経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

中国人・漢民族について

2010-10-01 03:16:35 | Weblog
    中国人・漢民族について

 中国が尖閣諸島で領土への野心を露にしています。尖閣で妥協すれば、次は沖縄、奄美、そして九州も危なくなります。相手は中国共産党です。史上で最も獰猛な人間集団と見ていいでしょう。中国(漢民族)と共産主義、最悪の組み合わせです。日本にとっても世界全体にとっても。まず漢民族の歴史と性格を点描し、次のBLOGで「左翼」についてその思想を概括してみましょう。
 中国人はよく5000年の文化と言います。それは嘘・間違いです。漢民族の統一国家はBC220からBC200年ころできた、秦漢帝国です。それ以前は諸種の民族あるいは部族の集合体です。黄河中流地帯を本拠とする、殷人が優勢になり、小さな王国を作ります。それを関中盆地により、西方文化の影響をうけた周人が亡ぼします。春秋戦国といわれる時代は、地方部族による王国の並立期です。
 秦漢帝国になったからといって、その内部がいわゆる漢民族だけであったのではありません。帝国内部に多くの異民族を抱え込んでいました。そして常に北方の騎馬民族の侵入をうけ、漢民族は追われて、南方に逃避あるいは進出し、先住民族を追いだし、彼らと混住します。五胡十六国時代(300年)、五代(50年)は異民族が中国に侵入し、覇を唱えた動乱の時代です。唐王朝自身がすでに異民族性の強い王朝です。元・清の王朝は、異民族王朝つまり征服王朝です。
 以上の事実から解るように、漢民族は人種的に混交した複雑な構成になっており、常に治乱興亡に曝され、社会は不安定でした。この事は中国の人口動態を見れば解ります。前漢の盛期には帝国内に5000万の人口を抱えました。新そして後漢初期の動乱で人口は1000万を切ります。後漢盛期に再び5000万、そして三国の動乱でまた1000万を切ります。唐と五代でも同様の人口変化を見せ、宋王朝の盛期に2億に増加、明末清初の戦乱で1億へ、清朝が安定して、清末期から中華民国期において4-5億と推定されます。増減が激しすぎます。対比として日本を持ち出せば、奈良時代500万、鎌倉初期1000万、江戸初期2000万、明治初期3000万の人口です。日本の人口はなだらかな昇り一方の調子で推移しています。中国の人口推移の特徴は、増えるときはねずみ算式に、つまり生殖欲求に従って増え、減るときは物理的に急降下する、パタ-ンです。急降下の原因は、異民族の侵入、戦乱、飢饉、そして大規模な殺害、社会的インフラの未発達によります。外襲、戦乱の度に、民衆は流民となり、それはそのまま反乱軍か匪賊になって、他の民衆を襲い、それが流民にまたなる、というパタ-ンが繰り返されます。
 中国の兵士は徴兵によるか、流民を軍隊に編成するかのいずれかでした。だから充分訓練されておらず、数のみ多く、戦闘には弱く、略奪は日常茶飯でした。翻って日本の戦力は、主として武士という職能人からなります。数は少ないが、訓練は充分で、また同じ職能人が抱く、敵への尊敬心を持っていました。近代的軍隊になっても、それは表面的なだけで、中国では兵士を集めるのに、町で適当な若者を誘拐して、兵士にしていました。だから軍隊は容易に軍閥になり、特定のボスの個人的支配下におかれます。人民軍とやらもそうかも知れません。
 中国の人口の変化が激しい理由は、政治の不安定さによります。北方騎馬民族の侵襲のために、王朝は強権で持って、大衆を統治せねばならず、政治は常に皇帝独裁になります。皇帝と民衆の間に、安定した中間勢力が形成されることはありません。王朝は外民族の侵入により、あるいは民衆の反乱により、亡ぼされ、代って別の王朝が出現します。しかしその統治構造そのものは変わりません。この王朝の交代を易姓革命と言います。例えば楊氏の隋に、李氏の唐が代るなどです。革命の度に最後の皇帝は、そのほとんどが殺害されます。イギリスやフランスの王制、日本の天皇制などと比べれば、殺害された中国皇帝の数は飛びぬけて多いのです。殺害されるのは皇帝だけではありません。民衆も同様です。中国には「屠城」という言葉があります。城を屠る(ほふる)、城をすることです。一つの城(壁で防御された都市)を攻め落としたとしましょう。勝った軍隊は、その城の民衆を殺害し、婦女子を犯し、財産を略奪する、ことができます。楚王項羽による咸陽、反乱軍による梁の首都建業、太平天国軍による南京、の略奪が有名です。こういう場合民衆は10万単位で殺害されます。中国国内の戦闘では、屠城は必ずついてまわります。攻める側は、攻められる側と共感あるいは同一感を持たないので、このような大量殺害は容易におこります。また中間階層が育たないので、安定した人間関係と社会インフラが育ちません。社会は勢い、強力なボス(皇帝、反乱軍主脳)による、ばらばらの民衆の掌握になります。社会は、血縁共同体である部族から構成されることになります。他の部族は赤の他人、時としては敵でしかありません。
 このような部族国家を統御する基本理念が儒教です。四書五経と呼ばれる聖典がありますが、代表は礼記と論語です。礼記は儒教の聖典中の聖典です。内容は古代漢民族の、生活儀礼、特に葬送と婚姻と飲食に関する儀礼・礼儀・マナ-の集成です。論語はこの儀礼の体系に、孔子という人格のあり方を介して、より具体的に日常的に肉付けされた訓育の書です。いずれにせよ、漢民族の倫理道徳の原点は、儀礼の体系である礼記であり、従って彼らの倫理意識は、形式的な儀礼の遵守にあります。日本における仏教や西欧のキリスト教のように、個人の内面にまで食い込む宗教は漢民族にはありません。だから彼らの倫理意識は極めて外面的です。仏教はインドから中国を経て日本に招来されました。日本で鎌倉仏教の興隆により、仏教が民衆の心の中に食い込んだのと、異なり、中国では仏教は唐末にすでに衰退しています。漢民族の倫理意識は、儀礼の体系である儒教とそれを裏返しにして魔術的要素を盛り込んだ道教です。繰り返しますが、漢民族の倫理は形式的で外面的です。だから彼らは面子を重んじます。倫理意識が形式的である分、漢民族の内部結合は惰弱です。逆に言えば、部族制を抜け出せないのですから、倫理は部族の習慣そのままであっても構わないわけです。
 皇帝独裁ですので、皇帝に仕える官僚の地位も不安定です。官僚は始終処罰されています。流されたり、流罪同様の左遷の目にあったりはしょっちゅうです。処刑されることも稀ではありません。日本の平安時代の大臣、江戸時代の老中で、死罪にあった人物が、皆無と言っていいのに比べると、まことに対照的です。
 唐詩選の詩人と古今・新古今の歌人を比較対照すれば、日中の文人の差がよく解ります。日本の歌人は、趣味あるいは芸術として歌を詠みます。その点では彼らは職人(artist)です。翻って唐の詩人の本領は「応制」、つまり皇帝の要請に答えて皇帝と国家を賛美することです。詩人達は官僚であり、あくまで仕官栄達が目的であり、詩作はその手段でした。よく中国の詩には政治意識が旺盛とか、言われ賞賛されますが、逆に考えれば、詩人達は出世欲の塊でした。李白も杜甫も王維もすべてそう、政治と文学が分離していないのです。これも部族制の影響です。
 このように中国ではすべての分野に皇帝の目が光っていますから、思想弾圧はまことに厳しいものでした。民主主義以前の社会では、日本でも西欧においても、思想表現が自由だったとは言えません。しかし中国のそれは飛びぬけています。明の太祖だったか太宗だたか、気に食わない科挙官僚3000名を殺害しています。異民族の清王朝の「文字の獄」の一例を挙げます。ヨウ正帝の治世、査嗣庭という学者が、科挙の出題として「維民所止」という問題を出しました。「維」と「止」が「ヨウ」と正」の頭をはねているというので、皇帝の頭を切る、として大不敬罪に問われ、査嗣庭とその子は死刑、一族はすべて投獄されました。「ヨウ」は「擁」から手偏を取った字です。
 中国の文化というか慣習の中で、気持ち悪いものに、食人の風習があります。人が人を食うことです。司馬光の「資治通鑑」の中にその記述があります。孔子の弟子である子路は政争に敗れて、その肉は塩漬けにされて孔子のところへ贈られてきました。漢の劉邦は、反乱者の肉を塩漬けにし、見せしめとして配下の諸将に贈り、食う事を強要しました。こういう例は随所にあります。9世紀唐末に、黄巣の乱が起こりました。反乱軍もすさまじい行為をしまくりましたが、黄巣の軍が山東に追い詰められた時、食糧の不足に苦しんだ黄巣は、敵味方の死体を肉団子にして、配下の軍隊を養いました。
 演義三国志の主人公劉備が戦闘に破れて、山中を一人で逃げている時、ある猟師の家に宿ります。猟師は劉備を尊敬していました。猟師は尊敬の証に、自分の妻を殺し、その肉を料理して、劉備に差し出します。劉備は事情を打ち明けられて、感動します。私なら嘔吐するでしょう。水滸伝の頭目宋江がしびれ薬を盛られ捉えられます。賊は宋江を殺して料理にするつもりでした。有名な宋江と聞いて、賊は謝ります。以上はあくまで元曲という紙芝居の中のお話です。しかし民衆の間で、このような行為が美談とされ容認されていたことには間違いありません。だから芝居の題材になるのです。
 以上思いつくままに、中国史を素描しました。ここから出てくる結論は、中国人(漢民族)の暴力のものすごさです。殺戮は10万単位で行われます。戦乱全体になると1000万規模の殺戮になります。国共内戦や太平天国の乱などです。軍隊が殺害されるのか、民衆が殺されるのか、その区別も解りません。
 そして文化と政治が分化していない事は、文化や歴史の捏造を容易にします。二つ例を挙げましょう。南京事件というできごとがあります。1937年南京を攻略した日本軍が、南京市民30万人を虐殺したとかいう、お話です。全く根拠の無い話しです。これという証拠がありません。日中両国の学者同士の話し合いでも、日本側は2万人、中国側はあくまで30万人、を主張しています。2万になら了解できないこともありません。ただしこれは虐殺というより、正当防衛によるものです。中国軍は指導者の蒋介石も戦闘指揮官の唐生智も、南京から逃走し、軍隊は指揮者無き烏合の衆として放置されたままでした。戦闘で降伏するにはル-ルがあります。まず降伏する側は集団の指揮者を選び、使者に白旗を持たせて、敵軍に行き、降伏の意思を伝えます。受けた側が必ずしも降伏を受け入れる必要はありません。南京では指揮者なき軍隊が放置されていました。降伏の意志とそれに伴う責任を、日本軍は確認できない状況でした。降伏した側の方が、日本軍より人数は多いのです。加えて便衣兵という怖い存在があります。私服を着た兵士のことです。これが民衆の中から発泡する。そうなると日本軍も防備して構えます。民衆の中に隠れた軍隊ほど怖いものはありません。自衛のために兵士は発泡し、一部の市民を殺したという事はうなづけます。もし私が日本軍の兵士なら、殺される前に、殺します。あくまで自分の命の安全を計り、余分に殺すかも知れません。しかしこの行為を虐殺と言うでしょうか?以上の事は戦火さめやらぬ興奮の中で起こったことです。どうしても確かめたいのならば、南京市内の土地を掘り返して調査すればいいのです。30万人殺したというのなら、10万以上の遺体は出てくるでしょう。現在ではDNA鑑定という便利な手法もあります。日本政府は調査を申し入れましたが。中国政府はそれを妄論だとして、拒否しています。先に屠城の話をしました。漢民族の伝統です。彼らは彼らの習慣を日本人に投影して、見ている可能性があります。
 アヘン戦争はイギリスが中国に支払う銀がないので、中国に持ち込み、云々と言われます。そういう面もあるのでしょうが、疑問が残ります。中国の隣国である、朝鮮やベトナムさらに日本、そして阿片の栽培地であるインドなどでは、中国のように阿片が国家危機に陥るほどの事態はおきていません。なぜ中国あるいは、その文化の影響下にある満州や台湾だけで阿片が流行したのでしょうか?漢民族の民族的特性は考えられないでしょうか?蒋介石や毛沢東も彼らの支配地で阿片を栽培し、軍資金の一部にしていたことは事実です。
 儒教における倫理の外面性、とそれに伴う政治と文化の未分化さは、マルクス主義における政治経済優先、上部構造としてしか捉えられない文化、という見方とよく似ています。儒教と共産主義は意外と近い距離にあるようです。

1 コメント

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Unknown (うりぼう)
2010-11-02 04:00:28
読ませていただきました
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