『君民令和 美しい国日本の歴史』第一章 聖徳太子 注釈2
(大化の改新)
645年、宮中でク-デタ-が起こります。中大兄(後の天智天皇)の一派が実力者である蘇我入鹿を、皇極天皇の面前で殺害します。同時に中大兄が率いる軍勢は入鹿の父親蝦夷の館を急襲し、蘇我本宗家は滅亡します。クーデタ-は周到に用意されていたようで、一味には中臣鎌足や蘇我氏の傍流である蘇我倉山田石川麻呂などが含まれています。入鹿も用心していましたが、新羅からの朝貢使が来朝し天皇に拝謁するので入鹿は参内せざるをえませんでした。玄関で入鹿は剣を差し出します、同時に宮廷の門はすべて閉じられます。警衛の責任者大伴氏も中大兄に抱き込まれていました。使者が文章を読み上げる中、肝心の刺客はびびって踊り込めません。機を逃してはいけないと、中大兄自身が切り込みます。こうして権勢を誇った蘇我氏は没落します。
変の直接原因は皇位継承争いでした。舒明天皇には二人の継承資格者の皇子がいました。一人は中大兄であり他は古人大兄でした。継承者を決められないので妥協・中継ぎとして舒明天皇の皇后が即位します。皇極天皇です。古人大兄は蘇我氏と舒明天皇の間の子供です。蘇我氏は古人大兄の即位を期待します。中大兄は舒明皇極間にできた子供です。舒明天皇は既述のように敏達-押坂彦人-舒明と続く系統で蘇我氏の血統は非常に薄い。加えて中大兄の母親(皇極天皇)は息長氏という氏族出身で蘇我氏とはなんの関係もありません。息長(おきなが)氏は多分継体天皇即位時に近江からきた氏族でしょう。中大兄か古人大兄かは天皇家か蘇我氏かどちらが政治の主導権を取るかの争いです。念の為に言いますと、天皇家も蘇我氏も政策の方向ではあまり変わりはなかったようです。中大兄も入鹿もまた中臣鎌足も、帰化した知識人である南淵請安や僧旻のところで最新知識を学んでいました。入鹿は優秀なそして自信過剰な人でした。古人大兄は吉野にこもり剃髪して敵意のないことを示しますがやがて殺されます。その古人大兄の娘(当時まだ子供)を中大兄は正妃(倭姫)として迎え入れているのですからややこしい限りです。皇極天皇は退位し彼女の弟が即位して孝徳天皇となります。実権は皇太子中大兄が握ります。
大化の改新でまず宣言されたのは、仏教興隆でした。次に官制が厳格化されます。大臣(おおおみ)は左右の大臣(だいじん)に分けられ権力は分散され天皇皇太子に集中するようになります。また地方には評(後に郡)が置かれ、それまで在地の有力氏族の長が国造(くにのみやっこ、これも一応官職なのですが)として握っていた地方の統治権を中央に結びつけます。大化の改新の政策で一番重要なのはこの「評」の設置でしょう。中大兄は聖徳太子以来目指され、また天武持統朝に連なる中央集権化を強力に推し進めます。都は大和から摂津難波に移されます。政変に対する在地勢力の反発を嫌ったのかも知れません。しかし中大兄はやがて都を大和にしようと言い出します。ここで孝徳天皇と中大兄は対立します。対立の節目はこれも推測ですが、対半島政策であろうと思います。中大兄は百済友好路線を取り、孝徳天皇は新羅友好路線を取ったようです。白村江の戦の結膜から考えて中大兄の方針は誤っていたとも言えます。ただしこの辺の外交政策は千変万化であり、何が正しいかは簡単には言えません。孝徳天皇と中大兄の対立は激化し、中大兄は勝手に大和に帰ります。群臣の多くも中大兄に従います。のみならず天皇の正妃である皇后間人皇女も中大兄と同行します。二人は同母兄妹でしたが不倫の関係にありました。
中大兄は多くの人を殺しています。先に挙げた古人大兄もその一人です。孝徳天皇は淋しく難波宮で死にますが、有間皇子という子供がいました。れっきとした皇位継承資格者であり、先のいきさつもあり中大兄にとっては危険な存在です。謀略をもってこの皇子も殺されます。クーデタ-に協力した蘇我倉山田石川麻呂も改新の数年後殺されます。反政府の陰謀をたくらんだという理由です。後で無実と解りましが、この人物は中大兄にとってはいない方が良かったのです。蘇我氏の本流は潰されましたが石川麻呂の声望は大きかったのです。彼は大臣に任命されても朝廷の決めた冠を被らないで馬子以来の古冠を着用しました。危険な存在であることは確かです。
(王権と蘇我氏)
蘇我氏は王権に背いてあるいわそれを乗っ取ろうとして、倒されました。このような考え方はあたかも蘇我氏が反逆したような印象を与えます。しかしよく考えてみましょう。確定している天皇は継体天皇以後です。継体欽明朝になって日本は中央集権化つまり独立しうる国家を作り始めました。また継体天皇は朝鮮半島とも関係が深いのです。継体天皇とそれ以前の皇統の間には大きな断裂があり、全く別の王朝である可能性も大きいのです。蘇我氏もほぼ同様の時期に台頭しています。蘇我氏で明確に名前知られるのは「韓子」からです。この名前は韓(から)を意味します。そう一概には言えませんが蘇我氏が半島由来ゆえに、このような名前を持った、とも解釈できます。また蘇我氏は新しい技術を用いて天皇家と同様にどんどん田地を開発した新興氏族です。技術は半島由来です。蘇我氏は帰化人の領袖とも言われています。蘇我氏自身は葛城氏の傍流だと自称していますが。加えて天皇家と蘇我氏のしようとした事はほぼ同じです。特に仏教政策に関しては全く同じ歩調を取りました。後に述べますが、仏教興隆という事は政府の集権化と大きく関係します。また多くの文書、それは天皇家と諸氏族の系譜伝記らしいのですが、これも蘇我氏の家に保管され改新の兵火で焼失したとか言われます。この事も気になります。公文書特に国の歴史書の保管は国家の義務であり権利ですから。こう考えてくると、天皇家も蘇我氏も素性は同じ、ほぼ同格とも言えます。結果として蘇我本宗家は滅亡しましたが、事情いかんによっては蘇我氏が天下をとり朝廷を作ってもおかしくはなかったのです。婉曲に表現して、かもしれない、と言っておきます。
先に聖徳太子の家系について述べましたが、敏達・用明・崇峻・推古そして聖徳太子、さらに穴穂部皇子という人物も入りますと、実にややこしく複雑です。図にしてよく解らない、文にするとなおさら解らない、ようにできています。蘇我氏は自分の娘たちを皇子に配りまくり、近親結婚をどんどん進めました。このような事は奈良時代にも、桓武嵯峨朝でも起こります。これは当時の日本の婚姻制度が母系制というより双系制であったからです。資産分配、家庭指導などに父親の家のみならず母親の家も干渉する・発言権を持ちます。聖徳太子は「和をもって尊しとする」と言いましたが、双系制の方が氏族豪族はまとまりやすくなります。完全な父系制であると氏族は個々別々に分離凝固し、氏族同士はまとまりにくくなります。もともとまとまりやすい所へ太子は「和をもって云々」と冠を被せたのです。日本では内紛が起こっても一族全部が族滅されることはありません。せいぜいトップが処刑されるか配流されるくらいです。官制に関しては次章で説明しますが、日本では議定官がどんどん力をつけ、その代表として摂関という制度ができました。中国では逆に議定官が後退し、行政官が皇帝直属になってゆきます。繰り返しますが日本でははじめから「和」は大事にされていたのです。また双系制は仏教とものすごくしっくりいったようです。仏教は世界で一番理論的でかつ寛容な宗教です。仏教は集権化を阻止する触媒ですが、この事は暗黙のうちに女性の立場を強めます。女性にとっては分権的な社会の方が生きやすいのです。これらの事柄についてはおいおい考えてゆきましょう。
(三経義疏と竜樹)
仏教、一般に宗教のことについては話すのは難しい。本来「悟り」とか「救い」とかいうものは個人の体験それ自体であって、理屈に還元できるものではありません。キリスト教などは理論化が曖昧ですから逆説的に解りやすいとはいえます。仏教では理論化がすこぶる発達しています。だから逆に解説しにくいのです。「三経」とは本文で述べたように維摩経、勝マン経、法華経の三つです。これらは大乗経典に属します。小乗仏教が専門家のみ悟れるとするのに対して、大乗では大衆救済が説かれます。小乗から大乗への転換点に位置するのが竜樹(ナ-ガルジュナ)です。彼の主著は「中論」です。そこで書かれている事は簡明ですが非常に抽象的で解りにくい。形式論理、形而上学の極みです。後世諸々の注釈書がでました。これがまた事態をややこしくします。
竜樹の言う事を素直に取れば、存在と非在の交互転換、ということです。もう少し漢字を多く使えば、転変和合、相補相剋、差異同一、となります。こう言ってもピンとくる人は少ないでしょう。ではこれを人間と人間関係に置き換えてみましょう。私はここで「人間」と「人間関係」と別々の言葉を使いましたが、二つは同じです。「人間」とは「人間関係」なのです。人間は他の人間を愛し、憎みます。また間違いを犯しそしてそれを改めます。これが「転変」です。善悪正誤は転変します。また人間は意見が異なることもあり、また一致もします。これが「和合」です。人間は他者と争いまた他者を補い助けます。これが「相補相剋」です。人間は個々に異なりますが同時に同じです。個別的には異なり、全体としては同じです。個と類は相補します。これが「差異同一」です。こう考えれば竜樹の言も解りやすいでしょう。実はこういう考えは精神分析理論の中に伏在しているのです。専門的になりますが、フロイトと、クラインの所説、転移抵抗と対象関係論はそういう事を述べています。竜樹の所見は解りましたか。
(相撲、和の精神の体現)
聖徳太子が強調した日本人における「和の精神」を身近に体現するものがあります。相撲というスポ-ツです。相撲の開始はある他者が指示命令して為されるものではありません。二人に力士の気が合った時、気が和合した時、試合は始まります。行司は命令者ではありません。行司の判定を五人の審判員がチェックします。「物言い」です。この「物言い」は座って待っている他の力士からもつけられます。行司は行政官、審判員は議定官に相当します。判定が決定されると、勝負した力士は合議の結果の判定に無条件に服します。負けた力士も一礼して土俵を去ります。これは和の体現です。相撲は言い伝えによりますと垂仁天皇かの時代に野見宿祢と当麻蹴早の間で行われたのが起源とあります。年中行事の中に相撲節会があります。極めて日本的で日本人の精神を表現するスポ-ツです。
(大化の改新)
645年、宮中でク-デタ-が起こります。中大兄(後の天智天皇)の一派が実力者である蘇我入鹿を、皇極天皇の面前で殺害します。同時に中大兄が率いる軍勢は入鹿の父親蝦夷の館を急襲し、蘇我本宗家は滅亡します。クーデタ-は周到に用意されていたようで、一味には中臣鎌足や蘇我氏の傍流である蘇我倉山田石川麻呂などが含まれています。入鹿も用心していましたが、新羅からの朝貢使が来朝し天皇に拝謁するので入鹿は参内せざるをえませんでした。玄関で入鹿は剣を差し出します、同時に宮廷の門はすべて閉じられます。警衛の責任者大伴氏も中大兄に抱き込まれていました。使者が文章を読み上げる中、肝心の刺客はびびって踊り込めません。機を逃してはいけないと、中大兄自身が切り込みます。こうして権勢を誇った蘇我氏は没落します。
変の直接原因は皇位継承争いでした。舒明天皇には二人の継承資格者の皇子がいました。一人は中大兄であり他は古人大兄でした。継承者を決められないので妥協・中継ぎとして舒明天皇の皇后が即位します。皇極天皇です。古人大兄は蘇我氏と舒明天皇の間の子供です。蘇我氏は古人大兄の即位を期待します。中大兄は舒明皇極間にできた子供です。舒明天皇は既述のように敏達-押坂彦人-舒明と続く系統で蘇我氏の血統は非常に薄い。加えて中大兄の母親(皇極天皇)は息長氏という氏族出身で蘇我氏とはなんの関係もありません。息長(おきなが)氏は多分継体天皇即位時に近江からきた氏族でしょう。中大兄か古人大兄かは天皇家か蘇我氏かどちらが政治の主導権を取るかの争いです。念の為に言いますと、天皇家も蘇我氏も政策の方向ではあまり変わりはなかったようです。中大兄も入鹿もまた中臣鎌足も、帰化した知識人である南淵請安や僧旻のところで最新知識を学んでいました。入鹿は優秀なそして自信過剰な人でした。古人大兄は吉野にこもり剃髪して敵意のないことを示しますがやがて殺されます。その古人大兄の娘(当時まだ子供)を中大兄は正妃(倭姫)として迎え入れているのですからややこしい限りです。皇極天皇は退位し彼女の弟が即位して孝徳天皇となります。実権は皇太子中大兄が握ります。
大化の改新でまず宣言されたのは、仏教興隆でした。次に官制が厳格化されます。大臣(おおおみ)は左右の大臣(だいじん)に分けられ権力は分散され天皇皇太子に集中するようになります。また地方には評(後に郡)が置かれ、それまで在地の有力氏族の長が国造(くにのみやっこ、これも一応官職なのですが)として握っていた地方の統治権を中央に結びつけます。大化の改新の政策で一番重要なのはこの「評」の設置でしょう。中大兄は聖徳太子以来目指され、また天武持統朝に連なる中央集権化を強力に推し進めます。都は大和から摂津難波に移されます。政変に対する在地勢力の反発を嫌ったのかも知れません。しかし中大兄はやがて都を大和にしようと言い出します。ここで孝徳天皇と中大兄は対立します。対立の節目はこれも推測ですが、対半島政策であろうと思います。中大兄は百済友好路線を取り、孝徳天皇は新羅友好路線を取ったようです。白村江の戦の結膜から考えて中大兄の方針は誤っていたとも言えます。ただしこの辺の外交政策は千変万化であり、何が正しいかは簡単には言えません。孝徳天皇と中大兄の対立は激化し、中大兄は勝手に大和に帰ります。群臣の多くも中大兄に従います。のみならず天皇の正妃である皇后間人皇女も中大兄と同行します。二人は同母兄妹でしたが不倫の関係にありました。
中大兄は多くの人を殺しています。先に挙げた古人大兄もその一人です。孝徳天皇は淋しく難波宮で死にますが、有間皇子という子供がいました。れっきとした皇位継承資格者であり、先のいきさつもあり中大兄にとっては危険な存在です。謀略をもってこの皇子も殺されます。クーデタ-に協力した蘇我倉山田石川麻呂も改新の数年後殺されます。反政府の陰謀をたくらんだという理由です。後で無実と解りましが、この人物は中大兄にとってはいない方が良かったのです。蘇我氏の本流は潰されましたが石川麻呂の声望は大きかったのです。彼は大臣に任命されても朝廷の決めた冠を被らないで馬子以来の古冠を着用しました。危険な存在であることは確かです。
(王権と蘇我氏)
蘇我氏は王権に背いてあるいわそれを乗っ取ろうとして、倒されました。このような考え方はあたかも蘇我氏が反逆したような印象を与えます。しかしよく考えてみましょう。確定している天皇は継体天皇以後です。継体欽明朝になって日本は中央集権化つまり独立しうる国家を作り始めました。また継体天皇は朝鮮半島とも関係が深いのです。継体天皇とそれ以前の皇統の間には大きな断裂があり、全く別の王朝である可能性も大きいのです。蘇我氏もほぼ同様の時期に台頭しています。蘇我氏で明確に名前知られるのは「韓子」からです。この名前は韓(から)を意味します。そう一概には言えませんが蘇我氏が半島由来ゆえに、このような名前を持った、とも解釈できます。また蘇我氏は新しい技術を用いて天皇家と同様にどんどん田地を開発した新興氏族です。技術は半島由来です。蘇我氏は帰化人の領袖とも言われています。蘇我氏自身は葛城氏の傍流だと自称していますが。加えて天皇家と蘇我氏のしようとした事はほぼ同じです。特に仏教政策に関しては全く同じ歩調を取りました。後に述べますが、仏教興隆という事は政府の集権化と大きく関係します。また多くの文書、それは天皇家と諸氏族の系譜伝記らしいのですが、これも蘇我氏の家に保管され改新の兵火で焼失したとか言われます。この事も気になります。公文書特に国の歴史書の保管は国家の義務であり権利ですから。こう考えてくると、天皇家も蘇我氏も素性は同じ、ほぼ同格とも言えます。結果として蘇我本宗家は滅亡しましたが、事情いかんによっては蘇我氏が天下をとり朝廷を作ってもおかしくはなかったのです。婉曲に表現して、かもしれない、と言っておきます。
先に聖徳太子の家系について述べましたが、敏達・用明・崇峻・推古そして聖徳太子、さらに穴穂部皇子という人物も入りますと、実にややこしく複雑です。図にしてよく解らない、文にするとなおさら解らない、ようにできています。蘇我氏は自分の娘たちを皇子に配りまくり、近親結婚をどんどん進めました。このような事は奈良時代にも、桓武嵯峨朝でも起こります。これは当時の日本の婚姻制度が母系制というより双系制であったからです。資産分配、家庭指導などに父親の家のみならず母親の家も干渉する・発言権を持ちます。聖徳太子は「和をもって尊しとする」と言いましたが、双系制の方が氏族豪族はまとまりやすくなります。完全な父系制であると氏族は個々別々に分離凝固し、氏族同士はまとまりにくくなります。もともとまとまりやすい所へ太子は「和をもって云々」と冠を被せたのです。日本では内紛が起こっても一族全部が族滅されることはありません。せいぜいトップが処刑されるか配流されるくらいです。官制に関しては次章で説明しますが、日本では議定官がどんどん力をつけ、その代表として摂関という制度ができました。中国では逆に議定官が後退し、行政官が皇帝直属になってゆきます。繰り返しますが日本でははじめから「和」は大事にされていたのです。また双系制は仏教とものすごくしっくりいったようです。仏教は世界で一番理論的でかつ寛容な宗教です。仏教は集権化を阻止する触媒ですが、この事は暗黙のうちに女性の立場を強めます。女性にとっては分権的な社会の方が生きやすいのです。これらの事柄についてはおいおい考えてゆきましょう。
(三経義疏と竜樹)
仏教、一般に宗教のことについては話すのは難しい。本来「悟り」とか「救い」とかいうものは個人の体験それ自体であって、理屈に還元できるものではありません。キリスト教などは理論化が曖昧ですから逆説的に解りやすいとはいえます。仏教では理論化がすこぶる発達しています。だから逆に解説しにくいのです。「三経」とは本文で述べたように維摩経、勝マン経、法華経の三つです。これらは大乗経典に属します。小乗仏教が専門家のみ悟れるとするのに対して、大乗では大衆救済が説かれます。小乗から大乗への転換点に位置するのが竜樹(ナ-ガルジュナ)です。彼の主著は「中論」です。そこで書かれている事は簡明ですが非常に抽象的で解りにくい。形式論理、形而上学の極みです。後世諸々の注釈書がでました。これがまた事態をややこしくします。
竜樹の言う事を素直に取れば、存在と非在の交互転換、ということです。もう少し漢字を多く使えば、転変和合、相補相剋、差異同一、となります。こう言ってもピンとくる人は少ないでしょう。ではこれを人間と人間関係に置き換えてみましょう。私はここで「人間」と「人間関係」と別々の言葉を使いましたが、二つは同じです。「人間」とは「人間関係」なのです。人間は他の人間を愛し、憎みます。また間違いを犯しそしてそれを改めます。これが「転変」です。善悪正誤は転変します。また人間は意見が異なることもあり、また一致もします。これが「和合」です。人間は他者と争いまた他者を補い助けます。これが「相補相剋」です。人間は個々に異なりますが同時に同じです。個別的には異なり、全体としては同じです。個と類は相補します。これが「差異同一」です。こう考えれば竜樹の言も解りやすいでしょう。実はこういう考えは精神分析理論の中に伏在しているのです。専門的になりますが、フロイトと、クラインの所説、転移抵抗と対象関係論はそういう事を述べています。竜樹の所見は解りましたか。
(相撲、和の精神の体現)
聖徳太子が強調した日本人における「和の精神」を身近に体現するものがあります。相撲というスポ-ツです。相撲の開始はある他者が指示命令して為されるものではありません。二人に力士の気が合った時、気が和合した時、試合は始まります。行司は命令者ではありません。行司の判定を五人の審判員がチェックします。「物言い」です。この「物言い」は座って待っている他の力士からもつけられます。行司は行政官、審判員は議定官に相当します。判定が決定されると、勝負した力士は合議の結果の判定に無条件に服します。負けた力士も一礼して土俵を去ります。これは和の体現です。相撲は言い伝えによりますと垂仁天皇かの時代に野見宿祢と当麻蹴早の間で行われたのが起源とあります。年中行事の中に相撲節会があります。極めて日本的で日本人の精神を表現するスポ-ツです。