経済人列伝 由利公正
由利公正、キャッティフレ-ズ風に言えば、わが国最初の財政家です。日本の財政家としては、日清戦争まで、3人の人物、しかもこの3人だけがいます。由利公正、大隈重信、松方正義です。みな旧武士出身で、経済や財政に関する正式な訓練は受けていません。彼らの業績は、独学自習か、実地訓練、経験の産物です。そしてみなそれぞれに持ち味を発揮し、役目が終われば平和裏に表舞台から消えています。こう考えますと、国家の経世済民などという大事に取り組める人物とは所詮、その人に与えられた天賦の器量によるといえるかも知れません。
由利公正、彼は文政12年(1829年)、封建制度の夜明け前、越前福井藩士の長男として生まれました。家禄は100石、馬乗りの身分です。最初の名は三岡八郎と言います。ず-と先祖は由利姓でしたが、戦国時代に故あって三岡姓に改姓しました。由利姓だった先祖は藤原秀郷の家臣であったとか言います。関東か東北の地方豪族だったのでしょう。
公正が7歳の時父親は江戸詰めを命じられ、公正は母方の叔父に預けられます。叔父はどちらかと言うと放任主義の人で、初学は教えてくれましたが、あとはほったらかしでした。そのため当時の武士の必須教養である四書の講読は通常の藩士より、かなり遅れます。しかし公正の特徴は、文字から学ぶのではなく、何事にも工夫をこらし、自分で考えて実践して、経験から学ぶ、という態度です。天分もありましょうが、彼が置かれた環境も無視できません。かえって四書五経などという漢字の塊に、没頭しなかっただけ思考は柔軟になったのかも知れません。
少年時のある日、ぼんやりと外を見ていて、曲芸師の子供でも修練して、人のためになることを学んでいる、だが武士は学ぶといっても、何の役に立っているのだ、と自問自答し、ここから労働の大切さ体得したとも、語り伝えられています。由利公正の政治思想における労働の意味は重要です。あえて言えば彼は、スミスやリカルドと同じく労働価値説の信奉者であったと言えましょう。
武道にも熱心でした。剣術、槍術、鉄砲術に馬術などなどに優れ、体を鍛えて、藩の恒例行事である馬揃えではいつも大活躍していました。彼の武道修練は独特で、師匠につきながらも、必ず工夫を加え、方法を改善しました。
公正の経歴を簡単に言いますと、藩政改革、謹慎、新政府への登用、政府財政の責任者、東京府知事、後はその後、となります。
彼24歳の時黒船が来航します。その後日本の政治状況は急展開します。それまでから多くの藩は財政窮乏に悩み、藩政改革をしますが、ペリ-来航の1853年後は、改革の速度はより激しくなります。1837年、福井の越前藩は新藩主として、田安家から養子を迎えていました。この人物が幕末の名君として名高い、松平慶永(春嶽)です。慶永は公正とほぼ同年輩になります。この慶永を中心に藩政改革、そして越前藩は親藩ですので、幕政改革も試みられます。
当時の武家が藩政改革といえばまず軍制改革です。武士の専門は戦争請負なのですから。軍制改革には当然、武器特に銃砲軍艦の調達が必要になります。武器を買うにしても自前で造るにしても、必要なのは資本つまりお金です。当時越前藩は他の大名の例にもれず、借金で首が廻らない状況でした。慶永就封の時点ですでに、90万両の借金がありました。越前藩は30万石少しですから、大雑把に概算して約10年-15年分の借財になります。これだけの借財を抱えて、なお金食い虫の軍制改革をしなければなりません。藩全体の経済改革が必要です。それも従来のように倹約一本では、焼け石に水、になります。
殖産興業が叫ばれます。和紙、生糸、漆器、木材、蠟などの特産品の生産が奨励されます。(第一段階)そしてそれを物産会所という機構を通じて集荷し、藩外に売りさばきます。(第二段階)さらに会所に集まる商人や農民に資金を貸し付けます。(愛三段階)この資金を紙幣で支払います。(第四段階)越前藩の経済改革では第四段階のとっかかりくらいまで行きました。紙幣、この場合は人気の悪かった藩札で一部支払います。藩札はあまり抵抗なく受け入れられたようです。この体験が公正をして維新の財政家としての重要な体験を涵養します。物産会所の首脳部は、町奉行、郡奉行、制産方頭取他武士6名と、豪商豪農代表8名からはなっていました。公正は制産方頭取です。制産とは産業産物の支配という意味もありますが、次第に生産の方に意味が移って行きました。
物産会所は士庶協同ですから、このやり方を軍制に応用すれば農兵組織が出来上がります。事実越前藩では農兵が1200人いました。松平慶永が、幕末の政局をリ-ドできた背景には、経済改革と農兵組織への自信があります。公正は幕政改革を促進するために4000人の農兵の上京を企図し、過激派と目されて、慶永から謹慎を命じられます。
公正の政治思想に大きな影響を与えた人物が細川家熊本藩士の横井小楠です。小楠は四書の筆頭である「大学」の中から、その修養の第一段階である「誠意」を「公正」そして「下に利する」と解釈します。さらにここから「労」の意味を引き出し、民富の増強を重視します。(注1)「由利公正」の「公正」はここから拝借してきた、とも言われます。他に公正が交わった人物としては、同藩士橋本左内と坂本竜馬がいます。
(注1)この解釈を孔子や朱子が聴いたらビックリするでしょう。日本の儒学には横井小楠のように漢籍を比較的自由大胆に再解釈して自説を作る傾向があります。荻生徂徠はその代表です。日本人は儒学を尊重しましたが、儒教を信奉したわけではありません。儀礼と習慣を離れて純粋な学説のみを学べば、学風は自由になります。横井小楠のみならず、佐久間象山も吉田松陰も儒学の専門家でしたが、その思想と行動は恐ろしく大胆です。
慶応3年10月徳川慶喜は大政奉還を朝廷に申し出ます。新政府が樹立されました。公正は参与になり、同年12月新政府の御用金取扱に任命されます。徴士でした。(注2)ここから由利財政が始まります。新政府にはお金がありません。公正は太政官札(金札)を発行します。公正の意図としては、金札は通常の通貨ではないはずでした。金札を藩や商人農民に貸し付ける、彼らはそれを資本として運用する、一定の時点で彼らは政府に金札に利子を付けて返す。こうして資金循環は良くなり、国全体の産業活動が盛んになり民富そして国富も増大するという考えです。通貨ではなく、国債でもなく、一種の財政投融資ですから、公正は金札の取扱いを、別途会計にしておきました。
(注2)新政府には人材はいません。そこで諸藩の藩士を官吏に任命します。任命には二種類の方法がありました。徴士と貢士です。前者は新政府が諸藩から一本釣りで引き抜いた人材、後者は藩から推挙された身分です。前者の方が本物の官吏、後者は出向という印象があります。由利公正は徴士の第一号、つまり明治政府官吏の第一号になります。次が横井と木戸孝允です。
太政官札は関西方面ではかなり順調に出回りました。大阪を中心とする、関西経済圏では銀手形の使用が常習化しており、同種の試みに慣れていたからです。しかし江戸に進駐した官軍主脳は太政官札の発行に反対します。理由は、関東は敵地で新政府への信頼がない、関東ではこのような試みに慣れていない、などです。彼らは公正の意図を理解できなかったのでしょうか?大隈重信、陸奥宗光、江藤新平、井上馨など維新の豪傑の錚々たるところが猛反対でした。特に江藤の論旨は激烈で公正と大激論になります。公正は勝ったつもりでした。ところが明治元年12月に東京で発行された金札に関する条文には「通用可致様御沙汰候事」と書かれています。「(通貨として)通用するように命令せよ」の意味です。こうして太政官札は公正の意図を離れて通貨になりました。この時点で公正の財政家としての政治的生命は断たれます。彼が推挙した人物の不正事件の責任もあります。正式には翌明治2年2月公正は会計官を辞職します。
しかし公正の考えを離れて観察して見ますと、太政官札を通貨として使うというのも、一方法です。とにかく新政府にはお金がありません。旧幕軍討伐のみならず、しなければならない事は山ほどあります。軍備増強、官吏制度確立、教育、通信、交通などなどいくら金があっても足りません。こういう時公正が案出した太政官札は使いようによっては至極便利なものでした。ともかく金貨と兌換という触れ込みで金札をばら撒き、仕事をします。金と札の交換比率は次第に落ちます。政府は一番有利な時点で金札を発行するのですから、金札の効用の良いところだけ掠め取ります。このやり方を大胆に自信をもってしたのが、大隈重信です。彼には彼の目算があります。太政官札をばら撒いても、それで景気が良くなれば、税収が増え、金札兌換は可能になると踏みます。大隈財政下で、廃藩置県、秩禄処分、地租改正、軍備増強、官吏制度整備、鉄道開通、中小学校建築、帝国大学創立、留学生派遣、外人専門家の雇用、銀行制度創立、不平士族反乱の鎮圧などなど、金の要りそうな事の基礎は作られました。しかし西南戦争が終わってみれば景気はいいが、経常収支は大赤字になります。ここで第三の男、こわもての松方正義の登場になります。彼は太政官札をすべて収集し(没収ではありません)、それを焼却処分して、貨幣流通量を大幅に減らし、財政と貿易の収支を整備してから、銀本位制の上に日本銀行を設立し、金融と財政を分離します。(注3)
(注3)この手のやり口は世界史上かなりあります。代表的なのが、フランス革命時、革命政府が発行したアビシニア紙幣、アメリカ独立戦争蜂起した13州連合が発行したいわゆる大陸紙幣、南北戦争時北部政権が発行したグリ-ンバックなどがあります。日本政府が戦争直後占領軍管理下において発行した復金手形も似ています。これらはすべて、発行されると価値を落とし、最後は紙屑同様になりますが、政府はそれで、というよりそれだからこそ、仕事ができました。金は天下の廻りもの、仕事ができりゃそれでいい、後はなんとかなるだろう、です。経済ってこんなものかも知れません。
由利公正は明治4年、東京府知事に任命されています。翌年出発したけ遣米使節と共に、アメリカに渡っていたら解雇の通知が来て、以後野に降ります。公正は薩長の藩閥に属していないので、ずいぶんぞんざいに扱われました。公正は「五ケ条の御誓文」の草稿を作りました。
野にあって公正は、越前藩の藩校教育の近代化に尽力し、米人グリフィスを福井へ招聘しています。民選議院設立建白書の運動に賛成して、自由民権運動に助力します。萬年会という勧農組織に協力します。故郷の福井で乳牛飼育を試みます。史談会会長に任命され、多くの遺訓を語ります。また日本興業銀行設立期成同盟会の運動を押し進めます。明治42年(1909年)死去、享年81歳、子爵
参考文献 由利公正のすべて 新人物往来社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
由利公正、キャッティフレ-ズ風に言えば、わが国最初の財政家です。日本の財政家としては、日清戦争まで、3人の人物、しかもこの3人だけがいます。由利公正、大隈重信、松方正義です。みな旧武士出身で、経済や財政に関する正式な訓練は受けていません。彼らの業績は、独学自習か、実地訓練、経験の産物です。そしてみなそれぞれに持ち味を発揮し、役目が終われば平和裏に表舞台から消えています。こう考えますと、国家の経世済民などという大事に取り組める人物とは所詮、その人に与えられた天賦の器量によるといえるかも知れません。
由利公正、彼は文政12年(1829年)、封建制度の夜明け前、越前福井藩士の長男として生まれました。家禄は100石、馬乗りの身分です。最初の名は三岡八郎と言います。ず-と先祖は由利姓でしたが、戦国時代に故あって三岡姓に改姓しました。由利姓だった先祖は藤原秀郷の家臣であったとか言います。関東か東北の地方豪族だったのでしょう。
公正が7歳の時父親は江戸詰めを命じられ、公正は母方の叔父に預けられます。叔父はどちらかと言うと放任主義の人で、初学は教えてくれましたが、あとはほったらかしでした。そのため当時の武士の必須教養である四書の講読は通常の藩士より、かなり遅れます。しかし公正の特徴は、文字から学ぶのではなく、何事にも工夫をこらし、自分で考えて実践して、経験から学ぶ、という態度です。天分もありましょうが、彼が置かれた環境も無視できません。かえって四書五経などという漢字の塊に、没頭しなかっただけ思考は柔軟になったのかも知れません。
少年時のある日、ぼんやりと外を見ていて、曲芸師の子供でも修練して、人のためになることを学んでいる、だが武士は学ぶといっても、何の役に立っているのだ、と自問自答し、ここから労働の大切さ体得したとも、語り伝えられています。由利公正の政治思想における労働の意味は重要です。あえて言えば彼は、スミスやリカルドと同じく労働価値説の信奉者であったと言えましょう。
武道にも熱心でした。剣術、槍術、鉄砲術に馬術などなどに優れ、体を鍛えて、藩の恒例行事である馬揃えではいつも大活躍していました。彼の武道修練は独特で、師匠につきながらも、必ず工夫を加え、方法を改善しました。
公正の経歴を簡単に言いますと、藩政改革、謹慎、新政府への登用、政府財政の責任者、東京府知事、後はその後、となります。
彼24歳の時黒船が来航します。その後日本の政治状況は急展開します。それまでから多くの藩は財政窮乏に悩み、藩政改革をしますが、ペリ-来航の1853年後は、改革の速度はより激しくなります。1837年、福井の越前藩は新藩主として、田安家から養子を迎えていました。この人物が幕末の名君として名高い、松平慶永(春嶽)です。慶永は公正とほぼ同年輩になります。この慶永を中心に藩政改革、そして越前藩は親藩ですので、幕政改革も試みられます。
当時の武家が藩政改革といえばまず軍制改革です。武士の専門は戦争請負なのですから。軍制改革には当然、武器特に銃砲軍艦の調達が必要になります。武器を買うにしても自前で造るにしても、必要なのは資本つまりお金です。当時越前藩は他の大名の例にもれず、借金で首が廻らない状況でした。慶永就封の時点ですでに、90万両の借金がありました。越前藩は30万石少しですから、大雑把に概算して約10年-15年分の借財になります。これだけの借財を抱えて、なお金食い虫の軍制改革をしなければなりません。藩全体の経済改革が必要です。それも従来のように倹約一本では、焼け石に水、になります。
殖産興業が叫ばれます。和紙、生糸、漆器、木材、蠟などの特産品の生産が奨励されます。(第一段階)そしてそれを物産会所という機構を通じて集荷し、藩外に売りさばきます。(第二段階)さらに会所に集まる商人や農民に資金を貸し付けます。(愛三段階)この資金を紙幣で支払います。(第四段階)越前藩の経済改革では第四段階のとっかかりくらいまで行きました。紙幣、この場合は人気の悪かった藩札で一部支払います。藩札はあまり抵抗なく受け入れられたようです。この体験が公正をして維新の財政家としての重要な体験を涵養します。物産会所の首脳部は、町奉行、郡奉行、制産方頭取他武士6名と、豪商豪農代表8名からはなっていました。公正は制産方頭取です。制産とは産業産物の支配という意味もありますが、次第に生産の方に意味が移って行きました。
物産会所は士庶協同ですから、このやり方を軍制に応用すれば農兵組織が出来上がります。事実越前藩では農兵が1200人いました。松平慶永が、幕末の政局をリ-ドできた背景には、経済改革と農兵組織への自信があります。公正は幕政改革を促進するために4000人の農兵の上京を企図し、過激派と目されて、慶永から謹慎を命じられます。
公正の政治思想に大きな影響を与えた人物が細川家熊本藩士の横井小楠です。小楠は四書の筆頭である「大学」の中から、その修養の第一段階である「誠意」を「公正」そして「下に利する」と解釈します。さらにここから「労」の意味を引き出し、民富の増強を重視します。(注1)「由利公正」の「公正」はここから拝借してきた、とも言われます。他に公正が交わった人物としては、同藩士橋本左内と坂本竜馬がいます。
(注1)この解釈を孔子や朱子が聴いたらビックリするでしょう。日本の儒学には横井小楠のように漢籍を比較的自由大胆に再解釈して自説を作る傾向があります。荻生徂徠はその代表です。日本人は儒学を尊重しましたが、儒教を信奉したわけではありません。儀礼と習慣を離れて純粋な学説のみを学べば、学風は自由になります。横井小楠のみならず、佐久間象山も吉田松陰も儒学の専門家でしたが、その思想と行動は恐ろしく大胆です。
慶応3年10月徳川慶喜は大政奉還を朝廷に申し出ます。新政府が樹立されました。公正は参与になり、同年12月新政府の御用金取扱に任命されます。徴士でした。(注2)ここから由利財政が始まります。新政府にはお金がありません。公正は太政官札(金札)を発行します。公正の意図としては、金札は通常の通貨ではないはずでした。金札を藩や商人農民に貸し付ける、彼らはそれを資本として運用する、一定の時点で彼らは政府に金札に利子を付けて返す。こうして資金循環は良くなり、国全体の産業活動が盛んになり民富そして国富も増大するという考えです。通貨ではなく、国債でもなく、一種の財政投融資ですから、公正は金札の取扱いを、別途会計にしておきました。
(注2)新政府には人材はいません。そこで諸藩の藩士を官吏に任命します。任命には二種類の方法がありました。徴士と貢士です。前者は新政府が諸藩から一本釣りで引き抜いた人材、後者は藩から推挙された身分です。前者の方が本物の官吏、後者は出向という印象があります。由利公正は徴士の第一号、つまり明治政府官吏の第一号になります。次が横井と木戸孝允です。
太政官札は関西方面ではかなり順調に出回りました。大阪を中心とする、関西経済圏では銀手形の使用が常習化しており、同種の試みに慣れていたからです。しかし江戸に進駐した官軍主脳は太政官札の発行に反対します。理由は、関東は敵地で新政府への信頼がない、関東ではこのような試みに慣れていない、などです。彼らは公正の意図を理解できなかったのでしょうか?大隈重信、陸奥宗光、江藤新平、井上馨など維新の豪傑の錚々たるところが猛反対でした。特に江藤の論旨は激烈で公正と大激論になります。公正は勝ったつもりでした。ところが明治元年12月に東京で発行された金札に関する条文には「通用可致様御沙汰候事」と書かれています。「(通貨として)通用するように命令せよ」の意味です。こうして太政官札は公正の意図を離れて通貨になりました。この時点で公正の財政家としての政治的生命は断たれます。彼が推挙した人物の不正事件の責任もあります。正式には翌明治2年2月公正は会計官を辞職します。
しかし公正の考えを離れて観察して見ますと、太政官札を通貨として使うというのも、一方法です。とにかく新政府にはお金がありません。旧幕軍討伐のみならず、しなければならない事は山ほどあります。軍備増強、官吏制度確立、教育、通信、交通などなどいくら金があっても足りません。こういう時公正が案出した太政官札は使いようによっては至極便利なものでした。ともかく金貨と兌換という触れ込みで金札をばら撒き、仕事をします。金と札の交換比率は次第に落ちます。政府は一番有利な時点で金札を発行するのですから、金札の効用の良いところだけ掠め取ります。このやり方を大胆に自信をもってしたのが、大隈重信です。彼には彼の目算があります。太政官札をばら撒いても、それで景気が良くなれば、税収が増え、金札兌換は可能になると踏みます。大隈財政下で、廃藩置県、秩禄処分、地租改正、軍備増強、官吏制度整備、鉄道開通、中小学校建築、帝国大学創立、留学生派遣、外人専門家の雇用、銀行制度創立、不平士族反乱の鎮圧などなど、金の要りそうな事の基礎は作られました。しかし西南戦争が終わってみれば景気はいいが、経常収支は大赤字になります。ここで第三の男、こわもての松方正義の登場になります。彼は太政官札をすべて収集し(没収ではありません)、それを焼却処分して、貨幣流通量を大幅に減らし、財政と貿易の収支を整備してから、銀本位制の上に日本銀行を設立し、金融と財政を分離します。(注3)
(注3)この手のやり口は世界史上かなりあります。代表的なのが、フランス革命時、革命政府が発行したアビシニア紙幣、アメリカ独立戦争蜂起した13州連合が発行したいわゆる大陸紙幣、南北戦争時北部政権が発行したグリ-ンバックなどがあります。日本政府が戦争直後占領軍管理下において発行した復金手形も似ています。これらはすべて、発行されると価値を落とし、最後は紙屑同様になりますが、政府はそれで、というよりそれだからこそ、仕事ができました。金は天下の廻りもの、仕事ができりゃそれでいい、後はなんとかなるだろう、です。経済ってこんなものかも知れません。
由利公正は明治4年、東京府知事に任命されています。翌年出発したけ遣米使節と共に、アメリカに渡っていたら解雇の通知が来て、以後野に降ります。公正は薩長の藩閥に属していないので、ずいぶんぞんざいに扱われました。公正は「五ケ条の御誓文」の草稿を作りました。
野にあって公正は、越前藩の藩校教育の近代化に尽力し、米人グリフィスを福井へ招聘しています。民選議院設立建白書の運動に賛成して、自由民権運動に助力します。萬年会という勧農組織に協力します。故郷の福井で乳牛飼育を試みます。史談会会長に任命され、多くの遺訓を語ります。また日本興業銀行設立期成同盟会の運動を押し進めます。明治42年(1909年)死去、享年81歳、子爵
参考文献 由利公正のすべて 新人物往来社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
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