経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  徳川綱吉

2021-07-06 21:21:31 | Weblog
経済人列伝 徳川綱吉

 徳川五代将軍綱吉といえば、悪法、生類憐れみの令を発して庶民を困らせた専制君主という評価が通り相場で、少なくとも名君という評判は聞きません。どちらかと言えば暗君・馬鹿殿のイメ-ジが先行します。忠臣蔵を始めとする諸々の本や芝居には必ず登場ずる人物ですが、彼のまとまった伝記はあまり無いようです。しかし綱吉という人物の、彼個人の才能や徳性を別にして、彼の幕政の展開における、というより日本の政治経済史における位置には、想像以上のものがあります。彼個人のというより、彼と彼を取り巻く近臣、柳沢吉保や荻原重秀を含めて、というべきでしょう。
 綱吉は1646年(正保3年)、三代将軍家光の第三子として生まれました。幼名は徳松、8歳三位中将に任官し、右馬頭を兼ねて、松平右馬頭綱吉と名乗ります。上州館林藩主として15万石を給され、大名に列せられますが、この措置はかなり形式的で、藩士は幕臣の一部が転じ、綱吉はほとんど江戸に在住します。後の御三卿と似たような感じの待遇で、当代将軍にもしものことがあった場合の補欠として遇せられます。このような大名を家門大名と言います。19歳御摂家の一つ鷹司家の信子と結婚します。4代将軍家綱が死去し、35歳の時、第五代の将軍に就任します。(すぐ上の兄、綱重は先に病没)。この間側室お伝の方との間に、徳松(綱吉と同名)と鶴姫が産まれています。子供はこの二人だけ、綱吉は巷間で想像されるよりは性に淡白な方で、側室の数も多くはありません。徳松は夭折します。鶴姫は紀州家に嫁ぎます。
 綱吉はすんなり将軍に成れたのでもないようです。家綱政権下の実力者酒井忠清は綱吉の将軍就任に反対して、鎌倉幕府の例に習い京都朝廷から宮将軍を迎え入れる提案をしたと噂されます。綱吉政権において彼に大きな影響を与えた重臣近臣は、堀田正俊、牧野成貞、そして柳沢吉保です。特に柳沢の影響は重大ですが、彼の伝記を探しても出てきません。綱吉の場合、政治の勘所特に経済政策は彼自身より彼のスタッフに 拠るものと思われます。綱吉は嗣子なきまま30年統治し、1709年(宝永6年)64歳で死去します。死去当時の評判は、犬公方の名が示すとおり散々でした。6代将軍は兄綱重の子家宣になります。生前綱吉は、生類憐れみの令は、死後も存続させてくれと、家宣に頼みますが、家宣は将軍就任と同時に、この悪法を廃止します。
 綱吉の政治は文治主義と言われます。文治主義の柱は中央集権制と反バーバリズムです。二つの政策は結局同じものです。綱吉就任当時は、未だ戦国の気風が強く、念友(同性愛関係)や遊侠の徒(男伊達)が横行し、江戸市中でも喧嘩沙汰が絶えず、血を流す争闘もしょっちゅうでした。綱吉はこの気風を嫌います。彼は剣道修行が苦手であったようで、その分学問に精励します。この学問が儒学です。綱吉は武闘の気風に儒学の枠をはめて、前者を掣肘しようとしました。彼は林春常に束髪を許し、大学頭に任官させ、信篤と名乗らせます。それまで僧形を強いられ、特殊な隠遁者の風しか許されなかった儒者を、正式の武士社会に迎え入れました。同時に湯島に聖堂、つまり儒学研鑽の幕府正式機構を作ります。これは後に昌平坂学問所に発展します。綱吉は、自身臣下に直接儒学を講義する趣味の持ち主でした。昌平坂学問所は江戸時代後半には官僚の育成機関の様を呈して来ます。東大法学部の前身と見ていいでしょう。
 綱吉の儒学傾倒は、仁の思想に基づきます。彼は捨て子の保護を行います。同時に捨て馬や捨て牛の保護も試みます。ですから綱吉は社会福祉政策に先鞭をつけたと申せましょう。一視同仁です。この延長上に、生類憐れみの令、があります。ともかく生き物の命を大切にしよう、という事です。江戸市中に野犬が溢れ、犬達は噛み合って喧嘩していました。綱吉はこの風体が嫌いでした。犬の喧嘩は、遊侠の武闘と重なります。ですから生類憐れみの令は、反バーバリズムの一端でもあります。彼が特に愛犬家だったとは言えません。この辺までは理解できます。しかし綱吉のかなり不安定な情緒と癇癪持ちの性格のために、臣下は戦々恐々として、法律の施行と遵守を厳格にしました。やはり犬を殺したら、獄門か遠島というのはご免です。
 綱吉の代の時、幕臣の知行と給料を区別する給付方式が始まります。知行は先祖の功績によるので不変ですが、役職に着くと就任の間だけ役料が追加されます。これは幕府の官僚としての給金です。この制度は8代吉宗の時拡充され足高制(たしだかせい)に発展します。国絵図を作り、貞享暦という新しい暦を作成します。国家の地図の作成は国家を統一的に治めようとする意図の発露です。暦の編纂は国家経営上の時間的推移の把握ですから、これも中央集権化の一端をにないます。それまで暦の作成は朝廷の専管事項でした。全国から(幕領だけでなく)酒税を徴収します。(綱吉は酒が嫌いでした)また幕臣一同から小普請金として石高に応じた一定の金銭の納付も義務付けます。これらは新しい税制になります。農地の質入を禁止して、担税者である自作農を保護し、地方直し(じかたなおし)という検地を行って大名の隠し田を摘発します。一時期藩札も禁止します。貨幣発行権は中央政府である幕府にのみ属する、という論理です。
 こう見てくると綱吉の政治は文治主義という名の中央集権化と官僚制度(もちろん完全なものではありませんが)を志向したことになります。前代の武断主義から文治主義への変遷は偶然ではありません。その深層には経済構造の変化があります。中世社会では農村は名主という小領主の直接支配下に置かれ、農民(作人)は名主に人格的に隷属する傾向にありました。この構造は戦国期を通して徐々に変化し、農民は名主支配下から独立し始めます。状況は徳川時代になって更に進展し、農村には多くの小自作農が出現します。
幕府は大名統制を厳格にしました。大名領で一揆などの混乱が起こると改易されます。さらに幕府統制下で大名は財政悪化に苦しみます。また江戸大阪京都などの大都市が発展し、それらを結ぶ幹線道路東海道は参勤交代もあって大いに栄えます。大名は領国統治のために、灌漑などの公共事業を推し進めます。特産物の栽培生産を奨励します。こうして農民は徐々に裕福になりました。大名が進める経済開発の恩恵は農民や彼らを地盤とする農村商人を一番利したことになります。大名は開発した土地から取れる産物の徴税方法に習熟せず、江戸初期に5公5民とか6公4民とか言っていた収取率は綱吉の元禄時代には 3公7民くらいになっていました。簡単に言いますと為政者の意図とは別に、農村とそれを地盤とする商工業は発展し、庶民が裕福になっていったのです。
 綱吉政権は農政のあり方を根本的に変えます。勝手方老中(財政専管)という職務を作ります。大蔵(財務)大臣です。ちょうどその時代イギリス王制において第一大蔵卿が首相であったように(ウォルポ-ル)、勝手方老中(初代は大老堀田正俊)は事実上の首相に相当しました。更に勘定奉行の下に4-5名の勘定吟味役を置きます。勘定吟味役は一応奉行支配下にありますが、老中に直接意見具申もできます。この職の最も重要な役割は、代官の不正の監視摘発でした。幕府は直轄領を5-10万石に分割し、それぞれに代官を置いて治めていました。しかし代官には、戦国時代の名主地侍の系譜を引く、土地の有力者を任命する事が多かったのです。この種の代官は農村と幕府の仲介役になります。彼らの仲介を介してでないと年貢の徴収がうまくいかなかったのです。仲介役の代官は3割程度の年貢をごまかしました。また地元と直結しているので年貢徴収にも手心が加えられます。財政悪化に悩む幕府は、代官を直接中央から任命する方向に、人事を切り替えます。この措置は農村における小自作農の輩出を背景にしています。幕府は小自作農を直接把握しようとしました。
 勘定吟味役の設置は二つの意味を持ちます。まず幕府官僚制の成長です。この職につく人は実務にたけていなければなりません。家柄よりも能力が重視されます。勘定吟味役の地位は次第に重要なものになり、小身の者が出世する代表的なコ-スになります。
勘定吟味役の設置は小自作農の保護育成と重なります。幕府は彼らを主要な担税者にし、彼らの土地を護ります。田畑永代売買禁止の令を作り、農民の土地が濫りに商人資本の犠牲にならないようにします。この事は非常に重要な事で、土地所有権の確立を意味します。売買が許されないので、完全な所(私)有権ではありませんが、その範囲内での所有権(あるいは耕作権)はほぼ完全に保障されました。イギリスにおける囲い込み運動(エンクロジャ-)のように、有力者が勝手に土地を占拠して、農民を一方的に追い出す、などという事態は日本では起こりえません。現在の日本社会は世界一安全と言われています。その淵源はこの辺にもありそうです。
 自作農の輩出、農村経済の発展は商品流通を盛んにします。流通経済の発展で得をするのは農工商の庶民、割を食うのは為政者である武士層です。幕府大名の財政は悪化します。家康以来貯め込んでいたご金蔵は、綱吉の代にはほぼ空になっていました。新たな財源が求められます。倹約、増税という線もありますが、古今東西この種の政策は不評です。そこで貨幣改鋳が試みられました。発案者は勘定吟味役から勘定奉行になった荻原重秀です。幕府発行の金貨銀貨の金銀含有量を減らします。反比例して貨幣量は増加します。含有量は平均1/3減らされましたから、計算どおりですと流通貨幣量は1・5倍になります。始めは好景気になりましたが、やがてインフレになります。だからこの政策は不評で綱吉悪政の一つとされました。家宣政権で活躍した新井白石は荻原のこの政策を厳しく非難し、彼を失脚させます。しかし冷静に考えますと、成長する経済は貨幣量の増大を要求します。事実元禄から享保にかけて、そしてそれ以後特産物を中心とする地方経済は発展して行きます。また諸藩は藩札を発行しています。藩札とは無利子の公債と考えても宜しいでしょう。いずれにせよ、なんらの形で貨幣量は増大して行く傾向にありました。白石が彼の信念に基づいて、貨幣の金銀含有量を増やしたら、逆の現象が起こり、たちまちデフレになり、庶民は困窮しました。
小自作農の増加・農村経済の発展と流通貨幣量の増大は、為政者の意図は別にして、相関関係があります。私は荻原の政策が正しい、少なくとも時代の進展の方向を向いている、と思います。問題は貨幣の信用を何に求めるかです。白石は素材自身に求め、荻原は政府の権力に求めました。私は後者を是としますが、当時製造業の発展は未熟であり、貨幣の回転を経済価値(財貨の増大)に直結させる能力は不充分でした。それを可能にするためには、つまり商工業を発展させるためには、土地自体を資本に転化させる必要があります。この時始めて国家は、資本の回転に対して、貨幣量の調節をもって合理的に介入できます。
 勘定奉行荻原重秀は、貨幣の素材などなんでもいい、陶器片や瓦でできていてもいいのだ、要は政府が信用を保障すればいい、と言いました。貨幣の価値を決めるのは素材か権力かという問題をめぐって、8代吉宗政権において試行錯誤が行われ、田沼政権下で南りょう二朱判の発行に至ります。この貨幣は銀貨ですが、同時に金貨の価値単位である「朱」で価値が表示されています。金銀比価を自然の流動に任せるのではなく、銀貨を金貨に従属させ、金でもって銀の価値を、しかも政府の判断で決めます。一種の金本位制です。同時に政府による貨幣価値への〈極めて限定的ですが〉介入でもあります。
 綱吉政権下で為された事は、土地の所有権(限定的ですからむしろ耕作権と言うべきかもしれません)の承認と、貨幣による経済への介入です。この事自体はすでに近代経済政策の端緒を示しています。そして以後の政権では、この方向の可否をめぐって試行錯誤が行われます。ただ荻生徂徠は綱吉政権が志向し、吉宗政権が試行してゆく、政策の動向を大胆に先取りする青写真を提示しています。次に江戸時代最大の学者といわれる荻生徂徠の経済論を見てみましょう。
 綱吉と徂徠の間に柳沢吉保が入ります。吉保は綱吉の近臣であり重臣です。そして徂徠は一時期吉保に仕えていました。私はこの列伝を綱吉一人にしぼりましたが、実際政治は綱吉と吉保の共同作業として行われました。綱吉の施策に吉保が大きな影響を持っていたことは間違いないでしょう。柳沢吉保は1658年(万治元年)に生まれ、7歳で綱吉に初見し、以後小姓組、小納戸組を歴任し、やがて側用人として大名に列し、大老格となり、最終的には甲斐国で25万石を給されます。1714年(正徳4年)57歳で死去。彼の子吉里は後、大和郡山に移封されます。柳沢家は大大名として維新まで存続しています。巷間ではこの人物は非常に不人気で、いつも悪役です。伝記の類は非常に少ない。将軍の寵を頼んで出世した奸臣の代表のように思われてきました。私は忠臣蔵のファンですから、この人物はそんなものだろうと思っていました。しかし江戸時代の経済史に興味を持つと、綱吉の印象や位置づけが変わってきます。綱吉とほぼ一心同体で生涯を過ごした吉保に関しても同様です。時代の転換期に、半世紀近く近侍して、おべっかだけで昇進し、地位を保てるわけがありません。最近彼に関する手ごろな本が出版されました。参考文献として挙げておきます。なお矢野恒太が設立した、第一生命の初代社長に就任した伯爵柳沢保恵は吉保の子孫です。

参考文献  徳川綱吉  吉川弘文館
       でっちあげられた悪徳大名、柳沢吉保  ガラフ社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行






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