松永安左エ門
日本の電力企業は、二人の好色漢(女好き)によって形成されたとも、言えます。二人とは、福沢桃介と松永安左エ門です。まずよりまじめな方から語ってみましょう。安左エ門は1975年(明治8年)に長崎県壱岐群、壱岐島で生まれました。幼名は亀之助、やがて祖父以来の名前を継いで、安左エ門と名乗ります。家は様々な事業を営む、裕福な商人でした。呉服雑貨販売、醸造、網元、船舶運送、そして田畑山林を所有する大地主です。安左エ門は幼少期から腕白で、癇癪持ちで、わがままでした。15歳時、福沢諭吉を慕って、慶応義塾に入学します。しかし勉学にはあまり身が入りません。「学問のすすめ」を書いた諭吉その人に、先生区々たる知識を知るよりはもっと重大な事が人生にはあるはずです、それは何でしょうか、と質問します。諭吉は、うどん屋か風呂屋の三助が適当だろうと、答えます。多分、カチンときたので、安左エ門をからかってやれと思ったのでしょう。諭吉の紹介で三井呉服店(三越の前身)に入り、呉服販売に従事します。面白くなくてすぐ辞めます。ついで、諭吉の養子である福沢桃介に誘われて、利根川水力発電という会社を興そうとします。技術がこの企ての水準まで達せず、企画は挫折します。しかし、この企ては二人の人生に大きな刻印を押します。栴檀は双葉より芳し、あるいは、雀百まで踊り忘れず、の喩えどおり、桃介も安左エ門もその終生の事業は電力会社経営になります。
24歳、日銀に入社。総裁山本達雄に多分、福沢桃介から紹介されたのが効いたのでしょう、為替掛として就職できました。この間慶応義塾は中退しています。日銀も2年足らずで辞めます。桃介が経営する丸三商会の神戸支店長になります。ここも失敗。大きな仕事をやろうとし過ぎるのです。そしてしばらく桃介宅に居候します。桃介の妻房子からは使用人同様の待遇を受けます。26歳神戸に福松商会を作ります。「福松」とは言うまでもなく、桃介と安左エ門両名の姓を組み合わせたものです。安左エ門は桃介に師事していました。彼は桃介に教えられ、利用され、からかわれ、可愛がられて成長します。そして桃介から精神的に独立した時、安左エ門は真の企業家として活躍し始めます。新会社はなんでも扱う、自称ジェネラル・ブロ-カ-でした。安左エ門は慶応の同窓である武藤山治が采配を振るう、鐘紡を尋ね、商談の機会を伺う内に、紡績工場の燃料として絶対必要な石炭に眼をつけます。武藤の好意で鐘紡に石炭を入荷します。
普通のおとなしい商売だけに安住できる安左エ門ではありません。山下亀三郎という人物と組んで北海道炭を大阪の今西商店に売り込む事に成功し、かなり儲けます。四日市の米富商店と組んで、愛知石炭商会の縄張り荒らしをたくらみます。また大阪市への石炭入札に際して、業者間の談合破りをします。危険な行為です。下手をすると命にかかわります。この辺の行為は、奇道、権道そして多分に悪党的です。この時代、つまり福松商会時代、遊び好きの安左エ門が一番遊んだ時期です。石炭業界は活況をしめしてきます。安左エ門は日露開戦を予想し、石炭が高騰すると読んで、特に低価格粗悪炭を大量に買い込みます。開戦後もなかなか値が上がりません。天の恵みか、九州地方は豪雨に襲われます。当時の技術では採炭は不可能になります。保管しておいた石炭を売って、安左エ門は大儲けします。勢いに乗り炭鉱経営をも目指し、ボロ鉱山を掴まされて失敗します。
桃介の勧めか影響でしょう、相場に手を出します。横浜電鉄の株を買い、60万円の資金を600万円にしようと、たくらみます。株は774円をピ-クにして下がり始め、最終値は28円になります。安左エ門はすべてを失います。桃介は途中でさっさと売り払い、逆に大儲けします。安左エ門は、桃介がなぜ売り時を知らせてくれないか、と恨めしく思いますが、これは結果論で無理な話です。仮に桃介が教えたとしても、安左エ門は売らなかったでしょう。投機とはそういうものです。投機熱の渦中にあって冷徹になれるのは極小数の人間です。そういう点では桃介は天才です。この機微を知っていたから、桃介は安左エ門に忠告しなかったのだろうと、思います。桃介の桃介たる由縁は、このように冷えたところを多分に持つ点です。所詮は自分の体験で知らないと意味がない、教えて解るものじゃない、と桃介は割り切っていたのでしょう。
無一文になった安左エ門は大阪住吉の呉田に移住し、貧乏生活に甘んじます。1年間の閑居生活中、彼は猛烈に読書をします。不肖の弟子もようやく敬愛した諭吉の勧めに従います。すでに諭吉は死去しています。敬愛する師匠の墓に布団を着せることはできません。この1年間で安左エ門の人生・人格は大きく変化します。この間29歳、竹岡一子と結婚します。逸話があります。縁談と石炭投機は同時進行でした。結婚式の日に大事な商談があります。商談をまとめて、息せききって宴席に帰り三々九度の杯を交わしたと伝えられています。安左エ門は遊び人でしたが、一子との夫婦仲はいたって良好でした。その点では桃介とは対照的です。桃介は福沢諭吉の次女房子と結婚します。桃介は「超」がつく美男子であり、房子も美人でした。3人の子を設けたのに、二人の仲は冷え切っていました。安左エ門と桃介の性格の差でしょうか。
三井呉服店、利根川水力、日銀、丸三商会、福松商会という、24歳から33歳までの9年間における安左エ門の行動は、試行錯誤、紆余曲折そして多分に支離滅裂という印象を与えます。がむしゃらで、突っ走り、反倫理的でもあります。しかしこの行動の中で、安左エ門は石炭という方向を少しづつに掴んでゆきます。いつの時期かは解りませんが、安左エ門がかなり成功した頃の逸話です。真偽のほどはわかりかねます。安左エ門が東京から福岡に向かう道中、東海道線の主な駅で必ず下車し、土地の芸者を総揚げして遊びながら、西に向かったそうです。女好き、宴会好き、当然酒好きです。戦後、安左エ門は電力政策を代表してGHQ(占領軍総司令部)とやりあいますが、時の首相吉田茂がどうしても彼を信頼しきれなかったのは、この逸話に代表される安左エ門の性格です。加えて彼は先輩であり師匠でもある福沢桃介から株相場の面白さを教えてもらっております。まさしく飲む・打つ・買うの三悪を猛然と実行しました。福沢諭吉が丸三商店の経営を心配したのも、問題児桃介がよりによって安左エ門のような、人物を経営陣に加えたからです。
1908年33歳、安左エ門は復活します。三井銀行大阪支店長平賀敏の紹介で、大阪ガスからコ-クスの処理を頼まれます。コ-クスは火力がきつすぎて、家庭用には不向きでした。安左エ門はコ-クス用の特別なコンロを作り、併せて販売します。この作戦は当たりました。彼は、品質の統一と販売量の正確さを重んじます。なによりもお客である主婦層が商品の使用を喜ぶすがたに、安左エ門は感動を受けました。この時点で彼は高利貸資本から産業資本の運営者に代ります。虚業から実業へと、言ってもいいでしょう。ここでも逸話があります。大阪ガスではコ-クスをいちいち精確に計って、安左エ門に渡していました。彼は副社長そして社長の片岡直輝に会い、ガスの生産量からコ-クスのそれは簡単にできるはず、と進言し、片岡を感心させます。化学方程式を理解していれば簡単な判断です。
東洋製革での技術上の問題に関して、既に社長になっていた平賀敏から相談を受けます。安左エ門は同会社の役員になり、現場から技術的に堪能な者を引き上げ、問題をほぼ解決します。桃介の勧めで泉尾土地会社の経営にも加わります。
安左エ門の運命を決する時が来ます。かって石炭商のころ、彼は福岡市内に電気軌道を敷く事を申請していました。3年間放置されていましたが、九州地方の博覧会を主宰する福岡市が積極的になります。安左エ門は自己の資金に加え、渋る桃介にも出資させます。更に桃介の紹介で三菱財閥の総帥岩崎久弥も出資します。福博電気軌道を立ち上げます。福岡市内に市電が走るようになりました。桃介が社長、安左エ門は専務です。低料金の方針を貫き、利用者開発に全力を挙げ、どんな辺鄙なところでも走るように、心がけます。1909年、34歳の時のことです。時代は重化学工業を軸とする第二次産業革命に入っていました。安左エ門の、利用者優位、積極経営は当たります。ここから彼の驀進が始まります。電気を利用する側から、電気を生産する側に軸を起きます。日本瓦斯会社を作ります。そして九州電気会社を作り、福博電気軌道と博多電燈を合併させて、九州電燈鉄道会社を作ります。更に唐津鉄道や糸島電気、博多ガスや熊本ガスをも合併して、西部合同ガスを設立します。安左エ門の八面六臂の活躍ぶりを見ていた社員たちは、うちの社長はやくざの親分みたいだ、と評しました。事実出入り寸前の際どい局面もありました。なにしろ土地に石炭が絡む商売です。向こう傷の一つや二つは負うくらいの覚悟は要るでしょう。こうして安左エ門は九州地方の電気とガスの生産を握りました。40歳、博多商業会議所会頭に押されます。同年衆院選に出ます。強敵中野正剛を下して当選します。国会では、シベリア出兵に反対し、炭鉱労働の危険防止を訴え、瀬戸内海の小島が製錬事業で丸裸になっているのを取り上げ、環境保全策の必要性を提案しています。
33歳から40歳までの間に、安左エ門は実業の基礎を作りました。この成功の原因を以下に追究してみましょう。まず安左エ門が産業資本家としての明確な生き方を自覚し自得した事が重要です。高利貸資本のような、他人の金を奪うだけの、ゼロサムゲ-ムから足を洗います。然るべき便益を供与し、その見返りを頂く、この間に会社もお客も共に大きくなる、換言すれば経済成長を遂げる、というのが産業資本の論理です。自らも、また相手も豊になる方向に彼は舵を取ります。
次に時代です。九州地方のみならず、全国的に都市が発展し、住居は郊外に移っていました。この動向の背景には、産業の進展に伴う、サラリ-マン層の増加があります。全国の大都市では、彼らを都心に運ぶ機関を必要としました。小林一三の阪急電鉄、堤康次郎の西部電鉄などはこうして発展しました。安左エ門も同様です。彼が小林や堤と違うのは、ここから一気に工業エネルギ-を供給する側に廻ったことです。それには九州で石炭が豊富に産出するという事情も寄与しています。
そして第二次産業革命です。重化学工業の発展には、石炭と電力は欠かせません。九州という地の利を生かして、安左エ門は一挙に状況をわしづかみにする形で、電力会社経営に邁進します。
安左エ門の人間関係も重要です。彼は試行錯誤、疾風怒濤の時代に幾多の人間関係を作っています。なにしろハチャメチャで、駈けずり廻ったのですから、知名度は抜群です。そして彼には、彼が可愛いなと思わせる魅力があります。最初にコ-クスの件を紹介した平賀敏などが代表です。また福博電気軌道設立に協力したのは桃介ですが、あの冷徹な桃介をして産業資本というじっくりとしか儲からない事業に投資させたのは、安左エ門の魅力です。桃介が投資しなければこの会社はできなかったでしょう。桃助はすでに財界では鬼才として名をなしていました。三菱の岩崎久弥の協力は事業の信用に大きく寄与しましたが、これも桃介の協力によるものです。桃介は、牛に引かれて善光寺に参る欲張り婆のように、安左エ門に引かれて虚業から実業の世界に入ります。
最後に言うべきことは、安左エ門は若くして事業経営に乗り出し、この世界の酸いも甘いも知悉していることです。確かに虚業は捨てましたが、虚業に伴う知識は生きています。安左エ門が短期間に九州の群小資本を合併させた速さは、株式売買も含めて、この種の智恵のさせるところでしょう。
この間突発事件が起こります。安左エ門は贈賄容疑で収監されます。発端は小林一三の電鉄経営にあります。小林は、彼が経営する箕面有馬電気鉄道(阪急電車の前身)と京阪方面の鉄道をつなぐために必要な、大阪市内路線の認可を市に申請します。この際、大阪市の助役以下の幹部に便を計ってもらう為に、電鉄会社の新株を提供します。大阪市の幹部と小林を仲介したのが、安左エ門です。収賄が発覚します。贈賄容疑で小林と安左エ門も逮捕されます。当時の法律では贈賄側は白状すれば無罪でした。二人は白状しません。白状して他に迷惑がかかる事を恐れました。警察も困ります。小林の親分に当たる岩下清周が桃介に連絡し、二人を説得しましたが、頑として聞き入れません。やむなく岩下と桃介が代理で白状し、明確な証拠を示し、それに小林・松永の両名にむりやり書名捺印させて、出所した(そうです)。ただしこの話には裏がありそうです。こういう時白状しない方が、経営上では有利になります。信用がつくから、きわどい話つまり大きな儲け口がやってくるからです。ともかく電力の鬼と郊外型住宅地開発の魁は一時臭い飯を食いました。
大正年間に電力会社の合併再編成巨大化が進みます。この動向の音頭を取ったのが安左エ門です。名古屋は彼の盟友である桃介が押さえていました。桃介は名古屋電燈を支配し、群小の同地方の電力会社を合併し、関西の一部の会社も併せて、大同電力を作ります。関西の他の電力会社と九州電燈鉄道会社を併せて東邦電力が誕生します。この会社のボスは安左エ門です。若尾一族の経営で不振にあえぐ東京電燈に安左エ門は乗り込み、筆頭株主になります。こうして日本の電力会社は、東京電燈(後の電力)、大同、東邦、日本、宇治川電力の五社に編成されます。
経営者である安左エ門は、競争は進歩の母、基礎から技術を磨く、そして一度決心したら不退転、を信条とします。しかし時代は次第に彼の方針とあわなくなってゆきます。各種の産業は統制下に入ります。小林一三も統制の方向で業界をまとめるようになり、安左エ門の批判を浴びます。近衛内閣の逓信大臣である永井柳太郎が、電力国家管理法案を作ろうとしたとき、安左エ門は激論の末に、「官僚は人間の屑だ」と発言し、しばらくして彼は経営から身を引いて、引退します。戦争が終わるまで、売り食い生活を行い、趣味の茶道三昧に明け暮れます。彼の号は耳庵と言います。電力業界は日本発電に統合され、国家の強い指導を受けます。東邦電力も解散します。
終戦、そして1949年に安左エ門は吉田内閣から電気事業再編審議会委員に任命され、互選で会長になります。時の最高権力はGHQです。GHQの十分割案と安左エ門の九分割案が対立します。分割とは日本の電力供給を10とか9の地域に分けて、行おうとする案です。9と10なら大した違いはないではないかとも、思われますが、決定的な違いがあります。GHQの10分割案では、10の地域は発電・配給を含めて、その地域を独占してしまいます。この案では大きな弊害があります。北陸や東北地方では資金不足のために、電源開発が充分にできません。逆に関東、中部、関西地方では消費量が多く、地域内の電源では不足になり、余っている他の地方から電力を買わなければなりません。そのためには再び日本発電のような、中央統制機関を必要とします。安左エ門の案では、分割された地方は他地方の電源開発をしてよいようになります。典型的な例が関西電力の黒部発電所です。こうなると消費に応じた電力供給が可能になります。また各会社は、ピ-ク時に強い水力発電と安定した供給ができる火力発電のバランスを取ることができます。つまり安左エ門の9分割案の方が、電力会社の自発性が発揮されやすくなります。電気事業再編審議会は解散され公益事業委員会が作られます。吉田内閣は安左エ門の任命をいやがりましたが、彼の電力業界における実績と人望にまけ、安左エ門は委員長代理になります。安左エ門とGHQは対立します。結局1951年に九分割案が通ります。同時に電気代の値上げが行われました。およそ値上げというものはどこでも反対にあうものですが、安左エ門は妥協しつつも、値上げを敢行して、電力業界の経営安定を計ります。この時彼は齢71でした。彼の特記すべき事業はここまでです。以後も色々な会議や事業に参画しています。毛色の変ったものは、A・トインビ-の「歴史の研究」の邦訳に尽力したことです。彼は著しく長命でした。1971年(昭和46年)97歳で死去します。死因はアスペルギリス熱という奇病でした。なお安左エ門の好色に関しては色々な話がありますが、すべて割愛します。ただ彼が公益委員に任命される時、時の首相吉田茂は反対しました。理由は吉田が、池田成彬から聞いた「松永氏の人格に関する問題」でした。昭和初期の恐慌で神戸の鈴木商店が倒れた時、鈴木の総帥金子直吉を評して安左エ門は次のように言いました。金子は立派な事業家だが、惜しいかな女を知らない。女を知らないから金のことも解るらないのだ。政界の連中に金をばらまいておけばこういう事にはならなかったのに、と。
安左エ門は遺族にあてた遺言状のようなものを残しています。葬儀、墓碑、法名、法事一切不要、勲位勲章断固断れ、邸宅什器美術品等一切寄付、子孫に美田は残さない。といいこの遺言の執行人に時の首相池田隼人以下の人々を指名しています。(昭和36年、1961年)
参考文献 まかりとおる 新潮社
鬼才福沢桃介の生涯 NHK出版
日本の電力企業は、二人の好色漢(女好き)によって形成されたとも、言えます。二人とは、福沢桃介と松永安左エ門です。まずよりまじめな方から語ってみましょう。安左エ門は1975年(明治8年)に長崎県壱岐群、壱岐島で生まれました。幼名は亀之助、やがて祖父以来の名前を継いで、安左エ門と名乗ります。家は様々な事業を営む、裕福な商人でした。呉服雑貨販売、醸造、網元、船舶運送、そして田畑山林を所有する大地主です。安左エ門は幼少期から腕白で、癇癪持ちで、わがままでした。15歳時、福沢諭吉を慕って、慶応義塾に入学します。しかし勉学にはあまり身が入りません。「学問のすすめ」を書いた諭吉その人に、先生区々たる知識を知るよりはもっと重大な事が人生にはあるはずです、それは何でしょうか、と質問します。諭吉は、うどん屋か風呂屋の三助が適当だろうと、答えます。多分、カチンときたので、安左エ門をからかってやれと思ったのでしょう。諭吉の紹介で三井呉服店(三越の前身)に入り、呉服販売に従事します。面白くなくてすぐ辞めます。ついで、諭吉の養子である福沢桃介に誘われて、利根川水力発電という会社を興そうとします。技術がこの企ての水準まで達せず、企画は挫折します。しかし、この企ては二人の人生に大きな刻印を押します。栴檀は双葉より芳し、あるいは、雀百まで踊り忘れず、の喩えどおり、桃介も安左エ門もその終生の事業は電力会社経営になります。
24歳、日銀に入社。総裁山本達雄に多分、福沢桃介から紹介されたのが効いたのでしょう、為替掛として就職できました。この間慶応義塾は中退しています。日銀も2年足らずで辞めます。桃介が経営する丸三商会の神戸支店長になります。ここも失敗。大きな仕事をやろうとし過ぎるのです。そしてしばらく桃介宅に居候します。桃介の妻房子からは使用人同様の待遇を受けます。26歳神戸に福松商会を作ります。「福松」とは言うまでもなく、桃介と安左エ門両名の姓を組み合わせたものです。安左エ門は桃介に師事していました。彼は桃介に教えられ、利用され、からかわれ、可愛がられて成長します。そして桃介から精神的に独立した時、安左エ門は真の企業家として活躍し始めます。新会社はなんでも扱う、自称ジェネラル・ブロ-カ-でした。安左エ門は慶応の同窓である武藤山治が采配を振るう、鐘紡を尋ね、商談の機会を伺う内に、紡績工場の燃料として絶対必要な石炭に眼をつけます。武藤の好意で鐘紡に石炭を入荷します。
普通のおとなしい商売だけに安住できる安左エ門ではありません。山下亀三郎という人物と組んで北海道炭を大阪の今西商店に売り込む事に成功し、かなり儲けます。四日市の米富商店と組んで、愛知石炭商会の縄張り荒らしをたくらみます。また大阪市への石炭入札に際して、業者間の談合破りをします。危険な行為です。下手をすると命にかかわります。この辺の行為は、奇道、権道そして多分に悪党的です。この時代、つまり福松商会時代、遊び好きの安左エ門が一番遊んだ時期です。石炭業界は活況をしめしてきます。安左エ門は日露開戦を予想し、石炭が高騰すると読んで、特に低価格粗悪炭を大量に買い込みます。開戦後もなかなか値が上がりません。天の恵みか、九州地方は豪雨に襲われます。当時の技術では採炭は不可能になります。保管しておいた石炭を売って、安左エ門は大儲けします。勢いに乗り炭鉱経営をも目指し、ボロ鉱山を掴まされて失敗します。
桃介の勧めか影響でしょう、相場に手を出します。横浜電鉄の株を買い、60万円の資金を600万円にしようと、たくらみます。株は774円をピ-クにして下がり始め、最終値は28円になります。安左エ門はすべてを失います。桃介は途中でさっさと売り払い、逆に大儲けします。安左エ門は、桃介がなぜ売り時を知らせてくれないか、と恨めしく思いますが、これは結果論で無理な話です。仮に桃介が教えたとしても、安左エ門は売らなかったでしょう。投機とはそういうものです。投機熱の渦中にあって冷徹になれるのは極小数の人間です。そういう点では桃介は天才です。この機微を知っていたから、桃介は安左エ門に忠告しなかったのだろうと、思います。桃介の桃介たる由縁は、このように冷えたところを多分に持つ点です。所詮は自分の体験で知らないと意味がない、教えて解るものじゃない、と桃介は割り切っていたのでしょう。
無一文になった安左エ門は大阪住吉の呉田に移住し、貧乏生活に甘んじます。1年間の閑居生活中、彼は猛烈に読書をします。不肖の弟子もようやく敬愛した諭吉の勧めに従います。すでに諭吉は死去しています。敬愛する師匠の墓に布団を着せることはできません。この1年間で安左エ門の人生・人格は大きく変化します。この間29歳、竹岡一子と結婚します。逸話があります。縁談と石炭投機は同時進行でした。結婚式の日に大事な商談があります。商談をまとめて、息せききって宴席に帰り三々九度の杯を交わしたと伝えられています。安左エ門は遊び人でしたが、一子との夫婦仲はいたって良好でした。その点では桃介とは対照的です。桃介は福沢諭吉の次女房子と結婚します。桃介は「超」がつく美男子であり、房子も美人でした。3人の子を設けたのに、二人の仲は冷え切っていました。安左エ門と桃介の性格の差でしょうか。
三井呉服店、利根川水力、日銀、丸三商会、福松商会という、24歳から33歳までの9年間における安左エ門の行動は、試行錯誤、紆余曲折そして多分に支離滅裂という印象を与えます。がむしゃらで、突っ走り、反倫理的でもあります。しかしこの行動の中で、安左エ門は石炭という方向を少しづつに掴んでゆきます。いつの時期かは解りませんが、安左エ門がかなり成功した頃の逸話です。真偽のほどはわかりかねます。安左エ門が東京から福岡に向かう道中、東海道線の主な駅で必ず下車し、土地の芸者を総揚げして遊びながら、西に向かったそうです。女好き、宴会好き、当然酒好きです。戦後、安左エ門は電力政策を代表してGHQ(占領軍総司令部)とやりあいますが、時の首相吉田茂がどうしても彼を信頼しきれなかったのは、この逸話に代表される安左エ門の性格です。加えて彼は先輩であり師匠でもある福沢桃介から株相場の面白さを教えてもらっております。まさしく飲む・打つ・買うの三悪を猛然と実行しました。福沢諭吉が丸三商店の経営を心配したのも、問題児桃介がよりによって安左エ門のような、人物を経営陣に加えたからです。
1908年33歳、安左エ門は復活します。三井銀行大阪支店長平賀敏の紹介で、大阪ガスからコ-クスの処理を頼まれます。コ-クスは火力がきつすぎて、家庭用には不向きでした。安左エ門はコ-クス用の特別なコンロを作り、併せて販売します。この作戦は当たりました。彼は、品質の統一と販売量の正確さを重んじます。なによりもお客である主婦層が商品の使用を喜ぶすがたに、安左エ門は感動を受けました。この時点で彼は高利貸資本から産業資本の運営者に代ります。虚業から実業へと、言ってもいいでしょう。ここでも逸話があります。大阪ガスではコ-クスをいちいち精確に計って、安左エ門に渡していました。彼は副社長そして社長の片岡直輝に会い、ガスの生産量からコ-クスのそれは簡単にできるはず、と進言し、片岡を感心させます。化学方程式を理解していれば簡単な判断です。
東洋製革での技術上の問題に関して、既に社長になっていた平賀敏から相談を受けます。安左エ門は同会社の役員になり、現場から技術的に堪能な者を引き上げ、問題をほぼ解決します。桃介の勧めで泉尾土地会社の経営にも加わります。
安左エ門の運命を決する時が来ます。かって石炭商のころ、彼は福岡市内に電気軌道を敷く事を申請していました。3年間放置されていましたが、九州地方の博覧会を主宰する福岡市が積極的になります。安左エ門は自己の資金に加え、渋る桃介にも出資させます。更に桃介の紹介で三菱財閥の総帥岩崎久弥も出資します。福博電気軌道を立ち上げます。福岡市内に市電が走るようになりました。桃介が社長、安左エ門は専務です。低料金の方針を貫き、利用者開発に全力を挙げ、どんな辺鄙なところでも走るように、心がけます。1909年、34歳の時のことです。時代は重化学工業を軸とする第二次産業革命に入っていました。安左エ門の、利用者優位、積極経営は当たります。ここから彼の驀進が始まります。電気を利用する側から、電気を生産する側に軸を起きます。日本瓦斯会社を作ります。そして九州電気会社を作り、福博電気軌道と博多電燈を合併させて、九州電燈鉄道会社を作ります。更に唐津鉄道や糸島電気、博多ガスや熊本ガスをも合併して、西部合同ガスを設立します。安左エ門の八面六臂の活躍ぶりを見ていた社員たちは、うちの社長はやくざの親分みたいだ、と評しました。事実出入り寸前の際どい局面もありました。なにしろ土地に石炭が絡む商売です。向こう傷の一つや二つは負うくらいの覚悟は要るでしょう。こうして安左エ門は九州地方の電気とガスの生産を握りました。40歳、博多商業会議所会頭に押されます。同年衆院選に出ます。強敵中野正剛を下して当選します。国会では、シベリア出兵に反対し、炭鉱労働の危険防止を訴え、瀬戸内海の小島が製錬事業で丸裸になっているのを取り上げ、環境保全策の必要性を提案しています。
33歳から40歳までの間に、安左エ門は実業の基礎を作りました。この成功の原因を以下に追究してみましょう。まず安左エ門が産業資本家としての明確な生き方を自覚し自得した事が重要です。高利貸資本のような、他人の金を奪うだけの、ゼロサムゲ-ムから足を洗います。然るべき便益を供与し、その見返りを頂く、この間に会社もお客も共に大きくなる、換言すれば経済成長を遂げる、というのが産業資本の論理です。自らも、また相手も豊になる方向に彼は舵を取ります。
次に時代です。九州地方のみならず、全国的に都市が発展し、住居は郊外に移っていました。この動向の背景には、産業の進展に伴う、サラリ-マン層の増加があります。全国の大都市では、彼らを都心に運ぶ機関を必要としました。小林一三の阪急電鉄、堤康次郎の西部電鉄などはこうして発展しました。安左エ門も同様です。彼が小林や堤と違うのは、ここから一気に工業エネルギ-を供給する側に廻ったことです。それには九州で石炭が豊富に産出するという事情も寄与しています。
そして第二次産業革命です。重化学工業の発展には、石炭と電力は欠かせません。九州という地の利を生かして、安左エ門は一挙に状況をわしづかみにする形で、電力会社経営に邁進します。
安左エ門の人間関係も重要です。彼は試行錯誤、疾風怒濤の時代に幾多の人間関係を作っています。なにしろハチャメチャで、駈けずり廻ったのですから、知名度は抜群です。そして彼には、彼が可愛いなと思わせる魅力があります。最初にコ-クスの件を紹介した平賀敏などが代表です。また福博電気軌道設立に協力したのは桃介ですが、あの冷徹な桃介をして産業資本というじっくりとしか儲からない事業に投資させたのは、安左エ門の魅力です。桃介が投資しなければこの会社はできなかったでしょう。桃助はすでに財界では鬼才として名をなしていました。三菱の岩崎久弥の協力は事業の信用に大きく寄与しましたが、これも桃介の協力によるものです。桃介は、牛に引かれて善光寺に参る欲張り婆のように、安左エ門に引かれて虚業から実業の世界に入ります。
最後に言うべきことは、安左エ門は若くして事業経営に乗り出し、この世界の酸いも甘いも知悉していることです。確かに虚業は捨てましたが、虚業に伴う知識は生きています。安左エ門が短期間に九州の群小資本を合併させた速さは、株式売買も含めて、この種の智恵のさせるところでしょう。
この間突発事件が起こります。安左エ門は贈賄容疑で収監されます。発端は小林一三の電鉄経営にあります。小林は、彼が経営する箕面有馬電気鉄道(阪急電車の前身)と京阪方面の鉄道をつなぐために必要な、大阪市内路線の認可を市に申請します。この際、大阪市の助役以下の幹部に便を計ってもらう為に、電鉄会社の新株を提供します。大阪市の幹部と小林を仲介したのが、安左エ門です。収賄が発覚します。贈賄容疑で小林と安左エ門も逮捕されます。当時の法律では贈賄側は白状すれば無罪でした。二人は白状しません。白状して他に迷惑がかかる事を恐れました。警察も困ります。小林の親分に当たる岩下清周が桃介に連絡し、二人を説得しましたが、頑として聞き入れません。やむなく岩下と桃介が代理で白状し、明確な証拠を示し、それに小林・松永の両名にむりやり書名捺印させて、出所した(そうです)。ただしこの話には裏がありそうです。こういう時白状しない方が、経営上では有利になります。信用がつくから、きわどい話つまり大きな儲け口がやってくるからです。ともかく電力の鬼と郊外型住宅地開発の魁は一時臭い飯を食いました。
大正年間に電力会社の合併再編成巨大化が進みます。この動向の音頭を取ったのが安左エ門です。名古屋は彼の盟友である桃介が押さえていました。桃介は名古屋電燈を支配し、群小の同地方の電力会社を合併し、関西の一部の会社も併せて、大同電力を作ります。関西の他の電力会社と九州電燈鉄道会社を併せて東邦電力が誕生します。この会社のボスは安左エ門です。若尾一族の経営で不振にあえぐ東京電燈に安左エ門は乗り込み、筆頭株主になります。こうして日本の電力会社は、東京電燈(後の電力)、大同、東邦、日本、宇治川電力の五社に編成されます。
経営者である安左エ門は、競争は進歩の母、基礎から技術を磨く、そして一度決心したら不退転、を信条とします。しかし時代は次第に彼の方針とあわなくなってゆきます。各種の産業は統制下に入ります。小林一三も統制の方向で業界をまとめるようになり、安左エ門の批判を浴びます。近衛内閣の逓信大臣である永井柳太郎が、電力国家管理法案を作ろうとしたとき、安左エ門は激論の末に、「官僚は人間の屑だ」と発言し、しばらくして彼は経営から身を引いて、引退します。戦争が終わるまで、売り食い生活を行い、趣味の茶道三昧に明け暮れます。彼の号は耳庵と言います。電力業界は日本発電に統合され、国家の強い指導を受けます。東邦電力も解散します。
終戦、そして1949年に安左エ門は吉田内閣から電気事業再編審議会委員に任命され、互選で会長になります。時の最高権力はGHQです。GHQの十分割案と安左エ門の九分割案が対立します。分割とは日本の電力供給を10とか9の地域に分けて、行おうとする案です。9と10なら大した違いはないではないかとも、思われますが、決定的な違いがあります。GHQの10分割案では、10の地域は発電・配給を含めて、その地域を独占してしまいます。この案では大きな弊害があります。北陸や東北地方では資金不足のために、電源開発が充分にできません。逆に関東、中部、関西地方では消費量が多く、地域内の電源では不足になり、余っている他の地方から電力を買わなければなりません。そのためには再び日本発電のような、中央統制機関を必要とします。安左エ門の案では、分割された地方は他地方の電源開発をしてよいようになります。典型的な例が関西電力の黒部発電所です。こうなると消費に応じた電力供給が可能になります。また各会社は、ピ-ク時に強い水力発電と安定した供給ができる火力発電のバランスを取ることができます。つまり安左エ門の9分割案の方が、電力会社の自発性が発揮されやすくなります。電気事業再編審議会は解散され公益事業委員会が作られます。吉田内閣は安左エ門の任命をいやがりましたが、彼の電力業界における実績と人望にまけ、安左エ門は委員長代理になります。安左エ門とGHQは対立します。結局1951年に九分割案が通ります。同時に電気代の値上げが行われました。およそ値上げというものはどこでも反対にあうものですが、安左エ門は妥協しつつも、値上げを敢行して、電力業界の経営安定を計ります。この時彼は齢71でした。彼の特記すべき事業はここまでです。以後も色々な会議や事業に参画しています。毛色の変ったものは、A・トインビ-の「歴史の研究」の邦訳に尽力したことです。彼は著しく長命でした。1971年(昭和46年)97歳で死去します。死因はアスペルギリス熱という奇病でした。なお安左エ門の好色に関しては色々な話がありますが、すべて割愛します。ただ彼が公益委員に任命される時、時の首相吉田茂は反対しました。理由は吉田が、池田成彬から聞いた「松永氏の人格に関する問題」でした。昭和初期の恐慌で神戸の鈴木商店が倒れた時、鈴木の総帥金子直吉を評して安左エ門は次のように言いました。金子は立派な事業家だが、惜しいかな女を知らない。女を知らないから金のことも解るらないのだ。政界の連中に金をばらまいておけばこういう事にはならなかったのに、と。
安左エ門は遺族にあてた遺言状のようなものを残しています。葬儀、墓碑、法名、法事一切不要、勲位勲章断固断れ、邸宅什器美術品等一切寄付、子孫に美田は残さない。といいこの遺言の執行人に時の首相池田隼人以下の人々を指名しています。(昭和36年、1961年)
参考文献 まかりとおる 新潮社
鬼才福沢桃介の生涯 NHK出版
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