ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

座右の秀雄 53

2019-10-18 12:00:00 | 小林秀雄



<戦後の知的世界をながめてみる。吉本隆明、山本七平、小室直樹といった人びとは、本質的で普遍的な仕事をしている。いっぽう、大御所と仰ぎみられている丸山眞男、小林秀雄は、普遍的なみかけなのに、それぞれ問題を抱えている。そこで、みながこれから大きな建物を建てるのに、まず必要な地ならしをしておこうと思った。>

と『小林秀雄の悲哀』の「あとがき」では、著作に至った橋爪氏の基本的な着想が述べられているが、『丸山眞男の憂鬱』『小林秀雄の悲哀』のニ著は、<本質的で普遍的な仕事をしている>三人のうち、山本七平の褌でもって<普遍的なみかけなのに、それぞれ問題を抱えている>丸山眞男、小林秀雄それぞれを相手に相撲を取って見せた著作と言って良い。具体的には、山本七平の『現人神の創作者たち』に依拠して、丸山の『日本政治思想史研究』と「闇斎学と闇斎学派」、小林の『本居宣長』を批判する内容になっている。その<地ならし>プロジェクトの拠り所は、山本の皇国史観の系譜学――儒学(朱子学)ー国学ー水戸学ー尊王思想ー戦前戦中の超国家主義イデオロギーという系譜学である。

当の山本自身は、この系譜学は『現人神の創作者たち』『現人神の育成者たち』『現人神の完成者たち』という三部作でもって完結する構想であったと書いているが、実際にはその三部作のうちの、最初の一書をしか書き終えることが出来ずに他界してしまった。皇国史観の系譜学のスキームで言うと、最初の儒学(朱子学)のところに当たる部分である。

ここが重要なポイントである。

なぜかというと、橋爪氏は丸山の『日本政治思想史研究』と「闇斎学と闇斎学派」を批判するに当たっては、単に山本七平の『現人神の創作者たち』を参照すればそれで事足りた訳だが、小林の『本居宣長』を批判するに当たっては、書かれずに終わった『現人神の育成者たち』(の一部)を、山本に代わって言わば代筆する必要があったからである。もうお分かりだと思うが、それは系譜学のなかの国学の部分で、橋爪氏はこの<地ならし>プロジェクトの一環として、本居宣長を『現人神の育成者たち』の一人として位置づける論考を書き上げるという挙に出た訳である。すでに述べたように、この橋爪氏の代筆の試みはとても成功したなぞとは言える代物ではないのは勿論のことであるが、事は単にそれに止まらない。

というのは、うっかりすると危く見逃がしてしまう、一見些細だが実は重要な事実が『小林秀雄の悲哀』ではさり気なく述べられているからだ。それは「はじめに」で橋爪氏は一言、山本の『小林秀雄の流儀』を店頭で見かけてすぐに購入したと書いている事である。

勿論、山本を高く評価する橋爪氏の事である、店頭で見かけてすぐに購入したにもかかわらず、目を通さないでいるという事は、まずもって考えられない。ところが、この本の内容については全く触れることなく橋爪氏は『小林秀雄の悲哀』を終えているのであって、この『小林秀雄の流儀』に対する全くの欠語、或は完璧な黙殺は、私の目には誠に不自然に映る。なぜなら、『小林秀雄の流儀』には、『本居宣長』(とそれに付随して宣長)に対する山本の見解が縷々述べられているからだ。

とは言っても、そこに述べられているのは、ある種の当惑と共にではあるが、山本による『本居宣長』への好意的な、それも相当に肯定的な批評であった。ということは、実は山本に依拠して小林を批判するという橋爪氏の<地ならし>プロジェクトにとっては、この本は誠に不都合な、下手をするとその存在基盤自体を揺るがしかねない存在であったということを意味する。なにせ当の山本自身が小林に対しては、正反対の姿勢を取っているのだから。橋爪氏にとって、出来れば、この本はこの世に存在して欲しくない著作であったと言っても、過言ではないだろう。私はこの黙殺に、橋爪氏の意図的な不作為を感じる。私の直観が、しきりにそう囁くのだ。

従って、ここにおいて、橋爪氏の宣長理解を山本の宣長理解でもって、さらには橋爪氏の『本居宣長』理解を山本の『本居宣長』理解でもって検討・批判するという論点が、俄然意味を持って浮かび上がってくることになる訳である。



ということで、『小林秀雄の流儀』の中には、短いが宣長に関して言及した文章も幾つか挟み込まれているので、そこから他の著作も参考にして、そもそも山本自身が宣長をどのように見ていたのか、次に少しく探ってみたい。


<思想も思想の演ずる劇も同じであろう。それは一人歩きをはじめる。それはもう、それを生み出した人間には如何ともしがたいことではないか。宣長に、お前は結果に於いて、超国家主義を生み出し、それが日本を悲劇のどん底に落したと言っても何になるであろう。>

<多少、徳川時代に関心がある私、「現人神の創作者」のつぎに「現人神の育成者」としての宣長という目で彼を見たいという「私心」のある私などは、-この私心は「私の流儀」であるから捨てる気はないとはいえ―全く別の目でこの『玉くしげ』を、小林秀雄が読んでいるのは事実であった。>

<「では小林秀雄の思想とは何なのか、それが社会にどういう影響を与えたのか、彼には思想と言えるものがあったのか」。・・・そんな問いは、・・・本居宣長の思想は何なのかという問いと同じで、答えなぞありようはずはあるまい。・・・また、死後入門の平田篤胤が実に大きな社会的影響力を行使し、「現人神の育成者」の一人となったこともよく知られている。・・・篤胤が日本の進路に与えた功罪は、さまざまな点から論じられるであろう。小林秀雄がそういう役割を演ずる結果になるかどうか私は知らない。それは「問い」としては残るが「答え」は、ない。『本居宣長』については、二十年たてば何かかけるかもしれぬと最初に記したのは、その点への「自反」から何か「答え」が出てそれが新たな「問い」となるかも知れないというだけのことである。それが直接に小林秀雄につづいているかどうか、も「問い」になり得よう。>


一見すると、これらの記述から山本は宣長を「現人神の育成者」の一人として見ていたように思われるかも知れないが、注意して読むと、必ずしもそうとは言い切れないことが判る。

最初の文章では、<宣長に、お前は結果に於いて、超国家主義を生み出し、それが日本を悲劇のどん底に落した>とは述べてはいるが、同時に一方では、それはあくまで思想が<一人歩き>をはじめた<結果に於いて>であるとも述べているのであって、そう<言っても何になるであろう><それを生み出した人間には如何ともしがたいことではないか>と、暗に宣長擁護と取れる発言をもしている訳である。

また、三つ目の文章では<平田篤胤が実に大きな社会的影響力を行使し、「現人神の育成者」の一人となった>と断言し、<篤胤が日本の進路に与えた功罪は、さまざまな点から論じられるであろう>と篤胤の名前だけを挙げていて、そこには宣長の名前がないこと、それに二つ目の文章では<「現人神の育成者」としての宣長という目で彼を見たいという「私心」>といった、慎重とも取れる控えめな表現を取っていることにも注目すべきであろう。

山本がなぜこのような歯切れの悪い言い方をするに至ったのかは、<全く別の目>で見ている小林に対する当惑とそこから来る対抗心からであろうと私には思われるが、大本にはそれなりの理由があったと言わなければならない。というのは山本の皇国史観の系譜学スキームにあっては、<現人神の育成>には、国学と儒学(中国朱子学)の正統主義との<習合>が必要条件であるが、「現人神の育成者」と認定するためには、儒学の正統主義への何らかの指向性やそれとの親和性が必要だからである。だが、系譜上宣長に続く篤胤にはそれが見られるのに対し、宣長にはそれが全く見られないからである。両者は国学という系譜の上では繋がってはいるが、この点での発想の上では隔たりもまた大きいのである。

『現人神の創作者たち』や『小林秀雄の流儀』とは別に書かれた山本の「日本の正統と理想主義」という文章では、次のような文章が見て取れる。

<そういう形で一つの正統論が確立し、その正統論に基く理想的な(と彼らが信じた)社会をつくろうとしますと、当然、その前に、中国朱子学と国学とが習合をいたします。この習合というのは山鹿素行の中朝論ですでに起こっているのですが、国学が盛んになると、これと朱子学とがくっつくという形になります。
 もっとも、本居宣長自身にはそういう意識はなかったと思いますが、平田篤胤になるとそれがあったと見てもいいと思う点が出てまいります。>

さらに、『日本人と「日本病」について』(岸田秀との対談本)の中では、山本はこの篤胤と宣長の違いについて、もう少し詳しく述べている。

<そうすると、国学とは何だったのか。中国的なもの、仏教的なものをすべて取り払った原日本思想とは何であるのかという疑問が出てきますね。本居宣長の動機にもこれがあったろうと思うんです。で、全部取り払うとじつは何も残らない。だから中国心ならぬ原日本精神、つまり大和心は何かを人に問われたら、<朝日に匂う山桜花>としか答えられなくなってしまう。なにしろ原理原則がないんですから。まあ、宣長としては、ないならないで、一種満足していたわけですよ。
しかし、弟子の平田篤胤となるとそうはいかない。儒仏を排除して、中国におけるキリスト教伝導文書であるマテオ・リッチの『畸人十篇』を読むんです。そして、それに影響を受けて日本神話を読み直すわけです。
どんなふうにつくり直したのか。
「天地初出の時、高天原に神あれまして」というのは誤りであって、「天地未出の時、高天原に神ありまして」でなくてはいけない。「あれまして」と読むとそこは「生まれる」ことになるけれど、「ありまして」なら、もうすでに「いた」わけだ。つまり、創造神的発想を持ち込んだんですね。
そうして、日本は創造神を持っていた、ところが世界中がその真似をした。イザナミ、イザナギの命をヨーロッパ人が真似たのが、アタン(アダム)とエワ(イヴ)である、と、こうなるんです。>


この発言からすると、篤胤による<現人神の育成>は、国学と儒学の正統主義との<習合>により行われたというよりも、むしろ実質的な思考様式においては、キリスト教の創造神的発想と儒学の正統主義との<習合>によって行われたと考えられそうである。つまり、<現人神の育成>は、むしろ宣長の主張する「からごころ」と「やまとごころ」というスキームで言うところの「からごころ」(=輸入思想)、二系統の異なった欧中「からごころ」の<習合>によって齎されたと考えた方が相応しいのかも知れない。

それはともかく、これらの文章からすると、宣長と明らかに「現人神の育成者」の一人であった死後入門の平田篤胤の間には、このように明確な境界線を山本は見ていたのであって、宣長については「現人神の育成者」の一人だとは考えていなかったとするのが妥当であろう。

とまあいったようなことで、高く評価する割には橋爪氏がどれ程山本七平を理解しているのかも疑問ではあるし、そもそもこういった考察による宣長と篤胤の差異なぞ、氏の視野においては全くの埒外であろう。結局のところ、山本の皇国史観のスキームを公式主義的に当て嵌めて、この境界線から粗忽にも一歩を踏み出して、宣長を「現人神の育成者」の一人であると決めつけたのが橋爪氏であったということである。前に<この橋爪氏のスキームは、山本七平のスキームを下敷きにした誤流用、その論理を逸脱した応用といって良い>と述べて置いた所以である。





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座右の秀雄 52

2019-09-14 09:00:00 | 小林秀雄



橋爪大三郎氏の『小林秀雄の悲哀』を読んだ。

刊行された当初は、出版元の講談社のサイトにある

試し読み

をざっと読んで、読む必要性を全く感じなかったのだけれども、図書館で『丸山眞男の憂鬱』を見つけ、ふとパラパラと中味を覗いて見たところ、俄然興味を惹かれたので、すぐ横にあった『小林秀雄の悲哀』とともに、借り出して来た次第である。


この『小林秀雄の悲哀』については、浜崎洋介氏の書評

「直感」の「限界」について 小林秀雄の言葉を〝小林神話〟から救い出す

がこれもネットで読むことが出来る。

そもそもテーマパークじゃあるまいし、なぜに文芸批評家に「日本最大の」なる形容詞を冠するのか?とか、<ベルグソン譲り>なら「直感」じゃなくて「直観」でしょ?といった些末な(よく考えてみると結構意味深な)”言いまつがい”はともかく、この本の骨子については実に的確な要約をしてくれている。そして、あえて裏を読んだ結語ーー<それなら本書は、小林の言葉を小林神話(批評の神様)から救い出し、『本居宣長』という本を、その本来の場所――つまり、文学論へと差し戻すためにこそ書かれたと言えはしまいか>という結語もなかなかエスプリが効いていると言いたいところだが、誤読もここに極まれりである。


私に言わせると、橋爪氏は小林の『本居宣長』という著作自体の意図が全然読めてはいないので、<これを批評とは言わない>、<批評と言うものを知らない>、<小林秀雄のことを、私は「批評家」だと認めない。批評めいた文体を繰り出すだけの、哀れな文筆家に過ぎない>と全編これ否定のオンパレードであるが、大雑把で図式的公式主義的な考察や三流週刊誌の様な動機分析が、のほほんと脳天気な無邪気さでもって語られるのには、読んでいて思わず笑ってしまった程である。いや、何も私はこの本に対抗して「橋爪大三郎の滑稽」と言う大論文をものするつもりはないが、そこに透けて見える橋爪氏のこの『本居宣長』に対する誤解というか無理解というものの性質が、この『本居宣長』という著作を論ずるのに誠に都合の良いものなので、取り上げる気になったということである。



私が根本的な疑問を感ずるのは、浜崎氏の言葉で言う<一切の論点>―<『古事記伝』には、良くも悪くも皇国イデオロギーを可能にしてしまうカラクリ>、さらに言えば<「江戸思想」と「国学」と「近代日本」とを結ぶ系譜学>、すなわち『古事記伝』が<「天皇」を介して後期水戸学(儒教的政治論)へと繋がり、近代日本のナショナリズムを、そして、昭和戦中期の皇国イデオロギーをも用意することになる>という<これらの論点の一切>を、小林の『本居宣長』は拾えていないというのであるが、明確に言及していないからと言って、果してそう断言できるのだろうか?という点である。むしろ、<これらの論点の一切>を暗黙の前提として、それに対抗するものとして小林の『本居宣長』は、書かれたのではないのか。

そしてまた私が浜崎氏にも疑義を抱くのは、

<なるほど、小林自身は「作者の肉声を聞く」ことによって、強張った皇国イデオロギー(政治)から、本居宣長本来の柔かさ(文学)を救い出し、自らの「批評」の起源にある姿を、つまり、伝統を味わい、それを生きる文学者の姿を定着したかったのかもしれない。>

といったような(政治)と(文学)を分断して対置し、後者に小林批評を限定し、そこに小林を押し込めようとする見方である。


これ等の点についてはおいおい見ていきたいと思うが、そうは言ってもやはりその前に、『本居宣長』が全く読めてない「橋爪大三郎の滑稽」と大口を叩くからには、しかるべき理由を書いて置くのが筋と言うものであろう。以下、判り易いと思われる論点を幾つか挙げるだけに留めるが、まあ、これくらいで必要にして十分であろう。

まずは、<8「日の神論争」>の部分(p238~)。

<小林は冒頭で、宣長の学問は≪難点を蔵していた≫と断言してしまう。これはないだろう。>

<小林はいかにも、宣長に理がないように言っている。・・・・これを勝手に「逃げ口上」と決めつけるのは、批評としてフェアでなかろう。>

「ええっ!?」と私は思わず吹き出してしまったのだが、いや、橋爪先生、文間が読めないというか、文脈が読めないというか、学者としてもちょっとこの読みはいくら何でもないんじゃないの?ここで引用されている『本居宣長』(四十)の記述は、論争自体が噛み合っていないという事を示すために、秋成の目には宣長の言うところがどういう風に映ったのかを描いている文章であって、宣長に対する小林自身の見解を述べた文章ではないことは明々白々だと思うのですけどね。

他のところで橋爪先生も引用している小林秀雄・江藤淳対談でも、このように述べられている訳で、ここの部分は読み落としたのか、或は意図的に無視したのか知りませんけど。


<江藤 ・・・そのときも、私は納得がいかなかったのです。なぜ、日本を相対化している秋成がだめで、宣長の言っていることが正しいということになるのか。私はこの論争が噛み合っている論争だとばかり思い込んでいたものですから、秋成の言うことにも一部の理はあるのではないかと考えていたのです。
 ところが、今度御本を拝見して、はじめてなるほどと納得がいきました。・・・

小林 あの論争は、批評家にとっては好都合な論争なんです。それを私は利用したわけです。どうもあゝいうものを利用しないとなかなかわからぬ思想の上での機微がありますね。>



それから今一つは、<いまわれわれは、本書のもっとも中心となる内容を、論じつつある>という部分で、宣長の『馭戎概言』を引いて、その解釈を述べた部分(P389)である。この部分は、橋爪氏本人も言うようにこの著作のロジックの根幹となる部分なので、ここは避けて通ることの出来ない論点である。


<宣長は『馭戎概言』・・・で日本の統治システムについて、こうのべる。≪天皇のかぎりなく尊くまします御事は。申すもさらなれど。まづ大御国は。萬の国をあまねく御照らしまします。日の大御神の御国にして。天地の間に及ぶ国なきを。やがてその大御国の御末を。次々に伝えましまして。天津日嗣と申て。其御国しろしめし。万代の末までも。うごきなき御位になんましま≫す。
 また、中国と日本のあるべき関係について、遣隋使の携えた手紙を例に、こうのべる。≪かのよしもなくみだりにたかぶりおる。もろこしの國の王など・・・へ。詔書たまはんには。天皇勅隋國王などとこそ有べきに。此度かれをしも。天子とのたまへるは。ゐやまひ給へること。ことわりに過たりき。≫≪そもそももろこしの國王が。いにしへよりかくのみゐやなきは。天皇のことなる御尊さをわきまへしらずて。ことわりにそむける。みだりごとなる物をや。・・・天皇とあがめ申さざらんかぎりは。こなたよりも。かの王を天子皇帝などと。あがめいふべきにあらず。又かの國につかはす書のみにもあらず。すべて皇国のうちにて。つねに物にかき。口にいふ詞にも。ましてかの王を尊みて。天子皇帝などとは。かりにもいふべきわざにあらず。そはかの王のさだめをうけ。したがふ國のもののいふ言にこそあれ≫
 要するに、日本は、あるべき国際秩序の中心となるべきである。なぜなら、日本は、カミガミの意志をあらわす古言を受け継ぎ、そのもとに統治秩序を実現している唯一の国であり、世界の国々、世界の人々を指導すべき存在なのだから。

どうだろうか。実証的な作業として始まった『古事記』の読解が、実にスムーズに、なめらかに、超国粋主義的な主張に移行しているではないか。>


そして、<この移行の具体的なあり方は、これまで注目もされず詳しく論じられもしていないと思う>と述べ、橋爪氏はいささかドーダ・モードに入っているようだが、何をか言わんや、これは宣長の論理を勝手に延長した全く持って恣意的な解釈と言う他ないものである。確かに橋爪氏の言うように宣長は、日本の<このような国のあり方は、すぐれていて、正しく、また美しい。日本はそのことを自覚し、誇るべきである。他の国はそのことを認め、敬意をはらうべきである>とは述べているが、<日本は、あるべき国際秩序の中心となるべきで・・・世界の国々、世界の人々を指導すべき存在>だなぞとは一言も主張してはいない。一体全体、この引用文のどこにそんな記述があるんですかね?どうやら橋爪先生は、学者以前にそもそも文章自体がまともに読めない人ではないのか、読んでいてそういった疑義がしきりに頭に浮かんできてしようがないのであるが、こう思うのは私だけであろうか。

ここは宣長をどのように捉えるのか、分水嶺となる最も重要な論点なので、この文章を読んでいる方はぜひ実際に『小林秀雄の悲哀』に当たって、この該当部分を確認して頂きたいと思う。出来ればさらに進んで『馭戎概言』自体に当たって中味を直接読んで頂きたいとも思うが、これまでにも『馭戎概言』は「直毘霊」と並んで宣長の狂信的な国粋主義思想を典型的に示す文章というレッテルを張られてきた。このこと自体も、色々と考えさせられる問題だが、普通に読めば宣長の言っていることは、日本の外交史に見られる属国の様な卑屈な態度を嘆き、単に矜持を持って外交に当たれと主張しているのに過ぎないのであって、要は土下座外交をするなと言っているだけのことである。

従って、<実にスムーズに、なめらかに、超国粋主義的な主張に移行している>などとはデタラメもいいところで、橋爪先生、こんなことを言っていてはチコちゃんに叱られても知らないからね、そう私は忠告しておく次第である(笑)。これは『丸山眞男の憂鬱』の表現で言えば、明らかな<誤認逮捕>、意図的な冤罪のでっち上げであって、むしろ、こういった恣意的な飛躍した発想法こそが超国家主義的・超国粋主義的な主張の根幹をなすものではないのか、と橋爪先生には猛省を促したいと思うのである。

ということはまた当然に、先の<『古事記伝』には、良くも悪くも皇国イデオロギーを可能にしてしまうカラクリ>――『古事記伝』が<「天皇」を介して後期水戸学(儒教的政治論)へと繋がり、近代日本のナショナリズムを、そして、昭和戦中期の皇国イデオロギーをも用意することになる>というスキームが、根本的な見直しを要請される事にもなる訳である。実のところ、この橋爪氏のスキームは、山本七平のスキームを下敷きにした誤流用、その論理を逸脱した応用といって良いが、その逸脱ぶりは、宣長に対する平田篤胤のそれを思わせるものがある。この点についても後程述べることになろう。


ついでにもう一つ挙げておこうか。橋爪氏は宣長をボッブズになぞらえているが、これも相当に無理筋の思い付きである。「神勅」と「社会契約」に<通じるものがある>と言われれば、そりゃあ<通じるものがある>でしょうねと答えるだけの事であって、こんなことを言えば、人間とエリマキトカゲにだって<通じるものがある>。後肢だけで直立歩行出来るからね。この点はご本人も自覚しているようで、面倒なので一々引用しないが、直ぐに続けて社会契約と異なる「特異点」を、七つも!挙げているのはご愛嬌と言う他ない。橋爪氏は著名な社会学者らしいが、そもそも、これだけ異なる「特異点」があるのなら「社会契約」を持ち出してくる本質的な意味合いがどこにあるんですかね、と私は言いたい。『丸山眞男の憂鬱』で橋爪氏も述べているように、<お手本となる都合のよい西洋のもの差しは存在しないのだ>。これもおいおい述べていきたいと思うが、宣長は社会思想家としてはむしろ反対に、社会契約を批判した思想家の系列に列せられる思想家であって、その発想に置いて本質的に同質の西洋の思想家として引き合いに出すとすれば、それはエドマンド・バークであろう。

面倒なので他にも一々挙げないが、この『小林秀雄の悲哀』はこういった臆断・独断の連続技で構成されていて、それが理由であろう、「小林秀雄ゆかりの出版社」には断られたらしいが、これを出版した講談社の英断には或は拍手を送るべきかも知れない。ま、予期していた事とは言え、試し読みの時の、私のベルクソン譲りというほどでもない”直観”を確認するだけの読書に終わったのは、残念と言う他はない。やれやれ。従って、この本は『恵み』だとか『ドーダ』とか『戦争の時』だとかと一緒に「小林秀雄マウンティング本」と表示された分別コンテナに放り込んで置くのに如くはない。その裡、業者が然るべく処分してくれるだろう。



とまあ言ったような事で、この『小林秀雄の悲哀』という本の個別の価値自体はそれはそれとして、『丸山眞男の憂鬱』と通して読んでみると、そこにはこの『小林秀雄の悲哀』という著作の背後に、ある一冊の本が浮き上がってくるのもまた確かなことなのであって、むしろ私の目はそちらの方に向くのである。

その一冊とは、山本七平の『小林秀雄の流儀』である。



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座右の秀雄 51

2019-08-22 18:59:53 | 小林秀雄
小林秀雄の死後、既に三十五年以上も経過しているのにも関わらず、未だに毎年のように小林に関する本が出版されているのは考えてみると不思議な現象である。学術論文では、引用や言及などのリファレンス頻度が、その論文の重要性を計る一つの大きな指標として使われているという話を聞いたことがあるが、「批評の神様」の威光冷めやらずといったところであろうか。

同時代の文芸評論と言うものを積極的に読まなくなって久しい。そのため日本の批評の現状、もっと言えば現在の知識人のレベル一般を、個人的にはこれら陸続と出版される小林秀雄論によって推し計ってきたと言っても良いのかもしれない。勿論、その総てを読んだ訳ではないので異論もあろうが、私としては評論として読むべき小林秀雄論はただ一つ、山本七平の『小林秀雄の流儀』だけであると考えている。



あとは総て、病院食の様に薄味で歯ごたえのない賛辞本か、あるいはその位置に取って代わろうとするマウンティング批判本のどちらかと言っても過言ではないとさえ思っている。それより小林本人の文章を読んでいる方がよっぽど良いといった塩梅である。結局のところ、賛否両論どちらにせよ、「批評の神様」というお化けの様な言葉にしてやられている事に変わりはないのであって、どうやら、この事実が小林について引き続き書く事を、私に要請するといった恰好である。




さて、池田雅延氏が全集発刊に際して、興味深い小林のユニバーサル・モーターの話のエピソードを書いている。『本居宣長』が出版されたのが十月だから、出版からそれ程時がたってはいない頃の話である。

<昭和五十二年の暮、「本居宣長」がベストセラーとなっていた頃のことだ。お宅へ伺い、私が売れ行き状況などを報告し終えると、「君、ユニバーサル・モーターって知ってるかい」と先生が問いかけられた。
「世界中のヨットというヨットが、みんなこのモーターを積んでいる。いま、エンジンメーカーはどこもかしこもスピードを競いあっているが、ユニバーサル・モーターだけは昔ながらのモーターを造り続けている。このモーターは、スピードは出ない、しかし絶対に壊れない。ヨットがこれを必ず積んでいるのは、帆柱が折れるなどしたとき、確実に港へ帰り着くためだ。だからスピードは必要ない、絶対に壊れないことだけが肝心なんだ」
先生の話はそれだけだった。しかし私は、先生はご自身のことを話されたのだと思った。『新潮』連載十一年半、全面推敲さらに一年、「本居宣長」に取り組まれた先生の歩みは、まさにユニバーサル・モーターだった。
・・・・・
第五次、第六次の両全集を造り終えて、私は先生のあの話を再び思い出している。「小林秀雄全集」も、ユニバーサル・モーターである。心の帆柱をまたしても折ってしまう私たちが、帰り着くべき港へと、確実に送ってもらえる不滅のモーターである。>


別に殊更に異論を唱えるわけではないが、私の感想は池田雅延氏の解釈とは少しく重点の置きどころが異なる。素直に取れば、小林はこう言いたかったのではないだろうか。

帆柱が折れた時のような緊急時に、港へ確実に帰り着くためのユニバーサル・モーターとして今度の『本居宣長』を書いたんだ。従って、私たちが帰り着くべき港とは、本居宣長その人である、と。

勿論、これは私の勝手な憶測であるが、これは小林がなぜ本居宣長を取り上げるに至ったのかという点が、ともすれば見過ごされがちであることに対する異論でもある。

またこれは、小林の批評というものは、古くは青山二郎の「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ」といった、小林の批評に対する偏見への異議申し建てでもある。勿論、小林の批評文の中には、この事が当て嵌まる作品があることは否定しないが、これを小林の批評総てに当て嵌めるのは、これまで色々と書いてきたように小林の精神の持続を見ない静態的な硬直した見方であって、『本居宣長』については「宣長をダシにして自分語りをしただけだ」といった理解は、その本質を全く見誤るものであると言わなければならない。なぜかというと、この点にともすれば小林の批評の弱点があったとする誤解が、現在も続いていると思われるからだ。
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小林秀雄 その古典との出会い―堀辰雄と林房雄を通して― 石川則夫

2018-01-01 00:00:00 | 小林秀雄
「好*信*楽」2017年12月号に石川則夫氏が寄稿した文章を興味深く読んた。


小林秀雄 その古典との出会い――堀辰雄と林房雄を通して――石川則夫


 編集後記で「この西洋から日本の古典へという舵を、小林秀雄にきらせた動因は奈辺にあったか、・・・・・石川氏の今度の論考によって、ずいぶん広く、また遠く、見通しがきくようになった」と池田雅延氏が述べているように、私と同じように色々と勉強になった方も多いのではないだろうか。石川氏の労を多としたいと思う。

 だが、果して「堀辰雄と林房雄が小林秀雄に人生の舵を大きく切らせた」とまで言ってしまって良いのであろうか。これは小林秀雄という文学者理解の根幹に関わる重要な論点であると考えるので、ここであえて疑問を呈させて頂きたいと思うのである。




<「紫文要領」の中に、「準拠の事」という章がある。文学作品の成り立つ、歴史的、或は社会的根拠です。今日の言葉で言うなら、文学が生まれて来る歴史的、社会的条件を明らかにする事、これは何も今日始った事ではない。昔から、文学研究者は気にかけていた事だ。それを、宣長は、そのような問題は詰らぬ、私には、格別興味のある事ではないとはっきり言った。どういう言葉で言ったかというと、「およそ準拠という事は、ただ作者の心中にある事にて」—。いろいろの事物をモデルにして、画家は絵を描き、小説家は小説を書く。その時、彼等が傾ける努力、それは、彼等の心中にあるあるではないか。物語の根拠というものは、ただ紫式部の心の中だけでほんとうの意味を持つ。物語の根拠を生かすも殺すも式部の心次第なので、その心次第だけに大事がある、と宣長は、はっきり言う。このような思い切った意見を述べた人は、誰もいなかった。>

 これは昭和五十三年の「感想」の中にある小林の文章であるが、『本居宣長』刊行の翌年に書かれたという事を考えると、何気なく読み飛ばしてしまうこの一節も、その意味するところはなかなかと深いと言わざるを得ない。この念を押すように挟み込んで置いた一節の、小林の「心次第」を私は想うのである。

 この「準拠の事」については『本居宣長』本文では、このようにも書かれている。

<彼は、在来の準拠の沙汰に精通していたし、「河海抄」を「源氏」研究の「至宝」とまで言っているのだし、勿論、頭からこれを否定する考えはなかったが、ただこの説を、「緊要の事にはあらず」と覚ったものがいなかった事は、どうしても言いたかったのである。註釈者たちが物語の準拠として求めた王朝の故事や儒仏の典籍は、物語作者にすれば、物語に利用されてしまった素材に過ぎない。ところが、彼等は、これらを物語を構成する要素と見做し、これらで「源氏」を再構成出来ると信じた。宣長が、彼の「源氏」論で、極力警戒したのは、研究の緊要ならざる補助手段の、そのような越権なのである。>(「十六」)

 この「準拠の事」は、いわば「思想と実生活」に関する高度な応用問題と言って良いだろうが、現在においても「素材」によって「再構成出来る」と考える一元論的思考方法の通念は根深い為であろう、『本居宣長』の他のところでも繰返し小林は論じている。

<歴史の資料は、宣長の思想が立っていた教養の複雑な地盤にについて、はっきり語るし、これに準じて、宣長の思想を分析することは、宣長の思想の様々な特色を説明するが、彼の様な創造的な思想家には、このやり方は、あまり効果はあるまい。私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れている或るものを想像するのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自な魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私の希いは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家に用いられる有力な方法とは、全く逆な向きに働く。これは致し方の無い事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私達の努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。>(「四」)

 では、この「準拠の事」は当の小林自身については、どう考えるべきであろうか。つまり、ここにももう一つの「思想と実生活」に関する高度な応用問題があると私は考えるのである。

 その答えは、やはり「ただ小林の心中にある事にて」—。つまり、「西洋から日本の古典へという舵を、切らせた動因」は、小林の「心の中にだけに大事がある」、彼の「心次第」であると言わなければならないだろう。この日本への舵を、小林に切らせた「心次第」の紆余曲折については『座右の秀雄』に書いたので繰返さないが、ここには小林自身の自己批評による「頭の中の波乱万丈」があったと私は考えている。この自己批評における深い反省こそが、小林に「西洋から日本の古典へという舵を切らせた」動因の骨髄を成すものである、そう考えるのである。この点で、石川氏の引いている小林の発言の中で私が注目するのは、「いろいろの例を挙げる場合に、どうしても日本人の言葉のほうが僕には能く解る。能く解るし、僕は、その方がね、何というのかな、云い易くなって来たのだね段々……。」という発言である。中でも取り分け注目するのは「どうしても」という言葉である。

 石川氏は「4つの文脈」を挙げておられるが、例えば戦争の小林に対する影響を過大視する山城むつみ氏の<ここで「原作」とは単にドストエフスキー作品の本文ではない。それは敗戦とともに露頭した現実である。・・・テクストさえもない、と言ってもいい>というような極論は論外としても、これ等の文脈は確かにそういう事も指摘できるのであろうが、小林に倣って言えば、これらは「小林の思想的転回の様々な特色を説明するが、彼の様な創造的な批評家には、このやり方は、あまり効果はあるまい」と思われる。それらは所詮は「準拠」に過ぎず、これをもって動因とするのは「緊要ならざる補助手段の越権」であると言えよう。

 詰まるところ、「堀辰雄と林房雄が小林秀雄に人生の舵を大きく切らせた」と言うのは当らない。それは「準拠」の過大評価であって、むしろ小林自身の創造的な批評性がそのような堀辰雄と林房雄を見出したと言うべきである。





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小林秀雄「本居宣長」全景 ー池田 雅延

2017-10-21 00:00:00 | 小林秀雄
 良く小林の本質は「詩人」だといったことが言われるが、彼の文章は一種の「詩」としてしか読まれていないように思われてならない。例えば『モオツアルト』なども「疾走する悲しみ」といったキラー・フレーズばかりが注目され、この文章全体に一貫して流れている古典派からロマン派への発展を堕落と捉える小林の音楽史的理解が注目されることはほとんどない。散文としての論理性はほとんどの場合理解されていないのが通例である。同様に小林の『本居宣長』も、精緻に読もうとすると見た目以上に難しいテキストであって、その論理構造を正確に読解した試みは、これまでにはほとんど見られなかったように思う。勿論、その総てを読んだ訳ではないが、日本文学大賞受賞時の評などが典型で、これまで書かれた『本居宣長』評は、この意味で殆どが印象批評の域を出ていないものばかりであった、そう言って良い。

「あった」と書いたのは、ところが、先日、久しぶりに「本居宣長」で検索していたら、この文章を見つけたからである。

小林秀雄「本居宣長」全景 ー池田 雅延

 私としては、これまで池田氏にはあまり良いイメージを抱いていなかったこともあって、さほど期待もせずに読み出した。それは生前中公開を厳に禁ずるという小林の明確な意思表示があったにも拘らず、死後氏が多くの講演音源を精力的にかき集めて公開し、さらに未完の「ベルクソン論」までをも全集に収録するに至ったのは、小林に対する基本的な理解という点で欠けるところがあるのではないかと思っていたからである。ところが最新の五回まで読み進んで、一読大いなる感銘を受けてしまったのである。我が意を得たり。よくぞ書いてくれた、とさえ思った。その読解は、私の氏に対する先入観なぞ吹き飛ばす見事なものであった。


<ただし折口は、直感に留まっていた。小林氏が見通しきったほどには、宣長における「歌の事」から「道の事」へを見通してはいなかった。この見通しは、小林氏の独創であった。>(四 折口信夫の示唆)

<「本居宣長」の第一章で、小林氏は、折口の思い出を語りながら、宣長の「もののあはれ」が世帯向きのことまで取り込んで「はちきれて」いたればこそ、後に一〇〇〇年以上もにわたって誰にも読めなかった「古事記」が宣長には読めたのだ、暗にそう言っていたのである。>(五 もののあはれと会う)

 

 私が思うに、これは小林の宣長理解の核心をなす部分であって、その核心部分をここで池田氏は的確に述べている。私の知る限り『本居宣長』に触れた文章で、この事を指摘した人物はいない。いわゆる「宣長問題」が良い例で、普通、宣長の古道論については「狂信的誇大妄想」だとか「国粋主義的」だとか言われるのが落ちであるが、『本居宣長』でその宣長を小林は全面擁護するだけでなく、その理解への筋道をつけて示してもいるのである。この言わば『本居宣長』という著作の肝心要の急所部分を、池田氏は我々の目の前に「ほら、これだよ」と指し出して見せている、そう言っても良い。その深い理解に私は感銘を受けたのある。

 小林は、宣長の言説とベルクソニズムの本質的アナロジーを指摘しているが、宣長の言う「もののあはれ」とは、認識論的であり、深い意味で倫理的なものであって、これをベルクソンの用語で言えば「道徳と宗教の源泉」としての「もののあはれ」ということである。従って、ここのところの理解があればこそ、宣長の古道論への思想的発展への論理的理解の筋道がつけられる事になる訳である。さらに言えば、宣長の古道論が「狂信的誇大妄想」だとか「国粋主義的」だと揶揄されるのは、ここの処の理解を踏み外しているがために、「もののあはれ」との深い関係が判らず、表面上の理解に留まっているために一見そう見えるのに過ぎない、とここで私も池田氏に倣って言えば、そう暗に小林は言っているということである。

 池田雅延氏と言えば、『本居宣長』執筆時の小林担当であった元新潮社編集者というのが現在の世間的な「肩書き」になろうが、むしろ私はここに注目すべき一人の真正な”批評家”の登場を発見したとあえて言いたいと思う。ここで”批評家”というのは、肩書や経歴以前に本質として、資質が大きくものをいうのは言うまでもない。私の見るところ、同じく小林に深く関わった編集者でありながら、この資質は郡司勝義氏にはなかったものである。

 この続き物の文章は現在執筆中ではあるが、これまで書かれた内容から見ても、恐らく小林の『本居宣長』について書かれた文章の中でも、画期を成すものになるであろうことは間違いないと思われる。次回以降の文章が楽しみである。

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日本精神分析再考(講演)(2008)ー柄谷行人

2017-09-27 00:00:00 | 小林秀雄
とても興味深い文章を見つけたので、紹介しておきます。

日本精神分析再考(講演)(2008)

「こう見ると、丸山真男がいう「日本の思想」の問題は、文字の問題においてあらわれているということがわかります。特に「歴史意識の古層」というようなもの、あるいは、集合無意識のようなものを見なくてもよい。漢字、かな、カタカナの三種のエクリチュールが併用されてきた事実を考えればよいのです。それは現在の日本でも存在し機能しています。日本的なものを考えるにあたって、それこそ最も核心的なものではないか。私はそう考えたのです。ところが、調べてみると、不思議なことに私が考えようとしたことを誰もやっていないんですね。どんな領域でも何かをやろうとすると、すでにそれに手をつけている先行者が必ずいるはずなのですが、いない。しかし、実はいたのです。それがラカンでした。」

いやいや、もう一人誰か大事な人を忘れてはいないですかね、柄谷さん。

「彼(宣長)は、思想があって、それを現す為の言葉を用意した人ではない。言葉が一切の思想を創り出しているという事を見極めようとする努力が、そのまま彼の思想だったのである。」(『本居宣長補記Ⅱ』)



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『座右の秀雄』

2017-09-01 00:00:00 | 小林秀雄


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『座右の秀雄』が出版される運びとなりました。

 出版の企図やそもそもこのような文章を書くに至った意図については、以下の「まえがき」と「あとがき」を読んで頂ければと思うが、以前からこういった文章はネットとはあまり相性が良くないというか、どうも居心地が悪いように思われて仕方がないという気持ちがあったのも事実である。その依って来る理由が何であるのかは良く解らないものの、例えば媒体のプロトコルやインターフェイスによって、読み方もまた微妙に影響を受け、その意味合いが変ってくるとも言えそうである。私自身どうかと言えば、機械端末に対するのと紙の書籍に対するのとでは、心的態度が明確に異なるのは確かである。それぞれ読んでいる時に流れている時間の質が異なると言い換えても良い。従って、紙の書籍の方が好ましく感じられるということは、私はこの本に纏めた文章をどの様に読まれたいのかをある程度想定しているという事になるのかも知れない。

 なお、出版に当たって改めて校正がてら全文を読み直す必要があった訳だが、頻発する誤字脱字に加えて自分でも呆れるほどのうっかりした事実誤認や論理的不整合性などのアラが目立ち、それを訂正するのにものぐさとしては一向に面白くもない苦行とも言える日々を過ごすこととなった次第である。やれやれ。ただし、作業中どうしても私に取りついているダイモンが加筆修正を要求すると言って聞かないので、量としては微々たるものとは言え、ロジックの上では重要な加筆や修正を行ったということは言い添えて置かなければならない、とここで勿体ぶった宣伝をして置くことにする。従って、当初の心づもりとしては、旧来の文章はそのままネット上に置いておくつもりであった訳だが、先の様な意味合いもあって、これまでの拙劣未熟な文章をこのままネット上に置いておくのは、色々と差し障りがあると判断し、引っ込める事とした。了とされたい。




まえがき

「この本に収められた文章は、もともとはブログ上にアップして置いてあったものである。ひっそりとネットの片隅に置いておくことで、少数の心ある人に読んで貰えればよい、そう漠然と考えていた。まあ、そのうちに機を見て本にするつもりではいたものの、それが自分でもいささか意外な事に、急転直下この本を今回上梓する気になったのは、書店でツンデレ本『ドーダの人、小林秀雄』鹿島茂著を見付けたからである。生前の小林秀雄高評価に対する反動もここに極まれりとの感を抱いたからである。機が熟したのを知ったと言っても良い。

 とは言っても、何も私は鹿島氏の小林に対する否定的なスタンスが必ずしも気に入らない訳ではない。また「ドーダ」とか「ヤンキー」だとか「ユース・バルジ」とか「集団的アモック」だとかの道具立て自体が気に入らない訳でもない。ただ、その道具立てが道具立て倒れに終わっているのが単に頂けないだけなのである。呆れる程と言ったら言い過ぎであろうが、底の浅い読みやピント外れの考察が文字通り「ド―ダ」と言わんばかりに陸続と繰り出されるのに、読んでいて辟易したのは私だけであろうか。ここでその一例を挙げれば、長谷川泰子と小林の恋愛である。SだのMだの鹿島氏はノリノリで書いているようだが、私にはあくびが出る体の退屈な文章であった。ここには恋愛における人間的眞實に対する洞察の一片の閃きすらも何ら見られない、そう言ったらあんまりな評であろうか。思うにこの恋愛の本質は小林が中原中也の恋人を奪ったという点にあるのであって、この三角関係についてはこれまでにも色々と取り沙汰されて来てはいるが、私には「韋駄天お正」の洞察が唯一事の本質をピンポイントで打ち抜いていると思われる。その恐ろしい文章を鹿島氏の考察との対比の意味で、ここで引いて置くのも良いだろう。なお文中「お佐規さん」とあるのは泰子のことである。

「男同士の友情と言うものには、特に芸術家の場合は辛いものがあるように思う。中原中也の恋人を奪ったのも、ほんとうは小林さんが彼を愛していたからで、お佐規さんは偶然そこに居合わせたにすぎまい。彼女に魅力がなかったらそれまでの話だが、あいにく好みが一致しているのが友達というものだ。それは陶器にたとえてみればすぐ解ることで、親友が持っているものは欲しくなるのがふつうである。このことは同性愛とは何の関係もないもので、男が男に惚れるのは「精神」なのであり、精神だけでは成立たないから相手の女(肉体)がほしくなる。と、まあそんな風に図式的にわり切ったのでは身も蓋もないが、私はそういう関係を見すぎたために、無視することができないのだ。
「親友と云うものの中には此の世では親友としては交わって行けない、そういう親友だってあるのだから、仮にそれがピッタリいったとしたら余程めぐまれていると思っていいのだろう。併し、非常に低い処でしか、そんな幸運にはめぐまれないものである。」(『世間しらず』)
 この言葉は真実を語っている。「高級な友情」というものは、畢竟するところ濁世ではゆるされぬものなのだろう。」(白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』)

 結局のところ、本文中で触れておいた橋本治氏の『小林秀雄の恵み』を経由してこの『ドーダの人、小林秀雄』に至るに及んで、とうとう批評という文学形式の堕落もここに極まったのではないか、この本の出現は、批評という文学形式の自己解体も、行くところまで行きついたという証左ではあるまいか、そう私には思われたという事である。これは何も批評に限らないとは言え、文学がかっての輝きを失って久しいが、取分け批評という文学形式においてはそれが顕著なのは、マウンティングというこの形式に顕著な悪弊へとあまりに傾斜し過ぎたがためであると思うのは、私だけではあるまい。実はこの悪弊に対する平衡感覚こそが、批評家としての欠くべからざる必須の資質要件ではあるのだけれども。

 それはさておき、これまで書かれた総ての小林秀雄論に私が覚える不満は、一体全体小林秀雄という文学者はその批評家人生においてどのような難問に逢着し、ためにどのようなテーマを課題として持つに至ったのか、或は持たざるを得なかったのかという点に関する考察や洞察が、殆ど見られない点である。思うに、既存の小林秀雄論の殆どは、小林に寄り添うにせよ反発するにせよ、その基本的属性はこの意味においてスタティックなものばかりであって、その精神の持続におけるダイナミックな紆余曲折に迫ろうとした論考は殆ど見られないと言って良い。唯一、山本七平氏のものを覗いては。ここで大口を叩くつもりはないけれども、私としては、小林の言葉を借りれば、「小暗いところで、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合なわかり方」をした私なりの小林像を手ずからに、いささかなりともダイナミックに描いてみたつもりある。この意味ではここに提示された小林像は、予定調和的なそれではなく軋轢型のそれである、そう言っても良い。言うまでもなく、それが成功したかどうかは、実際に読んで頂く他はないのではあるけれども。

 なお、ここに纏められた文章は2011年1月から2016年2月に懸けて断続的に書かれたものである。そのために吉本隆明丸谷才一両氏の逝去や雑誌「考える人」特別付録の小林・河上最後の対談音源の公開などの”偶発事”によって図らずも論理展開に曲折を強いられることになった。考えるところあって、必要最小限の加筆修正だけにとどめ、そのまま公表することとした。年数などの数字もあえて当時のままにして置いた。了とされたい。」




あとがき

「これでようやく四十数年来の宿題を果たせたという思いでほっとしている。ここで宿題というのは、言って見れば小林から渡されたバトンを次の世代の走者に渡すという独り善がりの勝手な思い込みのことであるが、独り善がりとは言え、長年に渡り重荷になっていた義務を果たすことが出来た達成感と開放感とがないまぜになった充実した空虚感の中にいる、というのが偽らざる気持ちである。小林を語るに当たって逸してはならない重要な論点は、一通り網羅して置いたつもりではあるが、これから小林を身を入れて真摯に読んでいこうという若い人には、私の描いた小林像を踏み台にして乗り越え、さらにその先へ、小林の全文業という豊富な沃野へと、ぜひとも突き進んで貰いたい、そう強く願う次第である。
 それから最後に付け加えて置かなければならないのは、小林に倣って私もまた「一度読んでもなかなかわからない工夫」をして置いたという事である。それを頭の片隅に置いて読んでいただければ、著者の喜びこれに過ぐるはない。」
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「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」

2016-03-20 00:00:00 | 小林秀雄

 先日のことだが、「埴谷雄高の小林秀雄評」という以前のエントリーを読み返していて、改めて永松昌泰氏のブログの文章をこれまた読み返していたのだが、以前は気付いていなかった興味深いある事実に気付いた。いやはや、我ながら鈍感にもほどがあると今さらながらに呆れた次第であるが、それは「小林秀雄、杉本春生、埴谷雄高さんのこと(2)」という文章で述べられている対談が、外でもない「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」のことであるのに、今になってやっと気づいたからである。

 ここで述べられているのは、「近代文学」同人側(荒正人・小田切秀雄・佐々木基一・埴谷雄高・平野謙・本多秋五の五人)からの言わば楽屋話であるが、この楽屋話は私にこの対談をどうしてもある種の深読みに使嗾するのを禁じえないのである。



「対談を申し入れて、小林秀雄から承諾の返事をもらうと、
五人は小林秀雄を徹底的に論破しようと、
連日夜を徹して議論を重ねました。

そして、その日を迎えました。


結果は・・・・・
惨敗・・・・・


五人は小林秀雄に徹底的に、
完膚無きまでに論破されたのです。
その夜、五人はヤケ酒を飲みました。
あんなに予行演習を重ねたのに、
まったく役に立ちませんでした。
しかし、余りにも完全に打ちのめされたので、
妙にさっぱりしたヤケ酒だったそうです。」



 対談相手の「近代文学」の五人が、事後にこのような感想を抱いていたという事実も、興味深いと言えば興味深いが、それよりも私が瞠目したのは、これに続く部分である。



「しかし、それで話は終わりではありませんでした。
その対談の速記録が、小林秀雄に回されて、
手を入れられて返ってきたのです。

速記録は、あらゆる発言に手を入れられて、
大幅に書き換えられていました。
小林秀雄自身の発言だけではなく、
五人全ての発言にも徹底的に手を入れられていました。


最初は「何だこれは!」という反応でした。
「自分の発言を直すのは良いけれど、
他の人間の発言に手を入れるとは、なんたること!
どういうことだ!」
という感じでした。


しかし、手を入れられた自分の発言を読んでみると、
唖然、呆然、愕然としました。

五人の発言はすべて、
「そうだ! 本当は俺はこう言いたかったんだよ。
正に言いたかったことは、これなんだ!」
と思わずうなってしまうように、見事に書き換えられていたのです。

発言した時には必ずしも明らかではない真意が
素晴らしい形で美しく表現をされていました。

そしてその上で、
小林秀雄は完膚無きまでに、
五人を徹底的に論破していたのです。


それを読んだ五人は、正に放心状態。
完全にノックアウトされてしまいました。

しばらくの間はため息ばかり、
全く仕事にならなかったそうです。」



 実際の速記原稿が残っているとは到底思えないが、特に有名な「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない。・・・僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という発言の前後の文章が、一体どういう風に小林によって「徹底的に手を入れ」られ、「見事に書き換えられていた」のか、残っているならぜひ読んでみたいものである、そう思うのは私だけであろうか。

 というのは、この有名な小林の発言から受ける第一印象は、一種苦し紛れの啖呵的放言とも取れるからだ。だがむしろ事実は逆で、発言に手が入れられて「発言した時には必ずしも明らかではない真意が、素晴らしい形で美しく表現」され直されているということは、小林は書き直すことであえて自ら窮地に陥って見せ、それを逆手に取ることでもって自らのこの戦争に対する見方を積極的な形で打ち出そうとしたのではあるまいか。もってこの対談を、自らの歴史観を明確に述べる好機としたのではあるまいか。もう何度も読み返しているが、この一節を読む度に私はそういった深読みへと誘われて仕方がないのであるが、どう思われるであろうか。

 つまり、私はここに、誤解を招く言い方で言うなら、小林特有の、時局に非常に鋭敏なジャーナリスティックな感性に裏打ちされた、比類のない見事な思想表現の果敢な表出行為を見るのである。そう言ったらこれもまた余りに贔屓の引き倒しに過ぎる発言だと言われるであろうか。恐らく、この比類のなさが、戦後70年以上も経った現在に置いても、この発言が事あるごとに引用され、今だに賛否両論を巻き起こし続けている、言わば火薬庫たる理由であろう。





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『最果てにサーカス』

2016-03-04 00:00:00 | 小林秀雄
 
「座右の秀雄」にひとまずケリをつけたこともあって、何とは無しに小林秀雄をググってみたところ、どうやら少し前に小林と中原を題材に取った連載マンガが始まっていたらしい。マンガに限らず、小説などもそうだが、全くと言って良い程新しいものには手が伸びないでいる私には、最初はふーんという感じで特段気にも止めなかった。だが、その中にこの単行本の画像をアップしているものがあって、それを見た瞬間、これは何としても読まなければならないと思った。帯の文句が私をいたく刺激したからである。心を打ち抜かれたと言っても良い。





 これには、すこしばかり説明がいるかも知れない。あれは高校三年の国語の最終授業であったから、もう四十年以上も前の事である。国語の先生が、今日は最後の授業だから私の一番好きな詩人を紹介しますということで、時間を丸々全部使って中原中也という詩人について色々と話された。最初に黒板に書かれたのが「汚れつちまつた悲しみに」の詩で、書き終えるとあろうことか私を指して感想を聞かれたのであった。「**君、この詩どう思いますか?」と。これに対し、「悲しみが汚れるという発想がとても斬新で、凄く良いです」と答えたところ、一笑に付されることとなった。「そうじゃないでしょ。普通に読めば”汚れつちまつた”の主語は、自分つまり作者でしょう」と。
 というようなことで、有名なこの「汚れつちまつた悲しみに」の詩が、一般にどちらの意味で取られているのか知る由もないし、自分の解釈の方が正しいのだと主張するつもりもないけれども、この「悲しみよ、汚れつちまえ。」というコピーに私としては著者に拠所ない親しみを抱いた次第である。おお、ここに同類がいる、と。

 そして、その親しみはこのマンガを描く経緯について書かれた「詩を漫画にする ―中也と秀雄を描く」(新潮 2015年8月号)という文章を読むに至って、いやが上にも増すこととなった。そこには芸術家間の精神的遺伝とでも言うべき文学的遭遇が、明晰に描かれていたからである。自らの才能と情熱を傾けられ得る運命的な対象に出合った作家の喜びが、過不足なく綴られていたからである。読んでいてこれは紛れもない達意の文章だと私は非常に感心した次第であるが、どう思われるであろうか。それにしても、女史は中也も秀雄も全く知らなかったとは驚きである。


「去年の秋頃、小学館の編集者H氏から中原中也と小林秀雄の漫画を描いてみないか、と言われた。文学に明るくないわたしはそのとき中也と秀雄、そして長谷川泰子の三角関係を全く知らなかった。恥ずかしながら詩も評論も殆ど読んだことがない。
 そんなわたしになぜH氏が「描かないか」と言ったかというと、初めての長期連載が高校生の三角関係を軸にしたものだったからだろう。女が女を好きになったことから始まる傷つけ合いの泥仕合、それを経て得る永遠のような友情。その作品をまる三年かかって描き終えたばかりで、当時のわたしは心身ともに疲弊していたように思う。
・・・
 いろいろな人がわたしの前にやって来て、いろいろな企画を提案してくれたりもする。話を聞いている間は、おもしろそう、やってみようかな、と思える。だが実際は身体が動かない。ふんばりがきかない。次回作に対してなんのモチベーションもなかった。きっとわたしはこのまま代表作らしいものも残せず消えていくのだな、でもそれならそれで仕方ないかもしれないな、などと考えながらふらふらしていた。
・・・
 あまり気乗りしないまま、貰った資料を取り敢えず読んでみる。中也の詩集は文庫版を鞄に入れて移動中に読むようにした。評伝などにも目を通すが、初めは目が滑ってなかなか頭に入ってこない。
 しかし詩集を3周くらいしたとき、不思議なことに急に視界が開けた。詩が心にすっと入ってくるのがわかった。染み入るとはこういうことか。中也の詩からは高く抜ける青空が見えた。そして風が吹いていた。美しい反復は音楽のようだ。揺れる山手線の中で涙をこらえるのに必死な自分に衝撃を受け、そしてそれがとても嬉しかった。
・・・
 そのシーンをネームで描いた時、直観的に「わたしはこの作品を描くことができる」と確信した。
・・・
どちらもきっと魅力的に、実在感を持って描ける、そう思った。
 ふらふらしていた自分の頭も急にしゃっきりとなって、ふたりの物語に全てを傾けられる気がした。それは自分にとっても切望することであった。情熱を傾けられる対象に出合えないままでいたら、作家としての自分は死んだも同然なのだから。」


 私には、編集者H氏の慧眼は総てを見通していた様にも思われるが、この『最果てにサーカス』については、賞賛と共に例によって史実と違うとかキャラクター・イメージが違うとかの難癖がいろいろと付けられているようだ。うるさい事である。少しでも考えてみれば判るが、一般に言われているノン・フィクションなどというものは絵空事である。ノン・フィクションさえもフィクションの一類型であることは、作家の想像力なくしては一行の文章もワンカットも描くことが出来ないことを考えてみればすぐに判ることである。余計な先入観なぞは捨てて、作品そのものを味わうに如くはない。

 ともあれ、次の文章に伺えるこの三角関係についての月子女史の洞察は、中也にも秀雄にも四十年以上も親しんでいる私にとって、目を見張るものであった。私の知る限り一人を除いては、この三角関係についてこのような恐ろしい言葉を書いた人はいない。(女史は「この作品」とか「この漫画」と書いているが、それらを「この三角関係」と読み換えても何ら差支えない。従って以下の引用では勝手にそう書き換えて置いた。カッコ内が元の言葉である。)


「資料を読んでいくうちに、初めのコンセプトであった三角関係そのものへの興味は薄れていき、中也と秀雄それぞれの人生に興味を持つようになった。
・・・
 タイトルは散々迷った末に『最果てにサーカス』とした。
 唯一無二の友情を互いに感じつつも三角関係に苦しみ抜き、皮肉にもそのことによって中也の「詩」だけはどんどん研ぎ澄まされていく。人間が犠牲になる故の芸術の昇華。中也は詩のなかで自分を道化に例えることがあったが、この三角関係(作品)では中也のみならず、小林もまた道化である。
 一方、この三角関係(漫画)においての泰子というキャラクターは、中也と秀雄の関係性を攪拌し変化させるための「装置」になる。」


 とこう書いてきては、当然のことながらやはり「韋駄天お正」の筆になるもう一つの恐ろしい言葉も引いて置かなければならないだろう。なお、文中「お佐規さん」とあるのは泰子のことである。


「男同士の友情と言うものには、特に芸術家の場合は辛いものがあるように思う。中原中也の恋人を奪ったのも、ほんとうは小林さんが彼を愛していたからで、お佐規さんは偶然そこに居合わせたにすぎまい。彼女に魅力がなかったらそれまでの話だが、あいにく好みが一致しているのが友達というものだ。それは陶器にたとえてみればすぐ解ることで、親友が持っているものは欲しくなるのがふつうである。このことは同性愛とは何の関係もないもので、男が男に惚れるのは「精神」なのであり、精神だけでは成立たないから相手の女(肉体)がほしくなる。と、まあそんな風に図式的にわり切ったのでは身も蓋もないが、私はそういう関係を見すぎたために、無視することができないのだ。
「親友と云うものの中には此の世では親友としては交わって行けない、そういう親友だってあるのだから、仮にそれがピッタリいったとしたら余程めぐまれていると思っていいのだろう。併し、非常に低い処でしか、そんな幸運にはめぐまれないものである。」(『世間しらず』)
 この言葉は真実を語っている。「高級な友情」というものは、畢竟するところ濁世ではゆるされぬものなのだろう。」(白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』)





 私にはどうしても、中也と秀雄の関係は、青山二郎と秀雄の関係同様小林自身が書いているランボーとヴェルレーヌ、ゴッホとゴーガンの関係に重ねて見てしまわざるを得ないのであるが、或はこうパラフレーズしたとしたら、いささか類型的図式的に過ぎるであろうか。


「どうあっても二人だけは結び附けねば置かぬ、二人の知らぬ力があった。その同じ力が二人を引きちぎる。この二人も亦、互いに敬愛しながら、屡々「放電を終わった蓄電池様に沈黙した」であろう。こういう分析の仕方は、かなり危険なのであるが、敢えて言えば、中也にはゴッホやヴェルレーヌに似たところがあり、秀雄にはゴーガンやランボオに似たところがある。また、こういう言い方が許されるならば、文学という太陽を中心にして、中也という惑星と秀雄という惑星の二つの軌道は殆ど重なり合うところまで接近するが、また微妙な軌道曲線の違いから離れていくのである。ここで言う軌道曲線の違いとは、中也という個性と秀雄という個性の違い、言い換えればその文学に対する信仰における引力と斥力の違い、そう言ってもいいだろう。」


 それにしても月子女史といい正子女史といい、やはり女性の直観ー洞察力とは恐ろしい!そう思うのは私だけであろうか(笑)。








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