『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:細川氏

2016-11-27 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【細川氏の歴史】

*清和源氏足利氏の一門。足利義氏の一族

 義季が、三河国額田郡細川を本拠とした

 ことに始まる。嫡流は室町幕府管領家。

 南北朝期には足利尊氏の挙兵に参じ、建武

 三年(1336)四国へ派遣されたことによって、

 四国を基盤とした。延文三年(1358)執事

 に就任以降、康暦の政変で一時失脚したほか

 は、常に幕政の中枢にあった。

*最盛期の守護国は摂津・丹波・淡路・和泉・

 讃岐・備中・阿波・土佐の八ヶ国に及び、

 守護を務めた各国に庶家が分立していった。

 嫡流は当主が右京大夫を官途としたので

 「京兆家」と呼ばれる。庶家として典厩家・

 阿波守護家・淡路守護家・備中守護家・和泉

 半国上守護家・和泉半国下守護家・奥州家

 などが派出した。


≪京兆家≫

*京兆家が細川勝元の時、畠山家家督争い・

 山名氏と細川氏の対立・足利義視と義尚の

 家督争い・将軍義政と室日野富子の不和等

 により応仁の乱が発生。管領職の地位を

 利用し足利将軍の擁立・廃止を繰り返し

 畿内政権を維持した。

*勝元の子政元も管領職の地位を利用し

 足利将軍の擁立・廃止を繰り返し威勢を

 張ったが、修験道に凝り妻帯せず三人の

 養子(九条家から澄之、阿波守護家から

 澄元、典厩家から高国)をとった為一家

 内紛が起き、結局1507年養子の澄之一派

 に追放され殺害された。飛行術の練習の

 為沐浴中風呂場で斬殺されたとも言われる。

*政元の死後澄之が家督相続を強引に行なっ

 たが、直後父政元を助力していた澄元が

 家臣三好氏(之長)の軍事力を用い澄之

 らを討ち取り、京兆家の家督を継ぐ。その

 後澄元は高国と何度も家督を争いあい、

 1520年阿波に逃れ没する。

*澄元の跡目は子の晴元が継ぎ、三好元長

 等と将軍の擁立・廃止に関与し畿内政権を

 牛耳る。高国は大物浦で晴元に敗れ自刃

 する。ただその後、元長と反目して自刃

 させたり、三好氏同士の抗争も続き家内

 が安定しない。元長の子長慶は晴元に臣従

 した。ところが晴元は別の家臣からの讒言

 を受け、長慶を退けようとしたため、長慶

 に攻められ義晴・義輝父子とともに近江へ

 逃亡。晴元が出家して許され、義輝も上洛。

 長慶は、高国の養子氏綱を管領職に据えた

 上で、晴元の子細川昭元を摂津越水城に

 入れた。

*その後幾多の紛争を経て、1553年の最盛期

 芥川時代には、守護氏綱・管領昭元・守護代

 長慶のもと、勢力は山城・摂津・丹波・和泉・

 淡路・阿波・讃岐・播磨・伊予の九ヶ国に

 及んだ。その後三好長慶・義継・三好三人衆・

 松永久秀らの融合・離反の動きに翻弄され、

 1568年信長が義昭を擁して上洛戦を戦う最中、

 芥川城から退散。一旦は反乱軍にまわるも、

 1572年信長傘下に入る。1573年義昭が信長

 との戦いに敗れた後真木島城入り。その後は

 信長の近臣として忠節を尽くす。1592年没。


≪庶家≫

*一家の中では、和泉半国上守護家の流れに

 あたる藤孝が、将軍義昭と行動をともにし

 織田信長との共同戦略で権力を維持し、

 江戸時代の肥後国経営から現代まで細川氏

 の命脈を保った。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 木下藤吉郎(きのしたとうき... | トップ | 木下藤吉郎(きのしたとうき... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

戦国名家の系譜」カテゴリの最新記事