『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

木下藤吉郎(きのしたとうきちらう)[9/16]

2016-11-26 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
木下藤吉郎(きのしたとうきちらう)[9/16]

〔現代かなづかい〕きのしたとうきちろう


1581年11月羽柴秀吉と池田元助は淡路島に

    攻め入り、岩屋城を攻陥。池田元助

    に岩屋城を渡すも両名兵を引き上げた

    ので、領主なしとなる。

1581年12月秀吉は歳暮の挨拶で安土へ参上し、

    小袖二百着を進上の上、女房衆にも

    夫々贈り物を送る。信長からは感状

    を下された上茶の湯道具十二種の名物

    を拝領し播州へと戻る。

1582年1月羽柴秀吉は1581年2月に死亡した

    宇喜多直家の家老を率い、信長の元へ

    参上。黄金百枚を進上し、宇喜多秀家

    の跡目を認めさせる。

1582年2月信長信濃出馬の条々書き出しの中で、

    羽柴秀吉は中国一円での活動を命じら

    れる。

1582年3月織田秀勝の具足初めのため、羽柴秀吉

    がお供をして児島方面へ出働する。

1582年5月羽柴秀吉が宿面塚城を攻略し、並びの

    ゑつたの城を攻めると、敵は降参退城し

    高松城に立てこもる。秀吉が高松城に

    詰め寄り水攻めにすると、毛利輝元・

    吉川元春・小早川隆景が出陣してきて、

    高松で退陣する。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 木下藤吉郎(きのしたとうき... | トップ | 戦国名家の系譜:細川氏 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

信長公記の蔵:人物篇」カテゴリの最新記事