marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(219回目)ローマ人への手紙 解釈として注意する言葉「憎む」

2016-12-31 13:29:55 | 日記
今回は少しくだくだと・・・お許し下さい。
◇初めての方がまず宗教としての恐ろしさ?を感ずる(と僕が思っている)言葉についての解釈について書いておきたいと思います。異邦人の僕らには、そして、”すべてのしがらみから解放されて”という僕のこのブログの趣旨からすれば、まさにここに何を言いたいのか、そして”自分の言葉で読む”で読むとはそういうことかの僕なりの理由がある。一般の通念で理解されている言葉の意味で解釈してしまい聖書を読んで嫌な気分にさせられる言葉については、特に注意を要します。
◆宗教としての恐ろしさとは、結論をいうとそれは、イエスの言葉を自分の言葉で読もうとしたときに、必ずといっていいか、その間に人間(不完全な)の言葉がフィルターとして、善きにしろ悪しきにしろ立ち現れてくるからです。(先の通念しかり)
◆(急に個人的なこと)僕の普段の品質保証という仕事がら、何事にも品質を判定する基準というのがあって、特に守らねばいけないのは顧客との取り決めということになりますが、数値の場合はまだしも、言葉でのあり方については言葉の定義が必要です。この言葉を用いる場合は、こういう制限、制約の中で用いられるこという具合に。
◇イエスと直接、話をするとき最終、私はこうであるという結論が出てきます(人に言わなくても内的自省として)。これは、生涯終わるまで続きます。(多くのしっかりしたと思われるキリスト者は多くの悩みを通常のように抱えてますが、そうして解決していると思いたい)。
◇ここでの注意は、その判断に条件が設定されていないということです。ここでいう条件とは、誰それがこう言っているからとか、そういう言われがあるからとかの理由は、まだ自分の意見を持つ段階の途中であるので、結論として持ち出してはいけないと言うことですね。自分の意見になる前の(イエスから回答をいただく前のと言ったらいいでしょうか)段階であるからです。聖書を読んでおかしいとか、疑問に思われることは、その考えを大切にして欲しい。
◇さて、13節に書かれた「憎む」という言葉、これ以上に長々と解説を付けて訳すことができないので、聖書はその通りに訳しているのですが、僕らが今、読んでも、おそらくどこの国の人が読んでも、この言葉、つまり白か黒かを感情表現の言葉で書き込んでいることに違和感を覚えるに違いないと思う。聖書すべてに渡って、違和感のある言葉は、当時のそれなりの使用している人々の流布されて用いられた言葉であることを先理解としてしっかり心に留めておくことが必要です。
   ****************************************
◇今回のロマ書(9:13)「わたしはヤコブを愛しエソウを憎んだ」と書いてあるとおりである。これはパウロが(旧約)聖書一番最後にあるマラキ書第一章の2節、3節に書かれているところを引用しているのですが、このきつい言葉の定義は、次のとおり
◆ここに使用された「憎む」という動詞は、日本語の字面で解釈しない方がよい。さもないと、ユダヤ人である語り手の意図を、誤解してしまう恐れがあるからだ。「憎む」をヘブライ語でサネー(SNA)という。「より少なく愛する」、「二番目に置く」というのがこの語の持つヘブライ的ニュアンスである。他に例としてルカ14章26-27節「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、更に自分の命を憎まない者は私の弟子となることはできない。」とか「嫌われている」とか、創世記第29章31節、申命記第21章15-17節などの表現も同様とのことです。・・・Ω 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿