ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

日本人はすでに究極の自由主義を実現したか

2007年03月06日 | 宗教

以前に私のブログに書いた『公明党の民主主義』という記事にコメントをいただきました。そこでは日本の自由と民主主義のかかえる弱点を論じようとしたものですが、それに対して、あきとしさんという方から、日本ではすでに信教の自由をふくめて究極の自由を実現しているのではないかというコメントがありました。こうした問題について、ふだんから興味をもっておられる方は他にもおられるだろうと思い、いただいたコメントの返事を、新たに記事の形でも投稿することにしました。読者の皆さんの意見なども聞かせていただければ幸いです。コメントをいただいた、あきとしさんご本人のアドレスが分からないので、承認はとっていません。記事は次のリンクにあります。お目通しいただければ幸いです。

『公明党の民主主義』

あきとしさん、コメントありがとう。返事が遅くなり申し訳ありません。ブログを見なかったり、コメントに気がつかなかったりして、返事が遅くなることがあります。ただ、エチケットとして必要とされる返事はするつもりですので、こりずに覗いてみてください。あなたのアドレスがわからないので、少し長くなるかもしれませんが、ここに現在の私の考えを書いておこうと思います。

あなたのお考えの趣旨は、「わが国は多神教であって、すでにそれぞれの宗教は矛盾を解消してしまっているから、宗教改革の必要はない、日本はすでに究極の自由主義を実現している」ということだと思います。
あなたの考えの内容は、

①わが国は多神教で、それぞれの宗教の間の矛盾は解消してしている。
②日本は究極の自由主義を実現している。

の二つ命題として取り出すことができると思います。

それに対し、私がこの『公明党の民主主義』の記事で問題にしたかったことは、公明党の斎藤鉄夫政調会長をふくめて日本国民の「自由」についての「意識」の実際の内容はどのようなものかということでした。そして、一応の結論として見出したのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長に典型的にみられるように、日本人の「自由」の意識は、(もし欧米の自由の意識が、出自の本場で、もし、それが普遍的なものであるとすると)、全く違うものになっているというのが、考察の結論でした。ですから、私の結論からは、あきとしさんが仰るような「日本は究極の自由主義を実現している」という見解には同意できないことになります。

その理由としては、次のようなことが言えると思うからです。

まず日本人の「自由」の意識には、キリスト教を信仰することによってもたらされる本来の自由の感覚と意識があるのだろうかという問題です。日本人一般には、キリスト教が本来持つ、神の戒律と人間の原罪との間の根本矛盾の自覚はそれほど鮮明ではないと思います。ですから、その根本矛盾の解消ということから生まれる自由の側面が、日本人の「自由」の意識の中にはないように思います。これは善悪の問題なのではなく、事実としてそうだと思います。

そもそも日本には自由の意識の本来の母胎であると考えられるキリスト教世界を伝統として持っていませんでした。したがって、欧米のキリスト教世界が必然的に到達したのと同じ自由の意識に達するための必然的な背景を日本人は持っていないといえるわけです。ですから日本国民の「自由」についての意識は、この自由の概念の出生地である欧米の本来の自由の意識にくらべれば、そして、西洋人の自由観が普遍的なものであるとすれば、日本人の「自由観」は本来の普遍的な自由の概念に一致していない特殊なものではないか、もっとはっきり言えばゆがんだものではないかということに注意を喚起しようとしたものです。

さらに、日本の多神教の問題ですが、確かに、日本には伝統的に多くの宗教が並存し、民族として、とくに支配的な宗教はもたないのかもしれません。仏教や民族宗教としての神道、それに、擬似宗教としての儒教などがあるかもしれません。そして、近世になって、キリスト教も入って来ました。

日本人の宗教が多神教であり、キリスト教などの一神教とは異なるとは、よく言われますが。私にはまだ多神教と一神教の概念の正確な識別ができません。だから、日本人の宗教意識においては、神々の間の矛盾は克服してしまっているというあなたの考えについて、今のところ、私の考えを述べることはできません。ただ本来の多神教とは、一つの宗教体系の内部に、絶対的な神が存在せず、神々が相対的に存在するような宗教だと思います。ですから、日本人は多くの宗教体系を並存させている多宗教の民族であるとは思いますが、多神教の民族であるのかどうか今のところよくわからないのです。

また、多神教の伝統の世界には、絶対的な人格神は存在しません。それは、神が人間としてのイエスに受肉されて私たちに現われたというキリスト教の独自の存在だと思います。ですから、非キリスト教世界に、人格と人格が対峙する経験はないと思います。そして、プロテスタントの宗教改革とは、直接に「人格」と人格が対峙することが認められることであり、その間に救いの絶対的な要件として教会などの仲介者の存在を必ずしも必要としないことを証明したことであると思います。

本来宗教を信じることによってもたらされる自由を、どの宗教を信じるかの「自由」として、あなたが捉えておられるところにも、あなたの「自由観」が現われていると思います。しかし、それは単なる思想的な、宗教的な無節操とどう違うのでしょうか。そんな疑問をもちました。


自由の問題や、多神教、一神教の問題については、まだ勉強中ですので、今のところ、これぐらいの事しか考えられませんが、ただ、あなたの仰るように、「日本人は、究極の自由主義を実現し、また諸宗教の矛盾を解消してしまっている」などとは、とうてい言えないようには思います。

欧米人の自由観については、以前も一度取り上げたことがありました。参考にしていただければと思います。

 

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