marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ゴーン被告の出国協力者らかトルコ通信社、映像を公開

2020-01-17 21:14:19 | 日記
 
 
◆僕のブログ 543回、545回、547回、611回 1954年生まれのこの人のことに少しふれました。ドラマチックでしょ、はたから見ていて・・・。キリスト教のマロン派という教派に属しているようです。公には聞いたことがないのであの地域にあった独特の教派なのか、今度調べてみようと思う。この年に生まれた人は、外にも内にもドラマチックな人生を送るように定められているようです。ブログにも書きましたが、生まれたこの年は世界中に聖母マリアが顕現された年なのですから、運命ごときものというか、「事実は小説より奇なり」になぞらえれば、「事実は映画より奇なり」となりますね。スパイ映画です。世界中へのネットワークとお金がたんまりあれば、いくらでも善しにつけ悪しきにつけ自己肯定への自由というポートに穴が開けられるということです。それでドラマは、作れるが、その自己肯定は次の世界では「空」、意味のないものになりますけれど。キリスト教の天地創造の神は、アダムとエバに「善悪を知る木」の実を食べてはいけないと言ったのでした。善悪の判断基準、僕らはすぐ決着つけようとするけれど彼がキリストを信じているとすれば、この地上での今後の経緯を見ていたいと思います。多くの暗示があると思います。企業が収益を上げるという課題に対して、彼の手法は多大な影響を与えたと思ってます。僕の居た会社も近い手法を採用。ただ、あまりにも多大な報酬はこの国にはなじまない。不祥事はそのことに忖度しすぎた結果のようにも思われる。・・・

世界のベストセラーを読む(616回)  東京にまた、散歩に行って来た・・・「人と言う生き物の組織のありうる姿(終わりにします)」

2020-01-16 08:55:36 | 日記

※先、ブログの間、東京にまた、散歩に行ってきました。よい天気、今年の正月は雪がなくて、それでも田舎からでて暑いくらい。何年ぶりだろう、電車の中の混雑を体験した。東京駅ホームに流れるメロディーが変わったな、あれは、ワーグナーの楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の第1幕への前奏曲のイントロではないか・・・。僕はこの曲好きだけど、オリンピックで海外から人を受け入れにはこの曲は替えた方がいいかも。今は気にされないだろうけれどヒットラーがワーグナーが好きだった、あの曲の人の気持ちを鼓舞するような高揚をもたらすリフレイン・・・。 

◆先までのブログは何の事やらかと思われるだろう。第一に世界のベストセラーは事実、THE BOOKと言われる聖書である(世界はそれで動いている)。少なくとも欧米は、この宗教性(といっても人知では到底、計り知れない、つまり大脳資質を通しての言語化以上のものが関わっていると思考が一応規定されている)ものが基底にあるので、その言語化以前に宗教化された思考基板がすでにひかれているわけで、つまり人が言葉を発し、文字化した時点でその思考の基が、是非を問わず、人が創造者により創られたが故にこの地上においては、「正しいと思われる見解」も「間違っていた(あとで思えば)見解」も、その時期、その時代にふさわしい(例えそれが、戦争という悲劇となっても)地上の人の動向であったと見なされる訳で、総じて後に鳥瞰的思考にさらには、霊的高みに登り示唆(啓示による教えと言えばいいいか、経時的流れの中でと言えばいいか)を受ければ、「天上界でのこの世を善きに創造された生きて働いておられる唯一の天地万物を支配される神」と、「神に反逆した天における天使の長で堕天使となった悪魔(悪霊)」との戦いが、この地上で繰り広げられているのではないだろうか・・・ということが、体験的に思わされてくるのである。事実、世界の動きをみれば、イエスの再臨は近いのではないかというような、抹香くさい話も笑い事ではないようにも感じている昨今なのである。

◆使徒パウロは、東には行かず(使徒言行録にそれは「キリストの霊に遮られた」と書かれている。東へ福音を伝えるという当初のパウロの思いは、旧約の民がキリスト以前に東方へ離散していたからなのであり、使徒トマスは復活のイエスに出会い(離散した)ユダヤ人に待ち望んでいた聖書(旧約)に著されていたメシアの到来を伝えに東に向かった。そしてインドで殉教した。中国まで行ったといわれる。日本古代にはすでに多くのキリスト者が中国にいたのである。)西の方、哲学の国、マケドニア(ギリシャ哲学の発祥)、ローマ(すべての道はローマに続くと言われた、ローマ法という法律のあった国)に向かった。つまりパウロが西へ向かわしめられたのは、考えれば、これも神の摂理なのであるといことになるが思弁と社会の成り立ちを規定する法令に雄弁で優秀なパウロにその任を与え異邦人であろうともこの地上の被創造物であり、神の似姿に創造されたどのような人へも今や福音が示されたから、受け入れるように(人、自らの言葉と意思により自覚せよとの啓示があった)との使命に燃えたのだったことが理解される。 (クリックで拡大 高校「世界史」教科書です。空海はキリスト教に触れて大いに影響を受けた。高野山大学では聖書も学ぶ)

◆人は与えられた自分の言葉で神の言葉を受け取り、責任を果たすべく使命があるということなのであった。例えば、高校の世界史の教科書を見よ。なぜ、より古い時代のユーラシア大陸の時代から書かれておらず、中近東からヨーロッパの歴史(先史から、すぐに古代オリエントへ)から書かれているのだろうか。日本のあるいはどこぞの国でもいいのだが、例えば、歴史学者であられ多大な日本の古来の歴史に示唆を与えた梅原猛でもいい。右翼的思想家の日本の誰ぞでもいいのですが、言葉で他の人に理解してもらうためにはと言ったらいいか、神の言葉の認識を図るべく、と言ったらいいか、反目するにおいても必ず西欧哲学思考方法を経由しているし、その影響は計り知れない。人の使う、他人に意識を述べ伝えるというその言葉のありように、西欧の(キリストの教えの影響下にある)思考手段をかならず通っているのである。言葉の勝利なのである

◆この国においても、右翼と言われる方が働くからなのか盲目になってはいるが、実は古代の自分達が守ってきた歴史の根源は、地球という星を普遍的に意識する以前から地球規模でグローバルに人々の交流があり行き来して、まさにこの国自体がその終着点のようにもなっていたのであるということに気づかされるであろうと思う。そこで、先のブログなのです。もやもや書いて、終わりにしか触りを書いていないが、しかし、この国においては!なのである。この国の思想の基底をつくってきたのは、「記紀」以前からの多くの言語化してはいけないと封じられた(記紀や風土記や新撰姓氏録などでもいいけれど、それらを著さんとした動機となった当時の人々の受けた啓示というものは、決して文字とはなっていない。なれば怪しげな宗教性になるものだが、現に実に言語化されない宗教的なもので政治は行われていた。)背後にいた、非常に優れた多くの渡来人たちであったろうと思わされて来たのである。

◆彼らの国造りのありかたが、彼らの西の彼方から時代を経て、国々に同期し、人の群れのこの国のありかたの是非を体験をとおして形成すべく、太陽の昇る東へとひたすら歩みを続け、この日本に到達したということなのであった。ここまで、なんと漠然とした書きようであるのだが・・・。だいぶ仰々しい「人と言う生き物の組織のあり得る姿」の表題も今回で終了するけれど、僕の中では考え続けるテーマなのです。振り返ってみれば、キリスト教が基底の欧米の真摯な思想家は、すべてが「神が創造されし人とはいかなるものか」という課題に収斂しているのである。僕は今、フリードリヒ・ハイエクという思想家に傾倒しはじめた。・・・Ω 


世界のベストセラーを読む(615回) 人という生き物の組織のありうる姿(その2)

2020-01-04 12:24:21 | 日記

歳を重ねた宗教オタクはこの年度替わりにこんなことを思わされてきた。

◆ONE TEAM が言われたフィジカルなラグビー。これが世界の政治について、まさに物理的な力に対する覇権についてなのだが、人の命がその手段となっているとすれば、どうしたものだろう。この地上の3次元の肉における次元の話である。スポーツが尊ばれるのは、一応嘘が付けない結果として現れ、個人の朽ちていく肉体の制限の拡張に限界を発揮した、あるいは、その勝利が国威を盛り上げることがあるからだろうと(ロシアの国がらみにドーピングなどは論外として)。「よく、やったなー! 感激だ」と思われるのは、この次元の中で、国の対抗という競技の中で代表としてその優位性が証明されるという大衆化された淘汰意識が背景にあってのことだろう。世界には、隠れたもっと体力的に限っては優れた人がいるに違いない。動物としての生存の基本、優劣なる遺伝子にあるごとく生きることへの淘汰性。ただ、生き物としては淘汰性などはなく、ただ、その存在のシステムに乗っかっている命を保っているものはあるかもしれないが。

◆この正月、同時代の知人より長電話があり、人の生きざまなどを考えた。やはり人には、それぞれにご先祖様からの魂からの(霊界からのと言ったらいいいか)の先導があるのではないかと思わされているのである。少し変わった苗字の奴なので。苗字は明治2年の法令らしいが、それまでのご先祖に関連した、例えば住む場所や仕事や謂れが苗字に係わってつけられたものが多いから。どこを転々としていたご先祖などかを調べるとなるほどな、だからお前も・・・というのが当たらずとも推測できそうなことが理解できて来た。彼は北京大学で中国を習い、北、南をあちらこちら、その後、ロンドンのオリンピックでなでしこジャパンを応援し、その後イギリスの南と北の町にホームスティなどを行い、ドイツにも行き、スペインにも滞在した。ヨーロッパでもやはり、スペインなどのラテン系はやはり人種的(生き物として)に緩い(つまり、几帳面ではなく、かなりアバウトということ)だそうで気質がやはり日本人にはあわんと。総じて、日本人種は優秀である、という結論らしい。お前、ぜひ本でもだしたらいいよ、と僕はいつも言っているのだが。

この国の文字に現れない歴史を考えてみると、古代のこの国の成り立ちに当初の争い、淘汰性はあったが、その後のシステムを形成してきた人々がいたのであると思われてきたのである。人も動物の集まりとして命に係わるシンボライズを頂点におき、国をひとりの人のように家族的イメージ的に形成する。この国においては天皇制(政治、イデオロギーに係わらないあくまでも象徴シンボルとして)。神道は天皇行事にあるから当然としても、仏教もしかり、キリスト教はかなり捩れて居るが(この捩れがこの国に興ったのはまさに光を装ったサタンは生きていた、否、生きていることの現出なのであろうと)、古代の歴史が学問的に露わになってきた昨今、そのシステムを作ってきたのは実は、少ないこの国の真のキリスト者である古代神道をも形成したもの達なのであると・・・。


世界のベストセラーを読む(614回) 人という生き物の組織のありうる姿(その1)

2020-01-03 20:31:13 | 日記

君たちはどうして知ろうとしないのか。知るということはどういうことなのか、考えてみたことがあるか? 理解するということ、分かったということはどういうことなのかと考えたことがあるか、と。

◆普段に動物としての僕らは、まず、ストレスの解消を望む肉体であるし、排除しようとする生き物ではある。さらには、そのことに自分を高めようとする事柄であることを認めた者は、それを自分の事として意味を知り消化しようと努めるに違いなく、そうでなければ、それは自分に無関係な無駄なものとして廃棄するだけのことなのだ。人という生き物はそんなものなのだ。土塊に霊を吹き込まれて初めて人になったという。自分を含めて人をしろうではないか。そうすれば、この地上に生を受けて誰でもがこの生ある間になさねばならない宿題があることを知るだろう。

◆人、生存競争に基づく、動物としての指向の欲求は、環境が整えられるにつれて弱体化しつつあるけれど、それも「いつ」の「何を」元にと基準を定めなければ、本来、その人の評価などできぬものなのだが、人は他の批判とともに自己肯定化を図る。そういう生き物なのである。あなた方はあがめ奉る言葉だけを求めているのか?ルターは神学には試練が必要だと言ったではないか。多くの者が教師になってはいけない。教師は特別厳しい裁きを受けるのである。このことを良く考えて見よ。これはパウロの言葉である。

◆クリスマスは、当時のその地の冬至の行事を採用して作られてきたものである。それを境に、すべての自然の命の原点ででもある太陽の日が長くなっていくことから救い主の誕生としてふさわしいものとして改良されたものだ。それまでの風習、伝統になじませる為に地面に立ち糧を得るという生き物としての当たり前のことを第一に感謝し忘れ得ぬ為にとクリスマスの定着に努力がなされたものである。人は土地から得たものを食べて生きているのであるということ。この生き物として当たり前のことを忘れてはいけない。その為に人は額に汗水たらして働かねばならなくなった。ここに、この地上に十字架が建つのではなかったか。なぜ、欧米の空論を振りかざすのか。肉において先祖は今の我々の命をつないできたのではなかったか。なぜ、その国のことをことを理解しようとしないのか。神は地上の人に理解の種をまかれていたのだ。そのことを知れ!もっと近くに来ていることを知ろうではないか。

◆組織というしがらみに、安住し、自分のコトバをもたないのはどうしてなのか。その組織に入ることが第一なのか、社会から見れば、批判なきであるならば、その世界は実に甘いと言われなければらならない。本来、自分の言葉で戦わねばならないはずなのに・・・。我らは苦しみの中から多くを学ぶのである。・・・


世界のベストセラーを読む(613回)  2020年 個人の存在の基軸への問いかけ

2020-01-03 08:03:12 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(540回)世界の解体、個人の基軸への問いかけ、そして未来

新しい時代の始まり・・・思いつくことを書き留めておこう、それにしても仰々しいタイトルだなぁ。◆僕は昨年、夏からほとんどブログ更新ができなくなった。頭の老化が始まって意欲が欠落が始......
 

◆昨年初頭の仰々しいタイトルも、本当に世界は大きく変わっていくだろうなぁ、大きな曲がり角になったなぁ、などと思いながら内容を読んだ。AI(人工知能)の採用が当たり前のようになり、人の本来の朽ちていくこの限りある思考や社会やそのシステムなどが大きく変わっていくだろうななどと思いながら。「個人の存在の基軸」という言葉の意味は、社会の有り様が変わっても、それに合わせて人という生き物はスーパーマンになるわけでも無く、仮にスーパーマンになるとしてもその「人という生き物はいかなるものか」ということを常に点検しつつ歩まねば、それを誰が行うかわ別にして(実はこれが問題なのだが、そのシステムを誰が行うかが・・・)、人の形をしていてもかなりデモーニッシュな世界になっていくだろうし、おそらく多くの人はそれに気が付かないで世界は終わるだろうなぁ・・・などと。

◆「人という生き物はいかなるものか」ということは、僕にとっては変わらぬことで「神は御自分にかたどって人を創造された」(旧約聖書:創世記1章27節)とあるから、自分を含め人のことを知ることは神を知ることに少しでも近づけるだろう、と思っているからである。「天になるごとく地にもなさせ給え」と主の祈りにあるように、人が言葉を持ち、神の世界を限りあるこの地上に復元すべく進化発展させてきたと考えるからである。あくまで総体的に・・・。イエスはサマリアの女に「救いはユダヤ人から来るからである」と言われた。どうぞ、古代、文字には残っていないだろうが彼らが世界の、そしてこの国の精神性の基底を形作ってきたことを知ってほしい。

◆そこで改めて思うのである。「ひとりひとりの魂の基軸はどこにつながっているのか、つながらなくてはいかないのか」ということなのである。個々の地上の命は必然的に消えてなくなるのであるから。イエスは言う。「私は聖霊をあなたがに送る。いつもつながっていなさい。それが、すべてを明らかにするであろう。」と ・・・ Ω