井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

神道は宗教ではない

2013年10月08日 | 日記

特定の宗教を持たぬし、今後も持たぬと思うが、神道には心が昔から寄り添う。
それは私が根っからの日本人だからであろう。
そして、わたくしは神道を宗教という狭い「枠」に閉じ込めたくはない。
伊勢神宮の式年遷宮をきっかけに、神道について考えるともなくネットを探索している時に、
神道について触れたブログ2つと出会った。

「ねずさんのひとりごと」 宗教とReligion
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2031.html

「高橋とみよさんブログ」 神道とは日本人の精神性です
http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-2422.html

「ねずさんのひとりごと」でReligion (宗教)という言葉の語源を知ると同時に、
日本には元々宗教という言葉がなかったそうで、これも思えばなるほどと
うなずける話ではある。
日本にはもともと自然発生としての「精神」である神道があったので、
他に求める必要もなかったのである。温和な国なので戒律に縛って
従わせる必要もなく、「和」は本然的に日本人の備えた徳分であり、神から
すれば随分、扱いやすい良質の民なのである。

キリスト教を布教に来たザビエルが、本国に愚痴ともつかず書き送ったことは
「日本人は賢すぎて布教がしづらい」と。そりゃそうだろう、DNAレベルで
日本人は神道を根っこに持っているのだし、まして侵略ツールとしての
宗教になど乗らなかった。

「宗教」という言葉は幕末にペリーが持ってきたReligionの翻訳語なのだそうだが、
語源は「人間と神を再び(Re)結びつける(ligion)もの」なのだそうだ。
ここで、はたと膝を打つ思いがするのだが、西欧経由の宗教は、彼らの
思考感受性の根底にある「対立」概念に基づくものであり、神と人とが
分離しているのだ。だからこそ、「結びつける」必要がある。

ところが、日本ではもともと人と神とは「一体」なのである。分離はしていない。
「神の分け御霊」なのである。
だからこそ、神社にお参りすればそこにあるのは鏡で、拝んでいる相手は
映った自分なのである。自らの内なる神である。あくまでも、私の仮説である。
勉強した末での説ではない。ほぼインスピレーションにより感知したものに、
僅かばかりの知識を支えに述べている。

宗教とは何か、という問いに対して一つの答え方は、「教祖」「本尊」「経典」の
三要素を備えたものである、というのがある。神道に教祖はいない。
元々八百万の神としてあらゆる自然の中に日本人は神を見出して来た。
これは宇宙の森羅万象に対する姿勢として、おそらく正しい。
そしてそれらの、神々は最終的に天照大御神として、吸収一体化される。

伊勢神宮を天皇陛下が参拝なさると、それは自らのご先祖を拝むことに
なる。皇祖神は天照大御神であるのだから。神を先祖とするお方など、
世界に天皇陛下しかいらっしゃらないだろう。

本尊は神道にはなく、八咫の鏡、お山などのご神体であり、
要はそれ自体が本尊ではなく、依代なのである。
経典もない。祝詞は経典とは異なる。
アニミズムだという言われ方もするが、アニミズムが様式化され、洗練化された
形が神道だという言い方も出来るだろう。

天皇が天照大御神の直系であるなら、我々日本人はアマテラスの傍系であり、
要はすべて家族なのである。「国家」という国の概念に「家」を用いるのは、
あるいは日本だけではないだろうか。国民は天皇を親として一つの家族である、
という感覚がどうも日本人のDNAにはあるようだ。

経典の不在は、戒律や教えで縛らなくても同じ「家」の、お互い家族であるので、
価値観は共有、感受性も似通うからではないか。発想が元々、多民族共生をベースに
置いてはいない。移民という形での多民族共生は、欧州の例を見れば失敗の道筋にあるが、
日本ではおそらく生理的感覚的な意味でもっとダメなのではないか。
古来より帰化人はいたが、彼らは日本という家の家風を遵守尊重して、自然に
溶けこみ、いつしか同化した。その手順を踏むなら問題はない。
神道の話題を政治上の問題に転化するのも濁りが生じるが、政策としての
移民制度には懐疑的である。物質主義的な生産性は高まるかもしれないが、
日本の国体を成している、基幹の品格と霊性は崩れ去り、そこにあるのは
もう日本とは呼べない別の国である。
それでもよいという考え方もあろうが、わたくしは日本を残したい。なぜなら
それは佳い国だからだ。狭い民族主義的意味合いで言うにはあらず、
世界の規範となる精神性を古来の日本は有し、それは現在も消え果ててはいない。

神道というのは、要するに日本の国体を支える精神そのものなのである。
いや精神は間違いではないが、それでは「霊性」を取りこぼしてしまう。
「神道は日本の国体と日本人の精神を支える霊性である」、と
これを当分の定義としようか。

それにしても式年遷宮における黒田清子様の、崇高さにはたじろがされた。
いつの間にあれだけの霊性を獲得されたのであろう。このたびの儀式の
ため、さこその潔斎をなされたかと拝する。それに加えて常日頃から
「上のほう」との回路をお持ちなのであろうと推察する。
皇族たるもの、かくあらまほしい。おん身は皇居を離れても、魂はまごうことなき、
神武天皇の系譜におありである。

伴侶の黒田氏の深い理解と覚悟、お支えあってのことなのであろう。
弟が石原慎太郎氏付きの東京都の職員であったので、
ちらっと漏れ聞いているが、清子様を厳しいまでの姿勢でお守りになって
いるようだ。神のお使いの守り役と言おうか、そういう位置にご自身を置かれているような
気がした。尋常一般のご夫婦の形は取られてはいないようにお見受けする。
秋篠宮文仁親王殿下も、僭越ながら、内宮外宮の遷御の儀を経て一回り
大きくなられたようだ。

久々に霊性霊格の見地からご皇族を拝した。清子様は、降嫁なさっていらっしゃるとはいえ、
神道至高の祭祀王としての天皇から、正しくその霊脈を継がれている、とお見受けした。
むしろ皇居内に身を置かれている頃より、霊性は澄み深くなられているのでは
ないだろうか。秋篠宮文仁親王殿下におかれても、霊的オーラがひときわ、
大きくおなりである。行く末、頼もしいことであった。

わたくしは、混沌を極める世界がもし収束にいつか向かうとすれば
そこには神道、ないしは神道的感性が道しるべとして、ある気がしている。
日本と日本人が世界の霊性の鍵を握っているなどということを
容易に信じるほど楽観的でもないが、伊勢神宮における式年遷宮の
荘厳さを拝していると、ふとそれもあながち夢物語でもないような
気がしてくるのだ。

日嗣の皇子が、その本来のお姿で日嗣の皇子としての蘇りを迎えた時、日本は
光り輝くであろうし、世界をその光で感化する。
悠仁親王殿下が天皇陛下として立たれた御代に、世がようやく治まるであろうという気がしきりにする。この世に何一つ、さっぱりと未練はないが、悠仁天皇陛下の日本で生きる人々が、わたくしは少しばかり羨ましい。
そのための些細な礎にわたくしはなろう。美しい日本の心を、その本来の霊格の高さを伝え続けたい。人も国も修行を重ね、神へと一寸刻みで近づいていく、時に後退しながらも。

大気と人の心澄み渡り、日輪燦々と輝く御代がいつか訪れますように。