体罰は絶対悪か?
周知のように大阪市立桜宮高校のバスケット部員が自殺したことが大きな話題になっている。体罰は良くないことであり、極力避けるべきであるが、この問題の処理に関して、私は大きな疑問を抱く。
体罰は絶対悪であり絶対にしてはならないことなのだろうか?どこまでを体罰と規定するのかが、定かではない。仮に教師が生徒の体または頭を軽く叩いたとする。これは体罰に該当するのか。理屈から言えば体罰になる。2月26日の読売新聞では、一切の身体に触れるような行為は体罰である、と書いてあった。体罰をこのように解釈し、それを絶対悪として禁止してしまえば、教育は成り立つのか?疑問に思えてならない。簡潔に言えば教師は生徒を叱れなくなる。生徒は絶対善ではない。教師を愚弄し、時として暴力をふるい、学業をさぼり、他の生徒を扇動して授業を阻害する生徒はゴマンといる。このような生徒に対して、極めて厳密に体罰を規定し、そしてそれを全面的に禁止すれば、生徒は教師に何をしてもいいことになる。これでは教育は崩壊する。中学や高校の教師がいかに問題生徒への対応に苦慮し、時間外労働を強いられているかを、どれだけの人が理解しているのだろうか。実際この事件以来、一部の学校では生徒が、教師の処罰に対して、体罰や体罰や訴えてやるといって、教師を揶揄し反抗する場面が増えている。
加えてモンスタ-ピアレンツの問題もある。体罰絶対禁止で生徒を甘やかせば、一部の親はそれにつけこんでくるだろう。ある私立高校で教師が、生徒の問題行動(校則違反と授業妨害)を指摘して口頭で注意したところ、生徒は反抗し、その親が学校に対して、人権侵害と教師によるいじめ、を理由にこの教師を担任からはずし解雇するべく圧力をかけた。学校は親の意見に押されて、教師を事実上解雇した。同様のケ-スで、ある公立小学校では、教師が転勤させられた。
教育とは生徒と教師の間の葛藤(摩擦と対立)の過程でもある。一定の時間に登校し出席し、好きとは限らない勉強を強いられ、教室という狭い場所に軟禁されて、教育が行われてゆく。こうして将来を背負う人材が養成されるのだから、この葛藤は不可避必然そして必要不可欠なものだ。教師も生徒もこの葛藤に常にさらされていることは、教育関係者以外の人間も理解しておくべきだ。そして生徒教師間の葛藤は生徒の家庭と親子関係のあり方、ここから出てくる親子関係上の葛藤と密に関連している。モンスタ-ピアレントといわれる人種は、自らの家庭内の問題を教育の現場に転嫁していることが多いのだ。
第二に、問題の教師であるバスケット部顧問の処罰の仕方に疑問がある。懲戒免職だという。原則として懲戒免職は刑事事件に相当する行為に対して、与えられる処罰のはずである。はっきり言って厳しすぎる。教師にも生活がある、今までいろいろ問題はあったのだろうが、一挙に懲戒免とは驚きだ。停職処分にして、後はなんらかの形の学習過程を経験させてもいいのだ。それがダメなら依願退職処分という方法もある。依願退職でも厳しい。懲戒免となるとなおさらだ。その人物の今後の生活を一挙に破壊してしまう。解雇覚悟で生徒に厳しく対する教師がどの程度いるだろうか?今回の懲罰はマスコミの扇動に乗った(あるいは利用した)責任者(具体的には橋下大阪市長)の感情的そして政治的な行為に思えてならない。橋下市長にとっては今回の事件は渡りに船でもあったろう。
体罰と自殺の因果関係が立証されたとある記事に書いてあった。この種の因果関係は絶対に立証できない。推測できるだけだ。自殺という現象に一番頻繁に遭遇するのは、精神科医であろうが、この体験を通して、この種の因果関係判断の難しさは実感している。自殺の背景には多くの因子がある。この事件の場合、生徒と教師の人間関係、練習のさせ方、学校の方針などのみならず、生徒の家庭内での人間関係(親子関係)や本人の素質も関係してくる。練習のさせ方と体罰に問題があったのだろうが、これだけで自殺の原因とは即断できない。因果関係が確定されたと言われた時点で、判定者の過誤と傲慢さを看取せざるをえない。一個の人格が自らの意志で死を選ぶ時、疑問は多いのだ。
懲戒免職の処分を受けた教師は自己の全生活をかけて、処分撤回の提訴をなすべきだ。労組は何をしているのか?世論が怖いのか?私は日教組なんか、大嫌いだが、この際労組は処分された教師を全面的に支援すべきだろう。できないなら何のために労組はあるのか、鼎の軽重が問われる。
私は体罰を容認しているのではない。体罰は極力さけるべきであろう。体育の授業や部活の練習といえども原則的には体罰なしで行えると思う。私個人中学一年生の時、担任の教師から頻回にわたり強い体罰を蒙った。現在でもなぜ殴られなければいけなかったのか解らない。体罰は不快だった。
が、あえて主張する。体罰は絶対悪なのかと!
周知のように大阪市立桜宮高校のバスケット部員が自殺したことが大きな話題になっている。体罰は良くないことであり、極力避けるべきであるが、この問題の処理に関して、私は大きな疑問を抱く。
体罰は絶対悪であり絶対にしてはならないことなのだろうか?どこまでを体罰と規定するのかが、定かではない。仮に教師が生徒の体または頭を軽く叩いたとする。これは体罰に該当するのか。理屈から言えば体罰になる。2月26日の読売新聞では、一切の身体に触れるような行為は体罰である、と書いてあった。体罰をこのように解釈し、それを絶対悪として禁止してしまえば、教育は成り立つのか?疑問に思えてならない。簡潔に言えば教師は生徒を叱れなくなる。生徒は絶対善ではない。教師を愚弄し、時として暴力をふるい、学業をさぼり、他の生徒を扇動して授業を阻害する生徒はゴマンといる。このような生徒に対して、極めて厳密に体罰を規定し、そしてそれを全面的に禁止すれば、生徒は教師に何をしてもいいことになる。これでは教育は崩壊する。中学や高校の教師がいかに問題生徒への対応に苦慮し、時間外労働を強いられているかを、どれだけの人が理解しているのだろうか。実際この事件以来、一部の学校では生徒が、教師の処罰に対して、体罰や体罰や訴えてやるといって、教師を揶揄し反抗する場面が増えている。
加えてモンスタ-ピアレンツの問題もある。体罰絶対禁止で生徒を甘やかせば、一部の親はそれにつけこんでくるだろう。ある私立高校で教師が、生徒の問題行動(校則違反と授業妨害)を指摘して口頭で注意したところ、生徒は反抗し、その親が学校に対して、人権侵害と教師によるいじめ、を理由にこの教師を担任からはずし解雇するべく圧力をかけた。学校は親の意見に押されて、教師を事実上解雇した。同様のケ-スで、ある公立小学校では、教師が転勤させられた。
教育とは生徒と教師の間の葛藤(摩擦と対立)の過程でもある。一定の時間に登校し出席し、好きとは限らない勉強を強いられ、教室という狭い場所に軟禁されて、教育が行われてゆく。こうして将来を背負う人材が養成されるのだから、この葛藤は不可避必然そして必要不可欠なものだ。教師も生徒もこの葛藤に常にさらされていることは、教育関係者以外の人間も理解しておくべきだ。そして生徒教師間の葛藤は生徒の家庭と親子関係のあり方、ここから出てくる親子関係上の葛藤と密に関連している。モンスタ-ピアレントといわれる人種は、自らの家庭内の問題を教育の現場に転嫁していることが多いのだ。
第二に、問題の教師であるバスケット部顧問の処罰の仕方に疑問がある。懲戒免職だという。原則として懲戒免職は刑事事件に相当する行為に対して、与えられる処罰のはずである。はっきり言って厳しすぎる。教師にも生活がある、今までいろいろ問題はあったのだろうが、一挙に懲戒免とは驚きだ。停職処分にして、後はなんらかの形の学習過程を経験させてもいいのだ。それがダメなら依願退職処分という方法もある。依願退職でも厳しい。懲戒免となるとなおさらだ。その人物の今後の生活を一挙に破壊してしまう。解雇覚悟で生徒に厳しく対する教師がどの程度いるだろうか?今回の懲罰はマスコミの扇動に乗った(あるいは利用した)責任者(具体的には橋下大阪市長)の感情的そして政治的な行為に思えてならない。橋下市長にとっては今回の事件は渡りに船でもあったろう。
体罰と自殺の因果関係が立証されたとある記事に書いてあった。この種の因果関係は絶対に立証できない。推測できるだけだ。自殺という現象に一番頻繁に遭遇するのは、精神科医であろうが、この体験を通して、この種の因果関係判断の難しさは実感している。自殺の背景には多くの因子がある。この事件の場合、生徒と教師の人間関係、練習のさせ方、学校の方針などのみならず、生徒の家庭内での人間関係(親子関係)や本人の素質も関係してくる。練習のさせ方と体罰に問題があったのだろうが、これだけで自殺の原因とは即断できない。因果関係が確定されたと言われた時点で、判定者の過誤と傲慢さを看取せざるをえない。一個の人格が自らの意志で死を選ぶ時、疑問は多いのだ。
懲戒免職の処分を受けた教師は自己の全生活をかけて、処分撤回の提訴をなすべきだ。労組は何をしているのか?世論が怖いのか?私は日教組なんか、大嫌いだが、この際労組は処分された教師を全面的に支援すべきだろう。できないなら何のために労組はあるのか、鼎の軽重が問われる。
私は体罰を容認しているのではない。体罰は極力さけるべきであろう。体育の授業や部活の練習といえども原則的には体罰なしで行えると思う。私個人中学一年生の時、担任の教師から頻回にわたり強い体罰を蒙った。現在でもなぜ殴られなければいけなかったのか解らない。体罰は不快だった。
が、あえて主張する。体罰は絶対悪なのかと!