経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

早川徳次(変更版)

2012-08-20 02:55:48 | Weblog
早川徳次(変更版)

 最近シャ-プに新聞紙面をにぎあわせています。。読売新聞の朝夕刊一面に出た記事を記載します。

 3-29シャ-プ、LED植物栽培の研究開発で大阪府大と提携
 4-3 シャ-プ太陽光発電量産化へ 電気料金並みコスト 変換率アップ
     (それまで14%前後の変換率を20%にアップ)
 4-9 シャ-プ堺工場 液晶生産前倒し稼動 

 世界的大不況といわれる中、技術立国日本の将来を示唆するまことに頼もしいニュ-スです。早川電気、現在のシャ-プ株式会社の創始者が早川徳次です。彼のモット-は「他社が真似するような商品を作れ」でした。
 彼早川徳次の一生は波乱に満ちています。厳しい幼少年期をめげずに過ごし、19歳で独立します。徳次は1893年日清戦争勃発の年に、東京日本橋で生まれます。故あって養子に出されます。養父は出野熊八、深川の大工でした。養母が大変な人で、今なら「abuse--虐待」と言っていいほどの眼にあいます。三度の食事もろくに食べさせてもらえないかのような待遇でした。私立の小学校を中退し、8歳、坂田芳松という飾職人の家に丁稚奉公します。親方にはかわいがられたようです。この間夜学に通い、算盤と文字を習います。
発明の才能は早くから目覚めます。19歳「徳尾錠」で特許をとります。「徳」は自分の名前、「尾錠」はバンドのバックルです。それまでバンドは皮に穴をあけて止めていました。現在の「尾錠」は徳次の発明です。同時に独立します。資本金が50円弱でした。
 20歳、「巻島式水道自在器」の特許を取ります。それまで水道に蛇口をつけるのには時間がかかりました。この自在器は時間を大幅に短縮します。「巻島」は徳次が世話になった人物の姓です。
22歳、有名なシャ-プペンシル(早川式繰出鉛筆)を開発します。以後どの程度改良されたのかは知りませんが、シャープペンシル、略してシャ-ペンには現在でも私はお世話になっています。この種の器具は徳次の発明以前からあったようですが、不便極まりないものでした。この間出野家を離籍し、今に知られる早川徳次になります。早川の一族特に兄弟と再会します。早川と出野では社会的階層差があります。加えて義母に虐待された体験を持つ徳次としては、早川の籍に入る事で自己の帰属感を確立したかったのでしょう。1917年(第一次大戦終了の年)、徳次24歳、早川商会の月売り上げは2万円、従業員は100名を超えます。当時の国家予算はせいぜい20億円くらいと理解しておいてください。
 1923年、徳次30歳、関東大震災に会います。この時妻文子と二人の息子を失います。早川商会の損失額は25万円、工場施設は壊滅です。一時的に廃墟になった東京を捨てて徳次は、関西に移住します。2万円の借財と引き換えに、シャ-プ・ペンシルの特許を日本文房具という大阪の会社に譲ります。後年この時の契約証書の有無をめぐって徳次は不快な裁判沙汰に巻き込まれ、敗訴します。
 多くの人の後援を得て31歳、現在の大阪市阿倍野区西田辺に、早川金属工業研究所を作ります。これが現在のシャ-プ発祥の地です。以前から徳次はラヂオに関心を持ち、鉱石ラヂオなどを作っていました。33歳、ラヂオ受信機であるシャ-プダインを作り、電器産業に進出します。この商品は最初の見本市であまり売れませんでした。そこで徳次は一部の商品に売り切れの赤札を意図的に貼ったといわれます。売り切れま近と思った客は争って買い、すべて売り切れたそうです。ちょっとしたトリックですが、発明家徳次の商才を伺わせます。
 1935年、43歳、株式会社早川電気設立、資本金30万円。堂々たる実業家になった徳次は、横浜モ-タ-バ-ツの社長も兼ね、早川商工青年学校を経営し、日本ライトハウスの創立に寄与します。
 やがて戦争、通信機器の分野の軍需を担当します。陸軍大佐の待遇でした。そして敗戦。他の企業と同じく、生産施設は破壊され、資産は壊滅します。社員をどうして食わせてゆくか、その為に、電気イモ焼き器、電熱器、電気パン焼き器など、売れそうなものならんでも作りました。
1949年ドッジライン。超緊縮経済の中でほとんどの企業は潰れかけます。早川電気も松下電器も例外でなく、倒産廃業の一歩手前まで追い込まれます。当時、早川電気の中で「特攻隊」という言葉が使われました。営業マンは自社製品を抱えて出た以上、売切れるまで帰ってくるな、という命令です。帰りの運賃は自分で稼げ、片道分のガソリンだけあげる、というしだいです。こうして四苦八苦するうちに神風が吹きます。朝鮮戦争です。またこの戦争をきっかけとして、共産主義の驚異を実感した米政府は、反共の楯としての日本の工業力育成のために、米国の特許公開の制限を緩和します。
(特許に関して付言すれば、戦時中わが国が独自に開発した技術は、戦勝国によりすべて特許からはずされました。米国は一時期本気で日本を非工業化するつもりでした。なお
現在の時点で、特許申請件数は日本とアメリカが首位を争っています。両国の特許申請には明らかな差があります。アメリカの特許申請者は半分以上が外人です。米国科学技術の空洞化といっていいのでしょうか?日本は米国に対してもドイツに対しても特許では出超です)
徳次は将来の方向をしっかり見据えていました。彼の関心はテレヴィ受像機製造にありました。1953年、国産第一号白黒テレヴィが製造されます。値段は17万円でした。当時月給10万円といえば、大会社の重役の給料で相当な高給でした。1954年の時点でテレヴィのシェア-は23%のシャ-プをトップに、東芝そして松下が続いていました。
私の父親は新しい物好きでテレヴィを買ってくれました。1955年中学校2年の時です。それはシャ-プ・テレヴィでした。技術はシャ-プという定評を父親から聞いた記憶があります。
 早川電気はさらに電卓や電子レンジにも進出をします。死の10年前、徳次は将来は太陽光発電の時代になると予言します。その予言は現在実現しつつあります。1980年(昭和55年)早川徳次死去。享年80歳。私見ですが、申し分のない大往生であろうと思います。
 早川徳次のような開発企業家の生涯を見ていますと、物作りへの熱中というか、好きで好きでたまらないというロマンティシズムを看取させられます。同時に将来の基軸産業が何になるかをしっかり見定める力を持ちます。この点では豊田佐吉と似ています。そこに、岩崎弥太郎や安田善次郎、大倉喜八郎にはないある種のすがすがしさを見ます。しかしこれは私の理科系的偏見でしょう。金融も製造も生産です。ただ物作りの方が、判然と目に見える分、印象が強烈です。早川と松下は対照的です。早川電気はまず開発、そして販売がモット-でした。当然作っても売れない物も出てきます。業界のあだ名が「ハヤマッタデンキ」。松下は販売の展望をじっくり見て、製造します。あだ名が「マネシタデンキ」です。またソニ-のあだ名は「モルモット」。なんとなら、他の企業に先駆けて、先行し、わが身を市場という実験場に晒すからです。なお以上のお話はすべて「シャ-プを創った男・早川徳次、平野隆彰著、日経BP」に従いました。この本はおもしろい本です。正直企業家の伝記はそうおもしろいものではありませんが、この本はおもしろい。一読を勧めます。
(付)2008年3月現在、シャ-プ株式会社は資本金2000億円強、社員数23000名を数えます。連結で計算すれば数値は倍以上になります。

(付)2012年8月現在シャ-プは液晶テレヴィの行き詰まりで台湾企業との提携、人員整理、堺工場の売却などで苦闘しています。電気器具業界の業績は明暗を分けました。日立や東芝が黒字、シャ-プやソニ-が赤字です。前二社は家電やTVなどに見切りをつけ本来の重工業・重電に方向を定めました。後二社はTVなどにしがみつきました。シャ-プが典型です。ソニ-もシャ-プも個々の技術ではいいものを沢山持っているのですから、異種産業への方針変更が急務でしょう。

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