<初出:2007年の再掲です>
巻二の四 『二寸殿(にきどの)』のこと
丹羽長秀もできるだけのんびりと、できるだけ敵
の目の届く木曽川に近い街路を、愛馬『二寸殿(に
きどの)』にまたがって行く。金糸・銀糸の『狩衣』
であでやかに着飾り、『二寸殿』も轡・貝鞍(螺鈿
細工の鞍)・泥障(あおり)・鐙・腹帯(はるび)
に鞦(しりがい)と皆具に仕立て、総体に金覆輪を
ほどこしてあり、目もくらむようなきらびやかさで
ある。『二寸殿』もこれには上機嫌らしく、しきり
に長秀の握る手綱を「ぐいっ、ぐいっ」と前に引っ
張って鼻を鳴らし、「いいね、いいね」と主人に伝
える。
丹羽長秀が二寸殿にであったのはいまから三年ほ
ど前の弘治三年(1557)年末、織田信長が舎弟
勘十郎信行を誅殺した一件の直後であった。出合っ
た時三歳の駒であったので現在は五歳ということに
なる。当時日本では南部(陸奥・陸中=青森・岩手)
の駒が飛び切り有名で、また飛び切り高価でもあっ
た。というのも、日本全国で有名なため馬の価格自
体が高い上に、馬喰が南部から都まで往復する輸送
経費が加算されるからである。尾張国では名馬を購
入するというよりも、『飛び馬』として「長い時間
倒れず走る馬」を求めていたので、もっぱら近隣の
飛騨・木曽や越中の『脚の強い馬』を購入していた。
ちなみに馬は上背を地面から肩までの高さではかり、
四尺(約121cm)が大きい馬の評価基準となっ
ていた。源平盛衰記では四尺七寸(よんしゃくなな
き=約142cm)で「太くたくましい馬」と記さ
れている。(注1)
ある時、飛騨・木曽の馬喰が上半身を真っ黒に汚
し、ぐったりして岩崎城下に馬を引いてきた。通常
であれば門を開け城内で価格交渉を始めるのだが、
門番が「あまりにもくさいので城外で待機させてあ
る」と申上してきた。五郎左衛門が門外に出てみる
と、小さい馬が糞をひり散らしながら大暴れしてい
るので、馬喰以外近づけない状況であった。馬喰が
ぐったりしている理由も、一目見ただけでわかる。
おそらく木曽の谷からここまで三十八里(約150
km)を六日ほどかけてたどり着いたのだろうが、
寝ずに世話していたようすがありありである。当の
馬喰も主たる丹羽長秀が出てきたというのに、
「だからわしはこんな馬つれてきたくは無かったの
だ。もうどうにでもしろ!わしゃ知らん!」
とわめき散らしている。ところがどうしたことか、
五郎左衛門がその馬に近づき目を合わせると、“ぶ
るるっ”と鼻を鳴らして急に静かになったので、馬
喰もあっけに取られている。正気を取り戻した馬喰
がやっと、厩で馬体を全てきれいに洗い上げたので
あった。その後も他のものが近づくとすこぶる機嫌
が悪く、五郎左衛門がそばにいるときだけ機嫌がよ
かった。
木曽からつれてこられたこのはた迷惑な馬は、肩
の高さ四尺二寸(よんしゃくにき=127cm)し
かなかったため、もともと『木曽二寸(きそにき)』
と呼ばれていた(注2)。体は小さいがすばしこく、
木曽の山道できたえられた脚力をいかして、八方飛
びのように一瞬で飛びのく特技を持っていた。前足
を微妙に折りたたみながら後ろ足を蹴り上げるよう
にしてえびぞりし、思いっきり後方に飛び退るので
ある。この変わった飛び方が京の五条の橋の上でか
ろやかに弁慶の攻めをかわした牛若丸(=源義経)
を思い起こさせ、『五条二寸(ごじょうにき)』と
改名された。この『五条二寸』は木曽にいたとき、
気が向かないと全く動かないくせに、いくさ場で相
手が強敵と見ると乗り手の手綱さばきを無視して敵
陣に突進する癖があり、猛突進して急に止まるわ八
方飛びで飛び退るわで、全んどの乗り手を敵陣で振
り落としてしまった。そのためこれまでこの馬に乗
って戦に出て、生きて帰れた木曽の武将は一人もい
なかったそうである。またいくさ場で興奮すると、
八方飛びをしながら糞をひり散らすという悪癖をも
っており、『五条二寸』の乗り手を討ち取った敵将
も乱戦の最中に糞まみれとなり、勝っても身方から
笑われるという、実に情けない有様である。身方か
らも敵からも全く嫌われていた。長秀が馬を予約す
るときに木曽駒を管理する武田家から「この馬だけ
はやめておいたほうがよい」と何度も忠告されたが、
信長・勝家が面白がり、自分でも「そこまでひどい
馬なら見てみたい」という天邪鬼的興味から注文を
入れたのであった。
最初のこの様子を見た城下の民からは、『糞二寸
(クソにき)』と陰口を叩かれたが、その後、身の
丈六尺の長秀が四尺二寸の小さい馬と心を合わせて
乗りこなし、数々の実績を上げる様子を見ると、尊
敬の意味をこめていつしか『五郎二寸(ごろうにき)』
と呼ばれるようになった。また馬に乗った丹羽長秀
に家臣が「殿っ、殿っ」と呼びかけるのを、自分が
そう呼ばれているのと勘違いして鼻を振るって喜ぶ
ので、家臣たちも冗談でこの馬に『二寸殿、二寸殿!』
と呼んでいたところ、この呼び方が清洲などにも伝
わり通例となったのであった。
尾張に入って二年もたつと、二寸殿も堂々とした
ものである。今日もすばらしい馬具を身にまとい、
丹羽長秀をのせて未だ猛暑の木曽川沿いの道を行く。
肩高に比べてふさふさと豊かな黒いたてがみが、木
曽の川面の秋風にたなびいている。川沿いの道を悠
然とまっすぐと「二人で」進んでいく。
注1)現代のサラブレットは肩高160~170cm
なので当時の『大きい馬』はかなり小さい
注2)古語で「寸」という字を「き」と読んだ。し
たがって 「二寸」と書いて「にき」と読む
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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>
巻二の四 『二寸殿(にきどの)』のこと
丹羽長秀もできるだけのんびりと、できるだけ敵
の目の届く木曽川に近い街路を、愛馬『二寸殿(に
きどの)』にまたがって行く。金糸・銀糸の『狩衣』
であでやかに着飾り、『二寸殿』も轡・貝鞍(螺鈿
細工の鞍)・泥障(あおり)・鐙・腹帯(はるび)
に鞦(しりがい)と皆具に仕立て、総体に金覆輪を
ほどこしてあり、目もくらむようなきらびやかさで
ある。『二寸殿』もこれには上機嫌らしく、しきり
に長秀の握る手綱を「ぐいっ、ぐいっ」と前に引っ
張って鼻を鳴らし、「いいね、いいね」と主人に伝
える。
丹羽長秀が二寸殿にであったのはいまから三年ほ
ど前の弘治三年(1557)年末、織田信長が舎弟
勘十郎信行を誅殺した一件の直後であった。出合っ
た時三歳の駒であったので現在は五歳ということに
なる。当時日本では南部(陸奥・陸中=青森・岩手)
の駒が飛び切り有名で、また飛び切り高価でもあっ
た。というのも、日本全国で有名なため馬の価格自
体が高い上に、馬喰が南部から都まで往復する輸送
経費が加算されるからである。尾張国では名馬を購
入するというよりも、『飛び馬』として「長い時間
倒れず走る馬」を求めていたので、もっぱら近隣の
飛騨・木曽や越中の『脚の強い馬』を購入していた。
ちなみに馬は上背を地面から肩までの高さではかり、
四尺(約121cm)が大きい馬の評価基準となっ
ていた。源平盛衰記では四尺七寸(よんしゃくなな
き=約142cm)で「太くたくましい馬」と記さ
れている。(注1)
ある時、飛騨・木曽の馬喰が上半身を真っ黒に汚
し、ぐったりして岩崎城下に馬を引いてきた。通常
であれば門を開け城内で価格交渉を始めるのだが、
門番が「あまりにもくさいので城外で待機させてあ
る」と申上してきた。五郎左衛門が門外に出てみる
と、小さい馬が糞をひり散らしながら大暴れしてい
るので、馬喰以外近づけない状況であった。馬喰が
ぐったりしている理由も、一目見ただけでわかる。
おそらく木曽の谷からここまで三十八里(約150
km)を六日ほどかけてたどり着いたのだろうが、
寝ずに世話していたようすがありありである。当の
馬喰も主たる丹羽長秀が出てきたというのに、
「だからわしはこんな馬つれてきたくは無かったの
だ。もうどうにでもしろ!わしゃ知らん!」
とわめき散らしている。ところがどうしたことか、
五郎左衛門がその馬に近づき目を合わせると、“ぶ
るるっ”と鼻を鳴らして急に静かになったので、馬
喰もあっけに取られている。正気を取り戻した馬喰
がやっと、厩で馬体を全てきれいに洗い上げたので
あった。その後も他のものが近づくとすこぶる機嫌
が悪く、五郎左衛門がそばにいるときだけ機嫌がよ
かった。
木曽からつれてこられたこのはた迷惑な馬は、肩
の高さ四尺二寸(よんしゃくにき=127cm)し
かなかったため、もともと『木曽二寸(きそにき)』
と呼ばれていた(注2)。体は小さいがすばしこく、
木曽の山道できたえられた脚力をいかして、八方飛
びのように一瞬で飛びのく特技を持っていた。前足
を微妙に折りたたみながら後ろ足を蹴り上げるよう
にしてえびぞりし、思いっきり後方に飛び退るので
ある。この変わった飛び方が京の五条の橋の上でか
ろやかに弁慶の攻めをかわした牛若丸(=源義経)
を思い起こさせ、『五条二寸(ごじょうにき)』と
改名された。この『五条二寸』は木曽にいたとき、
気が向かないと全く動かないくせに、いくさ場で相
手が強敵と見ると乗り手の手綱さばきを無視して敵
陣に突進する癖があり、猛突進して急に止まるわ八
方飛びで飛び退るわで、全んどの乗り手を敵陣で振
り落としてしまった。そのためこれまでこの馬に乗
って戦に出て、生きて帰れた木曽の武将は一人もい
なかったそうである。またいくさ場で興奮すると、
八方飛びをしながら糞をひり散らすという悪癖をも
っており、『五条二寸』の乗り手を討ち取った敵将
も乱戦の最中に糞まみれとなり、勝っても身方から
笑われるという、実に情けない有様である。身方か
らも敵からも全く嫌われていた。長秀が馬を予約す
るときに木曽駒を管理する武田家から「この馬だけ
はやめておいたほうがよい」と何度も忠告されたが、
信長・勝家が面白がり、自分でも「そこまでひどい
馬なら見てみたい」という天邪鬼的興味から注文を
入れたのであった。
最初のこの様子を見た城下の民からは、『糞二寸
(クソにき)』と陰口を叩かれたが、その後、身の
丈六尺の長秀が四尺二寸の小さい馬と心を合わせて
乗りこなし、数々の実績を上げる様子を見ると、尊
敬の意味をこめていつしか『五郎二寸(ごろうにき)』
と呼ばれるようになった。また馬に乗った丹羽長秀
に家臣が「殿っ、殿っ」と呼びかけるのを、自分が
そう呼ばれているのと勘違いして鼻を振るって喜ぶ
ので、家臣たちも冗談でこの馬に『二寸殿、二寸殿!』
と呼んでいたところ、この呼び方が清洲などにも伝
わり通例となったのであった。
尾張に入って二年もたつと、二寸殿も堂々とした
ものである。今日もすばらしい馬具を身にまとい、
丹羽長秀をのせて未だ猛暑の木曽川沿いの道を行く。
肩高に比べてふさふさと豊かな黒いたてがみが、木
曽の川面の秋風にたなびいている。川沿いの道を悠
然とまっすぐと「二人で」進んでいく。
注1)現代のサラブレットは肩高160~170cm
なので当時の『大きい馬』はかなり小さい
注2)古語で「寸」という字を「き」と読んだ。し
たがって 「二寸」と書いて「にき」と読む
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