経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

 経済人列伝 豊田佐吉(一部付加)

2020-03-18 15:46:23 | Weblog
経済人列伝 豊田佐吉(一部付加)

 豊田佐吉を経済人の中に入れるのには若干の抵抗があります。彼はなによりも技術者であり発明家です。そのように私は彼の立志伝を読んで感じていました。しかし佐吉は、在来技術と外来技術の間のギャップを埋めて日本の工業技術が民間に定着するのを大きな貢献をした事、生産過程で一番困難な機械を作る過程(機械 力織機)の製作に取り組んだ人、そして現在日本技術のブランドであるトヨタの創始者である事、の3点において日本の経済史において無視できない人物です。というより技術立国日本のモデルが豊田佐吉です。渋沢栄一、岩崎弥太郎、安田喜八郎、鮎川義介などの事歴を見ていると、当たり前のことですが、そこには営利の機を見るに敏な、そして政官界の利用という、したたかさとずるさを感じずにはおれません。佐吉もかかる事情を無視したのではないのでしょうが、やはり彼には技術馬鹿の持つすがすがしさがあります。
 産業革命は18世紀後半イギリスで、紡績・織布を基軸産業として開始されました。カ-トライトの力織機は時代を画します。開国と同時にこれらの先進技術は日本に入ってきます。最初に輸入された紡織機械はジャカ-ド・バッタンでした。これをモデルに臥雲辰致という人がガラ紡という国産技術を開発しました。先進技術は大企業では使用されましたが、生産量の大部分を占める家内工業や小規模企業では、この技術の使用は、知識と経験の不足で無理でした。しかしいつまでも手作業でばったんばったんやっているわけにもまいりません。外来技術と民間水準を埋めるべく多くの努力が為されます。当時トヨタ式力織機以外に、松川式、須田式、津田式、須山式、鈴木式など諸種の民間開発技術が紡織業界にはありました。
 豊田佐吉は1867年、幕末維新変革の年に、静岡県吉津村(現在湖西市)で生まれました。父親は若干の農地を持つ農民であり大工でした。当時小中学校など制度としてはありません。父親の後をついで大工になります。そのはずでした。生来の傾向なのか、次第に新しい機械製作に興味を持つようになります。佐吉の故郷遠州(静岡県西部)は三河木綿の延長上にあり紡績織物業の盛んな土地でした。開国と同時に優れた製品が輸入されます。日本には関税自主権はありません。在来の企業は優秀な外国産品に押されて四苦八苦します。佐吉は紡織機械の製作を志します。1885年高橋是清などの努力で専売特許条例が制定されます。政府は新しい技術の開発を奨励します。佐吉の志望にとってこれは追い風です。そのために二度家出しています。父親の懇請で故郷に帰りますが、仕事の傍ら機械の発明に没頭します。佐吉が成功したからいいようなものの、失敗していたら単なる極道親不幸もいいところでしょう。父親の心配はよく解ります。
 24歳、木製力織機を製作します。初めての発明です。さらに改良・発明を重ねて東京に出て機械製作の工場を経営しつつ製作改良に取り組みます。経営と発明の二足のわらじを履きます。26歳結婚、翌年長男喜一郎誕生、しかし最初の妻には逃げられます。佐吉が発明に没頭して家を返り見なかったからです。30歳再婚。二度目の妻の浅子は賢婦人でした。佐吉の片腕になり、工場の庶務総務一切を切り盛りします。金銭に恬淡として経営の念に乏しい佐吉を助けます。30歳長女愛子誕生。佐吉の創業を助けた一族は妻の浅子、長男の喜一郎、愛子の夫利三郎、そして佐吉の弟の佐助です。
 ちょうどこの頃つまり明治30年代は、日清戦争に勝った勢いで日本は第一次産業革命に入り、紡績織布業は躍進します。1897年日本の綿生産額が初めて輸入額を超えます。この追い風に乗って豊田商店も発展しますが、その実際は発明と改良、発明と改良の試行錯誤でした。外国製品に比べた時、日本製品の安さが魅力でした。前者の力織機は800-400円、後者は100-80円です。小規模企業は当然後者を選びます。こういう中で豊田式力織機は少しづつ前進します。
 1899年、豊田式力織機の利点に目をつけた三井物産が、井桁商会を共同で作ります。それは豊田式織機会社に発展します。佐吉は技師長に就任します。飛躍のチャンスですが、彼は営利か発明かの間で悩みます。当時の日本の機械器具製作技術は欧米のそれに比べて貧弱なものでした。佐吉はアメリカ人技師を高給で招聘しますが、社長はいい顔をしません。やむなく給料の半分は佐吉自身の負担になります。また佐吉は会社とは別個に自費で試験場を作ります。あれこれする中経営不振の理由で技師長を辞任させられます。(1910年)取締役としては残っていました。この間1908年初めて鉄製力織機の製作に成功します。また1905年、英米の織布機械と日本のそれとが展示され比較されます。比較可能な水準まで向上したわけです。この時最良とされたのはイギリスのプラット式力織機でした。
 アメリカ力から帰った佐吉は1912年新たに、豊田自動織布工場を設立します。翌年第一次世界大戦が勃発します。綿製品の輸入は途絶え、輸出はうなぎ上りになります。力織機の輸入もなくなると、国産製品はひっぱりだこになり、この勢いで会社の成績も向上します。1918年豊田紡績会社が設立されます。これで儲けて得た資金を研究開発にまわそうというわけです。1926年初めて佐吉が欧米のそれに負けないと自信をもった自動織機が製作されます。これは女工1人で50台の機械を操作できる優秀なものでした。ちょうどその頃イギリスから日本の繊維産業を視察に来た一団がありました。あまり日本製品が安いのでダンピングの疑いをかけられていたのです。視察団は東洋紡績の工場を見学して、機械と生産組織の優秀さに驚きダンピングの疑いを解きました。日本では職工一人当たりの担当台数が既に40台を越していたのに、イギリスでは6台でした。一工場が生産する商品の種類は日本が1桁、イギリスは20以上でした。この前後日本綿製品の生産総額はイギリスを上回ります。
1929年イギリスのプラット社は豊田から10万ポンドで力織機の特許譲渡に応じます。力織機では世界一だった同社を抜いたことになります。1930年死去、享年64歳、酒とたばこが唯一の趣味であったといわれています。彼豊田佐吉の生活信条は日蓮主義と報徳会でした。日蓮に関しては拙著を御参考ください。報徳会とは二宮尊徳の思想を中心として形成された協会です。尊徳は何かといえば道徳の模範のように固く捉えられがちですが、幕末にあって経済的合理主義を宣揚した人です。ちなみに尊徳も初めの妻にはすぐ逃げられています。理由は佐吉を同じ、仕事中毒です。佐吉の研究態度は独特です。問題の解決に行き詰まると、本や他人の知識に頼らず、じっくり自分の頭で考える事に徹しました。
最後にトヨタ自動車との関係に簡単に触れます。佐吉は自動車には以前から興味を抱いていました。プラット社から受け取った10万ポンドに税金がかかるので、馬鹿らしくなった彼が長男喜一郎をして自動車会社を起業させたそうです。1930年代に入り、日産そしてトヨタが自動車会社をお起こします。陸軍は戦力向上のために、自動車工業の育成に熱意を持っていました。1935年第一号試作車完成、翌年自動車製造事業所として独立、1937年株式会社トヨタ自動車ができます。やがて軍部の意向で、トヨタの他の分野、特に紡織と力織機製造は、自動車会社へ統合されます。戦後GHQによりトヨタは地方財閥と認定され、自動車会社はそれ自身として独立し今日に至っています。今でこそトヨタはブランドですが、昭和30年前後激しい労働争議に巻き込まれ存立の危機に立たったこともあります。
(参考文献 豊田佐吉---吉川弘文館、日本産業史---日経文庫)

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



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