タクミとサムライ
タクミは匠・巧みを、サムライは侍・武士を意味します。ところでこの両者には大きな共通点があります。両者はむしろ同一と言ってもいいかも知れません。その共通点とは?技術への献身、集中力という性癖です。以下感じた事を述べてみましょう。
日本で一番古い企業は大阪の金剛組という建築会社です。創立は578年、593年に四天王寺を建てました。聖徳太子や蘇我馬子の時代です。欧州最古の企業の創立は1369年です。他の地域は比較の対象になりません。日本で100年以上続いている会社は推定で10万以上あるそうです。この数は世界中で飛びぬけています。理由は家職への専念による伝統の維持と技術への忠誠心です。換言すればじっくりこつこつ物を作って職人意識に徹し、下手に商人化しないのです。日本の場合商人でも簡単には商人化(金融資本化)しません。
日本の技術の優秀性を物語る逸話を紹介しましょう。まず751年に創建された東大寺の大仏開眼です。日本人が公式に仏像を見たのは欽明天皇の御世、6世紀半ばです。それから200年で世界にまたとない巨大な銅製の仏像を造りました。遠近のどこから見ても正視に堪えるようデザインし、大量の銅を融解して流し込む。大変な技術です。繰り返しますが大仏像のような巨大な銅像は世界に他とありません。
鎌倉室町つまり中世と呼ばれる時代、日本がシナに輸出していた物品の一つに日本刀があります。ところでこの日本刀はシナでは潰されて農具に転用されました。つまりシナでは自前で鉄製農具(鋤鍬)を造れなかったのです。逆に言えば日本の製鉄技術はそのころから優秀でした。日本刀の切れ味は抜群です。日本刀に関しては多くの逸話があります。一番有名なのが妖刀村正です。村正は必ずそれに関係する人物にたたりをもたらすといわれました。それほど、気持ちが悪いほど、切れる優秀な刀だったからです。徳川家康の父親祖父は村正でもって殺害されました。彼の長男も同様です。徳川家にとってはたたりをもたらす妖刀が村正でした。そこのところを心得てか家康の政敵石田三成は常に村正を帯刀していました。日本人が刀剣に対して抱く思い入れはこのようなものでした。技術への忠誠心を通り越して一種のフェティシズムにいたっています。
江戸時代の名工左甚五郎の話も有名です。彼が描いた龍の画像から龍が飛び出してきたという逸話もあります。そういう話には事欠きません。
明治以後日本は急速に工業化を成し遂げます。この過程で現在でも有名な企業の創立者で職人意識丸出し、というより技術馬鹿というような人物が多くいます。少し拾って彼らの逸話を簡単に素描してみましょう。
まずからくり儀右衛門こと田中久重、彼は久留米の鼈甲細工製造を営む職人の子供。彼は幼少から起用で造形の才能に恵まれ、一日中父親の工房で職人がする細工仕事を見るのが楽しいといった人物。儀右衛門は久留米をでます。主として大阪で多くのからくり仕掛けを作って名声をえますが、やがて現実に役立たないからくり作りが嫌になり銅製行灯など作り始めます。京都の蘭学者のもとに通い西欧の技術を見聞します。知り合った佐野常民のつてで佐賀藩鍋島家に雇用されます。そこで軍艦大砲の製造を任されます。彼が作った武器は戊辰戦争の勝敗を分けます。廃藩置県で佐賀藩の施設は新政府に寄贈され儀右衛門はそれを管理運営することになります。この施設はやがて儀右衛門に払い下げられます。そこで彼は電信電話機、火薬砲などを作っています。やがて儀右衛門の会社は三井に買い上げられます。儀右衛門の施設が東京の芝浦にあったところから社名は東芝となります。
臥雲辰到は豊田佐吉に先行する紡績機械の開発者です。彼は信州の農家に生まれました。当時女性が綿から糸を作る作業をしていましたが、この作業の機械化を企てます。農業に従事せず発明に没頭する辰到に業を煮やした親は彼を近くの寺に入れてしまいます。臥雲辰到という名はこの時に付けられた名です。明治の廃仏毀釈のどさくさで寺はつぶれ辰到は民間人になり紡績機開発に専心します。できた製品がガラ紡です。ガラ紡は安くて当時の民間の企業には格好でした。やがて紡績は西欧の技術で完全機械化されますが、そこに到る数十年ガラ紡は民間で使い続けられ民間企業を支えました。辰到は最初の妻には逃げられ貧窮で晩年は二度目の妻のやっかいになっています。
山辺丈夫は津和野藩藩士です。彼は旧主君の御曹司についてロンドンに留学し経済学を学んでいました。そこへ渋沢英一から緊急連絡が入ります。渋沢が中心になって欧州の会社に負けない大紡績会社を作る計画が持ち上がり、急遽英国の工場の技術を習得せよとのことです。誰も教えてくれませんし、大学でもそんな講座はありません。山辺は工場に一職工としてもぐりこみ、紡績機械の機構を習得して日本に帰ります。新工場の運営で山辺と英国の技術者は対立します。英国人は日本人には工場運営をする技術力はないと断言し、山辺は日本人単独でできると主張します。山辺は新工場の技師長になり立派に工場を作動させます。この工場が大阪合同紡績会社で幾多の合併をへて東洋紡績になります。山辺は後にこの会社の社長になり日本の紡績業界の顔になりました。
豊田佐吉は浜松の近くの農村大工の子供です。農業にも大工作業にも興味を持たずひたする国産の紡績機械の開発に関心を抱き続けます。一度は家出して東京にでかけ父親に連れ戻されています。最初の妻には逃げられます。技術開発に専念して家庭に関心を向けないのだから当然です。佐吉は結果として優秀な機械を開発し成功しますが、それは彼を支える周囲の人物特に二度目の妻の献身的努力によるところが大きいのです。彼の長男喜一郎も技術馬鹿で自動車生産に邁進しました。周囲は経営に与える影響を心配し、二代そろって技術馬鹿は要らないと歎きました。
森永太一郎は森永製菓の創立者です。彼は伊万里の伊万里焼問屋の子供でしたが父親は破産します。太一郎は東京に出て伊万里焼の販売会社に勤め、輸出を企てて渡米します。商売は大失敗キリスト教に入信します。失意の時公園で少女にもらって食べたキャラメルの味が忘れられず、洋菓子製造を終生の仕事に決めます。アメリカで洋菓子製造の会社に入り技術を習得して資金を貯め日本に帰ります。この間11年、妻子はおっぽり出しでした。太一郎は洋菓子製造の時に着る制服(コックの格好)を洋菓子職人の大礼服といい、菓子製造を表社会に引き出し自己主張しました。気は強く喧嘩ぱやく短気でした。信じたら一途の人柄で、後年森永の経営を他者に譲り死ぬまでキリスト教の布教に専心しました。彼には重要な協力者がいます。松崎半三朗です。製造一途の太一郎を助け経理営業を担当したのが松崎です。松崎がいなければ森永の今日はなかったでしょう。
小平浪平、日立製作所の創立者です。かなり複雑な過程を経て26歳東大工学部を卒業。小坂鉱山に入社、電気機械関係の業務に携わります。当時の電力業界の名門東京電燈に入社、ここで屈辱的体験をします。東電に入れる電気機械のすべてが外国製品で日本産製品はありません。浪平の役目は単なる仲介者でした。ここで是が非でも日本産の電気機械を作ってやると決心します。久原房之助の経営する日立鉱山に入り電気機械の整備、やがて独立して電気機械製作の工場を立ち上げます。大学卒業から5年です。後は黙々と機械開発にとり組みます。始めの不良品にはサ-ビスと補修で対処し、昭和4年ごろには日本一のメ-カ-になります。浪平には自社製品は必ず売れる使われるという信念のようなものがありました。また浪平は自助の人でもあります。自分で考え試行錯誤を経て新しい物を作ります。生涯外国へ行った経験がありません。外人に習うよりは自分で試行したほうがましだという考えだったのでしょう。周知の通り日立は東芝三菱川と並ぶ重工業機械のブランドです。
NHKの朝ドラの主人公竹鶴政孝、大阪高等工業学校醸造学科を卒業。スコットランドに留学。そこでスコッチの製法を学んで帰ります。おまけか本命かは知りませんが英国人の奥さんつきで帰国。サントリ-の鳥井信次郎に請われて山崎でウィスキ-製造に着手。10年かかってやっと英国産並みに近いものを作ります。しかし竹鶴はあくまでスコッチの本場の味にこだわります。鳥井と別れて北海道余市でウィスキ-製造に邁進し、戦後になってニッカウィスキ-を発売。製造には熱心でしたが経営のほうは危なく、アサヒビ-ルの山本為三郎が後援します。本来ウィスキ-など本場の英国から買えば済むもの。それをむきになって本場以上のものを作ろうとする。酒は文化です。英国の文化の結晶とも言えるスコッチ同様のものをあえて日本で作る必要があるのかなとも思います。結果としてスコッチ以上の物を作ちゃった。竹鶴は典型的な可愛い技術馬鹿でもあります。
ホンダの創立者本田宗一郎は浜松近辺に生まれた腕にいい鍛冶屋の倅。高等小学校を卒業して自動車修理工場に丁稚として勤務。自動車が好きで好きでたまらない。独立して修理工場を経営。経営は極めて順調で評判はいい。バイクを作ろうと決心。学問上の知識は浜松高等工業専門学校で習得。必要な学科のみ出席し卒業資格には関心を示さず。レ-スが大好きで自分も参加。バイクの製造へそして四輪車の製造へ。ホンダと言えば日本のみならず世界中の若者が憧れるブランド。
高柳賢次郎、TVの開発者。この人物もやはり浜松近郊に生まれる。機械いじりと工作が大好き、運動は苦手そして成績もぼちぼち。師範学校、高等工業専門学校に通い、基礎知識を習得。電子放電の実験に感銘し、現在TVと言われている装置の開発に専念。浜松工業専門学校に就職しこつこつTVを開発。なんとか映像送信が可能な装置を作る。こつこつやっているうちにいつの間にか世界一の研究水準へ。TV画像送信の天覧。やがて戦争。海軍技術研究部長となりレ-ダ-の研究などに従事。終戦そして追放。アメリカは日本におけるTVの研究を禁止(禁止されたのはこれだけではない、日本が開発していた核技術、航空機の製造なども禁止)。この措置でアメリカはTV開発で日本を抜く。高柳は追放解除後TV開発に専心。
井深大、子供の頃ラジオを分解しそれをまた組み立てなおすという逸話。自説は明瞭に頑固に主張するタイプ。神戸一中在学時漢文の読み方で教師と激論、白紙の答案を提出。早稲田の理工学部を卒業し電気機械の会社に就職。戦争、海軍で対潜磁気探知装置などを開発し米潜水艦撃沈に貢献。戦後すぐ電気通信関係の会社を創設。アメリカで開発されたトランジスタ-に注目し巨額の資金で特許を買収。小型ラヂオを開発。逸話あり。ある金貸しがソニ-を買収しようと計画。井深達は、金融や株の操作では全く勝ち目がない、いざとなったら特許のみを抱えて脱出し別個の会社を作ろうと覚悟。この決心を聞いた金貸しは買収から手を引く。
キャノンの創始者御手洗毅は北大卒の博士号をもつれっきとした産婦人科医。患者さんの夫とカメラ趣味が一致しカメラ製作に進出し会社を立ち上げる。医者とカメラ製造の二足の草鞋。戦後打倒ライカを宣言。終戦で復員してきた大量の技術者を雇用。大家族主義、高級優遇。失敗しても叱られないが、何もしないとどなられる社風。昭和38年ドイツに新製品をもって上陸しドイツ語で講演。ドイツ人の嫉妬を掻きたてる。現在世界のカメラ市場はキャノンとミノルタで95%独占。
職人とは技術者、タクミです。ところでこのタクミ・匠の精神は武士のそれと軌を一にします。武士とは何者でしょうか?武士はまず戦闘技術者です。日本ではこの戦闘技術が華麗繊細で芸術的と言っていいほど発達しました。平安中期に出現した武士の戦闘は騎射です。馬に乗って駆ける違い、鎧のサネの間から矢を射こみます。それを一定のルールに基づいてします。かなりな程度ゲ-ムに近いしかし難しい戦法になります。これが武芸の始まりです。ですから武士の戦法が槍や刀になり歩兵戦が主となっても精神は変りません。武士とは基本的には戦闘の職人なのです。そして武士は農民でもあります。律令制下に私有田を作り、脱税のために寄進し、自らの財産を自ら護るために武装します。土地開拓者農民である武士は独立経営者ですから、自立性は強い。彼らが相互に団結して自らのための政府を作ります。それが幕府です。将軍と武士はご恩と奉公の関係で結ばれます。その心理的紐帯が忠誠心です。ですから武士は忠誠の証しとして自らの武技武芸を磨きます。もっとも主君と臣下の関係は双方向的です。御恩が下されないと臣下は主君を見限ります。戦闘技術者であり農場開拓者であり人格的双務関係の当事者である武士はその本性として技術を大切にします。江戸時代になって戦争がなくなったら武士は戦闘技術者から転じて統治のための行政官、これも技術者です、になりました。明治に入り職を失うとその多くは新政権の官僚になりました。そして明治以来の企業の創立者には圧倒的に武士あるいはそれに準じる者が多いのです。武士の戦闘技術も、経営者の経営技術も、職人の製造技術も技術という点では変りません。タクミはサムライなのです。
最後に日本人の技術への高い評価を支える心性について論及します。菩薩道です。日本に入ってきた大乗仏教は、俗世における悟りの証しを農工業生産の促進に求めました。菩薩僧といわれる人達により灌漑や道路橋梁などのインフラ設備が進められました。彼らは技術者です。また仏教により柔らかく解体された律令体制はそこから、家職を生み出してゆきます。律令制下の下級官人は公職を専門の家職として相続するようになります。家職という精神は一般にも及び家の職として技術を大切にする風潮を育てました。だから1000年以上も続く金剛組のような企業もありえたのです。
タクミは匠・巧みを、サムライは侍・武士を意味します。ところでこの両者には大きな共通点があります。両者はむしろ同一と言ってもいいかも知れません。その共通点とは?技術への献身、集中力という性癖です。以下感じた事を述べてみましょう。
日本で一番古い企業は大阪の金剛組という建築会社です。創立は578年、593年に四天王寺を建てました。聖徳太子や蘇我馬子の時代です。欧州最古の企業の創立は1369年です。他の地域は比較の対象になりません。日本で100年以上続いている会社は推定で10万以上あるそうです。この数は世界中で飛びぬけています。理由は家職への専念による伝統の維持と技術への忠誠心です。換言すればじっくりこつこつ物を作って職人意識に徹し、下手に商人化しないのです。日本の場合商人でも簡単には商人化(金融資本化)しません。
日本の技術の優秀性を物語る逸話を紹介しましょう。まず751年に創建された東大寺の大仏開眼です。日本人が公式に仏像を見たのは欽明天皇の御世、6世紀半ばです。それから200年で世界にまたとない巨大な銅製の仏像を造りました。遠近のどこから見ても正視に堪えるようデザインし、大量の銅を融解して流し込む。大変な技術です。繰り返しますが大仏像のような巨大な銅像は世界に他とありません。
鎌倉室町つまり中世と呼ばれる時代、日本がシナに輸出していた物品の一つに日本刀があります。ところでこの日本刀はシナでは潰されて農具に転用されました。つまりシナでは自前で鉄製農具(鋤鍬)を造れなかったのです。逆に言えば日本の製鉄技術はそのころから優秀でした。日本刀の切れ味は抜群です。日本刀に関しては多くの逸話があります。一番有名なのが妖刀村正です。村正は必ずそれに関係する人物にたたりをもたらすといわれました。それほど、気持ちが悪いほど、切れる優秀な刀だったからです。徳川家康の父親祖父は村正でもって殺害されました。彼の長男も同様です。徳川家にとってはたたりをもたらす妖刀が村正でした。そこのところを心得てか家康の政敵石田三成は常に村正を帯刀していました。日本人が刀剣に対して抱く思い入れはこのようなものでした。技術への忠誠心を通り越して一種のフェティシズムにいたっています。
江戸時代の名工左甚五郎の話も有名です。彼が描いた龍の画像から龍が飛び出してきたという逸話もあります。そういう話には事欠きません。
明治以後日本は急速に工業化を成し遂げます。この過程で現在でも有名な企業の創立者で職人意識丸出し、というより技術馬鹿というような人物が多くいます。少し拾って彼らの逸話を簡単に素描してみましょう。
まずからくり儀右衛門こと田中久重、彼は久留米の鼈甲細工製造を営む職人の子供。彼は幼少から起用で造形の才能に恵まれ、一日中父親の工房で職人がする細工仕事を見るのが楽しいといった人物。儀右衛門は久留米をでます。主として大阪で多くのからくり仕掛けを作って名声をえますが、やがて現実に役立たないからくり作りが嫌になり銅製行灯など作り始めます。京都の蘭学者のもとに通い西欧の技術を見聞します。知り合った佐野常民のつてで佐賀藩鍋島家に雇用されます。そこで軍艦大砲の製造を任されます。彼が作った武器は戊辰戦争の勝敗を分けます。廃藩置県で佐賀藩の施設は新政府に寄贈され儀右衛門はそれを管理運営することになります。この施設はやがて儀右衛門に払い下げられます。そこで彼は電信電話機、火薬砲などを作っています。やがて儀右衛門の会社は三井に買い上げられます。儀右衛門の施設が東京の芝浦にあったところから社名は東芝となります。
臥雲辰到は豊田佐吉に先行する紡績機械の開発者です。彼は信州の農家に生まれました。当時女性が綿から糸を作る作業をしていましたが、この作業の機械化を企てます。農業に従事せず発明に没頭する辰到に業を煮やした親は彼を近くの寺に入れてしまいます。臥雲辰到という名はこの時に付けられた名です。明治の廃仏毀釈のどさくさで寺はつぶれ辰到は民間人になり紡績機開発に専心します。できた製品がガラ紡です。ガラ紡は安くて当時の民間の企業には格好でした。やがて紡績は西欧の技術で完全機械化されますが、そこに到る数十年ガラ紡は民間で使い続けられ民間企業を支えました。辰到は最初の妻には逃げられ貧窮で晩年は二度目の妻のやっかいになっています。
山辺丈夫は津和野藩藩士です。彼は旧主君の御曹司についてロンドンに留学し経済学を学んでいました。そこへ渋沢英一から緊急連絡が入ります。渋沢が中心になって欧州の会社に負けない大紡績会社を作る計画が持ち上がり、急遽英国の工場の技術を習得せよとのことです。誰も教えてくれませんし、大学でもそんな講座はありません。山辺は工場に一職工としてもぐりこみ、紡績機械の機構を習得して日本に帰ります。新工場の運営で山辺と英国の技術者は対立します。英国人は日本人には工場運営をする技術力はないと断言し、山辺は日本人単独でできると主張します。山辺は新工場の技師長になり立派に工場を作動させます。この工場が大阪合同紡績会社で幾多の合併をへて東洋紡績になります。山辺は後にこの会社の社長になり日本の紡績業界の顔になりました。
豊田佐吉は浜松の近くの農村大工の子供です。農業にも大工作業にも興味を持たずひたする国産の紡績機械の開発に関心を抱き続けます。一度は家出して東京にでかけ父親に連れ戻されています。最初の妻には逃げられます。技術開発に専念して家庭に関心を向けないのだから当然です。佐吉は結果として優秀な機械を開発し成功しますが、それは彼を支える周囲の人物特に二度目の妻の献身的努力によるところが大きいのです。彼の長男喜一郎も技術馬鹿で自動車生産に邁進しました。周囲は経営に与える影響を心配し、二代そろって技術馬鹿は要らないと歎きました。
森永太一郎は森永製菓の創立者です。彼は伊万里の伊万里焼問屋の子供でしたが父親は破産します。太一郎は東京に出て伊万里焼の販売会社に勤め、輸出を企てて渡米します。商売は大失敗キリスト教に入信します。失意の時公園で少女にもらって食べたキャラメルの味が忘れられず、洋菓子製造を終生の仕事に決めます。アメリカで洋菓子製造の会社に入り技術を習得して資金を貯め日本に帰ります。この間11年、妻子はおっぽり出しでした。太一郎は洋菓子製造の時に着る制服(コックの格好)を洋菓子職人の大礼服といい、菓子製造を表社会に引き出し自己主張しました。気は強く喧嘩ぱやく短気でした。信じたら一途の人柄で、後年森永の経営を他者に譲り死ぬまでキリスト教の布教に専心しました。彼には重要な協力者がいます。松崎半三朗です。製造一途の太一郎を助け経理営業を担当したのが松崎です。松崎がいなければ森永の今日はなかったでしょう。
小平浪平、日立製作所の創立者です。かなり複雑な過程を経て26歳東大工学部を卒業。小坂鉱山に入社、電気機械関係の業務に携わります。当時の電力業界の名門東京電燈に入社、ここで屈辱的体験をします。東電に入れる電気機械のすべてが外国製品で日本産製品はありません。浪平の役目は単なる仲介者でした。ここで是が非でも日本産の電気機械を作ってやると決心します。久原房之助の経営する日立鉱山に入り電気機械の整備、やがて独立して電気機械製作の工場を立ち上げます。大学卒業から5年です。後は黙々と機械開発にとり組みます。始めの不良品にはサ-ビスと補修で対処し、昭和4年ごろには日本一のメ-カ-になります。浪平には自社製品は必ず売れる使われるという信念のようなものがありました。また浪平は自助の人でもあります。自分で考え試行錯誤を経て新しい物を作ります。生涯外国へ行った経験がありません。外人に習うよりは自分で試行したほうがましだという考えだったのでしょう。周知の通り日立は東芝三菱川と並ぶ重工業機械のブランドです。
NHKの朝ドラの主人公竹鶴政孝、大阪高等工業学校醸造学科を卒業。スコットランドに留学。そこでスコッチの製法を学んで帰ります。おまけか本命かは知りませんが英国人の奥さんつきで帰国。サントリ-の鳥井信次郎に請われて山崎でウィスキ-製造に着手。10年かかってやっと英国産並みに近いものを作ります。しかし竹鶴はあくまでスコッチの本場の味にこだわります。鳥井と別れて北海道余市でウィスキ-製造に邁進し、戦後になってニッカウィスキ-を発売。製造には熱心でしたが経営のほうは危なく、アサヒビ-ルの山本為三郎が後援します。本来ウィスキ-など本場の英国から買えば済むもの。それをむきになって本場以上のものを作ろうとする。酒は文化です。英国の文化の結晶とも言えるスコッチ同様のものをあえて日本で作る必要があるのかなとも思います。結果としてスコッチ以上の物を作ちゃった。竹鶴は典型的な可愛い技術馬鹿でもあります。
ホンダの創立者本田宗一郎は浜松近辺に生まれた腕にいい鍛冶屋の倅。高等小学校を卒業して自動車修理工場に丁稚として勤務。自動車が好きで好きでたまらない。独立して修理工場を経営。経営は極めて順調で評判はいい。バイクを作ろうと決心。学問上の知識は浜松高等工業専門学校で習得。必要な学科のみ出席し卒業資格には関心を示さず。レ-スが大好きで自分も参加。バイクの製造へそして四輪車の製造へ。ホンダと言えば日本のみならず世界中の若者が憧れるブランド。
高柳賢次郎、TVの開発者。この人物もやはり浜松近郊に生まれる。機械いじりと工作が大好き、運動は苦手そして成績もぼちぼち。師範学校、高等工業専門学校に通い、基礎知識を習得。電子放電の実験に感銘し、現在TVと言われている装置の開発に専念。浜松工業専門学校に就職しこつこつTVを開発。なんとか映像送信が可能な装置を作る。こつこつやっているうちにいつの間にか世界一の研究水準へ。TV画像送信の天覧。やがて戦争。海軍技術研究部長となりレ-ダ-の研究などに従事。終戦そして追放。アメリカは日本におけるTVの研究を禁止(禁止されたのはこれだけではない、日本が開発していた核技術、航空機の製造なども禁止)。この措置でアメリカはTV開発で日本を抜く。高柳は追放解除後TV開発に専心。
井深大、子供の頃ラジオを分解しそれをまた組み立てなおすという逸話。自説は明瞭に頑固に主張するタイプ。神戸一中在学時漢文の読み方で教師と激論、白紙の答案を提出。早稲田の理工学部を卒業し電気機械の会社に就職。戦争、海軍で対潜磁気探知装置などを開発し米潜水艦撃沈に貢献。戦後すぐ電気通信関係の会社を創設。アメリカで開発されたトランジスタ-に注目し巨額の資金で特許を買収。小型ラヂオを開発。逸話あり。ある金貸しがソニ-を買収しようと計画。井深達は、金融や株の操作では全く勝ち目がない、いざとなったら特許のみを抱えて脱出し別個の会社を作ろうと覚悟。この決心を聞いた金貸しは買収から手を引く。
キャノンの創始者御手洗毅は北大卒の博士号をもつれっきとした産婦人科医。患者さんの夫とカメラ趣味が一致しカメラ製作に進出し会社を立ち上げる。医者とカメラ製造の二足の草鞋。戦後打倒ライカを宣言。終戦で復員してきた大量の技術者を雇用。大家族主義、高級優遇。失敗しても叱られないが、何もしないとどなられる社風。昭和38年ドイツに新製品をもって上陸しドイツ語で講演。ドイツ人の嫉妬を掻きたてる。現在世界のカメラ市場はキャノンとミノルタで95%独占。
職人とは技術者、タクミです。ところでこのタクミ・匠の精神は武士のそれと軌を一にします。武士とは何者でしょうか?武士はまず戦闘技術者です。日本ではこの戦闘技術が華麗繊細で芸術的と言っていいほど発達しました。平安中期に出現した武士の戦闘は騎射です。馬に乗って駆ける違い、鎧のサネの間から矢を射こみます。それを一定のルールに基づいてします。かなりな程度ゲ-ムに近いしかし難しい戦法になります。これが武芸の始まりです。ですから武士の戦法が槍や刀になり歩兵戦が主となっても精神は変りません。武士とは基本的には戦闘の職人なのです。そして武士は農民でもあります。律令制下に私有田を作り、脱税のために寄進し、自らの財産を自ら護るために武装します。土地開拓者農民である武士は独立経営者ですから、自立性は強い。彼らが相互に団結して自らのための政府を作ります。それが幕府です。将軍と武士はご恩と奉公の関係で結ばれます。その心理的紐帯が忠誠心です。ですから武士は忠誠の証しとして自らの武技武芸を磨きます。もっとも主君と臣下の関係は双方向的です。御恩が下されないと臣下は主君を見限ります。戦闘技術者であり農場開拓者であり人格的双務関係の当事者である武士はその本性として技術を大切にします。江戸時代になって戦争がなくなったら武士は戦闘技術者から転じて統治のための行政官、これも技術者です、になりました。明治に入り職を失うとその多くは新政権の官僚になりました。そして明治以来の企業の創立者には圧倒的に武士あるいはそれに準じる者が多いのです。武士の戦闘技術も、経営者の経営技術も、職人の製造技術も技術という点では変りません。タクミはサムライなのです。
最後に日本人の技術への高い評価を支える心性について論及します。菩薩道です。日本に入ってきた大乗仏教は、俗世における悟りの証しを農工業生産の促進に求めました。菩薩僧といわれる人達により灌漑や道路橋梁などのインフラ設備が進められました。彼らは技術者です。また仏教により柔らかく解体された律令体制はそこから、家職を生み出してゆきます。律令制下の下級官人は公職を専門の家職として相続するようになります。家職という精神は一般にも及び家の職として技術を大切にする風潮を育てました。だから1000年以上も続く金剛組のような企業もありえたのです。