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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻二の六 信長、三河に出陣すること

2025-04-13 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の六 信長、三河に出陣すること

 年明けて永禄四年(一五六一)、経済面では織田

上総介信長・丹羽五郎左衛門長秀・柴田権六勝家の

想定通りに事が運んでいる。また特段他国の軍勢が

尾張に攻め込んで来ないのも想定どおりである。

 ただこれも想定どおりだが、『三河の無作法者』

『三河の大たわけ』-松平二郎三郎元康(のちの徳

川家康)がまたわけのわからない行動に出てきた。

この時点で尾張側は三河地域について「自領に取り

込んだ」ともなんとも主張していないのに、何と元

康は広瀬・沓掛・挙母・梅ヶ坪・小河・寺部・刈谷

を転戦し、あろうことか今川方の板倉重定を中島城

から岡城へと攻め立てている。これらの情報は岩崎

城の丹羽氏勝と東部方面管掌の柴田勝家が、中立的

家柄水野家を含む『風・鳥・草』の織田流情報網で

確認しているので間違いない。周辺諸国は松平元康

のことを、「今川治部少輔義元殿が討ち果たされた

ため、小さい頃から駿府で世話になった元康が三河

岡崎城に籠もり、今川方として尾張国境を見張って

いる」と見ているわけであり、その元康が三河の城

を攻撃してしまっては、「何だ、単なる火事場泥棒

ではないか!」と悪評を撒かれてしまう。そうなる

と駿河の今川方・甲斐信濃の武田方に三河へ乱入す

るきっかけを与えてしまい、三人の構想実現に大き

な障害となってしまう。これは黙視するわけに行か

ない事態である。このとき織田信長・丹羽長秀・柴

田勝家の三人が緊急会議を開いたが、「朝廷も尾張

周辺諸国も、『尾張が火事場泥棒松平元康を征伐し

て三河を元々の所有者である今川家か朝廷に一旦は

戻すのが無理の無い筋立て』と思っている」という

見解で一致した。わけのわからない事態に直面した

ときは、正しい道筋で考え『世間』の見方に沿って

動くほうが無理の無いことを三人とも熟知している。

桶狭間のときの無作法を根に持っている三人は、即

座に三河の松平元康を攻撃する方針を固める。

 今回も織田流の攻撃方法をとる。すなわち岡崎城

までの各城の武将を調略し、「共同で元康を攻撃す

るか尾張方が元康を攻撃するのを妨げない」という

状態にしておき、最終的には岡崎城を包囲し、朝廷

から大義名分を得たうえで開戦し、元康を自滅に追

い込むという作戦である。

「そういえば今をさること四十五年前、殿の尊敬す

る伊勢宗瑞殿(北条早雲)も相模岡崎城の三浦義同

(よしあつ)を追い込み征伐しましたな。同じ岡崎

城ということで不思議な因縁を感じますな」

「うむ。五郎左衛門の言うとおり!」

二人が言っているのは、北条早雲に攻められて相模

岡崎城から住吉要害→三崎城→新井城と追い込まれ、

永正十三年(一五一六)七月まで四ヶ月の籠城のす

え、城外に討って出て自刃した三浦義同のことを指

している。この、「兵粮がなくなるまで許さない」

という残酷な「干殺し(ひごろし)戦法」は、「名

高い伊勢宗瑞殿が採った戦法だから」という理由で

のちに多くの武将が採用することになる。

 永禄四年(一五六一)四月上旬、手始めに信長の

軍は梅ヶ坪を攻撃し、高橋郡・加治屋村・伊保城・

矢久佐城に放火等を行う。桶狭間のときに、事前打

ち合わせで「今川軍が進軍してきたときに、『今川

勢に協力する』といいつつ手を抜く」という、尾張

に巧妙に協力した地域だったので、信長としては非

常にやりにくい攻撃ではあった。例えて言えば「ご

めんな!ごめんな!」と頭を下げながら攻めるとい

う、奇妙な戦いである。

 そうした矢先、現地からは「いくらなんでもあん

まりだ!」と率直な苦情があがってきていたが、松

平元康からも何と「降参したいので、自ら清洲まで

参上したい」という申し出があがってきたのである。

最初は「降参を隠れ蓑にして天白川近辺まで取り戻

す策略か」とも疑われたが、すぐに参集できる三河

衆の軍兵数を推定し、岩崎城や水野家の使いの者の

情報を総合すると、どうも正直に「降参したい」と

申し出てきているらしい。こうなると弱ったのは逆

に尾張のほうで、振り上げたこぶしをおろす場所が

無い。しかも「降参したい」といわれたからと言っ

て「今川義元亡き後の火事場泥棒を許した」とあっ

ては『尾張織田』の名前が地に落ちる。これには三

人とも頭が混乱し、弱り果ててしまった。

「どうしたものかのう、五郎左衛門」

「まあとりあえずは元康を清洲に呼んで、話を聞く

しかなかろうと思いますが」

「う~む。仕方無いとは思うが、軍の無作法者を尾

張領に入れさせてよいものかどうか・・簡単に入国

を許すと周辺諸国から『桶狭間後の織田の言い草は

全くの嘘であった』と思われるのが落ちであろう。

どうだ?」

「いや~、それは殿の仰せの通り・・どうしたもの

か・・」

「さすればこの権六が、三河国境で松平元康と非公

式に接触し、尾張に入国させず事を進めるしかあり

ませんな」

三人合意の上で権六の考えた筋立てを採用し、直接

元康とは会わず使いの者を行き来させることで元康

の意向を確かめることにしたのであった。元康に、

自分に限りない運と可能性があることに気づかせな

いよう、かつまた尾張の立場・面目が保たれるよう

元康に罰を与える形にしなければならず、関係者全

員非常に繊細な言い回しを貫く必要があった。


【備考】

織田信長と松平元康が尾三同盟の一年前に接触した

可能性があることについては、

*「学研歴史群像シリーズ五0戦国合戦大全」中の

「徳川家康の戦い:橋場明」

*「学研歴史群像シリーズ十一徳川家康」中の「ド

キュメント家康Ⅱ:小和田哲男」

から引用しました。

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

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