marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

解読注目! 善い宇宙人の勧め、その究極の1点:世界のベストセラーを読む(952回)

2022-07-19 04:05:32 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 人という生き物はいかなるものなりしや! 神がその霊を注ぎ、人という生き物になりし、天上のその霊に繋がりおれと言い、そのことを忘れずして生きぬけと仰せられる。生きる者と死ぬる者という意味は、この地上の肉体のことにあらずして、その注がれし霊に繋がりおる肉体の生死であるということなり。地上の生涯を終わるも、その人生で繋がりおることを望み信じたが故に肉が消滅してもその霊は永遠の世界に迎えられるべしと。

使徒信条に唱えられし「生きる者と死ぬる者とを裁き給わん」とは、この地上に生を受け、神が注がれし永遠の霊につながれ生きる者、霊が注がれしも肉体が消滅すれば、その霊も消滅する者を死ぬる者の由なり。神はひとりも滅びしことを望み給わず。

「信ずる者は救われる」という「救われる」という意味は、その永遠の命にあずかるということ。それは又、一つの天上界の開示であって、今生において汲々とすることではまったくなく、逆のことである。狭き門とは、太いパイプを狭くすることではなく、その流れ来る門をより精査しエッセンスを絞る門を言い、それが濃密な恵みをたゆまなく湧きいでる門をいうのである。したがって、より広い視野に導かれるのである。

我慢することではない。真の真理である。真理はあなた方を自由するであろうと。天地創造から地上の歴史、彼が誕生し知らしめし人の救済、そして終末。地上のあらゆる物事は過行くが、我の言葉は永遠に滅びゆくことなしと。

彼が天上に帰った今となっては、彼が今も存在するとすれば、それは何かということになろうが、彼自身が話して帰ったのだから上からの霊がそうなのである。「私が見えなくなっても代わりに私の霊をつかわす。それがすべての教えてくれるであろう。」僕らは、文字のキリストに代わり、生きている彼の霊を強く求むることである。

父の霊、神の霊とは、これなり。天地創造、霊を吹き込まれて人という生き物になり、それを理解していたものはその霊から離れず、又、真理を開示され理解することにより新たに霊を吹き込まれる新生するのである。そして、永遠に生きる。

よって、これからの時代、キリストという方の遣わしし、その霊(聖霊)に注目すべし。この霊は、彼を知らない人々にも関与するこの地上に介入すべく潔い永遠の霊であるからである。神は宇宙万物の天変地異、あらゆる悲惨、宇宙人までもが、霊としての人に語り掛ける。無論、死滅に向かわしめる悪い霊も行き場なくやっきとなるであろうが。全世界の多くの人がそのことを理解し始めるのである。

この時代、あらゆることにおいて人類に警告を発しておられるということ。

*******古きキリストを脱ぎ捨て、新しき霊なるキリストを着るべし、と。 ********

考えてもみたまえ。紀元後65年ころにマルコによる福音書、イエスの生涯の物語が初めて文字として著されたのである。彼が父の元へ去ってからおよそ30年後のことだ。イエスが私が遣わすと言われた霊(聖霊)が満ち満ちていた時代。つまり、福音書が文字として書かれていなかったその時代の期間、実は新約聖書にはイエスのことと、その後の聖霊が下りし、もっとも霊的モチベーションが高まった時代のことが思い出として描かれているのである。しかし、多くの体験、見聞きした人が現存していたのである。あの示された霊は今はいないのだろうか。No!である。

その霊は、全世界に出て行って、私のことを広めよと言われた原動力となった。僕らは書かれた彼の文字ではなく、あの時代に、そして今も生きる降されしその聖霊様にとでもいうおか、従うべきであろう。他の霊なる肉のこの地上の言葉 書物であろうと、組織であろうと、人の話であろうと・・・は参考にのみとすべきことを心がけよ、ということになろうか。

今の時代、気がつく人には一人ひとりに直接語り掛けられるであろう。真理はあなた方を自由にするのだから。


解読要注意! 悪魔の戦術:世界のベストセラーを読む(951回)

2022-07-17 05:31:19 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  家が破産する程の多額の献金??  安倍元首相の銃撃犯人の思い込み? 旧統一教会という宗教団体?

この時代になってそもそもこの日本でテロが公然と行われることに、そらそら悪魔はいるだろうと、現れ始めているんだよ!と考えさせられた。事件が解明されるにつれて学生時代の思いが少しフィードバックした。まだ、うろついてたんか・・・コラ! 広告塔で芸能人や政治家を広告塔にするな(票が集まるとしての宗教を利用するのは痛い目にあうぞ)。歌手の桜田淳子さんはどうしてんのかな、こういう広告塔は実にいい思いだけをさせられるのであるからな・・・

J・F・ケネディーがテキサスにおいて銃弾に倒れたのは、日本に戻られ東北学院におられた旧約聖書学の浅見定雄先生が、当時ハーバード大学に学ばれていた時だった。その時、大事件だと思いきや、当時の同友に驚きを語ったところ、以外や彼らは、さもありなんと冷静だったことに、神の学問を学ばんとする者は、地上のあれこれに冷静たりうるものなのかと思わされたことを昔、読んだのを思い出した。日本では鬼だが、聖書を学ぶ彼らは悪魔を知っていたからねぇ。地上は天地創造から天使と悪魔の戦場の舞台でもあった、これからもそうであろうことを。

日本に戻られて、先生はその後、文鮮明の統一教会で困っている人々、若者のために立ち上がって、その悪魔の撃退に貢献し当時、多くの家庭が救われたのだった。その著作も多く読まれたと思う。昔、僕のいるこんな地方でも駅前で花を買ってください、という統一原理の若者がいたな。若者の純真さに表立って内面の自己肯定できない空白時代、モラトリアムの空白時代に、自己を見出す、しかも純粋に普遍の神に奉仕するというどこまでも自己肯定を貫き通せるというその砂上の仮説に自己を設定できる、なぜなら、イエスは十字架に掛かりたもうたのだからと。個人の内は、勝手だからどう思うと構わない、しかし、他人をしかも親族を巻き込むというのは、実に悪魔は悲劇を地上にもたらす為にいかなる戦術をも用いる。神の言葉も用いる。

聖書を読むとイエス自身が、そのまま受け取ると(同じ地平で読むと)矛盾して語っていると読み取れる言葉がままある。悪魔はその間隙をぬって入り込むのである。だから、注意なのであるが、悪魔もイエスに書かれた神の言葉を用いて、駆け引きしたのである。よって、イエスの言葉をそのまま受け取らず霊的次元で解釈しないと悪魔の思うつぼとなる。イエスの戦いはまさにそのことだったのだから。天地創造の父なる神の霊の地上への介入は、善なる宇宙人のこの地上での働き人を増殖することにある、それは伝道と呼ばれる仕組みであったが、ここにも悪魔は介入する。

多くの若者が、神の真理を知りたいとの知的雰囲気によって、まずは寝食を共にし、優しく丁寧に言葉をかけられ、所謂、いい思いにさせられて、文鮮明の書かれたと言われる「原理講論」なるものを学ばされる。陰陽五行のような今から思えばとってつけたような理論的解明の内容である。若者特有の真理追究の思いに、的を合わせてこの世の総覧を開示するような知識の羅列は、魅了されるような錯覚を思えるのは、分からなくもない。まま、知的雰囲気に酔わせたあと、家庭料理でもてなし、気分的によいしょさせる。それに、集団結婚式などは異性を相手にする、これまた生き物としての願望が霊に結びつく神の奥義とも呼ばれる儀式に参加でもしようなら、よほどのことが無い限り抜け出すのは困難となる。*****

◆「そこで(神殿が破壊されることをイエスが預言して語ったあと)彼ら(弟子達)はイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ。『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」(ルカ21:7-8)*****

キリストはあからさまに悪魔という言葉を使い、地上にうろつき、人の命を抹消するにその思い混みをさせる悪魔という言葉を聖書で僕らは初めて目にする。悪魔は人殺しであるとはっきり述べる。当時、先祖伝来の旧約の伝統に満ち満ちてはいたのだが、大衆心理においては似たようなものでイエスのこの時から、律法・道徳、本来の真の救済、その肉体の行動所作から、神は人に霊を吹き込まれた真の救済(永遠の命に導くべく)本来のシステムを語るべく、人を創造し霊を吹き込んだその永遠につながる霊なる救済の時代に入ったのだった。

稚拙に書けば、悪い宇宙人は天地創造来から下界におちて存在して来たのである。今も悪魔はうろうろしているのである。十字架に掛かりしイエスは、天の父に向かいこう述べる「父よ許したまえ、彼らは自分で何をしているのか分からないのです」と。事実としての言葉であって、これは決して民衆を憐れむ言葉ではなかった。悪霊に操作され、気がつかない民衆、彼らは何をしているか分からないのです、と。

イエスが十字架上で見えていたのは、十字架につけろと騒ぎ立て先導し民衆を煽り立てる悪魔が多数、その間をうろついて見えていたことであろう。そのことを知らずに彼らは叫んでいるのであると。愛せし肉なる人、それに強い思い込みを吹き込ませ場の雰囲気に飲み込ませてしまう悪い宇宙人たち。いけいけ、どんどん、と。時代が進み、自然現象や戦争や今回のような事態にも、自分たちは何をしているのか分からないのです、と。時代が進んで終末預言があからさまになりつつあるような世界情勢において、悪魔は行き場をなくしつつあるということだろう。

心にひっかかるあのときの民衆のその思考空白は、イエスにつき従った多くの民衆が、その真意は当時食するパンだけだけであったとしても何故、イエスを十字架につけろ、と騒ぎ立てる元気があったのだろうかということだ。いな、今でも思い込みによって自分が何をしているのか分からないという事件が起こるのは、だからというか「悪魔はいる」ということなのだが。これは、実に高度で広大な霊の次元での黒子達のシナリヲである。

キリスト者は、人という介在物に依存しない。よって、人の数ほどある説教や神学書や解説や証集などは、それを参考にはするだろうが、だからああだ、こうだはあっても、それに依存することは発生しない。あるのは一書、聖書であるが、最後は人が書いたそれでもない。他人ではなく、最後は自分であること、この思いを積極的に持つ。さらにその自分にも解析が入る。「自分を捨てよ」というこれも紛らわしいイエスの言葉もあるけれど、水平思考で読み解く言葉ではない。その自分の中にも捨てたい自分もあろうことを、誰でもが知っているではないか。イエスの矛盾したような言葉は、宗教次元での言葉、霊的次元での言葉が入り組んでいるので自己の深い次元での潜在意識での語りかけを聞くこと。

イエスは、天に戻られる時、世界に出て行き、弟子にしなさいと言われたのであった。信者にしなさい、ではなかったのだな。つまり、地上に於いては人を媒体とせざるを得ないであろうが、それは司祭や牧師、様々な書物であろうが、究極は自分と神の霊(聖霊)との会話であって、結論は地上におけるそういう者のいうことは聞いては鵜呑みにしてはいけない、神の言葉と受ける自分の会話の間に一切、介在物を入れてはいけないということであろうな。

まさにここに悪魔は介入しないか、まさにここなのであるな。読むと自己撞着になるぜ。イエスと言われる彼が、弟子にいうのはいいとして、彼がいないこの地上で誰が、そう言うのだ地上の誰かれ、人、組織、政治家、芸能人、アイドル、司祭、牧師・・・では、ない。よく考えて見なくてはいけない。だから宗教は面倒というなかれ、世界は天地創造以来、ひとつの大きな終点を目指して進展して来たのであることは、明白なことで、失われゆく人はそれでいいのだろうが、失われざる人々は、悪魔の戦略に対して戦わねばならないのである。

次の一連の言葉は、素直に読むと危ない文章である。2000年前のあのとき、彼が弟子に言った言葉なのであって真意は何を言わんとしているのかを探るべきであろう。誰が、いつ、どういう状況の下で、主語は、誰に・・・何故。創造されし我々には、誰が語るのか、天使か、悪魔か、聖霊か、悪霊か・・・*****

◆「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マタイ19:16-30)

◆「はっきり言っておく。わたしの為、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29-31)

◆「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は誰でも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(ルカ18:29-30)*****

イエスが語ったは実に霊的次元のことなのである。実に悪魔は、巧妙にこの言葉を用いて来たのだった。・・・


<Ⅹ>黒子の親分現る 気がつく人は気がついている・・・親愛なるXへ

2022-07-11 14:01:17 | #日記#宗教#思想・哲学#宗教#手紙#小説

 写真の500円玉については末尾に少し。

知り合いから、早速と言えばいいいか、先のブログの掲載写真に疑義が呈された。あんたは、プロテスタントいいながら、写真はスペインだかの田舎で巡礼の日にその日になれば担ぎ出され、この人の祭りだとか言われて普段見慣れないところから引き釣り回される、マリアだかの像ではないのか、2回も掲載して少しキモいんではないのか、信者さんには大変申し訳何のだがねぇ、と。・・・

その通り、プロテスタントは目に見えるシンボルは作らないから、キモイと言えばキモイ(気持ち悪いという意味です!)。少なくとも僕の信条は、これはプロテスタントでもかなり難しいことなのだが、神のイメージとして対象物を作らないし、拝まないということになっている。プロテスタントは、キリストであって、マリアではない。西欧でキリスト教といえども、実際、ギクシャクするのは「キリストの名によって」を「マリアの名によって」とかで、祈るからではないのかと思ったりした。

なぜ、カトリックのシンボル化を取り上げるのかと言えば、その時代になって神の御存在をどのように異邦人にも(つまり、万物を創造し人をも造りたもうたという存在の、そのことさえも知らない人々へ)ご自身の存在「私は生きて、すべてはわたしの手の中にあるぞ!」と人類に知らしめるに、神も背に腹は代えられぬという時代になって、いかような手段を用いようとも人類の救済に介入しなくてはならない時代に入ったからと考えてしまうのである。

イエスという神人も終末には、予兆に疫病は起こる、飢饉が起こる、地震が起こる、戦争も起こる、と預言されてているから。2000年以上も前からの預言となるが、1日は千一日のごとしとあるから、人世界の時間など無きに等しいと思いなさい、とのことなのであろう。そういうことはいつの時代もある・・・という事ではなく、昨今、とみに数値的にも顕著に顕わになってきているという中にあって、先のブログに書いたエフェソ信徒への手紙に「天地創造の前からあなたたちを選び・・・」とあるように、肉的遺伝子を引き受けつつも、よくも悪しくも選ばれし人々は、永遠の世界に帰還すべく、この時代になってあらゆる方法によってかそのことを知らしめられるのであろう。

自然現象は、宗教と無関係というなかれ。天地を創造した神は、その最終として人を創造されたのであった。救済の為に地上に送られた独り子イエスは、確かにその自然をも支配なさるという記事が聖書に書かれている。枯れたイチジクの木の教訓(マルコ11:20~)、又、突風を静める話(マルコ4:35~)など、「この方は一体どういう方なのか」と弟子達が驚いたことが書かれている。万物を創造され、人をも創造され、「わたしを見たのは、父を見たのである」とイエスは言われたとあるし、天地創造以前にその創造主なる父と共におられたというその独り子であるとするなら、自然をコントロールされるのも何ら理屈的には不思議ではない、ということになる。もし、ここからも哲学や思想、人の世界の実態としての有り様を考察せんとするなら、ぼんやりとした観念的にではない、自己の弱さへの逃避でもない、ひとりひとり自分なりの聖書の読み方が、示されてくるという訳である。これを読まれて何かを感ずる方があれば、それはあなたも天地創造の前から選ばれし人なのかもしれません。どうぞ、それを追求されますように・・・。

天変地異、いつの時代もそんなもんだ、では済まされない時代になった。世界の裏側の片隅での事件が瞬時に共有化され、知ることができるようになったのだから・・・。イエスが再臨のとき、世界の人々がそのことを知るであろうとの預言通り、準備がなされてきたという訳である。心の事象としてではなく、奇跡とされるか、物理現象として視覚、聴覚に訴えられ、世界の人が分かるということであろう。

20世紀後半以降、神の御存在を如何なる方法で大衆に示されるのか、神が創造され最高傑作として愛された人が消滅していくことに、背に腹は代えられない、そんな神の思いなのではないだろうか。マリアの顕現しかり、宇宙人やUFOなども、この際、ぐ~うっと高い意識に持ち上げて如何なる方法にでも存在に気がつかせようとしておられるのではなかろうか、などと思ってしまう。目に見える現象とともに、内面的に気がつき始めた人には、それを普段の生活において感じているのではなかろうか。

ブログでここずーっと黒子なんぞと語ってきたが、話がややこしくなるが、もっと稚拙にいえば、だから良い宇宙人とか悪い宇宙人とかになってしまうのだが、彼らは目には見えない。見えるとしても人間そのものに同期して、気が付かないようになってしまっている。当の本人も気が付かないようになっているからなのだな。彼らは表舞台にはでてこないのだが、いつも舞台設計と出演者を創造せし、神は終末までのストーリーとをすでにお持ちであり、いつも演出を兼ねているわけである。

あれこれと書くのは、一人の(つまりあなたの)生命の無意識上に関わる課題だからである。けれど、これが限界なのは、言葉で意識していくこと自体が、すでにかなりの制限を受けているからなのだ。屁理屈こね、納得する文字や、言葉ではない、只管打坐である、といった道元禅師や、所作するときにいちいち、頭が頭は何ぞやなどと考えはしまい、といった臨済のような、これを実存と言うのかはどうだかは、いずれ僕らは存在し、生存そのものに深い意味がある、故にありのまま体現せよ、そして生涯を送れといった誰でもが実は、肉体を持ち命ある限りは逃れられない、その自分という存在に、今も生きている実感といおうか、そのことに深い意味を見いだし生き抜くことだ。

黒子は、ご存知のように色が黒いという実態のことではなく、その働き、浄瑠璃で人形の手足を動かす人は、あからさまに黒い頭巾はかぶらないが、そのいちいちの動作をさせる者ではなく、主体的には命あるそのひとりの人間、意志もあり、意欲もあり、という生き物ではあるが、ここでの黒子は、それらの所作、見えぬ意欲、思考に個々人に与えている背後の「能」に現れるまさに黒子のイメージでなのである。しかし、能の黒子は守護霊のようなものと言っていいかもしれない。しかし、ぼんやりしたものではなく実に明瞭に自己の中に確立されていくものがあるのである。

それは不完全な人の言葉なる信条なる意識のようなものではなくラジオで言えば、チューニングする、波長を精度良く厳密に合わせる基盤のようなものがあることを感ずるのである。絶えず祈れ、聖霊を受けよ、全黒子の指令者、善なる霊に繋がっておれ!と。その自分の「核」のCPUなる部分の働きを確認し、受信する日々が、絶えず祈れということになるのだろうか。

黒子の親分現る などという表題だが、内容は至って真面目である。僕が黒子と言って来たのは、今読む皆さんの生存にも関わっている事だからとあえて書こう。悪い黒子の集団、悪い宇宙人の集団があからさまに姿を人を通して現わし始めたからである。

さて、地上に使わされた良い黒子について、この国にその一つ古代からのシンボルがある500円玉の写真を掲載した。この花が三つ寄り添う桐の紋だが、この国で政治家が記者会見を行うとき、外人記者クラブなどで演台の前に掲げられる紋でもあるのをご存じだろう。誰でもが知っているであろう織田信長の肖像画、その羽織の紋付きにこれが付いている。豊臣秀吉にこれを啓示された絵が見られる。長期政権であれば、江戸徳川の三つ葉の葵のご紋ということのはずだが・・・。家康は採用しなかったには訳がある。

次回の大河ドラマは、徳川家康である。彼は、関東に東の京として江戸を造営し幕府を開いた。家康は、京都の束縛を離れ、あえてこの桐の紋を用いず存在は知りつつも過去のものとし、時代は新しくなると自らの三つ葉葵の紋を使用したのであった。所謂、この黒子バックヤードの桐紋の束縛から、もっと政治は解放されねばならないと思ったのである。関東には古代から黒子としてDNAをもつ武士集団として姿を現わす集団がいたからなのである。それは関東から東北の広い領域に及んでいたのだったから。

事実、この国の学校で習う歴史からは、学びが少ないが、古代隣国大陸からの交易は、多くの渡来人、帰化人が日本海を内海としてこの国に来ていたのである。15世紀のイタリアのサンセウントラトの「東洋地図」には、ミヤコと記される(京都)と北の日本海側にはAGUDA(秋田)以外の記載がないことが早くから知られていたのである。古代以来の伝統をもつ秋田湊が中世にはすでに国際的に西欧でも知られていたのである。

日本においてこういう時代、歴史が続いてきたが、世界においても闇の黒子集団エージェントは歴史を動かして来ているのである。今も!・・・