経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

左翼の系譜

2010-10-06 03:20:11 | Weblog
     左翼の系譜

 左翼の系譜と大げさな表題を掲げたが、端的に言えば、三人の固有名詞で事足りる。J・ロック、JJ・ルッソ-そしてK・マルクスだ。ロックにいたるまでの過程にはいささか興味がある。ロックは経験論者あるいは感覚論者と言われるが、その淵源は遠い。私の知る限りでは14世紀初頭に没した、ドンス・スコトウスにまで遡るであろう。西洋中世の哲学は、ト-マス・アクイナスにより頂点を迎え、カトリック公認の思想として、全西欧特に大陸部で支配的な影響力持った。が、ド-ヴァ-海峡を隔てたイギリスでは、むしろ異端と言ってもいいほどの哲学が語られている。
 トーマスが普遍と個物(あるいは地上と天界)を合理的に結びつけて、諸事象を説明しようと試みるのに対し、ドンス・スコトウスは普遍から切り離された個物そのものを直感的に、つまり合理的推論を排して、だから結局経験的に、捉える。この試みが更に進展するとウリアム・オッカムの唯名論になる。名前は単に記号であり、記号の彼方には、感覚的にしか捉えられない、経験の世界があると、唯名論は言う。逆に考えれば、人間は記号を駆使しあるいは創造して、経験の世界をいくようにも構築できるとも言える。
 なぜイギリスには大陸と異なる思想の風潮が起こったのかと問えば、答えは多伎に散じるかもしれない。王権が強く、典型的な封建制度が育たなかったからとも言える。この事実はブリテン島がフレンチノルマンという異民族支配下にあったこととも関連するし、またイギリスでは早くから農民の反抗が起こっていた事とも繋げられるかもしれない。オッカムが活躍したほぼ同時代に農民反乱が起こり、またウィクリフの宗教改革が起こっている。
 経験論(感覚論)とは、感覚の理性からの解放をも意味する。そして多くの場合、西欧では感覚論はアリストテレスに対抗する形で、彼の師匠であるプラトンの哲学を背景にする。プラトンは何事も直感的に把握するように心がけた。この試みはイタリアでは芸術と性の解放へと向かい、北方の陰鬱な気候の下に暮らすイギリスでは、経験論という実直な方向を取った。私にはウィクリフの宗教改革と農民反乱とオッカムの哲学は同根に見えて仕方がない。以後の300年間、イギリスには世界的知性を誇れる思想家は出現しない。この間イギリスでは百年戦争、ばら戦争、宗教戦争(内乱)と続き、落ち着いて思索する暇はなかったのだろう。
 色々な紆余曲折はあるが、イギリス経験論はT・ホッブスの哲学に結実する。彼は認識の下部に身体を置くくらいだから、むしろ唯物論を彷彿させる。彼の政治思想は、人は人に対して狼だ、に集約される。万人が万人に対して狼として敵対しあっていては、どうにもならないので、個々人は相互に契約を結んで、権力を創造し、権力に自分たちの保護を委託した、と説く。ここでは権力は世俗由来であり、理性が絶対万能でないのと同じく、権力もその由来からすれば、絶対的神聖を誇れるものでもなくなる。権力は契約に基づくと言うのだから、ホッブスは見方によっては革命を支持したとも言えるし、契約者は権力に絶対的に服従するべきと言うのだから、彼は王権を護ったとも捉えられる。ホッブスの思想は極めて明快だが、その実際的適用においては両義的なものになる。
 ホッブスを受けて、ロックが論を展開する。ロックが生まれてしばらくして、イギリスでは清教徒革命が起こり、イギリス人はチャ-ルス1世を処刑してしまった。国王無き10年間の緊張と混乱に懲りた、イギリス人はチャ-ルス1世の子供チャ-ルス2世を国王として迎える。この王制は2代で挫折し、ジェ-ムス2世はイギリスから追放される。ロックはこの二度目の革命(名誉革命とか無血革命と呼ばれる、この呼称を用いるところを見るとイギリス人には国王処刑がよほど後ろめたかったのだろう)には国王追放派のブレインとして活躍している。かっての所業に懲りて、イギリス人は、国王は追放したが、王制は廃止せず、オランダからわざわざ外国人を呼んできて、王位に就かせた。ウィリアム3世である。
 ロックはこの一連の政治過程を弁護して、イギリスが赴くべき道程を示した。ロックは革命を支持した。当然であろう。自分たちが行った行為の結果を否定しては思想なぞ形成できない。厳密に言えば革命権を支持した。王制は事実として黙認した。ロックは、彼の論敵フィルマ-の王権神授説を否定するのであるから(ここで感覚論が使用される)、王制を積極的に擁護はしていない。むしろ謹んで遠ざける趣がある。外国人君主を引っ張り込んだのと同じ心境かもしれない。革命権と王権は本来対立する。ここでロックは私有財産の神聖さを導入して強調する。権力は人命を奪っても構わないが、財産を奪ってはいけないと、言う。そして権力、その本来の存在は、行政権を駆使する王権そのものだが、この権力と権力を行使される人民の間に、議会を置いた。議会の最大の存在意義は、課税の承認と拒否にある。世界のあらゆるところで議会らしきものができると、その任務は課税への抵抗になる。この言い分に例外はない。イギリスのマグナカルタと日本の貞永式目はほぼ同時にできたが、ともに課税のあり方を問い、その内容は目を疑わしめるほど酷似している。会議とは所詮は金勘定なのだ。
 ロックの政治思想の要諦はここまでだ。まず、権力と人民の意見があまりにも一致しない時には、人民はその決着を天に訴えてもいい、として革命権を擁護する。しかし革命などはあまりしばしば起こって欲しくはないし、革命の結果国王以上の独裁者が現れる恐れもあるので(クロムウェルの軍政)、権威としての王制は必要だと認識し、王の存在を容認する。そして王権と人民の間に、財産つまり利害の計算管理機関である議会を置いて、両者を仲介させる。絶対的な正義あるいは理性は国王の側にあるのでもなく、人民の側にあるのでもない、とし、理性の運動は利害計算、露骨に言えば金銭の動きの中に顕現すると、ロックは説いたことになる。そしてより重要な事は、ロックのこの論証以上に重要な民主主義あるいは議院内閣制に関する思索は以後ないという事である。民主制の論証はロックで完結する。以後の大量な政治思想に関する文書は、民主制運営のHow-toでしかない。相前後して利害計算の過程に関する技術である、経済学の発展が始動する。
 この点においては名誉革命で担がれた、ウィリアム3世という人はまことに、革命派の眼鏡にかなった人物であることになる。革命の華やかさに隠れてこの王の見事さはあまり現れないが、彼は名君と言ってもいい君主であろう。英国史上最良の君主と言ってもいいのだ。ロックが、民主制に関してはこれ以上の論証は不可能だとし、暗黙裡に将来の学問の方向を示唆したのと、併行して、ウィリアム3世の時代にイングランド銀行が中央銀行としての任務を果し始め、国家の信用を抵当として発行する債務証書、つまり紙幣が発行され、承認されている。学問のみならず、実際の現実においても経済、人が自らの知性により操作しうる過程としての経済の輪が回り始める。この運動の開始はイングランド銀行の整備にある。ウィリアム3世はまことに経済史上画期的な事柄を遂行した。加えて彼は軍人としても極めて優秀な人物であった。百年戦争以後初めてイギリスは大陸に軍を派遣するが、ウィリアム3世の軍事的才能により、このスペイン王位継承戦争にイギリスは有利な立場で講和でき、これまで恐れ押され勝ちであった強国フランスに対抗できるようになる。この軍事的勝利があったからイングランド銀行発行の紙幣の信用が保たれたともいえる。いずれにせよ議員内閣制とイングランド銀行券の発行は偶然の一致とは思えない。これも、見えざる神の手の導き、なのであろうか。
 ロックは教育について非常に興味のある意見を開陳している。彼は、教育は父権の義務であり権利であると言う。しかし教育期間が終了すれば、父権は消滅する、ことを強調する。教育の終了とは、個人が自己の財産管理に対して責任を持てる状態に達した事を意味する。フィルマ-の王権神授説は、聖書の王統譜を無条件に是認し、キリストは神の血統を介しての正当な世界の支配者であり、英国王は、カトリックそして聖公会により承認された、これも正当な支配者であるという、論理である。ここでは血統が最大の根拠になっている。ロックはフィルマ-の血統無条件重視に制限を加える。教育中の期間だけ、血統は支配の根拠になる。以後は財産管理能力が政治経済の運動の唯一の動因になるとした。もし血統あるいは父権の意味を否定すれば、私有財産の意義特に「私有」の意味は消滅する。私有という観念が無くなれば、責任ある個人もなくなり、社会は無政府化する。逆に血統を無条件に重視すれば、現実において実力を有する、複数または単数の家系の支配、つまり寡頭制か独裁制になってしまう。ロックは教育を、血統と財産の間に介在させて、ビフィモスとレヴァイアサンの罠から、自己の論理を救った。
 ロックは、無神論は道徳否定であるとして、無神論を蛇蝎のごとく排撃した。前に述べたとおり、ロックの論理の中には、フィルマ-の論旨が残っている。ロックは、個々人の中に財産管理、つまり利害計算の、究極には契約遵守の能力(これは知性のそして徳性の能力になる)があるという前提で論理を展開している。最終的には彼の論理は、個々人の契約遵守能力を前提にして、この個々人が為す予定調和をもって、社会の規律となした。その意味では彼は理神論(神は最初に世界を作り、以後は自分の作った世界の法則に任せる)に近いのではあるが、同時にフィルマ-の考えを巧に目立たない形で継承している。無神論は、ロックが当然とみなす、天賦の徳性を否定する事になる。
 義議院内閣制、契約、私有財産の重視、経済行為の意義、教育論、無神論の排撃、神より付与された徳性、だから王制の承認、などなどの論旨を巧に組み合わせて、ロックは新しい社会の俯瞰図を描いた。まことに賢者である。
 JJ・ルソ-は、ロックを賢者と誉めたたえ、ロックの思想を発展させようと試みる。しかし個人の性状の違いか、あるいは生まれた国の差ゆえか、ルソ-はロックの理論を全く逆にした論理を展開する。ルソ-がロックの論理に楔をいれる要点は二つある。まず直接民主主義への志向、そして社会全体による、むしろ社会のみによる教育の遂行の勧めである。ルソ-の生まれた国はスイスであり、ここでは直接民主制がかなりな程度施行されていた。またスイスでは建国の事情により、国民皆兵は徹底していた。なかんずく、ルソ-の郷里ジュネ-ブは、カルヴァンの政教一致による政治が行われた都市である。信者が選ぶ長老により、牧師が監視され、同時に宗教が政治に深く関与するとなれば、この仕組みは直接民主主義に近い。ルソ-を直接民主主義に走らせる要因は充分にあった事になる。直接民主主義においては、議院内閣制が予算への承認不承認でもって間接的に王権を制約するという手法は後退し、利害計算の媒体としての経済を介する事無く、民衆が直接意見を表現できる形になる。そしてその分意見の専門性は後退する。間接民主制(例えば議院内閣制)は中間に議員というエリ-ト層を抱える。直接民主制ではこのエリ-ト層は排除されポピュリズムに陥る可能性が高い。
 ルソ-は直接民主主義の範例として古代ギリシャのスパルタを取った。スパルタにおいてはせいぜい1万人から2万人の成人男子による共同統治が行われていた。しかし人口2000万を擁するフランスにおあっては、スパルタとは同断には行かない。個々の案件に対して常に民衆の意見を、聴き尊重するわけではない。民衆を代表する正義をルソ-は求めた。これを彼は一般意志(volonte general)と称し、民衆はこの一般意志に従わなければならないとした。一般意志をどのようして選ぶのか?ルソ-は、一回きりの全員一致で一般意志、は決まるとし、さらに民衆はこの意志を一度選んだ以上は、以後この意志に絶対的に服従しなければならないとした。この措置は実際には不可能であるのみならず、ホッブスのレヴァイアサンへの逆行でもある。換言すればルソ-は独裁者の存在を容認した事になる。
 教育に関して、ルソ-は徹底して社会による教育を主張する。現実に汚染され、現実の権威から逃れられない実父母は子供を教育するに相応しくない、と主張する。社会から理想的な教育者あるいはその機関を選定し、彼らに教育の実際を任せた方がいいのだ、と。はたして、理想的な教育者が汚染された現実の中で発見されうるのか否か、の疑問はある。落ちた川の中から、自らの頭髪を掴んで引き上げ脱出した、と言うミュンヒハウゼン男爵の大法螺を連想する。ルソ-は自らの提案を忠実に実行した。洗濯女と同居し、彼女(正式の妻ではない)に産ませた子供をかたっぱしから、乳児院にいれた。理由は、自分は養育者として相応しくないからだ、と言う。当時の乳児院での死亡率は90%を越えていた。ルソ-はこの事実も知っていた。
 ロックの思想において、父権と財産が如何に、政治の遂行において、特に権力と個々人の間の媒介として、重要であるかは、既に述べた。ロックの思想のこの根幹を、ルソ-は破壊する、あるいは抹殺する。彼には、財産あるいは金銭がもつ、自動安定化装置としての意義への関心は一切無い。ただ彼は理想を、絶対的正義を追求する。独裁者の別称である、一般意志を称揚し、だから議会の意義も否定し、教育は社会全体に委託する。社会全体の意志を代表する一般意志なるものにすべてを委託する。まさしく全体主義である。こうしてルソ-はロックの思想を180度転変させてしまう。
 ロックはビフィモス(永久の無政府状態)とレヴァイアサン(絶対に服従しなければならない権力)との間を、巧に舵を取り、父権・教育・財産という項目を、権力と個人の間に設置して(その具体的な機関が議会)、相対的近似的な真理と正義を掴もうとした。ルソ-は、絶対的な正義に憧れ、性急にそれを追求した。
両者の生活経験の差も大きい。ロックはジェントリ-の子として生まれ、オックスフォ-ド大学を卒業し、反国王派の大物シャフツヴェリ-公爵の秘書となり、彼のブレインとして、実際政治に関与している。ちなみにロックはこの政治活動のゆえに、母校の卒業名簿から抹殺された。対してルソ-は時計職人の子として生まれ、幼児期に母親を失い、思春期に故郷をとび出し、一時イタリア駐在フランス大使の秘書となるが、音楽家あるいは楽譜写しの仕事をしてパリで暮らす。その間懸賞論文に応募し、彼の社会契約論は一躍有名になる。ちなみに「ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉にとまれ」は彼の作曲になる。彼の宗教的情操は、万物に神が宿ると説く、自然神論、に近い。彼にあっては真理と正義への衝迫が強い。だから多くの人と交際しつつも、必ず衝突する。晩年には彼は、対人摩擦の札付きになっていたようだ。事実彼の晩年の著作の内容は、れっきとした被害妄想の存在を示している。
 独裁制、全体主義は必ず、教育権を父母から取り上げ、社会というより支配政党の機関の一部に繰込もうとする。ナチスのヒットラ-ユーゲント、ソ連のコムソモ-ル(共産主義青年同盟)などが有名であるが、アフガニスタンで活動しているタリヴァンの少年兵などもこの手のものであろう。
 K・マルクスの思想は三点に要約できるだろう。下部構造(経済活動)による上部構造(政治や文化など)の決定、つまり経済決定論、次に資本主義体制における搾取の存在、そしてこの搾取ゆえに、資本主義は自動的に破局を迎えるという、資本主義崩壊の必然性である。三点に共通するのは、私有財産の否定だ。一番肝要な項目は第二点の、搾取の存在だ。では、果たして搾取はあるのか?正直有るとも無いとも言えない。証明できない。マルクス自身、搾取の存在を証明しようとしたが、資本論の中で、この証明が行われているとは思えない。マルクスは証明に失敗している。
搾取の非存在は逆方向からも論じられる。近代経済学において、資本は定義できないとされる。実際的は商法や経営学では一応定義されているが、それはあくまで便宜のためである。資本は金銭なのか、機械装置なのか、技術なのか、人間(に体化された技術、人的資本と呼ぶ)なのか、明確な答を経済学は提示しない。大企業といえども、興亡浮沈は激しい。競争場裏に生き残ることはたやすくない。資本とか利潤というものは、それほど安定したものではないのだ。マルクスが研究の材料とした、19世紀前半のイギリス経済においてさえ、10年間生き残る工場は50に1個と言われた。
長期的に見て企業は弱者を搾取しているのか、なんとも言えない。社会には格差はある。富豪もいれば、貧民もいる。ではジニ係数を搾取の尺度にするのか。その場合最低賃金の何倍、あるいは平均賃金の何倍をもって搾取の基準にするのか、解らない。能力による、ある程度の格差はあってしかるべきだ。私は医師、弁護士、高級官僚及びそれに準じる者は高給をとってもいいと思っている。しかし実際彼らの俸給は平均賃金の3倍を超えないだろう。これを格差と言うべきか?鳩山前首相には100億円に近い資産があるそうだ。しかしこのくらいの富豪がいたからといって悪いとも思えない。
搾取という言葉には倫理的な意味が包含される。倫理の基準は極めて主観的なものだ。数値や客観的経験の如何に関わらず、悪と断じられれば、搾取は存在する事になる。
資本が定義できなければ、利潤も同様だ。利潤が定義できなければ、搾取の存在は証明のしようがない。現在の日本で、売上高から必要な経費(原料、燃料等への支払いなど)を引いた粗利益のうち約80%は人件費だ。単純に言えばGDPの8割は人件費なのだ。残りの20%は、社内留保と株式配当に消える。仮にGDPの10%を富豪と称する人達が占有し、のこり90%を我々一般人が分割して得たとしても、現在の日本の経済規模である限り、若干の嫉妬はべつにして、どうのこうのと言うほどのことではない。
約言すれば、マルクスはどうみても搾取の存在を証明できていないのだ。資本論を読めば解るが、冒頭から工場労働者の賃金は搾取されていると前提され、論理が展開されている。論点先取の過誤、資本論とはこのような本なのだ。
 搾取の存在の証明が疑問視されれば、資本主義崩壊の必然性は論証不可能になる。少なくともマルクスの論理においては。資本主義が崩壊するか否かはわからない。250年前に始まった産業革命以来、資本主義は生き残ってきた。その間崩壊の危機を云々されたことはあった。資本主義の体制を護ろうとした人達、資本家、企業経営者、あるいは高級技術者達は、本能的に社会福祉政策を取り、所得移転・再配分の方策を採った。あるいはケインズ理論を取り入れて、積極的拡大・成長政策の方向も志向した。結果としてマルクスの予言は当たらず、彼の学説に従って革命を起こした一部の国家も、半分は資本主義に回帰した。
 経済という下部構造は他の制度である上部構造を規定するのか?第二第三の論点が否定されたら、この質問は大部分意義を失う。規定する事もあるだろう。中国の古典「管子」の中に、倉リン満ちて(衣食足りて)礼節を知る、とあるのと同じだ。しかし上部構造も下部構造を規定しうるのだ。宗教倫理が経済活動に大きな影響を与える、と言ったのはM・ウェ-バ-だった。先に挙げた所得移転にしても、経済機構の一部に対して、政治が影響した結果だ。福祉にせよ拡大経済にせよ、明らかに民衆の抗議を為政者が知って、それに対処したのだ。政治と経済は相互に影響を与え合っている。経済決定論専一の論理は当てはまらない。
 マルクスが言ったのはここまでだ。しかし革命家といえどものんびりと、革命の期が到来するのを待っているわけにはいかない。多くは日常の待遇改善にいそしみ、一部は革命促進に走った。酸素に水素を混合すると必ず水ができる。しかし自然に放置しておけば、水ができるまで1000万年以上の時間がかかる。ここでレ-ニンが登場する。革命を促進する一部のエリ-トを前衛と言う。前衛はマルクスによって予言された、革命の必然性を知悉している。だから彼ら前衛は、無知な大衆を指導して、革命を成就させねばならないとなる。これが一番怖い。マルクスがルソ-と異なるのは、革命の必然性を強調することだ。レ-ニンのいう前衛は、この法則を知り抜いている。正義とは何か、真理とは何か、を知り抜いている。万知は万能に通じる。ここで前衛は人間の分を超えて神になる。歴史の法則を知悉するのだから、神様だ。神となった前衛は、真理の絶対的護持者として大衆に君臨する。共産主義の独裁が他の独裁に比し、深刻で怖いのは、この点にある。ここでマルクスの経済決定論は、レ-ニンの政治至上主義に転化する。敵はいかなる手段を用いてもいい、騙してもいい、結果は解っているのだから、なにをしてもいい、となる。目的は手段を神聖化する。政治は容易に謀略になる。ロシア革命が端的な例だ。革命当時レーニン率いるボルシェビキは少数だった。陰謀(ドイツと結ぶ)と扇動と暴力でもって、帝国も他の党派も抹殺された。
 マルクス主義の実態は空だ。しかし深部に潜在する大きな空虚を補完する、多くの情念がある。過激な理想主義、大衆扇動、富者憎悪(金銭憎悪と言い換えてもいい)、千年王国待望(遊んで暮らせる)、終末論的世界観(一切の苦悩から逃れられるという)などなどだ。マルクス・レ-ニン主義はその核心に、資本主義廃絶の必然性という信仰を持ち、周辺に多くの激しい情念を配置する。そして周辺と中核の間に、色々な論理を並べ立てる。情念と論理と確信は相互に補完しつつ、暗示的な影響力を強めあう。論理それぞれを取り出せばばらばらだが、以上のように配置して統合すれば恐ろしい力を発揮する。マルクスもレ-ニンも優れた詩人であり文章家だ。「共産党宣言」のドイツ語も、「国家と革命」のロシア語も名文だ。彼らのこの種の才能は、彼らの扇動能力を著しく高め、そして論理の空隙を巧に糊塗する。マルクスについて付言すれば、彼は必ずしも労働者に共感していたわけではない。むしろ傲慢に、自らのラビ(ユダヤ教の教師)の家系を誇り、彼らを見下していた。そしてマルクスは非常な浪費家であったと、聞いている。
 一般に左翼の論理には、共通の特徴がある。弱者救済と批判抵抗、そして分配の重視だ。左翼が、資本投下とか成長促進とか技術革新などというのはあまり聞かない。左翼の心情は、分配を期待する受動性が特徴だ。この態度はマルクス・レ-ニン主義において極まる。怒号し、扇動して要求すれば、必然的に願いはかなえられる、という終末論的期待がマルクス・レ-ニン主義の特徴だ。そして繰り返すが、この態度は非マルクス主義といわれる、いわゆる社会民主主義においても同じなのだ。彼らは革命などを期待しない分、高配分
を求める。労働組合とは、基本的には、あまり働かないで、もらうものはどんどんもらおう、という団体だ。放置すれば彼らは、まじめな競争社会を否定して、利権漁りのマフィアになりかねない。
 ルソ-とマルクスに共通する論点は、私有財産の否定と教育の政治化(政治あるいは社会による占有)だ。ロックが社会安定の為に、苦心して構築した、権力と民衆の間の媒介装置である、血統と財産の意義は、富者憎悪を介して否定される。民主主義あるいは議院内閣制と左翼(共産主義また社会民主主義を問わず)との間の一線は、ロックとルソ-の間に引かれる。そしてルソ-においては未だに詩人的願望であったものは、マルクスにおいては速やかに、絶対論理に転化する。左翼は左翼だ。一見穏健そうに見える社会民主主義者にしても、教育と財産私有を否定すれば、容易に革命独裁になる。日本の現政権にあっても例外ではない。

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