経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、松方正義

2009-07-10 01:00:40 | Weblog
           松方正義

 松方正義といえば、松方財政、明治15年に大蔵卿に就任しそれまでの悪性インフレを退治し、日銀を創設し。以後の日本経済の骨格を作った人として有名です。彼の財政に対してはいろいろな批判もあります。しかし公平に見て、もし松方財政がなければ、日本は半植民地になっていたでしょう。問「もし国家が外国から借金して返せなければどうなりますか?」、答「ただ砲艦あるのみ」。これが当時の外交のあり方でした。

 松方は天保6年(1835年)薩摩の下級藩士として生まれました。西郷や大久保とは1世代後輩になります。郷士ですから、鹿児島城下に住む正規の藩士からは差別されます。しかしその割には昇進コ-スを歩んでいます。大番座書役、近習から郡奉行そして御船添役になり、長崎へ出張します。ここで維新を迎えます。松方が出世できたのは、当時薩摩藩の財政改革に辣腕を振るっていた調所広郷(本職は茶坊主)の眼にとまったからです。財政改革をするのに名門だの家柄だの言っておれません。実力のある人物を適所に配置するのは当たり前です。名君島津斉彬の人物眼は確かです。そして保守的で根性の座った松方は島津久光からも寵愛され近習に取り立てられます。

 明治になり松方は日田県(大分県の西部)の知事になります。この時黒田藩が発行していた贋札事件を手がけます。明治4年大蔵権大丞、さらに租税権頭(そぜいごんのかみ---税金徴収の責任者)になり、明治政府の運命をかけた地租改正をてがけます。この間松方は欧州に遊学し、フランス中央銀行総裁レオン・セ-の知遇を得ています。この時経済学の基礎を習得します。そして明治8年大蔵大輔(現在なら財務省次官)になります。やがて西南戦争が始まります。改革のためのインフラ投資に加え戦費が重なり、政府は政府紙幣を増刷します。インフレになります。インフレは外国品需要の増加(良いものはだれでも欲しがります)を促進し、貿易は入超になります。正貨は流出し、財政は信用を失います。政府も国民もいいかげんな不換紙幣だけ持っているのですから、このままでは外国とまともな交易はできなくなります。明治9年から14年(松方の大蔵卿就任)までに民間に出回っている紙幣は総額で5000万円増加しています。

 ここで当時の貨幣のあり方について説明しなければならなくなりました。大雑把に言って、三種類の貨幣が流通していました。政府紙幣と国立銀行券そしてメキシコ銀(ドル)です。前二者は不換紙幣です。ですから当然信用があるのはメキシコ銀(ドル)です。国立銀行というのはまぎらわしい名前です。明治の初年に伊藤博文が米国の制度を参考にして作りました。この銀行には発券の資格が与えられます。銀行が自分の紙幣を発行するのです。当然それは金か銀に兌換されなければいけないのですが、経営はいい加減なものでした。必要なら政府紙幣にせよ、国立銀行券にせよ、どんどん発券します。ですから正貨(といえばメキシコドルしかありません)に対するこれら紙幣の比価はどんどん下がります。なおドルといえば現在ではアメリカのドルを意味しますが、本来ドルとは近世初期にドイツで発掘された銀鉱ヨアヒムスタ-ル産の銀貨から来た名前です。この銀貨が良質で大量発行されたので、以後そういう銀貨はタ-ラ-銀貨と呼ばれ、それがなまってドルになりました。周知のようにメキシコは銀の大量産出地でありましたから、世界の銀貨はメキシコ銀でできたものが多く、以後大量かつ安定した銀貨はメキシコ銀(ドル)といわれるよういになりました。

松方は暗殺された大久保の後を受けて内務卿になります。以前から松方は政府部内の財政通でした。明治15年大隈重信に代り大蔵卿に就任します。大蔵大臣です。それまでの財政は大隈の独壇場でした。大隈は積極的財政を主導しました。政府紙幣をばらまいてインフレになっても、やがて好景気になり、その分租税が入ってくるから大丈夫、というのが大隈の考え方です。もっともそれまでに政府や国家が破産しなければですが。大隈の考え方はケインズ的です。対して松方は後に述べるようにマネタリスト的態度を取った、といえましょう。
(付 政治家で経済の解る人は恐ろしく少ないようです 当時の政府は10名内外の参議による合議制でしたが、うち経済に関して意見を言えるのは、大隈と松方だけでした 現在でも事情は変わらないと思います)
 
問題の発端は政府財政信用のために大隈が5000万円の外資導入を提案した事です。松方はこの提案に猛反対します。こうして財政担当大臣は交代しますが、この交代は政変です。大隈は突然参内を止められます。つまり大隈は一方的に政府から追放されたわけです。大隈が国会開設に積極的であり、それを急いだ事に対する反対もありました。さらに背景には汚職事件があります。明治6年の政変、いわゆる征韓論事件も汚職がらみです。汚職はたいてい長州閥で起こります。井上馨やその他の連中です。いずれにせよ、財政問題等における意見の対立が、汚職(これを隠蔽しようとする勢力)と結びついて、大隈は追放され、松方が財政担当になります。(明治14年の政変)

 松方の方針は、不換紙幣の整理、正貨準備の増加、中央銀行の設立です。まず政府経費節約し、増税します。新税を創設します。醤油税、菓子税、売薬印紙税、米商会所・株式取引所仲買人税などです。酒税や煙草税の税率は上がります。政府歳入を極力増やそうとします。

 次が不換紙幣の整理です。国債を発行し、民間に出回っている紙幣を吸収します。明治16年までに政府紙幣を、2480円償却(廃棄)し、2646万円を政府準備金に繰り入れます。後者はいつでも償却できますが、他に使い道があります。


 国立銀行は創立後20年まで営業が許可され、以後は普通の銀行(発券銀行でない)になるよう命令されます。明治18年までに424万円の国立銀行券が償却されます。こうして貨幣流通量は明治13年の1億6000万円から18年の1億2000万円に減ります。なお明治14年から18年までの国債発行高は総額4000万円です。だいたい釣り合いますね。今の言葉でいえば松方は売りオペをしたことになります。

 荷為替、貿易等に際しての為替、の取り扱いを外国人にも許可します。貿易促進特に輸出促進のためです。平行して公債を外国人が持つ事への制限を大幅に緩和します。国債を買ってほしいからです。松方は外資には警戒的でしたが、一部外資に頼ります。これらの政策は当然、外国人居留地における治外法権の問題と絡みます。それまで政府は居留地での治外法権を認める代わりに、外国人が日本の経済活動に参加する事を厳しく制限してきました。財政政策の転換は、外交政策の変化を呼び起こします。18年に松方は伊藤内閣の大蔵大臣になりますが、外務大臣は井上馨でした。松方財政と鹿鳴館外交は平行します。

 政府準備金は政府信用のもとに、これを貿易への資金供与として運用します。その利子は国庫に繰り入れられます。

 これら一連の政策の推移を見て、松方は明治16年日本銀行を中央銀行として設立します。発券銀行は日銀一行に統一されます。不換紙幣整理の目途がついたところで18年銀本位制に移行します。というよりそれまでの日本の幣制は曖昧でわけの解らないものだったのです。当時英国はもちろん、米独仏等は続々金本位制をとっていましたから、銀本位を採用した日本は経済的二流国の立場を自らとったわけです。先進国に対する従属的立場ですが、当時の状況は日本にとって有利でした。金高銀安の相場が進展します。その分日本は輸出しやすくなります。しかしこのままでは所詮は二流の従属経済なのですが、やがて日清戦争が起こります。この間会計法が制定されます。要は官庁も、きちんと帳簿をつけましょう、という事です。それまで各官庁は予算を与えられると、それを適当な銀行に預けて、運用させていました。
 明治初年に相継いで創設された官営企業(工場や鉱山)は民間に払い下げされます。官営では能率が悪いのと、これらの官営企業はほとんど輸入防アツ(輸入品に代えて国産品を作り、輸入を減らす事)のためでした。松方は逆に輸出促進を方針とします。この時払い下げられた官営企業には高島鉱山(後藤象二郎、後に三菱)、院内鉱山(古河市兵衛)、兵庫造船所(川崎正蔵)、長崎造船所(三菱)、深川セメント製造所(浅野総一郎)、富岡製糸所(三井)などがあります。三井・三菱・古河・川崎・浅野は後の財閥になります。

 私は松方財政のいい面だけを述べてきましたが、松方財政はデフレ政策であり、当然不況を招きます。倒産する者も多く、特にそれまでインフレで潤っていた農民の困窮はなはだしく、自殺者が急増しました。そして財政が一段落した後に松方は海軍公債を発行し明治政府念願の強兵路線をとります。

 明治24年松方内閣成立、松方は首相兼蔵相に就任します。明治27年日清戦争勃発。この戦争の費用はすべて内国債で賄います。戦争に勝って、清国から賠償金2億両獲得します。三国干渉による遼東半島返還でさらに3000万両。しめて併せて2億3000万両は英貨にして350万ポンド、円換算で3億5600万円です。これを政府はイングランド銀行に預け、対外支払準備にするとともに、正貨準備として明治30年(1997年)、金本位制を宣言します。32年外債の公募を容認し、外資導入に踏み切ります。

 この間松方は首相・蔵相を歴任し、後に内大臣になり、公爵そして従一位を与えられます。大正13年(1924年)死去、享年89歳です。松方に関しては二つの逸話を私は聞いています。松方一族が経営する企業や銀行が危なくなり、その救済でややこしい事件があった事。松方正義の孫娘が、駐日米大使ライシャワ-氏(昭和30年代大使在職)の夫人だった事です。
 (参考文献 松方正--日経新書、日本産業史1--日経文庫、日本通史17巻—岩波書店)


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