経済人列伝 水野利八(一部付加)
水野利八は現在スポ-ツ用品製造で世界一を誇る美津濃株式会社の創立者です。利八は明治17年(1884年)、美濃(岐阜県)大垣に、大工水野利八の長男として生まれました。幼名は仁吉、快活で、故郷の山野を駆け回って、思い切り遊びます。学校の帰り、遊びに夢中になり、鞄をお稲荷さんに忘れてくる事などはしょっちゅうでした。この快活な幼少期体験は、彼の将来の方向を決定します。しかし当時の仁吉には、自らがたどるその運命にはもちろん気がつきません。父親利八は代々大垣藩御用を承る大工の棟梁で、その家は間口24mという広大なものでした。仁吉7歳の時、濃尾大地震に襲われます。死者は総計7200名、仁吉の家は崩壊します。翌年父親は過労で死去します。12歳、仁吉は高等小学校を自らの意志で中退し、大阪の商家に奉公に出ます。
奉公先は始め、道修町の薬問屋である川﨑屋です。仕事の傍ら仁吉はよく勉強をしました。「実業の日本」などの経営者向けの雑誌なども読みます。始めから立派な経営者になろうという、強い決意を持っていました。14歳の時には、すでに仕入れも任されていたようです。この間英会話を勉強するために、YWCAに通います。発音を難じられて腹を立ててやめます。この逸話には彼の性格の一端が見事に示されています。会話は真似が上手くなければいけません。仁吉の軌跡を見ていますと、発想・アイデアの連続です。自ら発案して、自信をもって遂行する。これが彼の生き方です。同時に彼の意志を掣肘する者には強く抵抗します。
16歳、京都の小堀商店という呉服屋に奉公します。すでに番頭でした。川﨑屋から推慮されたようです。三井呉服店(三越の前身)と取引して、名を上げます。京都時代に仁吉は二つの運命的体験をします。19歳、仕事の帰路、旧制三高(現京都大学)のグラウンドで学生達が野球をしているのを見て、野球の虜になります。以後仕事の合間をぬって、時には仕事時間を節約して、三高のグラウンドに出かけます。もう一つの出会いは、小堀家から娘のすがとの養子縁組を提案された事です。仁吉は、水野の家名を捨てる気がなかったので、一応この縁談は断ります。
21歳、日露戦争に応召し朝鮮に渡ります。すぐ終戦になりましたが、長年の労苦のせいか、彼は肺尖カタルにかかり内地の陸軍病院で5ヶ月加療します。この間も寸刻を惜しんで、経済、算数、地理、新聞などを丹念に勉強します。彼はメモ魔でした。気がついたことはすぐメモします。それを参考にして発想し、また後年は社員に指示を出しました。メモの内容を忘れないようにと、自身作成したメモ複写機を利用します。さすが大工の棟梁の息子、血は争えません。仁吉の仕事振りには、職人的なところが濃厚にあります。
退院して、仁吉は弟の利三と二人で、大阪市北区芝田町に、水野兄弟商会を作ります。クツシタ、ハンカチ、タオル、シャツ、半ズボン、などを扱う洋品店です。自身が長い入院生活を送っているので、知り合いのスポ-ツマンに(彼自身スポ-ツ大好き人間ですから知り合いは多いはずです)健康法を聞くうちに、彼らから運動用の服装のオ-ダ-を頼まれます。既製品では都合の悪い事が多いのです。水野の製品はスポ-ツマンには大好評でした。これが、水野がスポ-ツ用品を作るきっかけになりました。
経営が順調に行き、明治43年、36歳、店を梅田新道に移します。この時店名を。「水野」から「美津濃」へと変えます。「水野」に故郷の国名「美濃」を掛け合わせたタイトルです。大学対抗の野球大会で、自ら作成した赤シャツを着て応援します。話題になりました。翌年大阪周辺の野球好きを集めて、大阪実業野球大会を行います。話題になりました。そして利三の提案で東京に支店を出します。
仁吉の野球好きは昂進します。大正2年(1913年)彼は、市岡中学(現市岡高校)・早稲田大学出身の佐伯達夫の協力を得て、大阪府豊中市の新しいグラウンドで、関西学生連合野球大会を開催します。43チ-ム出場しました。審判は主審、1・2・3塁審と左右の線審を一人でこなしました。野球帽を被り羽織袴を着用している審判の写真を見るとほほえましくなります。2年後朝日新聞の申し入れを仁吉は受け入れ、主催は朝日新聞社になります。こうして全国中学優勝野球大会ができました。場所は同じく豊中のグラウンド、大正13年に甲子園に場所を移します。現在の全国高校野球大会です。一方大正6年には、関西学生連合野球大会を主宰します。場所は西宮市の鳴尾です。これが発展して春の選抜高校野球大会になります。こうなると仁吉は野球中毒のようなものです。
一方仕事の方も忘れません。野球に熱心になると、野球の道具にも強烈な関心を抱きます。それまで野球のボ-ルは輸入品か、布でできた手製の物でした。仁吉の研究が始まります。この辺の感覚は完全に職人気質丸出しです。ボールの作り方はなかなか複雑です。直径21mmのコルクの芯にゴムをまきます。これで直径34mmになります。ですからボ-ルの芯は二重構造になっているわけです。その上に太い毛糸、中位の毛糸、細い毛糸と巻いてゆき、更に綿糸を巻きます。一方脱色した上質の牛皮をひょうたん状に切ったものを二枚用意します。ボ-ルにこの二枚の牛皮を巻いて、密着させ、合わせ目を丁寧に縫います。この縫い目が現在では108あるのが正式の野球ボールです。縫い目を増やすと糸が切れやすく、縫い目を減らすと皮が破れやすくなるそうです。出来上がったボ-ルの直径は73mmになります。出来上がったボ-ルはそれぞれ品質が異なります。特に問題とすべきは飛距離です。ボ-ルにより飛ぶボ-ル、飛ばないボ-ルがあっては試合は不公平になります。この点で品質を一定にしなければなりません。何回も実験を繰り返して、4m12cmの高さから落として、仁吉の目の高さ、1m32cmから37cmの範囲内に反跳するものを合格としました。仁吉はなによりも品質と信用を大切にしました。
こうして運動服から野球ボ-ルの作成を皮切りに、ゴルフやテニスのラケットなどスポ-ツ用品を製作してゆきます。この間仁吉に人生最大の不幸が持ち上がります。妻と長男が相継いで死去します。さすがの仁吉も仕事に精が入らず、故郷の大垣始め日本の各所を旅行します。妻の死去の翌年、父親の名を継いで、利八と名乗ります。またかって養子縁組を断った小堀すが、と結婚します。大正6年、仁吉改め水野利八45歳の時のことです。
利八はアイデアマンでした。スポ-ツ愛好家の経験と直感から色々な製品を作り販売します。カッタ-シャツは「勝ったシャツ」から命名された利八の新商品です。他にボロシャツ、換えズボン、ボストンバック、など現在普通名詞になっている物も、元はといえば利八が開発した製品の固有名詞でした。当時大阪の商家の丁稚の格好といえば、着物に股引をつけわらぞうりを履いているのが相場でした。美津濃の宣伝隊は、リヤカ-にミニバイクをつけ、洋服を着た青年が製品を積んで、町中を走りまわりました。宣伝のやり方は、鳥井信治郎のそれと似ています。大正10年本社を北浜に移します。大阪商人の一等地です。販売する店員は全員洋服、これはファッションの元祖になります。
大正12年社名を「美津濃運動用品株式会社」と改めます。この間国産スキ-の生産を始めています。美津濃は完全にスポ―ツ用品の製作と販売の方向に会社経営の舵を取ります。昭和2年に北区淀屋橋に本社ビルを建設します。そこのカレ-ライスは当時定評のあった阪急デパ-トのそれに劣らず美味い、と評判になります。昭和4年(1929年)に欧米視察の旅にでます。あしかけ8ヶ月、訪れた国は13カ国、都市は80に上りました。すべてオリンピック開催の土地などスポ-ツと縁の深い町です。そこで欧米のスポ-ツ用品を丹念に調査し、自分の会社の作品に自信をもって帰国しました。製造業に傾く自社の方向を見た利八は、それまで経営系の学部を志望させていた次男の健次郎に、大阪大学理学部受験を勧めます。健次郎は後父の後を継ぎますが、併行して美津濃の技術研究部の顧問を務めます。スポ-ツ用品の一環としてグライダ-制作も始めます。このために、飛行機生産にも軍の命令で駆り出されています。
昭和20年(1945年)終戦。終戦の玉音放送を聴いた61歳の利八は、お国の役に立たなかったと、男泣きに泣いたといわれています。しかし泣いてばかりはいられません。戦後の各企業と同じく、鍋や釜を作って糊口をしのぎます。まな板、ちゃぶ台、下駄などなんでも作りました。ここでも利八のアイデアは発揮されます。終戦直後といえば、買出し、です。買出した物を入れるに最も効果的で相応しいものは、と考え、リュックサックを制作販売します。戦後復興はスポ-ツからと信じて利八は頑張ります。終戦の丁度1年後、昭和46年8月15日に全国中学野球大会が復活します。革製は無く、グロ-ブもボ-ルもすべて布製でした。朝日新聞の要請で、野球の道具つくりに協力します。3年後から革製のボ-ルが使われるようになりました。
昭和44年(1969年)85歳、経営を健次郎に譲って引退します。同年死去、85歳でした。翌年野球殿堂入りが決定されます。遺言により持株のすべては、スポ-ツ振興にあてられます。財団法人水野スポ-ツ振興会が作られました。利八の日常生活はけちで有名でした。
参考文献 野球ボ-ルに夢をのせて PHP研究所
(補足)
2008年3月現在
所在地 大阪市北区北浜
正式名称 ミズノ株式会社
売り上げ 1740億円(以下連結決算)
営業利益 78億円
純利益 24億円
純資産 814億円
総資産 1441億円
従業員数 5731名
スポ-ツ用品のあらゆる分野に進出している世界屈指の企業。特に野球関係の領域でのシェアは圧倒的。プロアドヴァイザ-抱えて常にニ-ズに答える努力をしている。ボ-ルが当たった部分の材質に工夫をこらし、バットが傷つかないようにした、ビヨンドマックスは大好評を得る。1993年時、Jリ-グ開設当初のユニフォ-ムはすべて美津濃製品だった。英国の有名水着メ-カ-Speedo社と契約し、同社の製品をライセンス販売するが、2006年すべての製品を「ミズノ」で統一するためにこの契約を破棄している。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
序文に曰く「日本は侵略戦争は一度もしていない」
水野利八は現在スポ-ツ用品製造で世界一を誇る美津濃株式会社の創立者です。利八は明治17年(1884年)、美濃(岐阜県)大垣に、大工水野利八の長男として生まれました。幼名は仁吉、快活で、故郷の山野を駆け回って、思い切り遊びます。学校の帰り、遊びに夢中になり、鞄をお稲荷さんに忘れてくる事などはしょっちゅうでした。この快活な幼少期体験は、彼の将来の方向を決定します。しかし当時の仁吉には、自らがたどるその運命にはもちろん気がつきません。父親利八は代々大垣藩御用を承る大工の棟梁で、その家は間口24mという広大なものでした。仁吉7歳の時、濃尾大地震に襲われます。死者は総計7200名、仁吉の家は崩壊します。翌年父親は過労で死去します。12歳、仁吉は高等小学校を自らの意志で中退し、大阪の商家に奉公に出ます。
奉公先は始め、道修町の薬問屋である川﨑屋です。仕事の傍ら仁吉はよく勉強をしました。「実業の日本」などの経営者向けの雑誌なども読みます。始めから立派な経営者になろうという、強い決意を持っていました。14歳の時には、すでに仕入れも任されていたようです。この間英会話を勉強するために、YWCAに通います。発音を難じられて腹を立ててやめます。この逸話には彼の性格の一端が見事に示されています。会話は真似が上手くなければいけません。仁吉の軌跡を見ていますと、発想・アイデアの連続です。自ら発案して、自信をもって遂行する。これが彼の生き方です。同時に彼の意志を掣肘する者には強く抵抗します。
16歳、京都の小堀商店という呉服屋に奉公します。すでに番頭でした。川﨑屋から推慮されたようです。三井呉服店(三越の前身)と取引して、名を上げます。京都時代に仁吉は二つの運命的体験をします。19歳、仕事の帰路、旧制三高(現京都大学)のグラウンドで学生達が野球をしているのを見て、野球の虜になります。以後仕事の合間をぬって、時には仕事時間を節約して、三高のグラウンドに出かけます。もう一つの出会いは、小堀家から娘のすがとの養子縁組を提案された事です。仁吉は、水野の家名を捨てる気がなかったので、一応この縁談は断ります。
21歳、日露戦争に応召し朝鮮に渡ります。すぐ終戦になりましたが、長年の労苦のせいか、彼は肺尖カタルにかかり内地の陸軍病院で5ヶ月加療します。この間も寸刻を惜しんで、経済、算数、地理、新聞などを丹念に勉強します。彼はメモ魔でした。気がついたことはすぐメモします。それを参考にして発想し、また後年は社員に指示を出しました。メモの内容を忘れないようにと、自身作成したメモ複写機を利用します。さすが大工の棟梁の息子、血は争えません。仁吉の仕事振りには、職人的なところが濃厚にあります。
退院して、仁吉は弟の利三と二人で、大阪市北区芝田町に、水野兄弟商会を作ります。クツシタ、ハンカチ、タオル、シャツ、半ズボン、などを扱う洋品店です。自身が長い入院生活を送っているので、知り合いのスポ-ツマンに(彼自身スポ-ツ大好き人間ですから知り合いは多いはずです)健康法を聞くうちに、彼らから運動用の服装のオ-ダ-を頼まれます。既製品では都合の悪い事が多いのです。水野の製品はスポ-ツマンには大好評でした。これが、水野がスポ-ツ用品を作るきっかけになりました。
経営が順調に行き、明治43年、36歳、店を梅田新道に移します。この時店名を。「水野」から「美津濃」へと変えます。「水野」に故郷の国名「美濃」を掛け合わせたタイトルです。大学対抗の野球大会で、自ら作成した赤シャツを着て応援します。話題になりました。翌年大阪周辺の野球好きを集めて、大阪実業野球大会を行います。話題になりました。そして利三の提案で東京に支店を出します。
仁吉の野球好きは昂進します。大正2年(1913年)彼は、市岡中学(現市岡高校)・早稲田大学出身の佐伯達夫の協力を得て、大阪府豊中市の新しいグラウンドで、関西学生連合野球大会を開催します。43チ-ム出場しました。審判は主審、1・2・3塁審と左右の線審を一人でこなしました。野球帽を被り羽織袴を着用している審判の写真を見るとほほえましくなります。2年後朝日新聞の申し入れを仁吉は受け入れ、主催は朝日新聞社になります。こうして全国中学優勝野球大会ができました。場所は同じく豊中のグラウンド、大正13年に甲子園に場所を移します。現在の全国高校野球大会です。一方大正6年には、関西学生連合野球大会を主宰します。場所は西宮市の鳴尾です。これが発展して春の選抜高校野球大会になります。こうなると仁吉は野球中毒のようなものです。
一方仕事の方も忘れません。野球に熱心になると、野球の道具にも強烈な関心を抱きます。それまで野球のボ-ルは輸入品か、布でできた手製の物でした。仁吉の研究が始まります。この辺の感覚は完全に職人気質丸出しです。ボールの作り方はなかなか複雑です。直径21mmのコルクの芯にゴムをまきます。これで直径34mmになります。ですからボ-ルの芯は二重構造になっているわけです。その上に太い毛糸、中位の毛糸、細い毛糸と巻いてゆき、更に綿糸を巻きます。一方脱色した上質の牛皮をひょうたん状に切ったものを二枚用意します。ボ-ルにこの二枚の牛皮を巻いて、密着させ、合わせ目を丁寧に縫います。この縫い目が現在では108あるのが正式の野球ボールです。縫い目を増やすと糸が切れやすく、縫い目を減らすと皮が破れやすくなるそうです。出来上がったボ-ルの直径は73mmになります。出来上がったボ-ルはそれぞれ品質が異なります。特に問題とすべきは飛距離です。ボ-ルにより飛ぶボ-ル、飛ばないボ-ルがあっては試合は不公平になります。この点で品質を一定にしなければなりません。何回も実験を繰り返して、4m12cmの高さから落として、仁吉の目の高さ、1m32cmから37cmの範囲内に反跳するものを合格としました。仁吉はなによりも品質と信用を大切にしました。
こうして運動服から野球ボ-ルの作成を皮切りに、ゴルフやテニスのラケットなどスポ-ツ用品を製作してゆきます。この間仁吉に人生最大の不幸が持ち上がります。妻と長男が相継いで死去します。さすがの仁吉も仕事に精が入らず、故郷の大垣始め日本の各所を旅行します。妻の死去の翌年、父親の名を継いで、利八と名乗ります。またかって養子縁組を断った小堀すが、と結婚します。大正6年、仁吉改め水野利八45歳の時のことです。
利八はアイデアマンでした。スポ-ツ愛好家の経験と直感から色々な製品を作り販売します。カッタ-シャツは「勝ったシャツ」から命名された利八の新商品です。他にボロシャツ、換えズボン、ボストンバック、など現在普通名詞になっている物も、元はといえば利八が開発した製品の固有名詞でした。当時大阪の商家の丁稚の格好といえば、着物に股引をつけわらぞうりを履いているのが相場でした。美津濃の宣伝隊は、リヤカ-にミニバイクをつけ、洋服を着た青年が製品を積んで、町中を走りまわりました。宣伝のやり方は、鳥井信治郎のそれと似ています。大正10年本社を北浜に移します。大阪商人の一等地です。販売する店員は全員洋服、これはファッションの元祖になります。
大正12年社名を「美津濃運動用品株式会社」と改めます。この間国産スキ-の生産を始めています。美津濃は完全にスポ―ツ用品の製作と販売の方向に会社経営の舵を取ります。昭和2年に北区淀屋橋に本社ビルを建設します。そこのカレ-ライスは当時定評のあった阪急デパ-トのそれに劣らず美味い、と評判になります。昭和4年(1929年)に欧米視察の旅にでます。あしかけ8ヶ月、訪れた国は13カ国、都市は80に上りました。すべてオリンピック開催の土地などスポ-ツと縁の深い町です。そこで欧米のスポ-ツ用品を丹念に調査し、自分の会社の作品に自信をもって帰国しました。製造業に傾く自社の方向を見た利八は、それまで経営系の学部を志望させていた次男の健次郎に、大阪大学理学部受験を勧めます。健次郎は後父の後を継ぎますが、併行して美津濃の技術研究部の顧問を務めます。スポ-ツ用品の一環としてグライダ-制作も始めます。このために、飛行機生産にも軍の命令で駆り出されています。
昭和20年(1945年)終戦。終戦の玉音放送を聴いた61歳の利八は、お国の役に立たなかったと、男泣きに泣いたといわれています。しかし泣いてばかりはいられません。戦後の各企業と同じく、鍋や釜を作って糊口をしのぎます。まな板、ちゃぶ台、下駄などなんでも作りました。ここでも利八のアイデアは発揮されます。終戦直後といえば、買出し、です。買出した物を入れるに最も効果的で相応しいものは、と考え、リュックサックを制作販売します。戦後復興はスポ-ツからと信じて利八は頑張ります。終戦の丁度1年後、昭和46年8月15日に全国中学野球大会が復活します。革製は無く、グロ-ブもボ-ルもすべて布製でした。朝日新聞の要請で、野球の道具つくりに協力します。3年後から革製のボ-ルが使われるようになりました。
昭和44年(1969年)85歳、経営を健次郎に譲って引退します。同年死去、85歳でした。翌年野球殿堂入りが決定されます。遺言により持株のすべては、スポ-ツ振興にあてられます。財団法人水野スポ-ツ振興会が作られました。利八の日常生活はけちで有名でした。
参考文献 野球ボ-ルに夢をのせて PHP研究所
(補足)
2008年3月現在
所在地 大阪市北区北浜
正式名称 ミズノ株式会社
売り上げ 1740億円(以下連結決算)
営業利益 78億円
純利益 24億円
純資産 814億円
総資産 1441億円
従業員数 5731名
スポ-ツ用品のあらゆる分野に進出している世界屈指の企業。特に野球関係の領域でのシェアは圧倒的。プロアドヴァイザ-抱えて常にニ-ズに答える努力をしている。ボ-ルが当たった部分の材質に工夫をこらし、バットが傷つかないようにした、ビヨンドマックスは大好評を得る。1993年時、Jリ-グ開設当初のユニフォ-ムはすべて美津濃製品だった。英国の有名水着メ-カ-Speedo社と契約し、同社の製品をライセンス販売するが、2006年すべての製品を「ミズノ」で統一するためにこの契約を破棄している。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
序文に曰く「日本は侵略戦争は一度もしていない」
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