marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(216回目)The power of reconciliation.(和解の力)

2016-12-28 12:58:40 | 日記
お天気がよく太陽もでてますが、雪がシンシンと降って参りました。外は、光まばゆい。 日本の安倍総理がパールハーバーを訪問し75年の節目に「和解の力」と題してメッセージを行いました。今では、誰でもがこの第二次世界大戦時、日本の真珠湾攻撃のいきさつについて善悪を単純に評価する人はいないでしょう。しかし、最終的には今があるといことから将来を考えることが一番大切なことです。そのいきさつなどは、この日記の趣旨ではありませんが日本人が知らない歴史も多くネットで見ることができますのでいろいろ考えさせられます。 ◆さて、脱線としてカール・バルトさんの著作について述べてきました。今回から「ローマ人への手紙」へ戻ろうと思いましたが、安倍総理の真珠湾、アリゾナ記念館でのメッセージに「和解の力」という題で演説を行いましたので書いておこうと思いました。 ◇それは「和解」ということです。曲がりなりにもキリストを信じている人々(だから、どうなのだという意見もあるでしょうが、その中でも選択されるようですから、真のキリスト者と言ったらいいのかとも思いますが)は、真の和解は「神との和解」であって、決して地上の人間界での和解の完成は(キリストを受け入れない限り)ありえないということをキリスト者は知っています。だからこそ、イエスが「神との和解」のために十字架に架かられたと理解しています。(未信者の方は理屈付けをしていると考えられてもいっこうにかまいませんが) ◆その中での日常の生活、世界のあり方、行く末、また、日本のあり方などについてもキリスト者は、公言しないまでも無知である人はいません。多くの方は、政治家もそうなのかも知れませんが、経済的にお互い豊かになれば、それで和解か、友好かなどキリスト者は決して思わないのです。第一、イエスを裏切ったとされる(僕は単純にそうは思いませんが)ユダは、金の管理をしていたのです。それに、まだ、先のことなのでしょうが黙示録には、地上の商人たちが財をなしてきたバビロンが倒れたと嘆き悲しむことが起こることを知っているからです。キリスト者は、未信者の間での陽の下でのそれら豊かさの影に闇の中でほくそ笑む何者かを知っているからです。◆だからこそと言いますか。バルトは、キリスト者に対しこれからの時代いかなる時も刃物の刃の上を歩く思いで「神の言葉」を受け取る必要を説いたと思います。かつて、カール・バルトの学説の旋風が巻き起こりました時、その「教会教義学」(これは「ロマ書講解」の後に書かれた)の中の「和解論」は神学大学で優先して学ばされました。(少なくとも1961年1月には東京神学大学ではそれを学んでいた) ◆主(イエス)が十字架に架かられました。信じて僕らは自由になりました。けれど自分を見失う「ハッピー!」には決してならないのです。残る人生の困難をイエスの十字架上の苦しみを共にあずかる「恵み」と捉えるのです。前にも書きました今もユダヤ人の方は結婚式にグラスを割ります。かの旧約の神の人と呼ばれたモーセの言いつけを忘れないためにです(地上において)。「覆水盆に返らず」を神の歴史の前進と捉えます。それは同時に僕らは普段気にも留めないことですが人間は必然的に死に向かいつつ歩むことを意味します。しかし、キリスト者は死をも乗り越えてかの国に行っても更に前進する希望があるのです。 ◆「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた(マルコ15:38)」この言葉の意味は「和解」を意味する臨界点であると僕は理解します。・・・Ω 

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