marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(508回目)日常生活の冒険(連休5~6日目)少し大切な小難しい事、自分の中のもうひとりとイエスの死

2018-05-04 13:20:09 | 日記
 雨が朝から降り始め・・・
◆家のあちこちが気が付くとだいぶ傷んでいて、業者に依頼すると(例えば、外部の簡単にできそうもないこと、具体的には外庭のモルタルの軒を支えている柱の根元が雨、風で腐っていて殆ど柱の役目を果たしていないなど・・・その他もろもろ)、作業の方がおひとり来られるだけで1万円(当然材料費は別で)はかかるので、DIYで修繕して見ることにした。・・・それにしても、実家はかなりの年月が経過していてあちこち傷んでいるので、今はセキスイ・ハイムとか大和ハウスとかの100年住宅とかものがあるが、そうではない昔の建て売りのものを良く見ると、かなり手抜きとか材質がよくないとか、見てくれだけ・・・とか、これも今は多くの方が、ネットなどで些細なことも調べて目が肥えているので、TVcmされていない業者の方は、理詰めでも細かな材質、耐久性、通気・・・等にも説明できないと生き延びれないのではないかと思ったりする。天候がよかった日、自前で修理をした。今までの準備もあって、あとわずか、でここに来て天候が崩れ中断。今は、DIY出来る材料や諸々の器具などホームセンターで何でもありなのだぁ。で、建屋がそうであるなら・・・
◆僕の「日常の冒険」というか、それは僕にとって実は「肉体の点検」でもある。さらに言えば、肉体に引きずられる言葉からの脱出を目論んでいるのである常に・・・、といってもそれは決して逃避ではなく。日記をつけている人は、おそらく意図せずにこのことが行われていることになるのだろうというのが僕の見解だ。それは、体験(肉体において経験)や、思い(肉体において外部刺激を受けなくてもいわゆる頭だけの)などを言葉化する過程。それは、今を自分の感ずる時でもある。自分の生きている証し。
 しかし、一人会話は(つまりここでは、日記をつけること、誰に対して? 今の自分? 読んでもらう為でも無く?)どうして行われるのか。昨年、亡くなったご両親様もメモのような日記を多数残して旅立たれた。ここで、たいていの人がおそらくしていないことは、その書いている自分自体を考えの対象とはしていないことであろうと思う。自分の肉体の消滅、それと生きている自分というもの、そんな小難しいことは頭にも浮かばない。ご両親様もそうだったろう、高齢になっても自分がこの地上から肉体が消滅することなどは頭の隅にもなかったようで、静かに眠って逝った。まさに眠ったのであって「生者のあらん限り死者は生きん」という遠い昔にどこかで聞いた言葉のように、覚えて生きている人がいる限り、去った人は生きているのである、そして、必ず再会できるであろうと思っている。
◆ただ、仏教では、ご住職が朝、夕のおつとめでそれを確認し、普段の人は自宅のお仏壇か、お寺さんにお任せとなるか、最近では墓了いというので墓石の処分場も膨大な敷地面積であるような、死生観が明瞭でないと思う。キリスト者は亡くなった人も過去のこととして始末はしない。彼らは生きて眠っているのであると、ですから洋映画にも時折、壁に生前の頃の家族の写真がよく飾られていたりする。過去帳というのは天上の住まいの記録簿に永遠に生きている者として記録される。地上においては、毎年覚えられる(毎週のところも)、死後の世界には、生前の審判が仏教にもキリスト教にもあるが、しかし、キリスト教はまさに、イエスという神の独り子が信者となるべく罪を担って十字架で死なれたからそれを信じた者であるが故に個人の如何ともしがたい罪は問われない、地獄には決して行かない(ことになっている)。生きて彼を信ずる者はそのため永遠に天国で生きるものとされる。したがって、僕はキリスト・イエスを皆さんに信ずることを心からお勧めする。最後の審判とは世界が裁かれることであり、ですから最後は個人のふしだらな罪がどうのこうのというより、イエスを信じたかどうか、あるいはその時点で問われるかもしれないが、そのことだけである、となる。知らずに亡くなった人はということは無いようで、死者にも福音は伝えられている(使徒信条、~(イエス)は死後 陰府にくだり・・・とある、又、手紙には死者にも福音は伝えられたとある)。
◆さて、ここで留意は、では後はこの世でラッキー、ハッピーなのか?で、ここで質の低下が時代が下ると必ず問われてくるのである。イエスを信じようとする時、人によって(否、多くは)必然的に障害を感ずるはずである。さらに、そこには、不完全な他人のよくも悪くも言葉の評価が混じり込んで来ないだろうか? 僕が”しがらみ、しがらみ”と行っているのは、それである。他人どころか、自分自身の中にもあるのだ。冷静に考えると、キリスト教を拒絶するのは必然的にそのことが生じてくる。
 僕には、旧約聖書の神の人と呼ばれて来た、あのモーセが、エジプトからの脱出劇から、目的地、乳と密の流れるカナンの地への脱出劇はいつの時代も僕らの今にも何かを訴え続けているように思われる。イエスが来られて、かつてのモーセや預言者が著したことは、つまり、現在の旧約聖書には、自分のことが書かれていると話されたとき、古い知識の集約満足、頭での知識のこねくりから、その歴史(今も流れる行く時間的経過<クロノス⇒これが時計クロックになった>から垂直次元の今という時点<カイロス⇒ギリシャのお話にはこのカイロスには後ろ髪がなかったようで、後ろ髪が引かれるような思いとはならないという逸話>、つまり、今もしこれを読まれている方が居れば、あなたのその時点に神(イエス)は同期して立たれているということになる。それは、あなた自身の負の部分を脱ぎ捨て(パウロは手紙で、「われわれは日々、死んでいるのである」と表現した)、「新しい人、欠点の無いキリストと同期せよ」とつまりはパウロはいうのである。「私はキリスト共に十字架につけられてた。もはや私が生きているのではない、キリストが我が内にあっていきているのである。今、私がこのように生きているのはそのキリストを信ずる信仰によって生きているのである」と語るのである。
    * * * * *
◆対話には、実体として、目で触れることができなくとも相手がいる筈である。自分は、ひとりであっても、もうひとりの自分と会話する・・・これは、自己の中のもうひとりの自分がいるというのは何となくでも分かっていただけると思う。
昨年紹介した僕の好きな小説アゴタ・クリストフ『悪童日記』(早川書房 文庫)二人の少年、実は一人ではないのか。最後の数節、自分(達)をそのような境遇に落としめた父親の死体を踏み国境を越え脱出する一人、もう一人の少年は(もうひとりの自分?)はおばあちゃんのうちに戻る。僕の中にも、脱出解放を願う僕自身とこの肉体を持つ人生の宿題を抱え、解決すべく苦心している自分がいるように思われる。
◆ある措定・・・イエスという神の独り子という方を言葉を肯定するのは、彼が「真の人間」(まことのひと)と呼ばれているから。つまり、神の独り子あるから欠陥がない「完全な人」と言われていることである。ドン引きするような宗教的な方、実は宗教というのには教祖と言われる方がいるのだろうが、キリスト教には教祖はいない。強いて言えばそれは、「天地万物を創造されたイエス・キリストの父なる唯一の神」ということになる。イエスご自身「神、お一人以外に『善い』と言われる方はいない」と申された。雑音の多いこの地上に人の形をなされて、キリスト・イエスが来られたのであるということになっている。対話ということが、他人との対話であるならば、その相手が自分であるならば、言葉自体が決して昇華しないし自家中毒ぎみになる。で、対話の相手は、完全な人と言われる、神の独り子イエスという方を措定する訳になるのです。僕は、そいう会話をする相手を選んだということである。選ばれたという言葉が、正しいということになるらしいけれど。太陽が出てきた ・・・ 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿