「君民令和 美しい国日本の歴史」ch10 評定衆と貞永式目 注4
(金沢貞顕、ある北条一族の人生)
金沢貞顕という人物がいます。聞きなれない名前と思われたら「金沢文庫」の創設者(の一人?)として思い出してください。貞顕は1278年評定衆金沢顕時の子供として生まれ、順調に幕府官僚としての地位を昇り1333年鎌倉幕府滅亡に際して自刃した人です。享年は56歳でした。金沢氏は北条家庶流の一つです、義時の子供実泰の曽孫に当たります。実泰は義時死後の後継者問題で泰時の執権就任をはばもうといた陰謀の駒の一人でした。普通なら命が危ないのですが泰時の温情で家を興します。この家は武蔵国六浦荘金沢郷を本拠地としたことからこの名前がつきました。父親はすでに鎌倉幕閣の中枢に近い地位にありましたから、貞顕も順調に昇進します。貞顕が生きたのは時宗の子供得宗の貞時の時代とそれに続く高時の時代です。この時期は幕府内部では御家人と得宗被官の対立、更に悪党と言われる新興武力と幕府の対立など転換期特有の波乱因子を含み幕府の経営の範囲も次第に限定されて来る時代です。貞顕はそういう矛盾を放置したまま守旧的な政治運営をしたと非難されています。
官位と職位は順調です。17歳左衛門尉、23歳従五位、25歳六波羅南方探題、32歳引付頭人、33歳六波羅北方探題就任(鎌倉獏宇の体制下では北方の方が格上でした)、1315年38歳連署就任、41歳従四位上、そして1326年49歳で執権に就任します。ただしこの執権職は一か月後には辞任します。貞顕が連署に就任した歳の一年後北条高時が執権になります。またその1年後後醍醐天皇が即位します。波乱の時期の幕明けです。ここで問題は二つあります。共に相続問題です。幕府内部は高時の子供邦時を後継者にするか弟の泰家を後継にするかで首脳部は割れていました。得宗被官と伝統的な御家人の対立です。もう一つは朝廷内部での持明院統と大覚寺統の対立です。両統は比較的温和に帝位を交代で占めてきましたが、ここに大覚寺統傍流の後醍醐天皇が割り込み、自分の子孫に帝位を世襲させたいために討幕を企て始めます。都合よく大覚寺統の嫡流はみな若死にし、対立は後醍醐天皇と持明院統の対立になり、先鋭化します。肝心の幕府は中心が割れていますから事態に適宜対処できません。貞顕が連署になった時はそういう時期でした。そして貞顕が執権になったのも、得喪被官派が彼を担いで邦時の後継を進めたいからでした。ですから当然泰家支持派の猛烈な抵抗にあいます。まさに、火中の栗を拾う、行為で、だから貞顕は一か月で執権を辞任しました。ただし政権の長老であり、彼の一族は枢要な地位を占めていますから貞顕は一定の発言力は持っていました。
1324年正中の変、後醍醐天皇の反幕行為です。この事件に対する幕府の対応は非常に甘いもので天皇の側近の一人が配流されたくらいです。1331年元弘の変が起こります。御醍醐天皇は隠岐に流されますが、この時期高時が得宗被官代表の実力者長崎高資を討とうとして発覚し、高時は自分は関与していないと責任を逃れます。これで幕府は御家人の信頼を失い指導力をの有無を違われます。同時に一度は失権した後醍醐天皇に復活するチャンスを与えます。高時という人は太平記に書かれているような暗愚な人ではありませんが病弱で、だから時として不決断になり、政治より詩歌や絵画を好む静かな人のようでした。後醍醐天皇とはま反対の性格です。ですから幕閣は集団合議制で運営されていました。その中の一人が金沢貞顕です。悪党勢力を駆使し利用しまくる超アクテイヴな天の攻勢に幕府は対処できず1333年滅びます。貞顕も自害します。
貞顕は優れた教養人でした。世尊時流の達筆で手紙を書き、京都在任中は専門家から中国古典の読み方を習います。また和漢の古典を収拾し書写させて集めます。明経道の清原氏から儒学を教授されます。源氏物語を借りて学びます。古今和歌集にも強い興味を示し王朝貴族の文化に興味を示します。六波羅探題在任中は京都の名士であり実力者ですから公卿との交際も多く、本を借りたり書写してもらったりして多くの古典を収集します。千載和歌集や建礼門院右京太夫集なども所持していました。このような古典文化への関心は祖父実時のころから始まっています。伊賀氏の変で政村と実泰はなんとか死を免れました。政村は政界を討遊泳する一方文化に憧れ陶酔して気持ちを落ち着けました。こういう風は政村の実弟である実泰にも受け継がれたのでしょう。実時・貞顕を中心として収集された古典を「神沢文庫」と言います。同時にそれは一種の学校でもありました。貞顕は当時舶来の「茶」を愛飲しました。特に京都高山寺栂尾で採れる栂尾茶を好みました。中国渡来の天目茶碗を好んだそうです。
金沢文庫と並んで貞顕が力を入れたのは菩提寺である称名寺の増築整備です。称名寺は単なる氏寺ではなく、北条氏全体の御祈祷寺でもあります。幕府滅亡後も存続しまし吾。真言密教の寺院です。ここにも多くの本が集められました。彼の一族からは多くの高僧を出しています。為に六波羅探題の頭痛の種である寺院間の抗争に巻き込まれる事が多かったようです。
貞顕の所領は40か所を超え全国に散在しています。特に武蔵の六浦、伊勢の大湊、摂津の渡辺、筑前の門司など海港の要衝は抑え、鎌倉から京都を通り九州に至る通路は確保しました。貞顕はれっきとした荘園領主で彼の部下や地元の有力者を被官として地頭代に任命して所領を支配しました。「被官」とは「官位や職務をおおせつかった者」と言う意味で簡単に言えば家来のことです。ですからか彼は非常にリッチでした。だから金沢文庫の収集ができたのでしょう。
貞顕は得宗貞時が推し進める得宗専制とそれに伴う矛盾抗争をいわば弥縫的に維持する守旧派の能吏でした。荘園領主であり、中務太夫・権右馬頭を歴任し従四位の官位を持つれっきとした貴族殿上人でした。また荘園領主でもあります。幕府政権の要職を占める人々はこうして王朝貴族化していったのでしょう。しかし最後は立派でした。北条一族郎党500名余は全員北条氏の氏寺である東勝寺で割腹しています。
(青砥藤綱、鎌倉武士の合理性)
青砥藤綱という武士がいました。彼は川の中で10文の銭を失います。それを探すために人夫を雇い100文の銭を払います。人が笑うと藤綱は、人に与えた100文は世の中を廻り廻って人の役に立ち生きてくる、川の中の銭はなんの役にも立たない、答えます。経済が勃興しだした時代のお話です。経済学でいう有効需要とか貨幣供給に相当する考えです。現在の財務官僚に聴かせてやりたいくらいです。時代の経済については次章で述べます。
次も藤綱の話だと思います。主君が夢で、恩賞を与えよという、お告げがあったと言って恩賞を与えようとします。藤綱は、夢で恩賞が与えられるのなら、夢で恩賞は取り上げられます、そんなあやふやな恩賞は要りません、と言って断りました。恩賞はしかるべき理由、つまり奉公の証しがあり、それを主君が認めてはっきり言葉に出したものでないと意味がない、と言うのです。契約精神の現れです。
(金沢貞顕、ある北条一族の人生)
金沢貞顕という人物がいます。聞きなれない名前と思われたら「金沢文庫」の創設者(の一人?)として思い出してください。貞顕は1278年評定衆金沢顕時の子供として生まれ、順調に幕府官僚としての地位を昇り1333年鎌倉幕府滅亡に際して自刃した人です。享年は56歳でした。金沢氏は北条家庶流の一つです、義時の子供実泰の曽孫に当たります。実泰は義時死後の後継者問題で泰時の執権就任をはばもうといた陰謀の駒の一人でした。普通なら命が危ないのですが泰時の温情で家を興します。この家は武蔵国六浦荘金沢郷を本拠地としたことからこの名前がつきました。父親はすでに鎌倉幕閣の中枢に近い地位にありましたから、貞顕も順調に昇進します。貞顕が生きたのは時宗の子供得宗の貞時の時代とそれに続く高時の時代です。この時期は幕府内部では御家人と得宗被官の対立、更に悪党と言われる新興武力と幕府の対立など転換期特有の波乱因子を含み幕府の経営の範囲も次第に限定されて来る時代です。貞顕はそういう矛盾を放置したまま守旧的な政治運営をしたと非難されています。
官位と職位は順調です。17歳左衛門尉、23歳従五位、25歳六波羅南方探題、32歳引付頭人、33歳六波羅北方探題就任(鎌倉獏宇の体制下では北方の方が格上でした)、1315年38歳連署就任、41歳従四位上、そして1326年49歳で執権に就任します。ただしこの執権職は一か月後には辞任します。貞顕が連署に就任した歳の一年後北条高時が執権になります。またその1年後後醍醐天皇が即位します。波乱の時期の幕明けです。ここで問題は二つあります。共に相続問題です。幕府内部は高時の子供邦時を後継者にするか弟の泰家を後継にするかで首脳部は割れていました。得宗被官と伝統的な御家人の対立です。もう一つは朝廷内部での持明院統と大覚寺統の対立です。両統は比較的温和に帝位を交代で占めてきましたが、ここに大覚寺統傍流の後醍醐天皇が割り込み、自分の子孫に帝位を世襲させたいために討幕を企て始めます。都合よく大覚寺統の嫡流はみな若死にし、対立は後醍醐天皇と持明院統の対立になり、先鋭化します。肝心の幕府は中心が割れていますから事態に適宜対処できません。貞顕が連署になった時はそういう時期でした。そして貞顕が執権になったのも、得喪被官派が彼を担いで邦時の後継を進めたいからでした。ですから当然泰家支持派の猛烈な抵抗にあいます。まさに、火中の栗を拾う、行為で、だから貞顕は一か月で執権を辞任しました。ただし政権の長老であり、彼の一族は枢要な地位を占めていますから貞顕は一定の発言力は持っていました。
1324年正中の変、後醍醐天皇の反幕行為です。この事件に対する幕府の対応は非常に甘いもので天皇の側近の一人が配流されたくらいです。1331年元弘の変が起こります。御醍醐天皇は隠岐に流されますが、この時期高時が得宗被官代表の実力者長崎高資を討とうとして発覚し、高時は自分は関与していないと責任を逃れます。これで幕府は御家人の信頼を失い指導力をの有無を違われます。同時に一度は失権した後醍醐天皇に復活するチャンスを与えます。高時という人は太平記に書かれているような暗愚な人ではありませんが病弱で、だから時として不決断になり、政治より詩歌や絵画を好む静かな人のようでした。後醍醐天皇とはま反対の性格です。ですから幕閣は集団合議制で運営されていました。その中の一人が金沢貞顕です。悪党勢力を駆使し利用しまくる超アクテイヴな天の攻勢に幕府は対処できず1333年滅びます。貞顕も自害します。
貞顕は優れた教養人でした。世尊時流の達筆で手紙を書き、京都在任中は専門家から中国古典の読み方を習います。また和漢の古典を収拾し書写させて集めます。明経道の清原氏から儒学を教授されます。源氏物語を借りて学びます。古今和歌集にも強い興味を示し王朝貴族の文化に興味を示します。六波羅探題在任中は京都の名士であり実力者ですから公卿との交際も多く、本を借りたり書写してもらったりして多くの古典を収集します。千載和歌集や建礼門院右京太夫集なども所持していました。このような古典文化への関心は祖父実時のころから始まっています。伊賀氏の変で政村と実泰はなんとか死を免れました。政村は政界を討遊泳する一方文化に憧れ陶酔して気持ちを落ち着けました。こういう風は政村の実弟である実泰にも受け継がれたのでしょう。実時・貞顕を中心として収集された古典を「神沢文庫」と言います。同時にそれは一種の学校でもありました。貞顕は当時舶来の「茶」を愛飲しました。特に京都高山寺栂尾で採れる栂尾茶を好みました。中国渡来の天目茶碗を好んだそうです。
金沢文庫と並んで貞顕が力を入れたのは菩提寺である称名寺の増築整備です。称名寺は単なる氏寺ではなく、北条氏全体の御祈祷寺でもあります。幕府滅亡後も存続しまし吾。真言密教の寺院です。ここにも多くの本が集められました。彼の一族からは多くの高僧を出しています。為に六波羅探題の頭痛の種である寺院間の抗争に巻き込まれる事が多かったようです。
貞顕の所領は40か所を超え全国に散在しています。特に武蔵の六浦、伊勢の大湊、摂津の渡辺、筑前の門司など海港の要衝は抑え、鎌倉から京都を通り九州に至る通路は確保しました。貞顕はれっきとした荘園領主で彼の部下や地元の有力者を被官として地頭代に任命して所領を支配しました。「被官」とは「官位や職務をおおせつかった者」と言う意味で簡単に言えば家来のことです。ですからか彼は非常にリッチでした。だから金沢文庫の収集ができたのでしょう。
貞顕は得宗貞時が推し進める得宗専制とそれに伴う矛盾抗争をいわば弥縫的に維持する守旧派の能吏でした。荘園領主であり、中務太夫・権右馬頭を歴任し従四位の官位を持つれっきとした貴族殿上人でした。また荘園領主でもあります。幕府政権の要職を占める人々はこうして王朝貴族化していったのでしょう。しかし最後は立派でした。北条一族郎党500名余は全員北条氏の氏寺である東勝寺で割腹しています。
(青砥藤綱、鎌倉武士の合理性)
青砥藤綱という武士がいました。彼は川の中で10文の銭を失います。それを探すために人夫を雇い100文の銭を払います。人が笑うと藤綱は、人に与えた100文は世の中を廻り廻って人の役に立ち生きてくる、川の中の銭はなんの役にも立たない、答えます。経済が勃興しだした時代のお話です。経済学でいう有効需要とか貨幣供給に相当する考えです。現在の財務官僚に聴かせてやりたいくらいです。時代の経済については次章で述べます。
次も藤綱の話だと思います。主君が夢で、恩賞を与えよという、お告げがあったと言って恩賞を与えようとします。藤綱は、夢で恩賞が与えられるのなら、夢で恩賞は取り上げられます、そんなあやふやな恩賞は要りません、と言って断りました。恩賞はしかるべき理由、つまり奉公の証しがあり、それを主君が認めてはっきり言葉に出したものでないと意味がない、と言うのです。契約精神の現れです。
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