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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻二の四 『二寸殿(にきどの)』のこと

2025-03-30 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の四 『二寸殿(にきどの)』のこと

 丹羽長秀もできるだけのんびりと、できるだけ敵

の目の届く木曽川に近い街路を、愛馬『二寸殿(に

きどの)』にまたがって行く。金糸・銀糸の『狩衣』

であでやかに着飾り、『二寸殿』も轡・貝鞍(螺鈿

細工の鞍)・泥障(あおり)・鐙・腹帯(はるび)

に鞦(しりがい)と皆具に仕立て、総体に金覆輪を

ほどこしてあり、目もくらむようなきらびやかさで

ある。『二寸殿』もこれには上機嫌らしく、しきり

に長秀の握る手綱を「ぐいっ、ぐいっ」と前に引っ

張って鼻を鳴らし、「いいね、いいね」と主人に伝

える。

 丹羽長秀が二寸殿にであったのはいまから三年ほ

ど前の弘治三年(1557)年末、織田信長が舎弟

勘十郎信行を誅殺した一件の直後であった。出合っ

た時三歳の駒であったので現在は五歳ということに

なる。当時日本では南部(陸奥・陸中=青森・岩手)

の駒が飛び切り有名で、また飛び切り高価でもあっ

た。というのも、日本全国で有名なため馬の価格自

体が高い上に、馬喰が南部から都まで往復する輸送

経費が加算されるからである。尾張国では名馬を購

入するというよりも、『飛び馬』として「長い時間

倒れず走る馬」を求めていたので、もっぱら近隣の

飛騨・木曽や越中の『脚の強い馬』を購入していた。

ちなみに馬は上背を地面から肩までの高さではかり、

四尺(約121cm)が大きい馬の評価基準となっ

ていた。源平盛衰記では四尺七寸(よんしゃくなな

き=約142cm)で「太くたくましい馬」と記さ

れている。(注1)

 ある時、飛騨・木曽の馬喰が上半身を真っ黒に汚

し、ぐったりして岩崎城下に馬を引いてきた。通常

であれば門を開け城内で価格交渉を始めるのだが、

門番が「あまりにもくさいので城外で待機させてあ

る」と申上してきた。五郎左衛門が門外に出てみる

と、小さい馬が糞をひり散らしながら大暴れしてい

るので、馬喰以外近づけない状況であった。馬喰が

ぐったりしている理由も、一目見ただけでわかる。

おそらく木曽の谷からここまで三十八里(約150

km)を六日ほどかけてたどり着いたのだろうが、

寝ずに世話していたようすがありありである。当の

馬喰も主たる丹羽長秀が出てきたというのに、

「だからわしはこんな馬つれてきたくは無かったの

だ。もうどうにでもしろ!わしゃ知らん!」

とわめき散らしている。ところがどうしたことか、

五郎左衛門がその馬に近づき目を合わせると、“ぶ

るるっ”と鼻を鳴らして急に静かになったので、馬

喰もあっけに取られている。正気を取り戻した馬喰

がやっと、厩で馬体を全てきれいに洗い上げたので

あった。その後も他のものが近づくとすこぶる機嫌

が悪く、五郎左衛門がそばにいるときだけ機嫌がよ

かった。

 木曽からつれてこられたこのはた迷惑な馬は、肩

の高さ四尺二寸(よんしゃくにき=127cm)し

かなかったため、もともと『木曽二寸(きそにき)』

と呼ばれていた(注2)。体は小さいがすばしこく、

木曽の山道できたえられた脚力をいかして、八方飛

びのように一瞬で飛びのく特技を持っていた。前足

を微妙に折りたたみながら後ろ足を蹴り上げるよう

にしてえびぞりし、思いっきり後方に飛び退るので

ある。この変わった飛び方が京の五条の橋の上でか

ろやかに弁慶の攻めをかわした牛若丸(=源義経)

を思い起こさせ、『五条二寸(ごじょうにき)』と

改名された。この『五条二寸』は木曽にいたとき、

気が向かないと全く動かないくせに、いくさ場で相

手が強敵と見ると乗り手の手綱さばきを無視して敵

陣に突進する癖があり、猛突進して急に止まるわ八

方飛びで飛び退るわで、全んどの乗り手を敵陣で振

り落としてしまった。そのためこれまでこの馬に乗

って戦に出て、生きて帰れた木曽の武将は一人もい

なかったそうである。またいくさ場で興奮すると、

八方飛びをしながら糞をひり散らすという悪癖をも

っており、『五条二寸』の乗り手を討ち取った敵将

も乱戦の最中に糞まみれとなり、勝っても身方から

笑われるという、実に情けない有様である。身方か

らも敵からも全く嫌われていた。長秀が馬を予約す

るときに木曽駒を管理する武田家から「この馬だけ

はやめておいたほうがよい」と何度も忠告されたが、

信長・勝家が面白がり、自分でも「そこまでひどい

馬なら見てみたい」という天邪鬼的興味から注文を

入れたのであった。

 最初のこの様子を見た城下の民からは、『糞二寸

(クソにき)』と陰口を叩かれたが、その後、身の

丈六尺の長秀が四尺二寸の小さい馬と心を合わせて

乗りこなし、数々の実績を上げる様子を見ると、尊

敬の意味をこめていつしか『五郎二寸(ごろうにき)』

と呼ばれるようになった。また馬に乗った丹羽長秀

に家臣が「殿っ、殿っ」と呼びかけるのを、自分が

そう呼ばれているのと勘違いして鼻を振るって喜ぶ

ので、家臣たちも冗談でこの馬に『二寸殿、二寸殿!』

と呼んでいたところ、この呼び方が清洲などにも伝

わり通例となったのであった。

 尾張に入って二年もたつと、二寸殿も堂々とした

ものである。今日もすばらしい馬具を身にまとい、

丹羽長秀をのせて未だ猛暑の木曽川沿いの道を行く。

肩高に比べてふさふさと豊かな黒いたてがみが、木

曽の川面の秋風にたなびいている。川沿いの道を悠

然とまっすぐと「二人で」進んでいく。


注1)現代のサラブレットは肩高160~170cm

なので当時の『大きい馬』はかなり小さい

注2)古語で「寸」という字を「き」と読んだ。し

たがって 「二寸」と書いて「にき」と読む

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巻二の三 五郎左衛門、再び動き始めること

2025-03-23 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の三 五郎左衛門、再び動き始めること

 桶狭間の戦後処理も一段落し、丹羽五郎左衛門長

秀は織田上総介信長・柴田権六勝家と打ち合わせた

任務を実行すべく準備に入る。状況に応じて柔軟に

動けるように、三人はあまり杓子定規な業務分担は

していなかったが、実質上それぞれの特性が生きる

よう、

*織田信長:政治・経済・文化・軍事に関する最高

 意思決定、及び他国との連関の方向性指示

*丹羽長秀:他国との連関を取次ぎ衆としてとりま

 とめ、及び諜報・謀略を含めた情報活動

*柴田勝家:主に軍事活動の最前線と本城の間の兵

 站、本城からの戦略指示の実行と指導、及び優秀

 な軍兵の募集・訓練

となりつつあった。特別な案件はその都度打ち合わ

せを行なうこととなる。丹羽長秀は予定通り、美濃

方面の調略に取り掛かる。黒田城は、表向き城主和

田定利が「信長に忠誠を尽くす」旨の言質をよこし

ているので問題なし。於久地城は、中嶋豊後守が城

主として在城しているが、和田がにっこりと「お任

せを」と申上してきているので特に問題なかろう。

問題は犬山城の織田信清であるが、家系図から行け

ば信長の従弟にあたるので、時間をかければ説得で

きるはず。それよりも、「『父殺し』の主斎藤義龍の

元では働きたくない」と申上する家臣が美濃に多く

出てきており、兵員の士気が極端に下がっているら

しい。黒田城の和田定利のいうとおり、「織田軍に

軽く攻められてから降参し、すぐに織田信長に従い

たい」という兵が多く、「美濃の各地域が織田軍か

ら攻められるのを待っている」といった異常な状況

である。こんな様子ではまじめに主のために命をな

げうつ者などいない。逆に言えば織田信長・丹羽長

秀・柴田勝家三人の考え付いた『敵を内部から崩壊

させる戦略』は、表面的に武器を使って攻め込むよ

り、敵にはるかに甚大で残酷な被害を与えていた。

おそるべき青年たちである。

 また、一般的に諜報・謀略というと、何か「人に

わからないように・隠密に」という印象があるが、

かえって近隣各国に名の知れた超有名な武将が、相

手からわかるような場所を動き回るというのも、

「本当に何か調査しているのか、それとも陽動作戦

か」と敵を疑心暗鬼に陥れる戦略として効果的であ

った。

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巻二の二 信長、松井友閑から叱られること

2025-03-16 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の二 信長、松井友閑から叱られること

 一般的に、戦国時代というと『下克上』という言

葉がすぐ出てくる。『下克上』というのは「下位の

ものが上位のものを凌駕すること」の意味であり、

もともと中国の春秋戦国時代に使われていた言葉が

日本に定着したものである。織田信長・丹羽長秀・

柴田勝家の三人が生きているこの時代にも『下克上』

という言葉は使われているが、三人とも「どれだけ

勢力を伸ばしても『下克上』だけは避けよう」と申

し合わせている。というのも中国古代の『下克上』

という言葉は、もともと陰陽五行説の『相生説』

『相剋説』に源を発していて、「下位の者が政権・

王位を手にするのは天の決めた運命的なめぐり合わ

せによる」という意味を持っている。決して「下位

の者が自由に上のものを討ち倒してよい」と言う意

味ではない。源平の争乱以来、主君を裏切ったり弑

逆したりした者がどういう末路をたどったか、三人

ともよく古書を読んで研究している。

・遠くは源義朝を尾張で謀殺した長田忠致

・近くは土岐頼純を殺害した斎藤道三

などが代表的な例である。『下克上』して長続きし

た者など聞いたことがない。今回の桶狭間の戦いの

時も、尾張国守護としての斯波義銀が織田信長の進

軍路を背後から襲う計画が事前にわかっていたが、

「守護から開戦の了承を得ている」状態にしておき

たかったため三人合意の上でわざと泳がせておき、

戦後殺害はせず国外追放としたのであった。どこか

ら見ても武衛公義銀に対して『下克上』はしていな

い。

 久しぶりに柴田権六勝家が、駿河衆の撤退した鳴

海・大高城の手当てを終えて清洲城に帰ってきた。

「殿、ご無沙汰致しましたが、ご機嫌いかが?」

とひげの中の大きな口を“にっ”と首を前に突き出し

て笑みながら申上すると、織田信長も薄ひげの真っ

赤な唇で“にっ”と首を前に突き出して笑みながら、

「その方こそ大儀であった!」

と答える。その横でいつもどおり、“ぶすっ”とした

表情の丹羽長秀が杓子定規に軽く会釈する。見慣れ

たいつもの光景である。勝家が長秀に

「五郎左衛門殿、岩崎城の面々はよく鍛えられてお

りますな。今回大変お世話になりました」

と述べる。これは桶狭間開戦前、丹羽長秀が黒田城

の和田定利を訪問することになり、東部方面の押さ

えに回る柴田勝家が長秀の出発した後の岩崎城を活

動拠点としたので、そのときのお礼を伝えたもので

ある。勝家が“にっ”と首を突き出して笑顔を見せる

と、仏頂面の長秀が思いっきり“にっ”と首を突き出

して笑みかける。長秀としては「こんな儀式は馬

鹿らしい」と思うが、信長が「父備後守(信秀)殿

から『武士は莞爾として死すべし』(武士は笑顔で

死ね!苦しみもだえる首を人に見せるな!)といわ

れておる。この三人だけで出会うときは笑顔で会お

う!」と申し出て、道理も間違ってはいないので従

うことにしている。長秀の引きつりそうな笑顔を見

て信長が“ぷっ”と吹き出し、この儀式が終わる約束

である。

 いつもの儀式が終わり、取り急ぎこのいくさでの

損得勘定と今後の見通しについて即座に打ち合わせ

に入る。これから先は笑顔の取り決めはない。

*まず今回の軍は、表向き「たまたま今川治部少輔

 義元を討ち取ってしまった」という話になってい

 るので、新規に手に入れた領地は"原理的に”無い。

 軍の作法をまもって進軍し、道理に基づいて戦後

 処理を行なったので、京都を含めた周辺各国から

 の評判は飛躍的に高くなったという『得』はあっ

 たものの、すぐに尾張の収益にはねかえってくる

 わけではないので今は評価できない。

*つぎにかかった経費について。

 ①参加した兵員は事前準備・城の守備隊も含めた

 延べ人数としてみると五千人×七日間=三万五千

 人・日。参戦手当てとして一人一日あたり四百文

 (四万八千円)支払うものとすると合計一万四千

 貫文(十六億八千万円)となる。死亡した者に対

 しても、この手当てを遺族に支払ってある。

 ②桶狭間に向かった追手・搦め手の員数を五千名

 とすると兵員が使用した武具・馬具等一式一人あ

 たま八貫文(九十六万円)として、合計四万貫文

 (四十八億円)

 ③丹羽長秀以下、敵の調略に使った経費を一万貫

 文(十二億円)他の経費もあるが、上記三科目だ

 けでも六万四千貫文(七十六億八千万円)かかっ

 ている。

*尾張の国の年間収入予想について。

 ①尾張では米を換金作物としているので、まず水

 田の面積を見ると五万町(五万ha)とする

 ②一町あたり四十石(五.四トン)収穫できるも

 のとすると国全体で二百万石(二十七万トン)が

 最大枠

 ③今現在の相場で一石あたり七百文とすると、米

 総収穫高は二百万石=百四十万貫文(一千六百八

 十億円)であり、税率を収穫高の一割五分とする

 と国としての税収予想は二十一万貫(二百五十二

 億円)となる。ただしこれも、梅雨明けから天候

 が順調に推移し、順調に秋に収穫できればの話で

 ある。


 三人がどこからどうつついても、「桶狭間の戦い

で年間予算の三分の一を使ってしまったのは事実。

この分では、あと一~二年の間は今回と同規模の軍

は避けるべき」という結論しかでてこない。

「軍を起こすとしたら勝って新規に領地を手に入れ

るなど必ず『得』することが必要」

との認識である。当面の間米以外の作物栽培を奨励

し、作物以外の工芸品も税率を下げるなど、領民の

生産意欲を向上させることが急務である。それに連

動して各種作物・工芸品の販売権を持つ問屋たちに

「一定期間販売口銭を我慢してもらい国の税収確保

に協力してもらう」よう交渉する必要もある。なお

米については例年六~八月の端境期に価格が上がる

傾向があり、「今年に限って端境期の米販売を絞り

こみ、米単価を高めにつり上げておき、他地域より

も先んじて収穫し高値の時に売りさばき現金化する。

多少の顰蹙は頭を下げてあやまる」という方針を三

人で確認した。

 織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の清洲城における

重要な打ち合わせは、意外にも一時(二時間)もか

からないで終了した。

「五郎左衛門よ、お前もバタバタ忙しかっただろう

が、そのような中でここまでまえもって案をまとめ

てあるとは感服した。やはりあの、お前が鍛えてい

るという『ハゲザル』が下ごしらえしたのか?」

と信長が問う。

「『ハゲザル』というよりはちょこまか動いておる

から『ハゲネズミ』であろう」

と、勝家が自分のひげをくるくるよじりながらつ

まらなそうに茶々を入れる。

「『ハゲネズミ』は背が低いくせに目線を上から下

に向けるように話すし、何かすました顔をするし、

人の懐中に飛び込んでくるようなけなげさも見えな

いし、その代わり気がよくつくし仕事はやるし・・

おお、決して五郎左衛門の事を悪く言っているので

はないぞ」

「まあかまわぬ。城中の評判もあらかた権六が言っ

たとおりだ。もう少し世間並みの付き合い方がわか

ればいいのにと思うが、藤吉郎には藤吉郎の美学が

あるらしいからな。ただまあ、切れる切れる、ここ

がな」

といいつつ眉間の辺りを人差し指ですっと切るマネ

をする。

 三人の重要な打ち合わせが終わり雑談に入ってい

たところ、部屋の外から

「失礼仕る。丹羽五郎左衛門殿はおいでか」

と呼ぶ声がする。織田家が他の名家と違っていたの

は、重要な打ち合わせをしているときでも下臣の呼

びかけがあればそちらを優先することであろう。織

田信秀以前からこのしきたりがあったようだ。この

ときは桶狭間戦の下ごしらえで活躍した松井友閑の

使者が到着したようであった。呼びかけにこたえて

丹羽長秀が部屋の外に出て友閑の使者への応対をす

る。すぐに戻ってきてムッとした表情で信長をにら

みつける。

「殿、いや三郎!いいかげんにしておけよ!」

と長秀が怒鳴る。

「何をいきなり。儂には何のことか、何が何やら・・」

と困ったような振りをしながら、信長はあさっての

方向を向いている。

「では殿、ご説明申し上げる。尾張のどなたかが、

金を受け取るときは『新銭で』といい、金を払うと

きは『鐚銭(びたせん)で』といっておるものだか

ら、困った商人たちが松井友閑のところに苦情をあ

げてきておるらしいぞ。これで如何?」

このころ商取引上、中国は明の国から来た『永楽通

宝』が一文銭として流通していたが、古くなって欠

けたりした一文銭を『鐚銭(びたせん)』と呼び、

世間は嫌い敬遠していた。そのため地域によって、

新銭と鐚銭の交換率を決めて使用していたのだが、

松井友閑によれば信長は『一:四』などというひど

い交換率を指示していたようである。『新銭』で金

を受け取り『鐚銭(びたせん)』で支払えばえらい

ぼろ儲けができるという仕組みである。

「う~む、う~む、う~~む、『尾張のどなたか』

とは儂のことか。ばれたか。ばれたら仕方が無い。

申し訳ない。『これからは無茶はしないから』と友

閑に伝えておくように」

また信長も、こういうインチキを平気でやるし、

あやまり方も本気かどうかわからない。しかも

「これからは無茶しない」とはいったいどういう

ことか?何もいっていないのと同じではないか!

「では!」

といきなり席を立ちいつもの源平盛衰記を胸元に

突っ込み両側の股立ちを取り、廊下をたったと走

っていく。長秀も勝家も、信長の逃げる様を大笑

いで見送るしかなかった。

 ただ気がつけば、商品相場の操作・経費のかか

らない得する軍・問屋との口銭交渉というものす

ごい難事を丹羽自身と木下藤吉郎・松井友閑に任

した形になっている。信長の、自然に人を巻き込

んで働かせる能力は恐ろしい程であり、長秀は一

人身震いするのであった。

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巻二の一 巻二開始のこと

2025-03-09 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の一 巻二開始のこと

 桶狭間の戦いも終わり、結果として織田信長・丹

羽長秀は命ながらえ、柴田勝家も駿河方岡部元信が

鳴海城から退城したのでそろそろ清洲に戻ってきま

す。今川義元を討ち取ってしまったのは三人にとっ

て予想外の事で、事前に「黒末川から東は駿河のも

の」とする準備しかしていなかったので、軍に勝っ

たとはいえ戦後何をすべきか全く頭の中がまっ白の

状態です。「まず何を真っ先にすべきか」三人で方

針を決めるのが先決でしょう。

 尾張方からは「偶然に今川治部少輔義元殿を討ち

取ってしまったが他意はない」として、『風・鳥・

草』を使って近隣各国に告知しておいたので、世間

から見ると織田家の道理は立っており、今川氏と同

盟を結んでいる武田氏・北条氏もすぐに動いてくる

気配はないようです。また大混乱の中、求心力のな

い駿府の今川氏真がすぐに尾張に弔い合戦を仕掛け

てくることはもっとありえないことです。「あとは

織田信長が舅の斎藤道三を殺害した斎藤義龍に弔い

合戦をいどむことになる」と近隣各国は思っている

ようで、尾張方としてもそういう世間の見方に沿っ

て動いたほうが苦労は少ないかもしれません。

 またまた困ったことには、桶狭間の戦いの原因を

作った松平二郎三郎元康(後の徳川家康)が戦後処

理のために行くべき駿府に向かわず、いろいろと理

屈をつけて岡崎城に居座っているようです。とにか

くこの『三河の大たわけ』の殿は、何をしたいのか

がよくわからないし、道理の立たない自己の利益・

満足となる行動しかしない人物です。というのも腹

を立てた尾張の三人が、桶狭間戦後意図的に元康に

ついて「いくさの無作法者がえらいことをしでかし

た」と悪いうわさを流していたため、見当をつけた

人々がそういう風評を流したからですが・・・

 さあ、いよいよ巻二の開始です!!

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巻一の九 岡部元信、義元の首を持ち戻ること

2025-03-02 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻一の九 岡部元信、義元の首を持ち戻ること

 清洲城下での首実検が終わると、織田信長は「あ

とはよしなに」とだけ言い残して北やぐらの御座所

に『源平盛衰記』を携えて籠もる。軍と戦後処理で

疲れた体を休めるためである。

 丹羽長秀のほうはといえば、休む暇もないほどの

実務が残っている。まずは、近国から集まってもら

った各宗派の僧侶に対し、供養の度合いに応じお布

施を渡す。当然そのときに「三河の誰ぞが軍の無作

法をした」ことを各地で言いふらしてもらうよう依

頼する。織田家は当時にしては珍しく現金決済が多

かったので、僧侶たちは「喜んで」各地に言いふら

すことになる。つぎに、軍のとき武具・防具の手配

で世話になった桑名・熱田・三河・知多などの商人

に、実費と手数料を支払う。これも近隣他国と異な

り軍の勝ち負けに関わらず約束した分は必ず現金決

済で支払っていたため、商人たちの信任を特に厚く

受けており、各地を回る商人たちの間で『織田の即

金』と評判になりつつあった。加えて言えば、現金

支払いの信用が高くなったために、織田家の発行す

る為替もほぼ割引無しで流通するほど信用が高かっ

た。

 翌日の朝から、長秀はまた特に解決すべき面倒な

問題に取り掛かる。まずは鳴海城に籠もり実質上

「撤退できずにいる」岡部元信についての対応を決

める。これは、柴田権六勝家の配下が完全に鳴海城

を攻囲し岡部方も身動きとれない状況であるものの

城外に攻め出て討ち死にするかどうか二の足を踏ん

でいるという微妙な情勢であり、そこに長秀が「義

元殿の首を同朋衆とともに駿河へおくってはくれま

いか。当然人質も全て引き受けていただきたい」と

低姿勢で申し入れさせたものだから、元信も首を三

~四回とも思えるほど頷き、よだれをたらさんばか

りに即諾したのであった。

 このときにも長秀は、大高城の松平元康(のちの

徳川家康)には『番五の使い』すら送らない。大高

城では松平元康以下三河衆が、「攻められもしなけ

れば攻め出ることもできない」という武士としては

まことに恥ずかしい状況にあった。このまま何もし

ないで撤退しては、生き恥をさらすようなものであ

る。歯ぎしりして悔しがるだけで人の撤退案を聞か

ない元康を家臣が叱り飛ばし、「ここは織田方に一

戦交えるべく『番五の使い』を送りますぞ!覚悟召

されよ!」と解決案を勝手に決める。おろおろする

だけの殿に代わり家臣団が武士としての威厳を保と

うとしたものである。こういう風に正式に「ひとい

くさを」と連絡されると、織田方もたてまえ上「総

大将の義元殿はすでに討ち取られたし、我等が主織

田信長も清洲に戻ってしまっている。これから軍を

起こす意味がないので早く引き取られよ」と答えざ

るを得ず、大高城勢はそれを『織田方からの撤退勧

告』と受け取り、正式な撤退の印としたのであった。

なんとも優柔不断な恥ずかしい大将ではある。

 駿河勢への対応より面倒なのが『論功行賞』であ

る。討ち取った敵将の位によって褒賞の額が変わっ

てくるため、「あの武将は儂が討ち取った。いやあ

の武将はあやつは討ち取っていない」などと、皆自

分に有利な申し出をしてくる。戦国期には基本的に

『証人』(討ち取った現場を見たと証言してくれる

もの)がついていない功績は認められなかったので、

なるべく事前に『証人』として役立ちそうな仲間と

示し合わせておき、集団で敵に立ち向かうことにな

っている。「乱戦となり一人きりで切り込んで行っ

た時の功績はよくわからない」というわけである。

言いたい放題言ってくるものたちを前にして、十分

調べを入れ侍大将の意見も聞いて、誰が見ても文句

のない結論を出さなければならない。どろどろした

人間関係が絡む見るからに面倒な仕事であるが、こ

れは丹羽長秀が数年前から計数能力を見込み清洲城

の帳場の一部を任せていた木下藤吉郎がてきぱきと

対応したのでずいぶん助かった。「面倒な仕事でも、

あまりにもすんなりやる者はありがたみがわからな

い」というが、藤吉郎には「苦労はいとわず、苦労

と見せない」美意識があった。長秀から「なかなか

やりおるのう」とほめられてもしれっとしたもので

ある。足軽の息子であるという生い立ちのわりには、

背は低く体は貧弱で、「いくさ場で役に立たない」

という劣等感から、藤吉郎は「自分は人絡み・計数

絡みで生きていく」と心に決めた。長秀のもとで数

々の難事をさばく経験を積み、このすました姿勢が

自然と形作られたのであった。もうひとつ、藤吉郎

は黙々と仕事をし不平不満も言わず気がついたら多

大な成果を挙げる丹羽長秀を心から尊敬していたの

で、「尊敬する五郎左衛門殿の姿勢を真似したい」

という意味合いもあった。

 そこにまたのこのことニヤニヤしながら信長があ

らわれる。大体において信長がニヤニヤしながら近

づいてくるときはよからぬ相談が多い。

「どうされました、殿」

「うむ、一つ頼みがある」

「何なりと」

長秀は露骨にいやな顔をしながらたてまえ上そう答

える。

「五郎左衛門と権六勝家がうまくやってくれたおか

げで駿河勢は自国に逃げ戻るのに必死で、また駿府

の今川氏真もすぐには動けないと思う」

「御意」

「すると今後は手を美濃の国に戻して、義父斎藤道

三殿の弔い合戦を行なうことが重要事となる」

「御意」

「そこでだ。わしとしてはこのたびの合戦で反乱を

起こしそうになった武衛公(斯波義銀)をこのまま

尾張でかくまうわけにはいかんと思う」

「そのとおり」

「できれば五郎左衛門よ、その方の黒田城の情報網

を用いて京都から『武衛公追放』の許可を取っては

くれまいか?」

「なるほど、それは道理。先日の打ち合わせでは、

未だ足利将軍義輝と三好一派の関係がうまくいって

いない様子」

「とすると将軍家へ取り次いでもらってもわけのわ

からないことになる可能性がある」

「そのとおり」

「う~む、どうするか・・・、うむそれならば、父

信秀の時代から山科言継殿にはお世話になっている

から、朝廷から帝に取り次いでもらうかのう」

「筋道としてはそれが一番わかりやすくて問題がな

さそうだ」

「わかった。ではよしなに頼む。貢納金はいくらで

も構わない。応仁の乱以降、朝廷も金には不自由し

ているだろうから」

といって、またニヤニヤしながら去ってゆく。

「ああ、それからもう一つ、三河の無作法者は絶対

に許すな!」

と振りかえって付け加える。

 気がついたら『帝に取次ぎを行なう』などという

とてつもない用事を任されてしまった。「だから信

長のニヤケ顔は嫌いなのだ!」と思う反面、自然に

自分の調子に巻き込み、人にとてつもない大事をや

らせてしまう信長の話術の巧みさには舌を巻くので

あった。

 織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三人は無傷で生

き残った。それぞれ目の前の困難に真摯に取り組む

しかない状況であったが、三人の知らないうちに予

想だにしていなかった状況が発生した。桶狭間で今

川義元を討ち取ってしまったことは京都をはじめ周

辺各国の驚きであったが、それにもまして義元の首

をきちんと死化粧を施した上で岡部元信に持ち戻ら

せたことなど、「大うつけと聞いていたがなかなか

礼儀正しい武将ではないか」という評価が広まった。

また、戦後の商人への支払いや論功行賞についても、

「評価が的確で約束を守りしかもすべて現金決済で

支払ったそうだ」との評判が、尾張国内は当然のこ

と、朝廷をはじめとして京都から駿河に渡る広い地

域で定着した。首実検に招かれた後、宗派に関わり

なく各地に戻った僧侶がこの話を広めたことが大き

な意義を持つ。いわば宗教・朝廷・武家を含めた

『世間』を味方につけてしまったわけで、斎藤道三

の弔い合戦のため美濃を攻めるくらいしか考えてい

ない三人には、果てしない『天下への大道』が自分

たちの前に開けかけたことなど知る由もなかった。

逆にこの三人に疎まれた『三河の無作法者』には

『苦難への道』が開かれていた。

巻一終了

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>
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