『君民令和 美しい国日本の歴史』 第一章 聖徳太子 注釈 1
(略年表)
まず神話時代から平城遷都に至るまでの主な歴史を年表にしておきます。
1世紀中頃・滋賀島の金印-卑弥呼崇神天皇・4世紀中頃-雄略天皇・5世紀前半-継体天皇即位・507年-聖徳太子推古天皇の摂政就任・593年-大化改新(乙巳の変)・645年-白村江の戦い・663年-壬申の乱、天武天皇即位・672年-大宝律令・701年-平城遷都・710年
(時代区分について)
日本の書かれた歴史は記紀(古事記と日本書記)から始まります。記紀には神話の部分が含まれています。特に古事記神代偏は神話です。ユダヤの歴史は天地創造まで行き着いてしまいます。そもそも旧約聖書が完成したのが西暦前2-3世紀です。アテナイなど古代ギリシャで、まず事実と思われるのはリュクルゴスやソロンの改革ですから西暦前6-7世紀になります。それ以前に遡れば結局ゼウスやアテナイ女神そしてヘラクレスが活躍するギリシャ神話に至ります。史記の出発点は黄帝神農女カ以下の三皇五帝です。ただし神話が必ずしも虚構とは限りません。
日本が歴史に登場するのは、後漢の光武帝が北九州の豪族に与えた金印です。志賀島で発見されました。「漢の倭の国の王」と書かれています。北九州の某国が後漢という王朝により信認されたということです。次は魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の魏王朝への朝貢です。4世紀中頃になります。卑弥呼と諸葛孔明は関係があります。孔明が死去し西方の憂いが無くなり、魏は東方経営に乗り出しました。満州地方、朝鮮半島そして日本列島の在地勢力はこの動向に敏感に反応します。卑弥呼の墓は纏向遺跡にあると推定されます。この遺跡は皇室の聖地である三輪山に接します。そして記紀に書かれている天皇でその存在がほぼ確定しているのは崇神天皇で、それも4世紀中頃らしいのです。卑弥呼と崇神天皇の関係は推定可能です。この辺が日本の出発点でしょう。崇神王朝の次に応神仁徳朝がきます。応神天皇の出自、母親の神功皇后の新羅征伐等を考えると応神天皇はそれ以前の皇統と別系統かもしれません。仁徳天皇や雄略天皇は中国南朝の宋に朝貢して、自分の領土占有の正統性を認めてもらおうとしています。この王統は武烈天皇で絶え、継体天皇が即位します。武烈天皇と継体天皇とは従弟の従弟のそのまた従弟くらいの遠縁です。はっきり言って両者は他人です。継体天皇は仁賢天皇の娘手白香皇女を正妃として迎え皇統の連続性を示しました。継体天皇が大和に入るのに20年間かかっている事、また当時朝鮮南部と西日本を巻き込む大動乱、磐井の乱、が起こっていることなどを考えると継体王朝は全く別系統とも考えられます。継体天皇の曽孫が聖徳太子です。書かれた歴史はここから始まります。従って26代継体天皇をもって現実の天皇とみなすのが適当と考えられます。それ以前の記紀に描かれた天皇は神話と遺跡でしか判断できません。有力豪族とみなさざるを得ません。それにしては世界遺産に指定された応神仁徳陵は大きすぎますが。従って武烈天皇以前の歴史は、神話と遺跡の時代になります。以前はこの時代を大和時代と言っていました。継体天皇以後は聖徳太子、天智天武両天皇によって時代が画されます。710年の平城遷都以後を奈良時代と言います。継体天皇と平城遷都の間は美術史から借りた概念を使用して飛鳥時代、後半を白鳳時代と呼びます、もっとも時代区分はあくまで一つの便宜ではありますが。まとめます。日本史はその始まりから、神話遺跡の時代、飛鳥時代、白鳳時代、そして奈良時代と連なります。
(神武東征)
古代史叙述の先駆けとして「神武東征」について私の意見を述べます。記紀では初代天皇である神武天皇が日向国を出て瀬戸内海を東進し、熊野から大和宇陀に出て樫原神宮で即位したと書いてあります。この記述は本当でしょうか。私は、神武天皇は実在したとは言えないが、そのような人あるいは集団はあり九州から近畿方面へ政治勢力が東進したであろうとは思っています。理由はかなりあります。まず北九州は先進地帯でしたが、安定した権力機構を維持するには狭すぎます。また大陸の影響を受けやすく安全性に疑問があります。九州から近畿には瀬戸内海があり、交通の要衝であり人間や物資も大量に輸送できます。更に大和政権の聖地三輪山には天照大神は祭られず、出雲神話の主役大国主命が祭られています。伝承によれば天照大神は三輪山の傍を通って伊勢に行き、鎮座したとあります。また第10代崇神天皇の時大和に悪疫がはやり、神託に尋ねたところ、国内に住む大国主命の子孫を祭れば良いとなり、そうしたところ悪疫は収まったと書いてあります。更に出雲系文化を示す遺跡異物例えば四隅突出墓などが大和国内のみならず、全国至るところにあります。こう考えると大和王権は先住民と外来民の混住により比較的平和に作られた可能性もあるのです。この意味でなら神武東征のようなものがあった可能性は否定できません。
(大王-おおきみ)
「天皇」という呼称は670年前後天武朝のころから使い始められたようです。それまでは大王(おおきみ)と呼ばれました。「きみ」は「君」つまり種族の長という意味です。「おおきみ」とは、「君」より上位に位する従ってより大きな君という意味で用いられました。全体の中の第一人者でありますが、絶対に懸絶した存在ではありません。「天皇」という言葉には「大王」を超えたともいうべきニュアンスがります。中国の漢字で解釈すれば「天」とは「帝」であり「皇」は三皇五帝の「皇」になります、なお「皇后」の「后」という字ですが、書経の用法に従えば「皇」と同じ意味になります。主権者は男女同格ということです。
(聖徳太子の家系)
聖徳太子の家系は少しややこしくなります。継体天皇の子欽明天皇の皇子で天皇になったのは敏達・用明・崇峻の三天皇です。これに推古天皇という女帝が加わります。推古天皇は敏達天皇の正妃であり妹です。敏達天皇の正妃は宣化天皇の皇女です。蘇我氏ではありません。この事は後の大化の改新に大きな影響をもたらします。用明・崇峻・推古天皇はすべて蘇我稲目の娘がと欽明天皇の間にできた子供です。敏達・用明・崇峻天皇と兄弟順に皇位は受け継がれます。崇峻天皇は蘇我馬子と仲が悪くなり、馬子に殺されます。日本史上唯一の天皇弑逆事件が起こります。後継者としてやむなく馬子は豊御食炊屋姫(とよみけかしやきひめ)を中継ぎの天皇として建て、用明天皇の皇子聖徳太子を皇太子とします。太子が蘇我腹であったことと他の皇子の年齢から太子が皇太子になったものと思われます。蘇我氏は天皇の正妃を蘇我氏で独占しようとしました。非蘇我氏系統の敏達-押坂彦人大兄-舒明天皇-中大兄(天智天皇)のラインと対立します。大化の改新の伏線になります。なお聖徳太子は即位する予定でしたが推古天皇が長命で太子は太子のまま亡くなります。子供の山城大兄は推古天皇死後の皇位争いで蘇我入鹿に殺されます。対抗馬が非蘇我系の舒明天皇であっただけにこの経緯は複雑です。政治は常に複雑です。
(聖徳太子の政治)
太子の政治は仏教の保護育成と中央集権化の二つに絞られます。仏教については後に別項で取り上げます。太子は冠位十二階の制度を創始しました。日本で初めての冠位制です。冠位制定という事は、臣下すべてを天皇の定めた位階の中に組みこむ、つまり臣下を天皇の官僚にすることを意味します。ただ蘇我馬子だけはこの冠位制に従わず、古い冠を着用しました。自分は天皇の臣下とは言えない・共同統治者であると主張したのです。後、大化の改新で大臣(おおおみ)は左右二人の大臣(だいじん)へ分けられその権力は分割され、やがてこの大臣も朝廷の官位制度の中に組みこまれます。地方統治従って土地支配政策に関しては太子の業績には見るべきものはありません。土地支配政策を始めたのは中大兄です。つまり聖徳太子は中央集権化を明示的に始めた最初の人となります。太子が遣隋使を派遣したのもこの意味の範囲で理解されます。太子より先に日本から隋に使節が行っていたようです。向こう側の記録にはそうあります。その時隋の文帝は日本の政治の遅れ・未開性を指摘し諭しました。隋の煬帝は日本からの朝貢使を待っていたのですが、太子が派遣した小野妹子の書には「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す、つつがなきや」とあり、太子は対等外交を始めました。煬帝は怒り返書をしたためますが、この返書は途中で奪われた事になっています。妹子はおとがめなしでした。隠されたらしい背景を勘案してください。太子もなかなかのやり手です。なお太子の仏教の保護興隆政策と外交は密に関係しています。552年欽明天皇の御代、百済の斉明王が金銅一体の仏像を送ってきます。これが正式な仏教伝来のはじめとされますが、百済の王は見返りに半島での三国争覇に対して日本の援助を期待したのです。
(法興寺と法隆寺)
552年欽明天皇の時百濟から仏教が伝来します。この異国の宗教を奉じるか否かは天皇には決められません。天皇は崇仏派の蘇我稲目に仏像を預けます。稲目は三人の女性を半島に渡航させ仏事を学ばせます。やがて自宅を寺に改装します。これが日本で最初の寺院法興寺です。蘇我氏と廃仏派の物部氏は対立し内乱になり物部氏は没落します。この時聖徳太子は蘇我氏の側に立ちます。聖徳太子は斑鳩の里に寺院を建立します。法隆寺です。これが二番目のお寺です。仏法興隆の「興」と「隆」という字を仲良く分け持っています。仏教興隆という点では蘇我氏も太子従って朝廷も意見は一致していました。要はどちらが主導権を取るかです。後で述べますが仏教興隆は国家の近代化そして中央集権化に深く関連しているのです。
(略年表)
まず神話時代から平城遷都に至るまでの主な歴史を年表にしておきます。
1世紀中頃・滋賀島の金印-卑弥呼崇神天皇・4世紀中頃-雄略天皇・5世紀前半-継体天皇即位・507年-聖徳太子推古天皇の摂政就任・593年-大化改新(乙巳の変)・645年-白村江の戦い・663年-壬申の乱、天武天皇即位・672年-大宝律令・701年-平城遷都・710年
(時代区分について)
日本の書かれた歴史は記紀(古事記と日本書記)から始まります。記紀には神話の部分が含まれています。特に古事記神代偏は神話です。ユダヤの歴史は天地創造まで行き着いてしまいます。そもそも旧約聖書が完成したのが西暦前2-3世紀です。アテナイなど古代ギリシャで、まず事実と思われるのはリュクルゴスやソロンの改革ですから西暦前6-7世紀になります。それ以前に遡れば結局ゼウスやアテナイ女神そしてヘラクレスが活躍するギリシャ神話に至ります。史記の出発点は黄帝神農女カ以下の三皇五帝です。ただし神話が必ずしも虚構とは限りません。
日本が歴史に登場するのは、後漢の光武帝が北九州の豪族に与えた金印です。志賀島で発見されました。「漢の倭の国の王」と書かれています。北九州の某国が後漢という王朝により信認されたということです。次は魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の魏王朝への朝貢です。4世紀中頃になります。卑弥呼と諸葛孔明は関係があります。孔明が死去し西方の憂いが無くなり、魏は東方経営に乗り出しました。満州地方、朝鮮半島そして日本列島の在地勢力はこの動向に敏感に反応します。卑弥呼の墓は纏向遺跡にあると推定されます。この遺跡は皇室の聖地である三輪山に接します。そして記紀に書かれている天皇でその存在がほぼ確定しているのは崇神天皇で、それも4世紀中頃らしいのです。卑弥呼と崇神天皇の関係は推定可能です。この辺が日本の出発点でしょう。崇神王朝の次に応神仁徳朝がきます。応神天皇の出自、母親の神功皇后の新羅征伐等を考えると応神天皇はそれ以前の皇統と別系統かもしれません。仁徳天皇や雄略天皇は中国南朝の宋に朝貢して、自分の領土占有の正統性を認めてもらおうとしています。この王統は武烈天皇で絶え、継体天皇が即位します。武烈天皇と継体天皇とは従弟の従弟のそのまた従弟くらいの遠縁です。はっきり言って両者は他人です。継体天皇は仁賢天皇の娘手白香皇女を正妃として迎え皇統の連続性を示しました。継体天皇が大和に入るのに20年間かかっている事、また当時朝鮮南部と西日本を巻き込む大動乱、磐井の乱、が起こっていることなどを考えると継体王朝は全く別系統とも考えられます。継体天皇の曽孫が聖徳太子です。書かれた歴史はここから始まります。従って26代継体天皇をもって現実の天皇とみなすのが適当と考えられます。それ以前の記紀に描かれた天皇は神話と遺跡でしか判断できません。有力豪族とみなさざるを得ません。それにしては世界遺産に指定された応神仁徳陵は大きすぎますが。従って武烈天皇以前の歴史は、神話と遺跡の時代になります。以前はこの時代を大和時代と言っていました。継体天皇以後は聖徳太子、天智天武両天皇によって時代が画されます。710年の平城遷都以後を奈良時代と言います。継体天皇と平城遷都の間は美術史から借りた概念を使用して飛鳥時代、後半を白鳳時代と呼びます、もっとも時代区分はあくまで一つの便宜ではありますが。まとめます。日本史はその始まりから、神話遺跡の時代、飛鳥時代、白鳳時代、そして奈良時代と連なります。
(神武東征)
古代史叙述の先駆けとして「神武東征」について私の意見を述べます。記紀では初代天皇である神武天皇が日向国を出て瀬戸内海を東進し、熊野から大和宇陀に出て樫原神宮で即位したと書いてあります。この記述は本当でしょうか。私は、神武天皇は実在したとは言えないが、そのような人あるいは集団はあり九州から近畿方面へ政治勢力が東進したであろうとは思っています。理由はかなりあります。まず北九州は先進地帯でしたが、安定した権力機構を維持するには狭すぎます。また大陸の影響を受けやすく安全性に疑問があります。九州から近畿には瀬戸内海があり、交通の要衝であり人間や物資も大量に輸送できます。更に大和政権の聖地三輪山には天照大神は祭られず、出雲神話の主役大国主命が祭られています。伝承によれば天照大神は三輪山の傍を通って伊勢に行き、鎮座したとあります。また第10代崇神天皇の時大和に悪疫がはやり、神託に尋ねたところ、国内に住む大国主命の子孫を祭れば良いとなり、そうしたところ悪疫は収まったと書いてあります。更に出雲系文化を示す遺跡異物例えば四隅突出墓などが大和国内のみならず、全国至るところにあります。こう考えると大和王権は先住民と外来民の混住により比較的平和に作られた可能性もあるのです。この意味でなら神武東征のようなものがあった可能性は否定できません。
(大王-おおきみ)
「天皇」という呼称は670年前後天武朝のころから使い始められたようです。それまでは大王(おおきみ)と呼ばれました。「きみ」は「君」つまり種族の長という意味です。「おおきみ」とは、「君」より上位に位する従ってより大きな君という意味で用いられました。全体の中の第一人者でありますが、絶対に懸絶した存在ではありません。「天皇」という言葉には「大王」を超えたともいうべきニュアンスがります。中国の漢字で解釈すれば「天」とは「帝」であり「皇」は三皇五帝の「皇」になります、なお「皇后」の「后」という字ですが、書経の用法に従えば「皇」と同じ意味になります。主権者は男女同格ということです。
(聖徳太子の家系)
聖徳太子の家系は少しややこしくなります。継体天皇の子欽明天皇の皇子で天皇になったのは敏達・用明・崇峻の三天皇です。これに推古天皇という女帝が加わります。推古天皇は敏達天皇の正妃であり妹です。敏達天皇の正妃は宣化天皇の皇女です。蘇我氏ではありません。この事は後の大化の改新に大きな影響をもたらします。用明・崇峻・推古天皇はすべて蘇我稲目の娘がと欽明天皇の間にできた子供です。敏達・用明・崇峻天皇と兄弟順に皇位は受け継がれます。崇峻天皇は蘇我馬子と仲が悪くなり、馬子に殺されます。日本史上唯一の天皇弑逆事件が起こります。後継者としてやむなく馬子は豊御食炊屋姫(とよみけかしやきひめ)を中継ぎの天皇として建て、用明天皇の皇子聖徳太子を皇太子とします。太子が蘇我腹であったことと他の皇子の年齢から太子が皇太子になったものと思われます。蘇我氏は天皇の正妃を蘇我氏で独占しようとしました。非蘇我氏系統の敏達-押坂彦人大兄-舒明天皇-中大兄(天智天皇)のラインと対立します。大化の改新の伏線になります。なお聖徳太子は即位する予定でしたが推古天皇が長命で太子は太子のまま亡くなります。子供の山城大兄は推古天皇死後の皇位争いで蘇我入鹿に殺されます。対抗馬が非蘇我系の舒明天皇であっただけにこの経緯は複雑です。政治は常に複雑です。
(聖徳太子の政治)
太子の政治は仏教の保護育成と中央集権化の二つに絞られます。仏教については後に別項で取り上げます。太子は冠位十二階の制度を創始しました。日本で初めての冠位制です。冠位制定という事は、臣下すべてを天皇の定めた位階の中に組みこむ、つまり臣下を天皇の官僚にすることを意味します。ただ蘇我馬子だけはこの冠位制に従わず、古い冠を着用しました。自分は天皇の臣下とは言えない・共同統治者であると主張したのです。後、大化の改新で大臣(おおおみ)は左右二人の大臣(だいじん)へ分けられその権力は分割され、やがてこの大臣も朝廷の官位制度の中に組みこまれます。地方統治従って土地支配政策に関しては太子の業績には見るべきものはありません。土地支配政策を始めたのは中大兄です。つまり聖徳太子は中央集権化を明示的に始めた最初の人となります。太子が遣隋使を派遣したのもこの意味の範囲で理解されます。太子より先に日本から隋に使節が行っていたようです。向こう側の記録にはそうあります。その時隋の文帝は日本の政治の遅れ・未開性を指摘し諭しました。隋の煬帝は日本からの朝貢使を待っていたのですが、太子が派遣した小野妹子の書には「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す、つつがなきや」とあり、太子は対等外交を始めました。煬帝は怒り返書をしたためますが、この返書は途中で奪われた事になっています。妹子はおとがめなしでした。隠されたらしい背景を勘案してください。太子もなかなかのやり手です。なお太子の仏教の保護興隆政策と外交は密に関係しています。552年欽明天皇の御代、百済の斉明王が金銅一体の仏像を送ってきます。これが正式な仏教伝来のはじめとされますが、百済の王は見返りに半島での三国争覇に対して日本の援助を期待したのです。
(法興寺と法隆寺)
552年欽明天皇の時百濟から仏教が伝来します。この異国の宗教を奉じるか否かは天皇には決められません。天皇は崇仏派の蘇我稲目に仏像を預けます。稲目は三人の女性を半島に渡航させ仏事を学ばせます。やがて自宅を寺に改装します。これが日本で最初の寺院法興寺です。蘇我氏と廃仏派の物部氏は対立し内乱になり物部氏は没落します。この時聖徳太子は蘇我氏の側に立ちます。聖徳太子は斑鳩の里に寺院を建立します。法隆寺です。これが二番目のお寺です。仏法興隆の「興」と「隆」という字を仲良く分け持っています。仏教興隆という点では蘇我氏も太子従って朝廷も意見は一致していました。要はどちらが主導権を取るかです。後で述べますが仏教興隆は国家の近代化そして中央集権化に深く関連しているのです。