写真、本当はこの色のついたところに2種の危ない液体を入れたいのだけれど・・・。
映画、都市を破壊するという危い液体で(つまり反応するとドカンと核爆発をおこすような。。。)消滅させると脅迫を迫り、仕掛けて飛行機で逃げ出す凶悪犯が、結局、見ると足もとにそれが、なぜか動いていて遠くまで逃げたと思いきやそこでボカンと自爆するというストリーだった。
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人の生態は、自分の事から・・・これは正に哲学で言えば実存ではなかろうか。
で、頭のからくりが前面に広がるようにといろいろ、ガラクタをいじったりして少しの時間を過ごす。小学校時代から図工の時間は好きで、絵画はいつも『特賞』なんぞ貰っていた。しかし、それも小学生低学年の頃であって才能は成長期に向かってなぜか工作の方に向いていった。
そもそも、絵画に沢山の賞状をバンバン出してくれるその校長先生の名前を今でも覚えるているくらい、まぁ、誉めて伸ばす方針だっただけだろけれど。。。だからその校長先生の名前を不思議にも覚えていて、鯨岡 登 というそれも不思議な名前の方であった。昔、家系は鯨をとる生業に関わった方だったのだろう。
ちなみに、僕のいるところは、古代の秋田城のある地域で高台で地形も面白い(と自分では思っている)。もろもろ、この地は古代朝廷側からすれば配下に置きたいがために坂上田村麻呂が来たという(神社も残っているが伝承)、むしろ阿倍比羅夫が陸揚げした場所は、少し降ったところにあるので、地形的には面白い場所である。
そもそも、日本海側の大陸から樺太から今の北海道、青森、秋田と港づたいに降ってきたのだろうと思うけど、日本海の対面には渤海という国があって、たいそう日本への往来が頻繁にあったらしい。遣唐使や遣隋使の比ではない。
んでもって、これは大変と朝廷側は、監視すべくこの地にも出羽柵から北へ(つまりこの地へ)秋田の柵を築きあげたという訳であった。古代の水洗便所がある。
秋田美人というけれど、そういう訳で渡来人、帰化人らは多くこの地にも残った訳で、何故なら大陸よりはずうと平和だったからなのだが、混血が美人のルーツであるのは疑いない。
古城の入り口にあたる日本海と市内の配下に見渡せる高台は、春になると一面、黄色のスイセンが咲き広がり、伸びた木々が無かった昔にはさぞや見晴らしが良かっただろなぁ、と偲ばれるのであった。
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歳を重ねると、未来も過去のことにこだわりが持つようで、港町でもある寺町の『西来寺』というお寺には(ここで何故、『西』なのかも興味あることなんだけど)、あの歌手の『東海林太郎』やダライラマ13世の元で10年間チベット仏教を学んだ『多田等観』(本来、河口慧海より本来大きな働きをなした人)のお墓がある。
詰まるところ、僕らは誰でもが古代からのDNAを必然的に受けついでいるのであって、歳を重ねるとその古代からの声が日増しに大きく聞こえてくるのだった。
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