marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(190回目)ローマ人への手紙(第2章17節から29節)

2016-12-01 19:39:45 | 日記
◆ようやく、ローマ人への手紙に戻ってきた。本当はもっといろいろスピノザさんのことも書きたいな。「見つかって手に入れば絶え間のない最高の喜びを永遠に享楽できるような、何かそういうものは存在しないかどうか探求してみようと」とスピノザさんが言っていたでしょ。どうやら見つけたんだね。だからこそ、今も読まれている訳なのだからねぇ。どうもそれは、何か自分の外にあるものに喜びを見いだしたのではなくて、存在そのものすべてに見いだしたようなのだ。僕も年を重ねて体の自由がきかなくなったら、もう一度、よく読んでその最高の喜びを永遠に享楽できるような、何かそういうものの存在に酔ってみたいと思うな・・・。で、ローマ人の手紙に戻ります。
◆第2章の1節はこういう内容だ。「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。」(口語訳)
◇パウロさんは、ローマにはまだ行ったことがなかったのだけれど、当時も世界の中心都市ローマにはデアスポラ(離散のユダヤ人や)、人の往来も当然激しかったからエルサレムでのあの事件にも当然、目覚める人々が起こされてイエスを信ずる人々がシナゴーグ(ユダヤ人の集会)からの影響が異邦人、ここではギリシャ人(その他の地域の人々も多くいたでしょう)にも及ぼされていた訳です。当然、働きの大きかったパウロのことを知っている人も多くいたでしょう。ですから、手紙の後半で誰それによろしく、と多くの人に挨拶を送っています。
◇さて、パウロさんの使命は、異邦人に福音を伝えることであった。けれども、のっけから旧約聖書のことを話してもピンと来ない。そういう伝統のないまさに異邦人であったから。そこで、パウロは、誰にでも当てはまる天地創造の一端として、自然そして、人間のことを話して述べる工夫をしているのです。僕らが読む聖書の章や節(小さな数字)は当然ありませんでした。これらをとっぱらってパウロさんの気持ちで読むと、はじめは異邦人への一般論、そして核心ユダヤ人へ、そしてすべての人間の代表としてのキリストへ・・というような話の進め方を繰り返ししているのです。
◇冒頭の箇所はしたがって、異邦人にも該当する箇所に当てはまる"一般論のところ”になるのだが、その前は小題のゴチックで「人間の罪」とあり、2章1節からは、「神の正しい審判」とう小題がゴチックで付けられている。だからそれまで、ローマでの現状を述べて、書かれているようにありとあらゆる悪いことが行われていて、しかも悪いとも思わず是認していると・・・異邦人たるも天に迎えるべく被造物の人間としてのあるまじき実態であると怒っているのです。是認しているとは感覚が鈍くなっているということだ。そういう感覚が鈍いのにもかかわらず人をさばいている。同じ穴の狢(むじな)となっているのに他人をさばくとはなんたることかと。神無き人間は確かに人をさばくという客観的基準など生まれたままでは持ち得ないほどひどいものなのである。
◆唐突に書かれているように裁きがでてくることに、そしてそれまでのパウロの文書にあれやこれやの現状の指摘に神の裁きを読んだときに多くのユダヤ人、異邦人は身を制したに違いない。偏りみることがない神は、律法を知っているユダヤ人にも、知らない異邦人には律法の要求が心に記されているとも書いて、神がキリストによって人々の隠れた事柄をさばかれるその日に明らかにされるであろうと述べる。異邦人にも、律法の伝統のあるユダヤ人にもいわばもういちど、自らの位置を自分で確かめてイエスという基準を判断基準とせよと提示する。ましてユダヤ人のあなたがたは、律法という伝来の神の基準があったのではなかったかと、パウロは17節から核心に迫っていくのである。しかも見た目からではなく(29節)「却って、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神からくるのである。」と内面の神に由来する、質としての浄化を述べていくのです。信仰義認にとっては、まず冒頭に述べておかねばならないパウロにとっては重要な箇所となる訴えだったのだ。・・・ Ω 



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