経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

皇室の歴史(24)

2020-04-23 13:31:55 | Weblog
皇室の歴史(24)
 後花園天皇は1428年即位し在位は30年近くになります。残り6年の院政は応仁の乱の前半に当たります。この間正長の土一揆、永享・嘉吉の乱などがあり政情は混沌としてきます。ただし混沌は武家内部の問題であり、民衆の経済活動は活発でした。土一揆などは民衆の反税闘争の実力行使であり、それができるだけの力を彼らは持っていたのです。農民は鎌倉時代くらいから「座」に結集し郷村は衆議による自治機構になりつつありました。下からの力が上に及び、将軍-守護大名-豪族被官-農民というラインが下剋上の動きで揺れに揺れとどのつまり京都に東西両軍が結集し10年間京都市街を灰にして戦ったのが応仁の乱です。従って幕府にはかっての力はなくなります。応仁の乱の前に二つの内紛と内乱がありました。1441年それまで幕府の権威を取り戻そうとして狂信的と言ってもいいほどの強権政治行っていた六代将軍足利義教は播磨の守護赤松満祐に殺されます。この時幕府首脳は自ら討伐の命令を出せず、後花園天皇に討伐の綸旨を請います(嘉吉の乱)。この時天皇は熟考の末、綸旨を発給します。ついで関東公方足利持氏の反抗的態度に手を焼いた幕府は持氏討伐の綸旨を請います(永享の乱)。義教暗殺後将軍はまだ幼童で管領が政治を取り仕切っていましたが、指導力に欠けていたのです。以後は綸旨の濫発です。後花園天皇の綸旨は現存するだけでも数十点にのぼります。
 1461年大飢饉が発生しました。第八代将軍義政は山荘を造営しようとします。この時天皇は次のような詩を義政に送り諷諫しました。名詩なので挙げてみます。
 残民争うて採る首陽のわらび、所々炉を閉め竹扉を閉ざす
 詩興の吟は酸なり、春二月、満城の紅白誰が為にか肥えたる
 ここで「炉を止め」とは仁徳天皇が宮殿から見下ろして、民の炉(かまど)から煙が上がっていないのを見、三年間無税にしたという記紀の記載を指します。首陽のわらび(蕨)とは、史記の列伝第一にある伯夷と叔斉のお話しです。二人は兄弟でした。侯位を争い譲り合います。後、周の武王が殷の紂王を討とうとした時、暴力行使を諫めて入れられず、周の粟を喰わずとして、首陽山に登りわらびを食べて餓死します。司馬遷が最初に取り上げたのはこの二人の人物を統治の理想としたからです。風刺は効きすぎるほど効いています。天皇は和漢の学に優れていましたが、それは天皇として一番期待される事でした。執政者の過ちについてはそれとなく批判し封じる事が天皇の任務でした。だから教養を必要とします。義政の豪奢な遊興は有名でした。義政が政治を投げ出したから応仁の乱が起こりました。後花園天皇は仁徳天皇・伯夷叔斉の故事を引いて為政者としての姿勢を義政に問い風刺し諫めたのです。応仁の乱が起こりしばらくして天皇は退位します。これも義政への批判になりました
 後花園天皇の時から皇室の権威は回復し上昇します。二つの武器が朝廷にはありました。一つは先に述べた治罰の綸旨です。綸旨で討伐を認め、綸旨で和解を勧めます。もう一つが武士への官位授与です。幕府は(室町幕府のみならず)朝廷が武士に直接官位を与える事を禁止してきました。しかし応仁の乱で幕府の統制力が衰えると、地方の武士たちは朝廷に直接官位授与を請います。戦乱の世であり、部下や同僚の大名に権威を示したいのです。当然見返りの報酬はあります。
 後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇の三代は在位期間が長くなります。1446年から1557年の長きに渡って在位します。院政は行われていません。ほぼ戦国時代という時代に渡っています。在位が長いのは財政の都合で大嘗会はおろか即位の儀式も挙げる事が容易でなかったからです。逸話としては天皇が何か書き物を軒につるし、京都の町人がそれを買う事によって糊口をしのいだなどと言われましたがそういう事はありません。皇室の財政逼迫は幕府の財政が悪化したからです。即位の儀式の費用はすべて幕府持ちです。だから幕府はなるべく長く在位して欲しかったのです。また戦国大名やその部下たちからの寄贈もあります。
 第106代正親町天皇の時代になると風向きが変わってきます。在位期間は1557年から1586年に及びますが、この機関は桶狭間の戦いから始まり、室町幕府の滅亡、本能寺の変、そして秀吉の関白就任など一連の事件が連なる、つまり織豊政権樹立の過程です。入京した織田信長は室町幕府最後の将軍義昭と対立します。義昭の外交により信長は包囲されます。叡山、本願寺、高野山、紀州の雑賀などの寺社勢力、近江の浅井氏、越前の朝倉氏、遠くは甲斐の武田氏、中国の毛利氏などの戦国大名に完全に包囲されます。特に浅井朝倉の連合軍が叡山に立てこもった時は信長の危機でした。同時に信長は本願寺と戦闘中です。やむなく信長は正親町天皇に講和の綸旨を請い危機を乗り越えます。1570年江濃越一和が行われ浅井朝倉は兵を引き上げます。もしここで両氏が戦闘を継続していたら織田政権はありえなかったでしょう。また信長は義昭との講和の時も綸旨を仰いでいます。最大の問題は一向宗が立て籠もる大阪本願寺の勢力でした。この宗教勢力は畿内および周辺で勢力を伸ばし、戦国大名以上の武力を握っていました。大阪は畿内の要衝であり商業運輸の中心です。信長はここが欲しかった。当然戦争になります。戦争は十年続きます。信長の軍勢の大半はこの大阪本願寺に引き付けられます。そして伊丹の城主であり畿内織田軍の中核である荒木村重が背きます。悪戦苦闘していた信長はまた天皇に和平の綸旨を請い、危機を切り抜けます。1580年一向一揆講和が成し遂げられます。本願寺は大阪を撤収します。本願寺もくたくたでした。以後信長の統一戦争は順調に進みます。
 しかし武田氏を滅ぼした直後の1582年配下の明智光秀により信長は本能寺で攻め殺されます。光秀の叛乱の真因は解りません。しかしある種の憶測は成り立ちます。信長には五人の軍団長がいました。内四人は遠方の征討に従事し畿内にはいません。光秀だけが畿内に残りいわば親衛軍団を為していました。多くの軍団長は大部分が脛に傷持つ身で次第に独裁化してゆく信長に戦々恐々としていました。信長は既に二人の重臣を追放しています。また信長という人は極めて自己中心的な人で、正親町天皇の綸旨で何度も救われながら、天皇に退位を要求します。天皇が拒否したので、信長は安土城内に自分を崇拝するような記念碑(?)を造ったと言われます。天皇も戦々恐々とせざるを得ませんでした。こういう中信長は京都で少数の側近だけで本能寺に宿ります。そこを光秀に急襲されました。この行為は信長の日程に詳しくないと不可能です。朝廷公卿による通牒は充分考えられます。光秀自身過去に義昭と信長に二重に仕え、朝廷との連絡役もしていたのです。
 正親町天皇と織田信長の関係を少し詳しく書きました。天皇が武家の動向に大きな影響力を持っていたという事です。
 足利義満にせよ織田信長にせよ、彼らは皇位を乗っ取ろうとしましたが、その事自体が不可能です。皇室は義満・信長の時代までに大略1000年以上の時を経ています。その間政体は何度も変わりましたが、皇室の権威は不変でした。特に平安時代中期、摂関政治ができて権威と権力は分離されます。武家の幕府はそれを受け継いでいます。武士とは農場開拓経営者です。土地への土着性が強く分権的になり、権力の一極集中を嫌います。権力の一極集中とは、政治執行者の神格化です。日本では皇室の存在ゆえにその事は不可能です。義満や信長はそれを狙いました。遠く遡れば蘇我入鹿、藤原仲麻呂、弓削道鏡などがいます。多くは無残な死を遂げています。

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