「同性婚は非生産的である」は正しい
昨日か一昨日自民党の某代議士が「同性婚は非生産的である」と発言し、この発言を一部のメディアが問題にしている。また同性婚賛成者が自民党本部の前でデモしこの代議士の辞任を要求している。まず問題になるのは同性婚賛成者が自らの意見と違うからと言って問題の代議士の辞任を要求していることである。自分と意見が違うからというだけの理由で公職辞任を要求するのは筋違いも甚だしい。現行憲法を支持する人は憲法改正を唱える議員の辞職を要求してもいいことになる。これは公共の意見の弾圧であり一周のファッショである。左翼に見られる典型的な独善性だ。
同性婚は非生産的か。まさしく非生産的である。このような異常な婚姻は子孫を産まない、増やさない。他に理由はない。まさしく非生産的である。同性婚が容認されると子供を産まないで生活を過ごそうとする人間が増加する。人間は社会を形成している限りその社会を維持発展させる義務がある。その為には子孫を増殖させる義務がある。同性婚は非生産的であるのみならず反社会的行為である。
同性婚者あるいはLGBTは少数である。少数者の意見は尊重されなければならないとされる。なぜなら少数者は弱者だからである。ここで弱者の意見は尊重されなければならないとされさらに、弱者は正義なり、という主張に発展する。この論理の綾の中から社会福祉というものを考えてみよう。社会福祉の例として医療と生活保護を取り上げる。医療は狭義の医療行為(手術や薬物投与など)だけでなく、広義の医療すなわち在宅医療・入院施設・看護・老人介護・臨終の看取りなども含まれる。このような医療をどこまで保険で保証すべきかという問題がある。こういう医療をあらゆる個人の希望に従って行わなければならないとしたら医療費は無限に膨らむ。限られた医療費の中で医療は行われるべきであろう。生活保護でどこまで生活を補償するかという問題もある。健康にして文化的な生活を補償するのは国家の義務であるとして各個人の要求に従っていたら生活保護費も膨大なものになる。そもそも社会福祉とは経済行為の二大原則の一つの枝である。経済原則は自由競争と社会福祉という二大原則からなる。前者に伴いがちな弱肉強食格差拡大への防御装置として、強者から弱者への所得移転として社会福祉が出現した。自由競争と社会福祉は生産と消費と置き換えてもいい。問題は生産と消費の平衡を取ることである。価値を生産する事を無視して価値を消費する事はできないし許されない。一方的に福祉福祉と言っていたら国家社会は崩壊する。
反原発活動や反基地運動にも同様のことが言える。エネルギ-需給の問題を無視して、原発の危険性を声高に叫ぶことは、エネルギ-生産を無視して安全という需要を消費していることになる。念のために言えば日本では原発ができて以来過去50年以上になるが、原発による死者はでていない、死者はゼロである。もっとも広島高裁の判決のように過去を10万年(旧石器時代・現生人類出現前)にまで広げれば可能性はありうるとは思うが、かかる空想的議論は無駄である。反基地闘争云々も同様。国家である限り国家を防衛する必要はある。基地があって何が危険なのか解らないが、基地は危険だ危険だと騒いで基地建設に徹底的に反対する行為は、国家防衛という生産行為を無視して安全という需要を消費していることになる。 反基地闘争は暴力的である。ここまでして国家の防衛を拒否妨害するというのは何か魂胆があってのことであろう。多分どこかの外国と通牒しているのだろう。
反捕鯨運動も然り。私にはなぜ牛や豚を食べて鯨を喰ってはいけないのかさっぱりわからない。反捕鯨活動は欧米で盛んである。彼らの国では動物特にペットがことさら大事にされている。ペットはまあ保護されるべき弱者である。ここから人畜平等とでも言える思想が出てくる。これも弱者は正義なりの一亜型だろう。最も肉食をする欧米人の贖罪感の裏返し化もしれない。動物虐待はいけないが過剰に保護する必要もないのだ。
少数者は保護されなければならない、保護されるべきなのは正義であるからである、少数者は弱者である、だから弱者は正義である、と論理は進む。この論理に従えば弱者は絶対正義にまで飛躍上昇する。なんとならば弱者は努力しないあるいは努力しようとしない。強者になるには絶対に努力が必要である。弱者になるには努力は必ずしも必要ではない。弱者が正義であるなら弱者は永久に努力する必要がなくなる。なぜなら彼らは正義であるからである。正義であるから他方の強者成功者は永遠に弱者を救済しあまつさえその頤使に甘んじなければならないとなる。弱者=正義ならこの論理は限りなく空回りする。そこからは国家社会の破滅以外のものは結果してこない。
このような論理の淵源はマルキシズムにある。マルクスは19世紀の産業革命に伴って出現した無産労働者を絶対的弱者正義の旗手とみなして、彼らを革命の主人公に仕立て上げた。単純化して言えば無産労働者は国家社会に一切協力しないでいい、ただ怠業と批判活動をしていれば資本主義は自動的に崩壊する、そして働かなくても腹いっぱい食べれる社会が到来するという千年王国説を唱えた。彼は社会の成員が持つあるいは持つべき自主性・自力遂行性・創造性・自己変革能力・他者への共感性を一切無視した。結果は見てのとおりである。
マルキシズムを受け継いだのがフェミニズムである。フェミニズムは無産労働者の代わりに女性一般を論理の基軸に据えた。女性は有史以来男性に差別され抑圧されたものとして、女性を絶対的弱者に仕上げた。男女の性差を無視して性別分業を徹底的に否定し、家族家庭を女性蔑視女性差別の根源として破壊しようとしている。当然女性が子供を産む義務も否定される。この延長上に先に述べた、同性婚云々の話がある。マルキシズムは経済社会を破壊しようとし、フェミニズムは家庭いな人間自身を破壊しようとしている。
付論になるが歴史を丹念に読めば女性が一方的に差別はされていない。同様に無産労働者の生活も相対的窮乏であって絶対的窮乏ではない。19世紀の無産労働者の生活の方が18世紀農民のそれより高かったのである。
いずれにせよ限りなく非生産的な同性婚は容認できない。
昨日か一昨日自民党の某代議士が「同性婚は非生産的である」と発言し、この発言を一部のメディアが問題にしている。また同性婚賛成者が自民党本部の前でデモしこの代議士の辞任を要求している。まず問題になるのは同性婚賛成者が自らの意見と違うからと言って問題の代議士の辞任を要求していることである。自分と意見が違うからというだけの理由で公職辞任を要求するのは筋違いも甚だしい。現行憲法を支持する人は憲法改正を唱える議員の辞職を要求してもいいことになる。これは公共の意見の弾圧であり一周のファッショである。左翼に見られる典型的な独善性だ。
同性婚は非生産的か。まさしく非生産的である。このような異常な婚姻は子孫を産まない、増やさない。他に理由はない。まさしく非生産的である。同性婚が容認されると子供を産まないで生活を過ごそうとする人間が増加する。人間は社会を形成している限りその社会を維持発展させる義務がある。その為には子孫を増殖させる義務がある。同性婚は非生産的であるのみならず反社会的行為である。
同性婚者あるいはLGBTは少数である。少数者の意見は尊重されなければならないとされる。なぜなら少数者は弱者だからである。ここで弱者の意見は尊重されなければならないとされさらに、弱者は正義なり、という主張に発展する。この論理の綾の中から社会福祉というものを考えてみよう。社会福祉の例として医療と生活保護を取り上げる。医療は狭義の医療行為(手術や薬物投与など)だけでなく、広義の医療すなわち在宅医療・入院施設・看護・老人介護・臨終の看取りなども含まれる。このような医療をどこまで保険で保証すべきかという問題がある。こういう医療をあらゆる個人の希望に従って行わなければならないとしたら医療費は無限に膨らむ。限られた医療費の中で医療は行われるべきであろう。生活保護でどこまで生活を補償するかという問題もある。健康にして文化的な生活を補償するのは国家の義務であるとして各個人の要求に従っていたら生活保護費も膨大なものになる。そもそも社会福祉とは経済行為の二大原則の一つの枝である。経済原則は自由競争と社会福祉という二大原則からなる。前者に伴いがちな弱肉強食格差拡大への防御装置として、強者から弱者への所得移転として社会福祉が出現した。自由競争と社会福祉は生産と消費と置き換えてもいい。問題は生産と消費の平衡を取ることである。価値を生産する事を無視して価値を消費する事はできないし許されない。一方的に福祉福祉と言っていたら国家社会は崩壊する。
反原発活動や反基地運動にも同様のことが言える。エネルギ-需給の問題を無視して、原発の危険性を声高に叫ぶことは、エネルギ-生産を無視して安全という需要を消費していることになる。念のために言えば日本では原発ができて以来過去50年以上になるが、原発による死者はでていない、死者はゼロである。もっとも広島高裁の判決のように過去を10万年(旧石器時代・現生人類出現前)にまで広げれば可能性はありうるとは思うが、かかる空想的議論は無駄である。反基地闘争云々も同様。国家である限り国家を防衛する必要はある。基地があって何が危険なのか解らないが、基地は危険だ危険だと騒いで基地建設に徹底的に反対する行為は、国家防衛という生産行為を無視して安全という需要を消費していることになる。 反基地闘争は暴力的である。ここまでして国家の防衛を拒否妨害するというのは何か魂胆があってのことであろう。多分どこかの外国と通牒しているのだろう。
反捕鯨運動も然り。私にはなぜ牛や豚を食べて鯨を喰ってはいけないのかさっぱりわからない。反捕鯨活動は欧米で盛んである。彼らの国では動物特にペットがことさら大事にされている。ペットはまあ保護されるべき弱者である。ここから人畜平等とでも言える思想が出てくる。これも弱者は正義なりの一亜型だろう。最も肉食をする欧米人の贖罪感の裏返し化もしれない。動物虐待はいけないが過剰に保護する必要もないのだ。
少数者は保護されなければならない、保護されるべきなのは正義であるからである、少数者は弱者である、だから弱者は正義である、と論理は進む。この論理に従えば弱者は絶対正義にまで飛躍上昇する。なんとならば弱者は努力しないあるいは努力しようとしない。強者になるには絶対に努力が必要である。弱者になるには努力は必ずしも必要ではない。弱者が正義であるなら弱者は永久に努力する必要がなくなる。なぜなら彼らは正義であるからである。正義であるから他方の強者成功者は永遠に弱者を救済しあまつさえその頤使に甘んじなければならないとなる。弱者=正義ならこの論理は限りなく空回りする。そこからは国家社会の破滅以外のものは結果してこない。
このような論理の淵源はマルキシズムにある。マルクスは19世紀の産業革命に伴って出現した無産労働者を絶対的弱者正義の旗手とみなして、彼らを革命の主人公に仕立て上げた。単純化して言えば無産労働者は国家社会に一切協力しないでいい、ただ怠業と批判活動をしていれば資本主義は自動的に崩壊する、そして働かなくても腹いっぱい食べれる社会が到来するという千年王国説を唱えた。彼は社会の成員が持つあるいは持つべき自主性・自力遂行性・創造性・自己変革能力・他者への共感性を一切無視した。結果は見てのとおりである。
マルキシズムを受け継いだのがフェミニズムである。フェミニズムは無産労働者の代わりに女性一般を論理の基軸に据えた。女性は有史以来男性に差別され抑圧されたものとして、女性を絶対的弱者に仕上げた。男女の性差を無視して性別分業を徹底的に否定し、家族家庭を女性蔑視女性差別の根源として破壊しようとしている。当然女性が子供を産む義務も否定される。この延長上に先に述べた、同性婚云々の話がある。マルキシズムは経済社会を破壊しようとし、フェミニズムは家庭いな人間自身を破壊しようとしている。
付論になるが歴史を丹念に読めば女性が一方的に差別はされていない。同様に無産労働者の生活も相対的窮乏であって絶対的窮乏ではない。19世紀の無産労働者の生活の方が18世紀農民のそれより高かったのである。
いずれにせよ限りなく非生産的な同性婚は容認できない。
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