何ゆえ物価は上がるのか・上がらなければならないのか?
(1)物価とは一体何なのか?考えれば考えるほど解らなくなる。仮に最貧国の一つであるミャンマ-で米価が日本の1/50だったとする。ミャンマ―の一人当たりGDPは日本の1/50だ。もし米価を標準にとれば、ミャンマ-の貨幣の購買力は日本の50倍になり、日本とミャンマ-の生活程度の差はなしになる。この結論は実体としては矛盾だろう。1960年(昭和35年)当時の大学生の生活費は現在の1/15くらいだった。これを標準とすれば現在の物価は1960年当時のそれの15倍になる。では本当に物価が上がったことになるのか?当時と現在では、生活のコモディティ-(財貨、便益くらいに考えておこう)の量が格段に違う。現在ほとんどの人は自前の家を持っている。当時自家用車を所持している家は100軒に1軒もなかった。家電製品の所有量も全く違う。道路は見違えるように整備された。当時の郊外では雨がふればぬかるみだった。提供される医療の質も量も格段に違う。1960年当時の機械による医学検査は、単純レントゲン撮影と、尿検査それにせいぜい赤白の血球数くらいだった。この間平均寿命は約15歳伸びた。(ちなみに1950年の平均寿命は50歳前後)現在動物蛋白摂取に不自由する人はいない。1960年、野党の社会党が掲げた政策の一つが、国民一人当たり牛乳摂取量を一合(180cc)に、ということだった。私が言いたいことは、確かに名目上の生活費(必要とする1万円札の数)は15倍になったかも知れないが、それで購入できるコモディティ-の量も飛躍的に増大したということだ。果たして物価は上がっているのか下がっているのか、決定できない。カレ-ライスや理容の値段を購買力の標準にとれば、物価はあがり、米価を基準にすれば、信じられないことだが、あまり変らず、TVを基準にとれば下がっている。昭和27年だったか始めて発売されたモノクロのTVの価格は約20万円、現在は2万円で買える、もちろんパナカラ-だ。
(2)要は名目の物価ではなく、貨幣量と提供されるコモディティ-の量の関係だ。ここで貨幣とは、単に現金のことだけではない、当座預金、小切手、手形、債権、株式など、譲渡できる価値の表象をすべて含む。話を単純にしてみる。ある閉鎖された経済圏を想定する。一定のコモディティ-と貨幣量があるとする。ここでイノヴェ-ションが起こり、あるAと仮称される新たなアイテム(生産物)が生産されるとする。それは綿織物でも、陶磁器でも、機械でもかまわない。アイテムAが着想されて、生産、販売されるためには、当然資本つまりお金が要る。またアイテムAが購入されるためにもお金がいる。そもそも生産と消費は常に併行して増減するものであり、あるアイテムが生産されるということは、そのアイテムが消費されるということなのだ。もし貨幣量が増大しなければ、Aを生産販売するための資本の獲得は、他の生産に向けられていた部分から強引に引きはがしてくるのだから、相当の抵抗に遭遇しなければならなくなる。つまり利息がものすごく上がる。またAというアイテム生産に向けられる貨幣量はそれまでの流通機構から引き揚げられるのだから、既存の財貨を買うための貨幣は減り、物価は下がる。Aは売れにくい環境と戦わねばならなくなる。Aを購入するためには他のアイテムの購入を減らさなければならないのだから、購入もそう簡単にはいかなくなる。非常に長期的展望に立てば、Aというアイテムがコモディティ-に付加され、コモディティ-総量は増し、貨幣量は変らずだから、物価はその分低下する。そしてAというアイテムがその経済圏で消費の対象としての地位を確立するためには、非常に長い時間が経過しなければならない。イノヴェ-ションはなかなかはかどらない。成長は遅延する。
(3)逆にAというアイテムを生産販売するために、なんらかのからくりで貨幣量が増加したとする。A生産の企業化は容易になり、またその購入も容易になる。貨幣供給量がAの生産販売と購入つまり企業化に必要なだけなら、貨幣の増加とコモディティ-の増加が比例するわけだから、物価は上がらない。Aの生産販売そして購入に必要以上の貨幣が供給されたら、名目上の物価は上がる。インフレだ。貨幣の供給がそううまく調節されるわけではないので、Aの生産が企業化されるためには、真に(実質的に)必要な貨幣量(真に必要な貨幣量など決定できるわけがない、永遠に未知なのだが)以上の貨幣が供給されなければならない。だからイノヴェ-ションが成功するためには、常に実質価値相当以上の、換言すればインフレを引き起こす貨幣量の供給が必要だ。一つのイノヴェ-ションだけなら余分な貨幣量は僅かかも知れないが、イノヴェ-ションは当然複数そして無数に起こる。これらのイノヴェ-ションは生産と消費を通じて連動し相乗しあう。従って余分な貨幣量は幾何級数的に増加する。この増加がなければイノヴェ-ションつまり経済成長は起こらない。換言すれば一定の経済成長を維持するためには、常に余分の貨幣供給が必要になる。この過剰な貨幣供給で維持される価格が名目価格だ。
(4)ではどういう相乗作用が起こるのか?原則は生産と消費の間の相乗作用だ。生産者は同時に消費者だ。もちろん複数の産業を想定してのお話。生産と消費の間に雇用が入る。雇用を介して生産と消費は相乗作用を起こす。生産が増える、雇用が増える、だから消費も増えるとなる。消費が増えれば当然生産も増える。この循環が繰り返される。この循環が円滑に持続されるためには、上記した過剰な貨幣が、本当の事は解らないぴったり必要な貨幣量以上の貨幣が必要とされる。生産と消費の間に諸々の流通過程や、下請け企業が入る。これらの中間過程同志もやはり生産と消費の関係にある。産業にはいろいろある。異種産業との提携は当然必要だ。トヨタの自動車生産に必要とされる鋼板は多分新日鉄住金かJFEあたりから買っているのだろう。両社の関係も生産と消費の関係になる。これらのまことに多岐な連鎖の中でイノヴェ-ションはしょっちゅう起こっている。経済あるいはビジネスの世界は生産と消費のからまり・かたまりであり、イノヴェ-ションのからまり・かたまりなのだ。生産と消費の相乗作用が起こるためにはイノヴェ-ションが必要だ。そうであるためには過剰な貨幣の供給は必至だ。生産と消費、雇用、イノヴェ-ションそして貨幣量の間には密接な関係がある。
(5)若干例を挙げよう。新大陸が発見されて、欧州に金銀特に銀が流れ込んだ。価格革命という現象が起こり、価格は上昇した。これが17世紀後半以降のオランダやイギリスの経済発展の背景になっている。日本では戦国末期以後金銀の生産が急増した。世界銀生産量の1/3は日本産の銀だった。この貨幣量増加が、江戸時代の経済発展を支えた。元禄文化はその花だ。人口は幕末までに2倍近くのびた。お隣の中国は日本産銀と日本から輸入した銅が貨幣の素材となり、やはり経済は発展した。人口は明末から清末までに2.5倍から3倍になった。人頭税を廃止してすべて生産量に基づく税制、一条辮法の成立はその結果だ。
(6)生産と消費の交互関係つまり交換の基軸はサ-ヴィスだ。サ-ヴィスとは交換する二者の関係をいかに滑らかに、楽しくするかの技術だ。飾り、誉め、慰め、酔い酔わせ、いちゃつけあう技術だ。交換は悦楽の量を増やそうとする。交換により生じる悦楽は、性関係における悦楽と同質だ。結局交換は生殖に結びつく。当然だろうな。この種の悦楽には限界は無い。
交換、悦楽の交換は単なる現在における二者間の交換ではない。こう断定して人間の個を現在に局限するところが経済学の限界だ。悦楽の交換は、交換する両者の相互の過去をも荷い、反映させる。それは代償であり、自慰であり、復讐であり、達成であり、顕示であり、陶酔であり、勝ち鬨、雄たけびでもある。交換、悦楽の交換は、こういうすべてを、両当事者が荷い、抱く過去から現在に至るすべてを反映させる。交換は快楽の交換だ。快楽は無限に膨張しようとする。だから交換は、経済行為はいささかは媚薬・麻薬に似る。
交換を通じて悦楽は無限なものになる。経済行為において貨幣量は増大しなければならず、物価は上昇しなければならない。逆に言えば不景気は悦楽の量を減らす。不況(depression)は抑鬱状態(depression)なのだ。
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(1)物価とは一体何なのか?考えれば考えるほど解らなくなる。仮に最貧国の一つであるミャンマ-で米価が日本の1/50だったとする。ミャンマ―の一人当たりGDPは日本の1/50だ。もし米価を標準にとれば、ミャンマ-の貨幣の購買力は日本の50倍になり、日本とミャンマ-の生活程度の差はなしになる。この結論は実体としては矛盾だろう。1960年(昭和35年)当時の大学生の生活費は現在の1/15くらいだった。これを標準とすれば現在の物価は1960年当時のそれの15倍になる。では本当に物価が上がったことになるのか?当時と現在では、生活のコモディティ-(財貨、便益くらいに考えておこう)の量が格段に違う。現在ほとんどの人は自前の家を持っている。当時自家用車を所持している家は100軒に1軒もなかった。家電製品の所有量も全く違う。道路は見違えるように整備された。当時の郊外では雨がふればぬかるみだった。提供される医療の質も量も格段に違う。1960年当時の機械による医学検査は、単純レントゲン撮影と、尿検査それにせいぜい赤白の血球数くらいだった。この間平均寿命は約15歳伸びた。(ちなみに1950年の平均寿命は50歳前後)現在動物蛋白摂取に不自由する人はいない。1960年、野党の社会党が掲げた政策の一つが、国民一人当たり牛乳摂取量を一合(180cc)に、ということだった。私が言いたいことは、確かに名目上の生活費(必要とする1万円札の数)は15倍になったかも知れないが、それで購入できるコモディティ-の量も飛躍的に増大したということだ。果たして物価は上がっているのか下がっているのか、決定できない。カレ-ライスや理容の値段を購買力の標準にとれば、物価はあがり、米価を基準にすれば、信じられないことだが、あまり変らず、TVを基準にとれば下がっている。昭和27年だったか始めて発売されたモノクロのTVの価格は約20万円、現在は2万円で買える、もちろんパナカラ-だ。
(2)要は名目の物価ではなく、貨幣量と提供されるコモディティ-の量の関係だ。ここで貨幣とは、単に現金のことだけではない、当座預金、小切手、手形、債権、株式など、譲渡できる価値の表象をすべて含む。話を単純にしてみる。ある閉鎖された経済圏を想定する。一定のコモディティ-と貨幣量があるとする。ここでイノヴェ-ションが起こり、あるAと仮称される新たなアイテム(生産物)が生産されるとする。それは綿織物でも、陶磁器でも、機械でもかまわない。アイテムAが着想されて、生産、販売されるためには、当然資本つまりお金が要る。またアイテムAが購入されるためにもお金がいる。そもそも生産と消費は常に併行して増減するものであり、あるアイテムが生産されるということは、そのアイテムが消費されるということなのだ。もし貨幣量が増大しなければ、Aを生産販売するための資本の獲得は、他の生産に向けられていた部分から強引に引きはがしてくるのだから、相当の抵抗に遭遇しなければならなくなる。つまり利息がものすごく上がる。またAというアイテム生産に向けられる貨幣量はそれまでの流通機構から引き揚げられるのだから、既存の財貨を買うための貨幣は減り、物価は下がる。Aは売れにくい環境と戦わねばならなくなる。Aを購入するためには他のアイテムの購入を減らさなければならないのだから、購入もそう簡単にはいかなくなる。非常に長期的展望に立てば、Aというアイテムがコモディティ-に付加され、コモディティ-総量は増し、貨幣量は変らずだから、物価はその分低下する。そしてAというアイテムがその経済圏で消費の対象としての地位を確立するためには、非常に長い時間が経過しなければならない。イノヴェ-ションはなかなかはかどらない。成長は遅延する。
(3)逆にAというアイテムを生産販売するために、なんらかのからくりで貨幣量が増加したとする。A生産の企業化は容易になり、またその購入も容易になる。貨幣供給量がAの生産販売と購入つまり企業化に必要なだけなら、貨幣の増加とコモディティ-の増加が比例するわけだから、物価は上がらない。Aの生産販売そして購入に必要以上の貨幣が供給されたら、名目上の物価は上がる。インフレだ。貨幣の供給がそううまく調節されるわけではないので、Aの生産が企業化されるためには、真に(実質的に)必要な貨幣量(真に必要な貨幣量など決定できるわけがない、永遠に未知なのだが)以上の貨幣が供給されなければならない。だからイノヴェ-ションが成功するためには、常に実質価値相当以上の、換言すればインフレを引き起こす貨幣量の供給が必要だ。一つのイノヴェ-ションだけなら余分な貨幣量は僅かかも知れないが、イノヴェ-ションは当然複数そして無数に起こる。これらのイノヴェ-ションは生産と消費を通じて連動し相乗しあう。従って余分な貨幣量は幾何級数的に増加する。この増加がなければイノヴェ-ションつまり経済成長は起こらない。換言すれば一定の経済成長を維持するためには、常に余分の貨幣供給が必要になる。この過剰な貨幣供給で維持される価格が名目価格だ。
(4)ではどういう相乗作用が起こるのか?原則は生産と消費の間の相乗作用だ。生産者は同時に消費者だ。もちろん複数の産業を想定してのお話。生産と消費の間に雇用が入る。雇用を介して生産と消費は相乗作用を起こす。生産が増える、雇用が増える、だから消費も増えるとなる。消費が増えれば当然生産も増える。この循環が繰り返される。この循環が円滑に持続されるためには、上記した過剰な貨幣が、本当の事は解らないぴったり必要な貨幣量以上の貨幣が必要とされる。生産と消費の間に諸々の流通過程や、下請け企業が入る。これらの中間過程同志もやはり生産と消費の関係にある。産業にはいろいろある。異種産業との提携は当然必要だ。トヨタの自動車生産に必要とされる鋼板は多分新日鉄住金かJFEあたりから買っているのだろう。両社の関係も生産と消費の関係になる。これらのまことに多岐な連鎖の中でイノヴェ-ションはしょっちゅう起こっている。経済あるいはビジネスの世界は生産と消費のからまり・かたまりであり、イノヴェ-ションのからまり・かたまりなのだ。生産と消費の相乗作用が起こるためにはイノヴェ-ションが必要だ。そうであるためには過剰な貨幣の供給は必至だ。生産と消費、雇用、イノヴェ-ションそして貨幣量の間には密接な関係がある。
(5)若干例を挙げよう。新大陸が発見されて、欧州に金銀特に銀が流れ込んだ。価格革命という現象が起こり、価格は上昇した。これが17世紀後半以降のオランダやイギリスの経済発展の背景になっている。日本では戦国末期以後金銀の生産が急増した。世界銀生産量の1/3は日本産の銀だった。この貨幣量増加が、江戸時代の経済発展を支えた。元禄文化はその花だ。人口は幕末までに2倍近くのびた。お隣の中国は日本産銀と日本から輸入した銅が貨幣の素材となり、やはり経済は発展した。人口は明末から清末までに2.5倍から3倍になった。人頭税を廃止してすべて生産量に基づく税制、一条辮法の成立はその結果だ。
(6)生産と消費の交互関係つまり交換の基軸はサ-ヴィスだ。サ-ヴィスとは交換する二者の関係をいかに滑らかに、楽しくするかの技術だ。飾り、誉め、慰め、酔い酔わせ、いちゃつけあう技術だ。交換は悦楽の量を増やそうとする。交換により生じる悦楽は、性関係における悦楽と同質だ。結局交換は生殖に結びつく。当然だろうな。この種の悦楽には限界は無い。
交換、悦楽の交換は単なる現在における二者間の交換ではない。こう断定して人間の個を現在に局限するところが経済学の限界だ。悦楽の交換は、交換する両者の相互の過去をも荷い、反映させる。それは代償であり、自慰であり、復讐であり、達成であり、顕示であり、陶酔であり、勝ち鬨、雄たけびでもある。交換、悦楽の交換は、こういうすべてを、両当事者が荷い、抱く過去から現在に至るすべてを反映させる。交換は快楽の交換だ。快楽は無限に膨張しようとする。だから交換は、経済行為はいささかは媚薬・麻薬に似る。
交換を通じて悦楽は無限なものになる。経済行為において貨幣量は増大しなければならず、物価は上昇しなければならない。逆に言えば不景気は悦楽の量を減らす。不況(depression)は抑鬱状態(depression)なのだ。
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