経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、白州次郎(再掲)

2012-08-27 02:43:12 | Weblog
   白州次郎

 白州次郎は経済人でもありますが、その範疇に納まりきれない人物です。彼の性格は特異的です、傍若無人、反権威的、そして直情径行でもあります。命令し、罵言暴言も吐き、人を無視して自己の意志を押し付けます。反面極めて思いやりの深い面をも持ち、冷笑的でニヒリスティックでもあります。上に傲慢で下には優しく、自分をももてあましているといった人物です。とても一企業内の組織人として地道にやってゆけるタイプではありません。次郎の活躍は戦後占領下の6年間に集約されるといっていいでしょう。この時代に吉田茂首相の私的側近(というよりパ-トナ-)として八面六臂の活躍をします。次郎は日本政府とGHQ(占領軍最高司令部)の間の重要な仲介役をしました。当時GHQに顔が効くとは大変なことで、彼の名刺は一枚5万円という噂もありました。
 次郎は1902年(明治35年)兵庫県芦屋に生まれました。先祖は三田藩の儒者の家柄です。祖父退蔵は藩政改革に従事し、三田県大判事になり、後には横浜正金銀行の副総裁、さらに総裁になっています。父文平はハ-ヴァ-ド大学卒業、白州商会という綿貿易商を営み、一時は相当な富豪になります。桁外れの豪傑でした。建築が道楽で、次から次へと新しい家屋を建てます。一家はそのためにやはり次から次へと転居しなければならなかったそうです。昭和3年の金融恐慌で白州商会は破産します。文平は阿蘇山の麓で一人農事にいそしんで一生を終えます。
 次郎は神戸一中に入ります。現在の神戸高校です。友人の評価は、傍若無人、です。金満家の父親は次郎に法外な小遣いを与え、外車(当時の日本にあった車のほとんどは外車ですが)ペイジ・グレンブルックを買い与えます。次郎はこれを乗り回していました。傲慢にもなろうというものです。次郎はあちこちで問題を起こします。その度に文平は菓子折りをもって、謝りにゆきます。白州家には菓子折りが積んであったそうです。
 日本においておけないと思ったのか、それとも世界的視野で物事を考える人間に育てたかったのか、文平は中学卒業後の次郎をイギリスに留学させます。クレア-カレッジ、そしてケンブリッジ大学で教育を受けます。次郎は半分冗談に、イギリスという島に流されたといっています。ケンブリッジでは物理学者JJトムソンや経済学者JMケインズの講義に出席し、彼らの謦咳に接しています。英国滞在時代にストラッドフォ-ド伯爵、ロビン・ビングと終生の交わりを結びます。
 1925年(大正14年)ケンブリッジ卒、歴史学者になろうかと考えましたが、1928年(昭和3年)父の会社が破産し、帰国します。破産といってもそれなりの余裕はあったようです。1929年樺山正子と結婚します。正子の祖父は維新の元勲樺山資紀です。この間英字紙ジャパンアドバイザイザ-の記者をしたり、セ-ルフレ-ズ商会の取締役をしています。後者は当時有名な外資系の貿易会社でした。セールフレ-ズ商会では外地部部長の肩書きをもっていました。次郎はほとんど日本にいる事無く、一人で外国を飛び回っていました。部下もいません。彼の折衝能力が外国で活用されたのでしょう。1937年(昭和12年)日本食糧工業の取締役になります。この会社は他と合併して日本水産KKになります。
 吉田茂と昵懇になります。なぜ吉田との関係ができたのでしょうか?一つは閨閥です。次郎の妻の祖父は樺山資紀、薩摩人です。吉田の岳父牧野伸顕の父親は大久保利通です。こういうゆかりもあります。また次郎はしょっちゅうイギリスにいっています。吉田が駐英大使の時、知り合ったのでしょう。ロンドンの日本大使館は次郎の宿所になっていました。吉田は人も知る英米派であり、次郎と考えを同じくします。日独伊防共協定には二人とも反対でした。こういう縁が延長されて近衛文麿とも親しくなります。しかし世は急速に英米との戦争に傾斜してゆきます。1940年(昭和40年)次郎は一切の肩書きを捨てて、小田急線沿いの鶴川村に農地を買って隠棲し、農作業に専念します。この辺の行動は父親文平にそっくりです。次郎は隠棲に際して、日本の敗北と食糧難を予言します。戦争中吉田や近衛あるいは池田成彬達と組んで反戦(戦争終結)活動をしたと伝えられます。
 1945年(昭和20年)終戦。幣原内閣の外務大臣吉田茂の要請で終戦事務局の参与(後に次官)に就任します。この部局は政府とGHQの連絡役です。実際には各省の大臣より強い力をもっていました。ともかく敗戦後、GHQの意向は絶対なのですから、そこと直に連絡できる部局が力を持つのは当然です。最初の大仕事が憲法改正(新憲法作成)です。昭和21年2月13日、総司令部民生局長ホイットニイ-准将は3人の幕僚と共に、外部大臣官邸を訪れます。日本側は、外部大臣吉田茂、憲法担当国務大臣松本蒸治、通訳長谷川元吉そして次郎です。ここでホイットニ-は松本が起草した憲法原案を徹底的に否定して、象徴天皇制と一院制を主張します。新憲法草案起草の過程で、次郎はジ-プウエイレタ-といわれる書簡をマッカ-サ-に送ります。そこには、憲法改正の発議権を衆院が持つことにより、民主主義は保たれる(逆に言えばそれ以上天皇制にふれてほしくない)、日本の大多数は天皇を敬愛し、共産主義には好意をもっていない、大正デモクラシ-などの伝統もあり日本には民主主義の土台がある、ことなどを主張しています。まあこういう過程を経て日本の憲法は改正されましたが、それはマッカ-サ-草案の翻訳に近いものです。この翻訳にも次郎は参加します。草案は結局日米の憲法学者の検討を経ることなく作られました。マッカ-サ-草案も応召された弁護士上がりの米軍将校による作成だろうといわれます。ちなみにGHQの民生局(GS)には多くのニュ-ディ-ラ-がいました。彼らは母国アメリカで成功したとはいえないニュ-ディ-ル政策を日本で実験しようとします。勢い過激になりました。またアメリカでは社会主義政党がないのでこのニュ-ディ-ラ-達がそれを代行します。民生局に対抗したのが諜報治安担当のG2です。日本占領政策はこの二部門の角逐で進みます。またGHQの追放令は中央官庁のみならず地方議会(首長)から町内会、隣組にまで及びました。日本の既存の組織すべてを否定し、日本人の統治能力を破壊するつもりでした。
 1948年(昭和23年)次郎は貿易庁長官に就任します。併行して経済安定本部次官になります。貿易庁という役所は戦後の日本経済を象徴する機関です。当時日本の外為レイトは品目ごとに違っていました。商品の競争力に応じて為替レイトが変わります。こうなると政府の恣意的介入で市場が混乱し、また汚職の源泉になります。貿易庁に関する汚職は厳罰をもってしても止みません。次郎は貿易庁を廃止します。貿易庁を商工省に吸収合併させて通商産業省を作りました。貿易庁を商工省にくっつける事において、次郎は輸出マインドを強調します。軍備を廃止された日本の外交は経済外交しかない、旧商工省のように国内の産業にだけ視野を狭めていてはだめだ、輸出行政の延長上に産業行政がある、と言います。外務官僚も通産省に出向いて通商経済の勉強と体験をしないとまともな外交はできないといいました。逆に通産省の官僚も外務省で外交の訓練を受けるべきだ、と主張します。
 次郎の日本経済への重要な関与のもう一つは、電気産業再編成です。この件に関しては松永安左衛門、木川田一隆、太田垣士郎の列伝で何度も取り上げました。それまで日本発送電が発電を独占し、送電のみを民間が行っていたのを、どうするかという問題です。電気事業再編成委員会が作られます。委員会の主流は日本発送電を残して電気事業を国家独占の形にしようとします。この案に極力反対したのが松永で、彼は複数の電力会社に分割し、かつ発電と送電を一体化させる案を主張します。次郎は松永案に賛成の立場です。松永を委員に推薦したのは次郎でした。委員会は紛糾しもめにもめ、最後はマッカ-サ-の判断で松永案になります。九電力体制になります。そして1951年(昭和26年)次郎は東北電力の会長に就任します。彼は自然が好きで、水力発電を好みました。只見川の電源開発は次郎の斡旋によるところが大きいのです。次郎の事務執務の変革は極めて革命的なものです。机はすべて入り口を向けて並べ、課長は課員の背後で執務します。執務中は禁煙、女子職員のお茶汲みも禁止でした。現在ではこういう職場が普通です。
 1950年(昭和25年)蔵相池田隼人といっしょに特使としてアメリカにゆきます。講和交渉の下準備です。同年9月サンフランシスコ講和会議。全権団の一員に次郎も加わります。吉田全権大使の演説原稿が英語で書かれているのをみて、次郎は外務官僚の対米迎合を怒ります。即座に彼はそれを日本語に治します。同時にそこに、早い時期での沖縄返還、という事項も盛り込みます。
 1959年(昭和34年)東北電力会長を辞任。以後荒川水力発電会長、大沢商会会長になります。特に軽井沢ゴルフクラブ理事長としての采配は有名です。二つエピド-ドを挙げます。ある首相が駐日アメリカ大使とゴルフをしたいので急遽なんとかならないかと要請(懇願?)します。次郎は空きがないので断ります。また雨中のプレ-を禁止しました。馬鹿が雷にうたれて自殺するのは勝手だが、キャディ-まで巻き添えになるのはごめんだと言います。1950年(昭和60年)死去、83歳でした。彼は文人ではありませんが、小林秀雄、今日出海、河上徹太郎とは親しくつきあっていました。次郎の妻、白州正子は優れた作家だそうです。
 白州次郎の活躍は終戦から講和条約締結までの、占領軍政下の時代です。この時代占領軍GHQの威力は絶大でした。特に初期の2年間、GHQは日本の政治経済のあらゆる組織を否定し、日本の統治機構そのものを破壊するつもりでした。結果としてGHQは共産主義者と提携します。この国難の時次郎の経歴と性格は非常に役にたちました。その傍若無人といわれる性格ゆえに、GHQをおそれずずけずけ言います。次郎の経歴は半分英米人でもあります。吉田や近衛に親しいことは腹心密使としては最適です。もちろん、日本語よりも上手と言われた英語力も重要です。新憲法作成、通産省新設、電力事業再編成、講和条約だけ、つまり次郎の活躍で解る部分だけ取り上げても大事業です。彼が関与した仕事はこれらに限られないでしょう。彼の活動の本質的部分は占領下日本という特殊事情の闇の中に埋没しています。現在次郎の名を知る人はほとんどいないでしょう。半世紀以上前の日本の危機の中で、八面六臂の活躍をして歴史の推移の中に消えた人物がいたと思っていただければそれでこの小論の意味はあります。

 参考文献  風の男 白州次郎   新潮社