『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

因縁と先例24【信長は今川勢に向かって攻め下ったか?】

2010-05-05 12:55:29 | 因縁と先例
以前信長が桶狭間の軍のとき、今川義元の陣に「攻め

下る」ように思われていたのは、源平盛衰記で義経が

鵯越を落す場面からの類推と思われます。すなわち、

江戸時代の読者も信長公記と源平盛衰記を読み比べて

いた証拠といえます。


大久保彦左衛門尉忠教(ただたか)著の三河物語には、

桶狭間の今川陣が崩れるきっかけがきちんと書いて

あります。それによると、今川勢が進軍中三河勢を

馬鹿にして軍議に入れなかったところ、桶狭間山から

信長の軍を見た三河武士の石河六佐衛門尉が「上から

見れば兵数は少なく見えるもの。またどこの城を

攻めるかどこに移動するかの評定で時間を無駄にして

いては、いいことはおきない。はやく帰陣すべし!」

と叱責します。「すでに登り始めた信長勢を見た駿河

勢が慌てふためき、散り散りに逃げ始め負け戦になった」

とはっきり書いてあります。


源平盛衰記巻三十六に「一陣破れて残党全からず」

(主力が破れると残りの者は逃げ散ってしまう)とあり

ます。敵将今川義元を討ち取ったとはいえ、駿河の太守

の軍が破れる様子を目の当たりにした信長の心境は

いかばかりだったでしょうか?

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