marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

☕ ラッキーマンM君へ、ラッキーボーイAくんへ(その3)

2020-10-24 11:40:31 | 手紙

したがって、普段の無関心なひとから、永遠の命に係わるというのは意識せずともそういうレールの上に生涯が軌道に乗せられている人と言うのは、本人が意識するとかしないとかに係わらず、天地創造以来、選ばれているということですね。こう書いたからといって、すべてがこの世においてパーフェクトだとか、試練がないとかということでは決してないことは理解しないといけない。この地上において悩みがなくなるなどということではない。むしろ、試練や悩みは自分の肉の(この次元の)成長のレベルアップの時とみなすことです。(あぁ、説教じみてきたな・・・)。そうであっても、いかようなことがあっても(守護霊とは言わんけれども)守られているということなのです。ですから、健康だけは留意することです。後は、そのことを信じて自由に生きなさい! その肝心なことを忘れなければ、すべて知りたいことは生きていく途上で学ぶでしょう。小難しいことは、何もないのです。その一点だけなのです。その一点とは・・・続く

 


☕ ラッキーマンM君へ、ラッキーボーイAくんへ(その2)

2020-10-24 07:51:34 | 手紙

 今日は教会のお墓の掃除予定なのですが、雨が凄くて中止! 二~三日前から天気が悪く、風も強く、庭のシンボル化の石積も倒れたくらいですから、外に出ず手紙の続きを書くことにしました。◆引き続き何故、”ラッキーなのか”ということを少しお話しましょう。初めに新約聖書のパウロが書いたエフェソ人への手紙の一節を書きます。キーワード:「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、穢れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソの信徒への手紙1:4)◆聖書を学ぶと新約においてもイエスが亡くなってから半世紀もたたないうちにも、信徒の間には深い理解のみ言葉への解釈進展があったことが読み取れます。実際、福音書よりもっともはやく文字としてイエスのことが書かれたのは、パウロのテサロニケへの手紙ですが。それはともすれば、観念的な理想的な希望的思いだと思われがちです。なぜなら、イエスのことを知らなくとも何となく希望めいた良いことを言っているなぁとは読んで理解できるからです。しかし、”み言葉の解釈の進展”と書いたのは、地上のことから天上の歴史へと、彼らは生粋のユダヤ人で天地創造来の神の伝統を信じて、その辛酸をなめた先祖の伝統、そして歴史(その歴史の背後にあるものと言っていい)を知っていてその上にそれに係わる天上のありようが言葉に表されてきているからです。その体に染みついた先理解のもとにパウロは先のキーワードの言葉を書いているからです。現象結果としての人の日常の肉の生活からさらに神的な意味合いでの人が創造され霊を吹き込まれたる以前のことが語られるようになったと読み取れるからです。ここに地球上に生きている人それぞれが自分の言葉でみ言葉を理解する必要があるという重要な意味が出てくるのです。・・・続く