経済(学)あれこれ

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法華思想の概説-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-02-14 13:15:18 | Weblog
法華思想の概説-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋
 
紀元前6世紀に生まれた釈迦の教えの根本原理「縁起無我」です。「縁起」はすべての諸相は相連なると言います。様相は十二あります。
「老死-生-有-取-愛-受-触-六処-名色-識-行-無明」
です。これを現代風に簡約しますと 
  「苦悩-生存-欲望-意識・感覚-行・無明」
となります。こういう連鎖を人間は無限に繰り返して行く、そこから逃げられない(輪廻)と釈迦は言います。ではどうするのかというと、釈迦は、これらの諸相及びそれらを構成する要因(「我」と言います)は「無い」のだ、有ると思うから迷い・悩むのだと言い切ります。この命題を「無我」といいます。ですから「縁起無我」が釈迦の根本的な教えです。ではどうするのかと問えば、釈迦は具体的な方法は開示しません。釈迦あるいわ他の人が行う説明は全く理にかなっていません。あるいは無意味です。小乗と貶称される部派仏教の論客たちは「我」についていろいろ思考しましたが、いたずらに本が増え分厚くなるだけで、如何に「我・我執」から脱出するのかに関しては全く回答を与えていません。
紀元前後大きな転換が為されます。竜樹(ナ-ガジュルナ)という人が出て人間の存在の在り方を「転変和合、相補相即、差異同一」と説きました。「差異同一」は「自他同一」と言いかえてもよろしい。これを簡単に言い直すと「人は変化し異なるものになり同時に同じものにもなる、俺とお前はお互いに補いあい、違うようでまた一致する、差異はあってまた無い」となります。だから「私がする事はお前がする事だ、逆もまた同じ」となり、喜怒哀楽の感情は仮のもの・一時的なもの、だから「怒るな、妬むな、憎むな」となり、少し楽観的に考えれば「怒ってもいいが、憎むな」となります。つまり竜樹は仏陀の教えを公理化形而上学化してそこから基本的倫理を導出しました。竜樹の考えの根底には、人間と言うものは千変万化するが、根底において同じものであり共存可能なのだ、という主題があります。
くどいようですがもう一度竜樹の考えを、人間と人間関係に置き換えて考えてみましょう。私はここで「人間」と「人間関係」と別々の言葉を使いましたが、二つは同じです。「人間」とは「人間関係」なのです。人間は他の人間を愛し、憎みます。また間違いを犯しそしてそれを改めます。これが「転変」です。善悪正誤は転変します。また人間は意見が異なることもあり、また一致もします。これが「和合」です。人間は他者と争いまた他者を補い助けます。これが「相補相則」です。「相補相即」は「相補相剋「とも言い換えられます。むしろ後者の方がいいでしょう。人間は個々に異なりますが同時に同じです。個別的には異なり、全体としては同じです。個と類は相補します。これが「差異同一」です。こう考えれば竜樹の言も解りやすいでしょう。
竜樹の考えに従えば仏は人間にとって非常に近いものになります。竜樹の考えを基盤と
して二つの方向が模索されました。一つは既に救われているから仏陀と同じ場所で座って、にこにこしていれば充分だという考え、この方向の根本経典が「華厳経」です。華厳経では「一即一切、一切即一」「万物はすべて仏の一部であり仮現である、だから全宇宙は調和に満ちている」と説きます。非常に楽観的な考えです。禅宗、浄土教諸宗、真言密教は基本的にはこの流れに属します。また竜樹の所説は常に逆説を含むので、それを重視し利用して「破邪顕正」つまり論敵撃破に血の道を挙げる学派を三論宗と言います。
 もう一つの方向が法華経の説くところです。法華経では弟子は師匠にぶつかり、闘争して、弟子も師匠も共に変容します。それも社会的行為を通じて変容する事によって救済されます、あるいは解脱します。この共同の社会的行為を菩薩道と言います。本来菩薩とは、解脱寸前にまで行って、そこで反転し、未だ救われていない衆生の解脱に勤める者で竜樹以降の大乗仏教では重要な意味を担いますが、法華経の行者という思想において菩薩の像は極めて鮮明なものになります。
 もうすこし法華経の内容を述べてみます。釈迦が説教しているとき、釈迦は眉間の白ゴウから一条の光を出し、菩薩や衆生が熱心に修行している理想の国を照らし出します。ここから聴衆である弟子たちと釈迦の対話・論争が起こります。弟子たちの主張は、なぜこの理想の国を教えてくれなかったのか、という釈迦への不満不信であり、対する釈迦の答えは、お前たちのような機根素質に劣るものに下手に説法すれば危険だからだ、です。ここから釈迦と弟子たちの一問一答があり、その問答を通して弟子たちは菩薩になる事が約束されます。
それが法華経二十八品の前半である迹門14品です。法華経の論旨の頂点は15・16・17品の従地湧出品、如来寿量品、分別功徳品の三つです。ここで釈迦は本来の姿・在り方、つまり自分は歴史上の単なる一人格ではなく、永遠の存在(久遠実成の本仏)であることを開示します。同時にすでに解脱し菩薩行に専念している幾憶十万の菩薩を紹介して、疑問に思っている弟子たちに菩薩行に務めるよう励まします。そして弟子たちは菩薩になって行きます。従地湧出品以下普賢菩薩勧発品までの14品を本門と言います。ですから法華経は迹門で釈迦と弟子たちの問答対決を行い、本門で解答解脱を与えるという二重構造になっています。ですから法華経の真髄は対話における対立の止揚です。対話は時間ですから、時間における対立の止揚とも言い換えられます。時間における止揚とは行為つまり菩薩行です。
法華経の内容を精査し、禅定の方法を体系化し、「教観双美、経典を解釈する者(釈迦の弟子たち)と経典自身(釈迦自身)の相互変容」を重視し、「観不思議、通常の認識の連なり即解脱への知恵の発見」だから「十界互具、地獄から人間を通って解脱に至る世界は相互に連なりあう」と説いたのが隋末に活躍した天台大師智ギです。最澄が持ち帰った天台宗はこの人物により形勢されました。
 竜樹と法華経は横と縦の関係にあります。「相補相剋」は人間一般における横の関係です。法華経はそれを前提として菩薩行という過去から未来に開かれた縦の関係に変容します。天台智ギの思想はその両者の総合です。智ギの考えは秀逸ですが単なる理論に堕する恐れがあり、やや貶称して「理の観法」と言います。それを具体的実践の中で事実として体験し皆に菩薩行を提示したのが日蓮です。日蓮の態度を智ギに対して「事の観法」と言います。
 釈迦-竜樹-法華経-天台智ギ-日蓮、これが仏教の正統です。と書いてきましたがこの節の解説は正直難しいと思います。

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