ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

書評  中川八洋『日本核武装の選択』(2)

2006年01月31日 | ニュース・現実評論
 

本書による日本の安全保障論議についての中川氏の批判の核心は、以下にあると思われる。氏は言う。


>「五十年に及ぶ「反核」運動が、日本人を、カルト宗教の呪文「反核」「非核」でどっぷりと洗脳していたのである。かくして、知識人といわれる人ですら、核兵器に関する知見も思考力も小学生未満へと、蛇の足のように退化してしまった。これほどに空恐ろしい、お寒い光景がどこの国にあるだろうか。日本は、独立国家の資格たる自国の安全保障を検討する能力を喪失している。日本人の無教養さは、GHQの占領政策によるのではなく、日本人の資質の生来の低級さが生んだのである」(p147)

「日本が現実に核武装すべきかどうか」という問題については、現在のところ私には判断は下せず保留するが、少なくとも、核武装をはじめ、あらゆる角度から、日本の安全保障問題について国民によって大いに議論することについては何の異論もない。多くの国民によって議論され、さらに研究されるべきであると思う。

日本国の安全保障問題を、単に「反核」「非核」をスローガンとしていたずらに叫ぶのではなく、客観的に科学的に、その核保有と非核のいずれにせよ、その両面から、二面性について日本の独立と安全にとってのそれぞれの意義と限界、長所と短所、国際外交上の有利と不利などについて冷静にまず議論の俎上にのせることが必要であることを、中川氏が主張している点には全く賛成である。これまで日本の安全保障論議については、少なからず、「平和主義」「原水禁」一辺倒で、自由で科学的な議論が行われる背景から遠かったように思われるからである。

狂信的な「平和主義者」の最大の害悪は、何事についても自由な本音で議論する雰囲気を許さず、言論にタブーを生んでいることである。自分の盲信する「正義と平和」を狂信して、正義家ぶって傲慢にならないこと、自分の信念を相対化する謙虚さを失ってしまわないことが大切であると思う。

まず今日の日本に必要なことは、「非核」であれ「反核」であれ、また核武装論であれ、日本の安全保障にとって諸外国との外交交渉において、何がもっとも有効で必要かという、客観的で科学的な自由で活発な議論である。もちろん、人間は単なる動物ではないから、安全至上主義に終始すべきではないことは言うまでもない。私たちが守るべき価値とは何か、守るべき国家の価値とは何か、自由や独立はどういうものかという、議論や教育が、核武装論議の前に必要である。残念ながら、日本の教育ではそうした問題を真剣に取り上げられてこなかった。このことは、日本国民が真に自分たちの民主主義政府をいまだ持ち得ていないことと無関係ではない。

国家の安全は、ただに市民の生命と財産の保全を至上の目的としているのではない。そうではなく、むしろ逆で、市民もまた一国民として、国家の自由と独立のためには、自らの生命と財産とをもって国家のために奉仕すべきものである。そうして、国家の主権を担う困難と責任は、すべての国民が平等に分かちあい責任を果たすべきものである。


国家に対する義務と責任においては、「勝ち組み」も「負け組み」もなく、金持ちも貧乏人もなく、すべての国民が国家に対して平等に奉仕することが義務づけられる。この点で中川氏の核武装論は日本国民の倫理的意識の覚醒にとって何らかの意義をもつかもしれない。ただ、現状においては、国民投票に付したとしても、日本の核武装は現段階においては過半数の賛意を獲得することは難しいと思われる。しかし、そうした大衆の意識とは別に、常に緊急の特殊な事態の発生に備えて、中川氏のような専門的な観点からの多数の識者による、自由な日本の安全保障論議は重要である。


緊急の特殊な事態として、さし当たって外国からの核攻撃からの危険にさらされる可能性としては、やはり対北朝鮮との関係だろう。特に北朝鮮は、昨年の十一月以降六者協議に復帰することを拒否している。最近になってアメリカは北朝鮮に対して、タバコやドル札、麻薬の偽造や輸出に厳しい態度をとっている。また。マネーロンダリングでアメリカが北朝鮮に対して金融制裁などで示している厳しい態度は、北朝鮮の感情的な暴発を招く可能性はある。


また、大量破壊兵器の武器輸出で、北朝鮮船籍の船がアメリカ軍の臨検を受けたりした場合に、突発的に北朝鮮が在韓米軍や在日米軍に対して、さらにはソウルや東京を攻撃してくる可能性がある。

その他に緊急性のあるのは、台湾の独立問題に絡んで、中国が独立阻止のために台湾に武力攻撃を加える可能性である。そして、日本との間には東シナ海で領土問題や天然資源問題で武力抗争の発生する可能性がある。その際に、外交交渉上戦略的に必要な有力な背景として、実際に核兵器を使用するかはとにかく、核武装の意義を研究する価値はある。その際に、この中川氏の核武装論も一つの参考意見にはなる。

しかし、日本にとって根本的に要請されることは、今の段階においては、中川氏の主張するような核武装にあるのではなく、まともな民主国家としての日本の再建である。そのためには、政府の質と国民の意識の根本的な変革が必要とされる。現在のような安全保障や外交交渉で示されているような主権意識のぼやけた政府と国民とでは話にもならない。日本国内に、ホリエモン氏のような国家意識の希薄な人間を生むようでは話にもならないのである。


その改造には日本を国家として倫理的に再建することが急務である。そのために、中川氏のように核武装についての論議の喚起も一つの手段としては可能性としてはありうるが、しかし、現在の国際情勢から考えて、その選択は、さしあたって現実的ではないと思われる。周辺諸国に不必要な警戒感を生むだろう。

それよりも、効果的で現実的な方策は、国民の間に兵役の義務を復活させることである。その対費用効果において核武装よりもはるかに優れている。また、市民が避難し数ヶ月待機できる、巨大な地下避難基地の建設なども当面の緊急の課題とすべきかもしれない。都市景観の整備や、公共的な事業として経済政策としても意義をもつのではないだろうか。

万が一日本に核武装の必要があるとすれば、核兵器の保有については、イスラエル方式を採用する。イスラエル方式とは、北朝鮮のように自国の核保有を諸外国に宣言をすることはしないが、その保有の実力は諸外国には「公然の秘密」にしておくことである。少なくとも、緊急時には一ヶ月以内に核配備を実現させうる態勢を確立しておくことである。

いずれにせよ、その前提は何よりも、日本国民一人一人がより成熟した民主国家の成員になることである。民主主義の精神と制度について高度な自覚を日本国民一人一人が体得しないまま――先の大阪市長選の投票率を見よ――現状で、核武装をすることは、危険な玩具を子供に与えるようなものかもしれない。日本の民主主義はまだ、その程度に疑念を残している。中川氏の核武装論に危惧を覚えるとすれば、この点である。杞憂であれば幸いである。

(ロシアや中国などの東アジア諸国とアメリカの戦力の具体的な数値にもとづく批評は、私自身の現在の情報の不足、知見の不足によって行えなかった。引き続き検討課題としておきたいと思う。)


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