marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(268回目)ローマ書講義 「信仰義認」(M・ルター)Ⅳ

2017-02-20 20:44:25 | 日記
今回はとてもむずい(難しい)ので、神学などに興味のある方のみ読まれることを推奨します。たいそうなことは書いておりませんが(このような言い回しをするとその道の方からすごく怒られそうですが)問題箇所としてはとても重要なのです。
◆ルターさんが「信仰義認」を開眼したローマ人への手紙第1章17節。口語訳は次の通りでした。
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「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてある通りである。」
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◆聖書が理解困難であるのは、書かれている言葉自体が、対象物を指示する誰しもが明確にわかる指示言語、あるいは共有化された対象物を示す言葉でないことです。それに対して宗教で語られる言葉は観念言語というか、分かってわからないような言葉が使われており、パウロさんのこの箇所は、特にわかってわからないような箇所のように思われるのですね。ペテロさんが自分の手紙の中で、「パウロの手紙はよく分からないところがあるけれども」(ペテロの第二の手紙第3章15-16節)と言っているのは、重要なこの箇所のことも指しているかもしれません。
◆聖書を読むと時折「こう書いてある」とか「こう言っている」とかの記事が見られますが引照のある聖書では、見開き中央の小さな文字を見ると聖書のどの箇所から引照されているかが分かります。ところがその箇所を見るとそのままの引用でないところもありますね。それがまさに引用者(記者)の解釈によるものでしょう。で、この箇所「信仰による義人は生きる」と書かれているのは、旧約聖書のハバクク書(2章4節)に書かれていますが、まさにこの箇所もそのままではないのです。「しかし、義人は彼の信仰によって生きる」となっています。旧約のハバクク書では「義人」が条件としてすでに規定されている、その人は「信仰によって」・・・となっているのです。それを、パウロは「イエスがその業を示したからには、その『信仰による人は義人となり生きる』であろう」と読めるのです。
◆僕のブログを読まれてきた方は昨年2016年11月22日(183回目)の神学者K・バルトさんがこの節の「信仰(ピスティス)に始まり信仰(ピスティス)に至らせる(これはギリシャ語で実際にこうなっている)」を「真実から信仰に至らせる」と訳していたのを、偉そうに「違うんではないか」と書いたのです。どうしてバルトさんはそう訳したのだろうとそれを僕はずっと考えてきた訳。ところがです・・・調べていくと
◇旧約原典はヘブル語ですが、古い旧約聖書のギリシャ語(70人訳といってとても有名)訳ではハバクク書のその箇所は「しかし、義人は私の(神の)信実〔ピスティス〕によって生きる」となっていると言うのです。つまり、彼(人)と神がひっくりかえっていると・・・”神を見上げる信仰(ピスティス)による人”と”神が上から与える信実(ピスティス)”に逆転があるということ。パウロはこれを知っていたはずです。つまり、後者の神が上から与える信実(ピスティス)とは、キリストのことなのだと解釈されるのです。その彼が地上に与えられることによって義人は生きるであろうと解釈したに違いないのです。 (これは僕の解釈だけれど・・・)
◆パウロは、その中の前半の旧約聖書のヘブル語での言葉「彼の」と後半のギリシャ語での「神の」のいずれの言葉も消したのです。『信仰による義人は生きる』・・・それは下から、上から一体のものであるとパウロは解釈したに違いない。そこには、パウロを生かしめていたキリストが同時に働かれた言葉であると思います。そうすればバルトの「真実から信仰へ至らせる」の「真実」とは「神が地上へキリストを送ってくださった」その「真実」ということになるだろうと。僕は当初「信仰に始まり信仰へ」を時間的経緯での旧約から新約への神を知ること、新約においては信ずることの神の言葉への深まりとして理解していたのですが、パウロの中には圧倒的にキリストがその中で生きて働いて信ずる誰にでも当てはまる言葉に残したのだと、そう僕は信ずることにしたのです。・・・Ω