思想的転回の様々な特色を説明するが、彼の様な創造的な批評家には、このやり方は、あまり効果はあるまい」と思われる。それらは所詮は「準拠」に過ぎず、これをもって動因とするのは「緊要ならざる補助手段の越権」であると言えよう。

 詰まるところ、「堀辰雄と林房雄が小林秀雄に人生の舵を大きく切らせた」と言うのは当らない。それは「準拠」の過大評価であって、むしろ小林自身の創造的な批評性がそのような堀辰雄と林房雄を見出したと言うべきである。






小林秀雄「本居宣長」全景 ー池田 雅延

2017-10-21 00:00:00 | 小林秀雄
 良く小林の本質は「詩人」だといったことが言われるが、彼の文章は一種の「詩」としてしか読まれていないように思われてならない。例えば『モオツアルト』なども「疾走する悲しみ」といったキラー・フレーズばかりが注目され、この文章全体に一貫して流れている古典派からロマン派への発展を堕落と捉える小林の音楽史的理解が注目されることはほとんどない。散文としての論理性はほとんどの場合理解されていないのが通例である。同様に小林の『本居宣長』も、精緻に読もうとすると見た目以上に難しいテキストであって、その論理構造を正確に読解した試みは、これまでにはほとんど見られなかったように思う。勿論、その総てを読んだ訳ではないが、日本文学大賞受賞時の評などが典型で、これまで書かれた『本居宣長』評は、この意味で殆どが印象批評の域を出ていないものばかりであった、そう言って良い。

「あった」と書いたのは、ところが、先日、久しぶりに「本居宣長」で検索していたら、この文章を見つけたからである。

小林秀雄「本居宣長」全景 ー池田 雅延

 私としては、これまで池田氏にはあまり良いイメージを抱いていなかったこともあって、さほど期待もせずに読み出した。それは生前中公開を厳に禁ずるという小林の明確な意思表示があったにも拘らず、死後氏が多くの講演音源を精力的にかき集めて公開し、さらに未完の「ベルクソン論」までをも全集に収録するに至ったのは、小林に対する基本的な理解という点で欠けるところがあるのではないかと思っていたからである。ところが最新の五回まで読み進んで、一読大いなる感銘を受けてしまったのである。我が意を得たり。よくぞ書いてくれた、とさえ思った。その読解は、私の氏に対する先入観なぞ吹き飛ばす見事なものであった。


<ただし折口は、直感に留まっていた。小林氏が見通しきったほどには、宣長における「歌の事」から「道の事」へを見通してはいなかった。この見通しは、小林氏の独創であった。>(四 折口信夫の示唆)

<「本居宣長」の第一章で、小林氏は、折口の思い出を語りながら、宣長の「もののあはれ」が世帯向きのことまで取り込んで「はちきれて」いたればこそ、後に一〇〇〇年以上もにわたって誰にも読めなかった「古事記」が宣長には読めたのだ、暗にそう言っていたのである。>(五 もののあはれと会う)

 

 私が思うに、これは小林の宣長理解の核心をなす部分であって、その核心部分をここで池田氏は的確に述べている。私の知る限り『本居宣長』に触れた文章で、この事を指摘した人物はいない。いわゆる「宣長問題」が良い例で、普通、宣長の古道論については「狂信的誇大妄想」だとか「国粋主義的」だとか言われるのが落ちであるが、『本居宣長』でその宣長を小林は全面擁護するだけでなく、その理解への筋道をつけて示してもいるのである。この言わば『本居宣長』という著作の肝心要の急所部分を、池田氏は我々の目の前に「ほら、これだよ」と指し出して見せている、そう言っても良い。その深い理解に私は感銘を受けたのある。

 小林は、宣長の言説とベルクソニズムの本質的アナロジーを指摘しているが、宣長の言う「もののあはれ」とは、認識論的であり、深い意味で倫理的なものであって、これをベルクソンの用語で言えば「道徳と宗教の源泉」としての「もののあはれ」ということである。従って、ここのところの理解があればこそ、宣長の古道論への思想的発展への論理的理解の筋道がつけられる事になる訳である。さらに言えば、宣長の古道論が「狂信的誇大妄想」だとか「国粋主義的」だと揶揄されるのは、ここの処の理解を踏み外しているがために、「もののあはれ」との深い関係が判らず、表面上の理解に留まっているために一見そう見えるのに過ぎない、とここで私も池田氏に倣って言えば、そう暗に小林は言っているということである。

 池田雅延氏と言えば、『本居宣長』執筆時の小林担当であった元新潮社編集者というのが現在の世間的な「肩書き」になろうが、むしろ私はここに注目すべき一人の真正な”批評家”の登場を発見したとあえて言いたいと思う。ここで”批評家”というのは、肩書や経歴以前に本質として、資質が大きくものをいうのは言うまでもない。私の見るところ、同じく小林に深く関わった編集者でありながら、この資質は郡司勝義氏にはなかったものである。

 この続き物の文章は現在執筆中ではあるが、これまで書かれた内容から見ても、恐らく小林の『本居宣長』について書かれた文章の中でも、画期を成すものになるであろうことは間違いないと思われる。次回以降の文章が楽しみである。


日本精神分析再考(講演)(2008)ー柄谷行人

2017-09-27 00:00:00 | 小林秀雄
とても興味深い文章を見つけたので、紹介しておきます。

日本精神分析再考(講演)(2008)

「こう見ると、丸山真男がいう「日本の思想」の問題は、文字の問題においてあらわれているということがわかります。特に「歴史意識の古層」というようなもの、あるいは、集合無意識のようなものを見なくてもよい。漢字、かな、カタカナの三種のエクリチュールが併用されてきた事実を考えればよいのです。それは現在の日本でも存在し機能しています。日本的なものを考えるにあたって、それこそ最も核心的なものではないか。私はそう考えたのです。ところが、調べてみると、不思議なことに私が考えようとしたことを誰もやっていないんですね。どんな領域でも何かをやろうとすると、すでにそれに手をつけている先行者が必ずいるはずなのですが、いない。しかし、実はいたのです。それがラカンでした。」

いやいや、もう一人誰か大事な人を忘れてはいないですかね、柄谷さん。

「彼(宣長)は、思想があって、それを現す為の言葉を用意した人ではない。言葉が一切の思想を創り出しているという事を見極めようとする努力が、そのまま彼の思想だったのである。」(『本居宣長補記Ⅱ』)




『座右の秀雄』

2017-09-01 00:00:00 | 小林秀雄


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『座右の秀雄』が出版される運びとなりました。

 出版の企図やそもそもこのような文章を書くに至った意図については、以下の「まえがき」と「あとがき」を読んで頂ければと思うが、以前からこういった文章はネットとはあまり相性が良くないというか、どうも居心地が悪いように思われて仕方がないという気持ちがあったのも事実である。その依って来る理由が何であるのかは良く解らないものの、例えば媒体のプロトコルやインターフェイスによって、読み方もまた微妙に影響を受け、その意味合いが変ってくるとも言えそうである。私自身どうかと言えば、機械端末に対するのと紙の書籍に対するのとでは、心的態度が明確に異なるのは確かである。それぞれ読んでいる時に流れている時間の質が異なると言い換えても良い。従って、紙の書籍の方が好ましく感じられるということは、私はこの本に纏めた文章をどの様に読まれたいのかをある程度想定しているという事になるのかも知れない。

 なお、出版に当たって改めて校正がてら全文を読み直す必要があった訳だが、頻発する誤字脱字に加えて自分でも呆れるほどのうっかりした事実誤認や論理的不整合性などのアラが目立ち、それを訂正するのにものぐさとしては一向に面白くもない苦行とも言える日々を過ごすこととなった次第である。やれやれ。ただし、作業中どうしても私に取りついているダイモンが加筆修正を要求すると言って聞かないので、量としては微々たるものとは言え、ロジックの上では重要な加筆や修正を行ったということは言い添えて置かなければならない、とここで勿体ぶった宣伝をして置くことにする。従って、当初の心づもりとしては、旧来の文章はそのままネット上に置いておくつもりであった訳だが、先の様な意味合いもあって、これまでの拙劣未熟な文章をこのままネット上に置いておくのは、色々と差し障りがあると判断し、引っ込める事とした。了とされたい。




まえがき

「この本に収められた文章は、もともとはブログ上にアップして置いてあったものである。ひっそりとネットの片隅に置いておくことで、少数の心ある人に読んで貰えればよい、そう漠然と考えていた。まあ、そのうちに機を見て本にするつもりではいたものの、それが自分でもいささか意外な事に、急転直下この本を今回上梓する気になったのは、書店でツンデレ本『ドーダの人、小林秀雄』鹿島茂著を見付けたからである。生前の小林秀雄高評価に対する反動もここに極まれりとの感を抱いたからである。機が熟したのを知ったと言っても良い。

 とは言っても、何も私は鹿島氏の小林に対する否定的なスタンスが必ずしも気に入らない訳ではない。また「ドーダ」とか「ヤンキー」だとか「ユース・バルジ」とか「集団的アモック」だとかの道具立て自体が気に入らない訳でもない。ただ、その道具立てが道具立て倒れに終わっているのが単に頂けないだけなのである。呆れる程と言ったら言い過ぎであろうが、底の浅い読みやピント外れの考察が文字通り「ド―ダ」と言わんばかりに陸続と繰り出されるのに、読んでいて辟易したのは私だけであろうか。ここでその一例を挙げれば、長谷川泰子と小林の恋愛である。SだのMだの鹿島氏はノリノリで書いているようだが、私にはあくびが出る体の退屈な文章であった。ここには恋愛における人間的眞實に対する洞察の一片の閃きすらも何ら見られない、そう言ったらあんまりな評であろうか。思うにこの恋愛の本質は小林が中原中也の恋人を奪ったという点にあるのであって、この三角関係についてはこれまでにも色々と取り沙汰されて来てはいるが、私には「韋駄天お正」の洞察が唯一事の本質をピンポイントで打ち抜いていると思われる。その恐ろしい文章を鹿島氏の考察との対比の意味で、ここで引いて置くのも良いだろう。なお文中「お佐規さん」とあるのは泰子のことである。

「男同士の友情と言うものには、特に芸術家の場合は辛いものがあるように思う。中原中也の恋人を奪ったのも、ほんとうは小林さんが彼を愛していたからで、お佐規さんは偶然そこに居合わせたにすぎまい。彼女に魅力がなかったらそれまでの話だが、あいにく好みが一致しているのが友達というものだ。それは陶器にたとえてみればすぐ解ることで、親友が持っているものは欲しくなるのがふつうである。このことは同性愛とは何の関係もないもので、男が男に惚れるのは「精神」なのであり、精神だけでは成立たないから相手の女(肉体)がほしくなる。と、まあそんな風に図式的にわり切ったのでは身も蓋もないが、私はそういう関係を見すぎたために、無視することができないのだ。
「親友と云うものの中には此の世では親友としては交わって行けない、そういう親友だってあるのだから、仮にそれがピッタリいったとしたら余程めぐまれていると思っていいのだろう。併し、非常に低い処でしか、そんな幸運にはめぐまれないものである。」(『世間しらず』)
 この言葉は真実を語っている。「高級な友情」というものは、畢竟するところ濁世ではゆるされぬものなのだろう。」(白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』)

 結局のところ、本文中で触れておいた橋本治氏の『小林秀雄の恵み』を経由してこの『ドーダの人、小林秀雄』に至るに及んで、とうとう批評という文学形式の堕落もここに極まったのではないか、この本の出現は、批評という文学形式の自己解体も、行くところまで行きついたという証左ではあるまいか、そう私には思われたという事である。これは何も批評に限らないとは言え、文学がかっての輝きを失って久しいが、取分け批評という文学形式においてはそれが顕著なのは、マウンティングというこの形式に顕著な悪弊へとあまりに傾斜し過ぎたがためであると思うのは、私だけではあるまい。実はこの悪弊に対する平衡感覚こそが、批評家としての欠くべからざる必須の資質要件ではあるのだけれども。

 それはさておき、これまで書かれた総ての小林秀雄論に私が覚える不満は、一体全体小林秀雄という文学者はその批評家人生においてどのような難問に逢着し、ためにどのようなテーマを課題として持つに至ったのか、或は持たざるを得なかったのかという点に関する考察や洞察が、殆ど見られない点である。思うに、既存の小林秀雄論の殆どは、小林に寄り添うにせよ反発するにせよ、その基本的属性はこの意味においてスタティックなものばかりであって、その精神の持続におけるダイナミックな紆余曲折に迫ろうとした論考は殆ど見られないと言って良い。唯一、山本七平氏のものを覗いては。ここで大口を叩くつもりはないけれども、私としては、小林の言葉を借りれば、「小暗いところで、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合なわかり方」をした私なりの小林像を手ずからに、いささかなりともダイナミックに描いてみたつもりある。この意味ではここに提示された小林像は、予定調和的なそれではなく軋轢型のそれである、そう言っても良い。言うまでもなく、それが成功したかどうかは、実際に読んで頂く他はないのではあるけれども。

 なお、ここに纏められた文章は2011年1月から2016年2月に懸けて断続的に書かれたものである。そのために吉本隆明丸谷才一両氏の逝去や雑誌「考える人」特別付録の小林・河上最後の対談音源の公開などの”偶発事”によって図らずも論理展開に曲折を強いられることになった。考えるところあって、必要最小限の加筆修正だけにとどめ、そのまま公表することとした。年数などの数字もあえて当時のままにして置いた。了とされたい。」




あとがき

「これでようやく四十数年来の宿題を果たせたという思いでほっとしている。ここで宿題というのは、言って見れば小林から渡されたバトンを次の世代の走者に渡すという独り善がりの勝手な思い込みのことであるが、独り善がりとは言え、長年に渡り重荷になっていた義務を果たすことが出来た達成感と開放感とがないまぜになった充実した空虚感の中にいる、というのが偽らざる気持ちである。小林を語るに当たって逸してはならない重要な論点は、一通り網羅して置いたつもりではあるが、これから小林を身を入れて真摯に読んでいこうという若い人には、私の描いた小林像を踏み台にして乗り越え、さらにその先へ、小林の全文業という豊富な沃野へと、ぜひとも突き進んで貰いたい、そう強く願う次第である。
 それから最後に付け加えて置かなければならないのは、小林に倣って私もまた「一度読んでもなかなかわからない工夫」をして置いたという事である。それを頭の片隅に置いて読んでいただければ、著者の喜びこれに過ぐるはない。」

「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」

2016-03-20 00:00:00 | 小林秀雄

 先日のことだが、「埴谷雄高の小林秀雄評」という以前のエントリーを読み返していて、改めて永松昌泰氏のブログの文章をこれまた読み返していたのだが、以前は気付いていなかった興味深いある事実に気付いた。いやはや、我ながら鈍感にもほどがあると今さらながらに呆れた次第であるが、それは「小林秀雄、杉本春生、埴谷雄高さんのこと(2)」という文章で述べられている対談が、外でもない「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」のことであるのに、今になってやっと気づいたからである。

 ここで述べられているのは、「近代文学」同人側(荒正人・小田切秀雄・佐々木基一・埴谷雄高・平野謙・本多秋五の五人)からの言わば楽屋話であるが、この楽屋話は私にこの対談をどうしてもある種の深読みに使嗾するのを禁じえないのである。



「対談を申し入れて、小林秀雄から承諾の返事をもらうと、
五人は小林秀雄を徹底的に論破しようと、
連日夜を徹して議論を重ねました。

そして、その日を迎えました。


結果は・・・・・
惨敗・・・・・


五人は小林秀雄に徹底的に、
完膚無きまでに論破されたのです。
その夜、五人はヤケ酒を飲みました。
あんなに予行演習を重ねたのに、
まったく役に立ちませんでした。
しかし、余りにも完全に打ちのめされたので、
妙にさっぱりしたヤケ酒だったそうです。」



 対談相手の「近代文学」の五人が、事後にこのような感想を抱いていたという事実も、興味深いと言えば興味深いが、それよりも私が瞠目したのは、これに続く部分である。



「しかし、それで話は終わりではありませんでした。
その対談の速記録が、小林秀雄に回されて、
手を入れられて返ってきたのです。

速記録は、あらゆる発言に手を入れられて、
大幅に書き換えられていました。
小林秀雄自身の発言だけではなく、
五人全ての発言にも徹底的に手を入れられていました。


最初は「何だこれは!」という反応でした。
「自分の発言を直すのは良いけれど、
他の人間の発言に手を入れるとは、なんたること!
どういうことだ!」
という感じでした。


しかし、手を入れられた自分の発言を読んでみると、
唖然、呆然、愕然としました。

五人の発言はすべて、
「そうだ! 本当は俺はこう言いたかったんだよ。
正に言いたかったことは、これなんだ!」
と思わずうなってしまうように、見事に書き換えられていたのです。

発言した時には必ずしも明らかではない真意が
素晴らしい形で美しく表現をされていました。

そしてその上で、
小林秀雄は完膚無きまでに、
五人を徹底的に論破していたのです。


それを読んだ五人は、正に放心状態。
完全にノックアウトされてしまいました。

しばらくの間はため息ばかり、
全く仕事にならなかったそうです。」



 実際の速記原稿が残っているとは到底思えないが、特に有名な「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない。・・・僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という発言の前後の文章が、一体どういう風に小林によって「徹底的に手を入れ」られ、「見事に書き換えられていた」のか、残っているならぜひ読んでみたいものである、そう思うのは私だけであろうか。

 というのは、この有名な小林の発言から受ける第一印象は、一種苦し紛れの啖呵的放言とも取れるからだ。だがむしろ事実は逆で、発言に手が入れられて「発言した時には必ずしも明らかではない真意が、素晴らしい形で美しく表現」され直されているということは、小林は書き直すことであえて自ら窮地に陥って見せ、それを逆手に取ることでもって自らのこの戦争に対する見方を積極的な形で打ち出そうとしたのではあるまいか。もってこの対談を、自らの歴史観を明確に述べる好機としたのではあるまいか。もう何度も読み返しているが、この一節を読む度に私はそういった深読みへと誘われて仕方がないのであるが、どう思われるであろうか。

 つまり、私はここに、誤解を招く言い方で言うなら、小林特有の、時局に非常に鋭敏なジャーナリスティックな感性に裏打ちされた、比類のない見事な思想表現の果敢な表出行為を見るのである。そう言ったらこれもまた余りに贔屓の引き倒しに過ぎる発言だと言われるであろうか。恐らく、この比類のなさが、戦後70年以上も経った現在に置いても、この発言が事あるごとに引用され、今だに賛否両論を巻き起こし続けている、言わば火薬庫たる理由であろう。






『最果てにサーカス』

2016-03-04 00:00:00 | 小林秀雄
 
「座右の秀雄」にひとまずケリをつけたこともあって、何とは無しに小林秀雄をググってみたところ、どうやら少し前に小林と中原を題材に取った連載マンガが始まっていたらしい。マンガに限らず、小説などもそうだが、全くと言って良い程新しいものには手が伸びないでいる私には、最初はふーんという感じで特段気にも止めなかった。だが、その中にこの単行本の画像をアップしているものがあって、それを見た瞬間、これは何としても読まなければならないと思った。帯の文句が私をいたく刺激したからである。心を打ち抜かれたと言っても良い。





 これには、すこしばかり説明がいるかも知れない。あれは高校三年の国語の最終授業であったから、もう四十年以上も前の事である。国語の先生が、今日は最後の授業だから私の一番好きな詩人を紹介しますということで、時間を丸々全部使って中原中也という詩人について色々と話された。最初に黒板に書かれたのが「汚れつちまつた悲しみに」の詩で、書き終えるとあろうことか私を指して感想を聞かれたのであった。「**君、この詩どう思いますか?」と。これに対し、「悲しみが汚れるという発想がとても斬新で、凄く良いです」と答えたところ、一笑に付されることとなった。「そうじゃないでしょ。普通に読めば”汚れつちまつた”の主語は、自分つまり作者でしょう」と。
 というようなことで、有名なこの「汚れつちまつた悲しみに」の詩が、一般にどちらの意味で取られているのか知る由もないし、自分の解釈の方が正しいのだと主張するつもりもないけれども、この「悲しみよ、汚れつちまえ。」というコピーに私としては著者に拠所ない親しみを抱いた次第である。おお、ここに同類がいる、と。

 そして、その親しみはこのマンガを描く経緯について書かれた「詩を漫画にする ―中也と秀雄を描く」(新潮 2015年8月号)という文章を読むに至って、いやが上にも増すこととなった。そこには芸術家間の精神的遺伝とでも言うべき文学的遭遇が、明晰に描かれていたからである。自らの才能と情熱を傾けられ得る運命的な対象に出合った作家の喜びが、過不足なく綴られていたからである。読んでいてこれは紛れもない達意の文章だと私は非常に感心した次第であるが、どう思われるであろうか。それにしても、女史は中也も秀雄も全く知らなかったとは驚きである。


「去年の秋頃、小学館の編集者H氏から中原中也と小林秀雄の漫画を描いてみないか、と言われた。文学に明るくないわたしはそのとき中也と秀雄、そして長谷川泰子の三角関係を全く知らなかった。恥ずかしながら詩も評論も殆ど読んだことがない。
 そんなわたしになぜH氏が「描かないか」と言ったかというと、初めての長期連載が高校生の三角関係を軸にしたものだったからだろう。女が女を好きになったことから始まる傷つけ合いの泥仕合、それを経て得る永遠のような友情。その作品をまる三年かかって描き終えたばかりで、当時のわたしは心身ともに疲弊していたように思う。
・・・
 いろいろな人がわたしの前にやって来て、いろいろな企画を提案してくれたりもする。話を聞いている間は、おもしろそう、やってみようかな、と思える。だが実際は身体が動かない。ふんばりがきかない。次回作に対してなんのモチベーションもなかった。きっとわたしはこのまま代表作らしいものも残せず消えていくのだな、でもそれならそれで仕方ないかもしれないな、などと考えながらふらふらしていた。
・・・
 あまり気乗りしないまま、貰った資料を取り敢えず読んでみる。中也の詩集は文庫版を鞄に入れて移動中に読むようにした。評伝などにも目を通すが、初めは目が滑ってなかなか頭に入ってこない。
 しかし詩集を3周くらいしたとき、不思議なことに急に視界が開けた。詩が心にすっと入ってくるのがわかった。染み入るとはこういうことか。中也の詩からは高く抜ける青空が見えた。そして風が吹いていた。美しい反復は音楽のようだ。揺れる山手線の中で涙をこらえるのに必死な自分に衝撃を受け、そしてそれがとても嬉しかった。
・・・
 そのシーンをネームで描いた時、直観的に「わたしはこの作品を描くことができる」と確信した。
・・・
どちらもきっと魅力的に、実在感を持って描ける、そう思った。
 ふらふらしていた自分の頭も急にしゃっきりとなって、ふたりの物語に全てを傾けられる気がした。それは自分にとっても切望することであった。情熱を傾けられる対象に出合えないままでいたら、作家としての自分は死んだも同然なのだから。」


 私には、編集者H氏の慧眼は総てを見通していた様にも思われるが、この『最果てにサーカス』については、賞賛と共に例によって史実と違うとかキャラクター・イメージが違うとかの難癖がいろいろと付けられているようだ。うるさい事である。少しでも考えてみれば判るが、一般に言われているノン・フィクションなどというものは絵空事である。ノン・フィクションさえもフィクションの一類型であることは、作家の想像力なくしては一行の文章もワンカットも描くことが出来ないことを考えてみればすぐに判ることである。余計な先入観なぞは捨てて、作品そのものを味わうに如くはない。

 ともあれ、次の文章に伺えるこの三角関係についての月子女史の洞察は、中也にも秀雄にも四十年以上も親しんでいる私にとって、目を見張るものであった。私の知る限り一人を除いては、この三角関係についてこのような恐ろしい言葉を書いた人はいない。(女史は「この作品」とか「この漫画」と書いているが、それらを「この三角関係」と読み換えても何ら差支えない。従って以下の引用では勝手にそう書き換えて置いた。カッコ内が元の言葉である。)


「資料を読んでいくうちに、初めのコンセプトであった三角関係そのものへの興味は薄れていき、中也と秀雄それぞれの人生に興味を持つようになった。
・・・
 タイトルは散々迷った末に『最果てにサーカス』とした。
 唯一無二の友情を互いに感じつつも三角関係に苦しみ抜き、皮肉にもそのことによって中也の「詩」だけはどんどん研ぎ澄まされていく。人間が犠牲になる故の芸術の昇華。中也は詩のなかで自分を道化に例えることがあったが、この三角関係(作品)では中也のみならず、小林もまた道化である。
 一方、この三角関係(漫画)においての泰子というキャラクターは、中也と秀雄の関係性を攪拌し変化させるための「装置」になる。」


 とこう書いてきては、当然のことながらやはり「韋駄天お正」の筆になるもう一つの恐ろしい言葉も引いて置かなければならないだろう。なお、文中「お佐規さん」とあるのは泰子のことである。


「男同士の友情と言うものには、特に芸術家の場合は辛いものがあるように思う。中原中也の恋人を奪ったのも、ほんとうは小林さんが彼を愛していたからで、お佐規さんは偶然そこに居合わせたにすぎまい。彼女に魅力がなかったらそれまでの話だが、あいにく好みが一致しているのが友達というものだ。それは陶器にたとえてみればすぐ解ることで、親友が持っているものは欲しくなるのがふつうである。このことは同性愛とは何の関係もないもので、男が男に惚れるのは「精神」なのであり、精神だけでは成立たないから相手の女(肉体)がほしくなる。と、まあそんな風に図式的にわり切ったのでは身も蓋もないが、私はそういう関係を見すぎたために、無視することができないのだ。
「親友と云うものの中には此の世では親友としては交わって行けない、そういう親友だってあるのだから、仮にそれがピッタリいったとしたら余程めぐまれていると思っていいのだろう。併し、非常に低い処でしか、そんな幸運にはめぐまれないものである。」(『世間しらず』)
 この言葉は真実を語っている。「高級な友情」というものは、畢竟するところ濁世ではゆるされぬものなのだろう。」(白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』)





 私にはどうしても、中也と秀雄の関係は、青山二郎と秀雄の関係同様小林自身が書いているランボーとヴェルレーヌ、ゴッホとゴーガンの関係に重ねて見てしまわざるを得ないのであるが、或はこうパラフレーズしたとしたら、いささか類型的図式的に過ぎるであろうか。


「どうあっても二人だけは結び附けねば置かぬ、二人の知らぬ力があった。その同じ力が二人を引きちぎる。この二人も亦、互いに敬愛しながら、屡々「放電を終わった蓄電池様に沈黙した」であろう。こういう分析の仕方は、かなり危険なのであるが、敢えて言えば、中也にはゴッホやヴェルレーヌに似たところがあり、秀雄にはゴーガンやランボオに似たところがある。また、こういう言い方が許されるならば、文学という太陽を中心にして、中也という惑星と秀雄という惑星の二つの軌道は殆ど重なり合うところまで接近するが、また微妙な軌道曲線の違いから離れていくのである。ここで言う軌道曲線の違いとは、中也という個性と秀雄という個性の違い、言い換えればその文学に対する信仰における引力と斥力の違い、そう言ってもいいだろう。」


 それにしても月子女史といい正子女史といい、やはり女性の直観ー洞察力とは恐ろしい!そう思うのは私だけであろうか(笑)。